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  新句(十九音) 作品集11(2008年5月分)



強靭な意志がなければ、百舌の速贄。


ホームページやプログを作っていると、つくづくと思い知らされる。
それは、かなり強い意志がなければ、一人前の内容にはならないということ。つまり、やりかけになって、なかなか完成しないのである。

考えているようには、ホームページが続かない理由=全体の大きさが、ファイル数で、1万近くなった。そして、HTMLを初めとして、JPGなどの画像、さらに朗読やBGMすべてを合算すると、ヤフーは間もなく1ギガバイトになる。そこで、さらにビッグローブを追加して1ギガバイト分を確保。

いきおい、百舌(もず)の速贄(はやにえ)のようなページが、いくつも残ってしまう。そして、それがどこにあるかも忘れてしまう。困ったもんだ。つまり、百舌(もず)とまったく同じ。お粗末で、お恥ずかしい次第。


いつまでもダラダラとする癖、なおしたい。


何かをすると面白くなって、いつまでもやっている。
若いころは楽しくて、やっているうちに次第に慣れてしまうので、何となく理解できたようないい気分になったもんだ。

しかし、最近になって事情が大きく変ってきた。
例えば、パソコンの作業である。

数時間すると、目が疲れてくる。疲れるだけならよいが、キラキラや斜視を起こすのである。おそらく、網膜剥離の前兆であろう。あるいは、単なる眼精疲労かもしれない。

さらにまた、すぐに疲れてしまって、何となく作業に飽きてしまうことさえもある。考えてみれば、意味のないことであり、キリがないからであろう。


現代の矛盾を孕(はら)む競争社会。


現代社会は、競争の社会らしい。物心のついたときから、競争をさせられる。子どものころから教えられ、受験競争から始まって、就職合戦。そして、社会人になると、企業間の厳しい淘汰の中に置かれる。

かつて教えられた『孝経』でさえ、そうである。
<身体髪膚これを父母に受く。敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり。>のすぐ後には<身を立て道を行ひ、名を後世に揚げて以て父母に顕はすは、孝の終りなり>とある。
これを戦前の教育では、立身出世を「大臣」とか「大将」というように具体化して教えた。しかし、大臣や大将には多くの人がなれるものではない。

貧しい時代の名残であろうか。元来、遺伝子がそうできていると言ってしまえば、それまでではあるが、……。


意味不明・支離滅裂なことを言う人。


電車に乗っているときのこと、隣の人がブツブツと言っている。よくわからないが、まったく意味不明な内容。また、前後のつながりなどの脈絡がなくて支離滅裂である。

おそらく、すでに脳に異常が起こっているのであろう。でも、今のところは、まだ他人には危害を加えないようである。しかし、被害意識が増してくると、どうなるであろうか。自己防衛の形で、相手より先に攻撃をかけるだろう。いわゆる、先制攻撃である。

ここのところ、精神的におかしな人が激増しているらしい。おそらく、食生活の偏りからきているのではないか。10年くらい以前に、私が提起した『化学薬品症候群』ともいえる結果が、ここのところ次々と現れている。まったく、困ったことである。


思い出を紡(つむ)ぐ技法に「自己福音書」。


紡(つむ)ぐとは、綿花や繭から少しずつ糸を作りだしていくこと。最初から、綿花や繭の中に太い糸があるのではない。つまり、少しずつそのようにして、より出して太くすること。

したがって、わざわざ「思い出を紡ぐ」などと言った次第。
かつて、養老院や老人ホームなどでは、老人が昔のことを話したりするのを禁止した。老人の繰言(くりごと)は無意味で、愚かしいと考えたからである。

しかし、回想創造法とともに「自己福音書の技法」が開発されてからは、今までの考え方がかなり間違っていたことがわかった。三木アヤさんの「箱庭療法」や森田正馬さんの「精神療法」などと同じで、大いに治療の効果があるだろう。さらに、予防としての意味合いがかなり大きいので、私は自分自身でそれを試している。


急速に衰えてゆく身体(からだ)になりぬ。


還暦を過ぎ、古希に近くなるとガクンと身体が衰えてくる。そんな身体に驚くとともに、いとおしみももつ。現実の厳しい事実に向き合って、嘆きというよりか、むしろあきらめに近い気持ち。

何をしても、すぐに疲れてしまう。また、興味が長続きしない。
そんな状態であるから、長時間がんばることができない。何事も手数をかけずに、簡単に処理をするようになる。

もともと、あまり複雑なことは嫌い。したがって、生活も質素であるし、派手なことはしない。それなりに、自分自身で納得をする範囲で楽しむのである。

体力が衰えるのはやむをえないが、気力まで失わないようにしたい。


急速に衰えていく身体(からだ)と心。


還暦を過ぎたころから、うすうす気付いていた。衰えが急速に進むのである。疲れやすくなったことは、すでに紛(まが)うことなき事実。まぁ、年齢(とし)だから仕方ないなどと考えていた。

しかし、古希が近くなると、そのテンポがいっそう激しくなったようだ。仕方がないどころではない。何とかしないと、動けなくなっちゃいそう。身体が衰えると、心まで滅入ってしまうみたい。そして、何となく何事も億劫になってくる。

ウルマンの詩を読み直してみた。すると、そこには
<60歳であろうと、はたまた16歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、……>
とあるではないか。
愕然とした。70歳などとは、書いてないんだ。でも、最後に80歳と書いてあるので、ひとまず安心。


説法の中の世界に入(い)りこむ私(わたし)。


『父母恩重経』(ぶもおんじゅうきょう)というのがある。
実際に釈迦が説教をした経典ではなく、だいぶ後に中国で作られたいわゆる擬経らしい。しかし、その内容が素晴らしい。

私は、いつも愛読をしている。そして、たいがいはその中に引き釣りこまれてしまう。何となく、身につまされる内容だから。

古臭い内容などと、言ってはいけない。また、釈迦の説いたものではないなどと、言う必要もない。素直に読めばいいのである。その内容は、現在でも大いに学ぶべきものがある。つまり、現代人にも必要な内容なのではないか。

そんな意味で、「仏説『父母恩重経』全巻」としてここに写経をしてみた。


ふと「何をしたらいいのか?」わからなくなる。


情けない話ではあるが、最近になってのこと。何かをしていて中断すると、何をしていたかを忘れてしまうことがある。つまり、途中で電話が入ったりすると話し終えてから、さて何をしていたのだろうなどと考えることがあるのだ。

以前は、そんなことがなかった。
サブルーチンへ行って、メインルーチンへ戻れないプログラムのような感じ。何となくボケが始まってきたのか、いわゆる恍惚の人になりかかっている様子に、我ながら愕然とする。

身体はすぐに疲れやすくなっちゃうし、記憶はふとした拍子に薄れてしまう。何とかならないものであろうか。しかし、もしかしたら償却年数を経た機械の損耗のように、廃棄しないと解決できないのかもしれない。


道を歩いても、知的空間!


舌足らずで、何とも様(さま)にならない作品。
でも、私は種田山頭火や尾崎放哉のことを思い出したりする。あまり、スタイルや内容のことを気にしなくてもよいと思う。
畢竟、自分自身がよければよいのであるから。

世の中には、五・七・五の形式が多い。
俳句を初めとして、川柳やモットー(標語や座右の銘など)まで。あらゆるところに、そんな言葉があふれている。語呂(ごろ)がよいのかもしれない。

しかし、私はいつも、それが「結句」ではないので何となく先があるように思う。やはり、「挙句」(あげく)としたほうが言葉の据わりがよいのではないか。
そんな意味で、私は新句(十九音)なのである。


「舞鶴」という言葉あり、悲しいひびき。


舞鶴には、行ったことがない。だから港なども、実際には知る由もない。
しかし、報道などで「京都府舞鶴市の朝来(あせく)川南側の雑木林で、府立東舞鶴高浮島分校1年小杉美穂さん(15)が他殺体で見つかった事件で、遺体の傷跡から、凶器はバールのようなものであることが府警舞鶴署の捜査本部の調べでわかった。」などと知ると、何となく哀れで悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。

それは、おそらく舞鶴が戦後の引き揚げ時代の帰港地だったからであろう。そのように思いは異なっても、言葉によって感情は転移するもののようだ。

既視感(デジャビュ)などと同じように、人間の心の中に経験がなくても規範を刷り込むようなことがあるらしい。


プチさんは、小さな心の旅でもあるか?


アバンチュールなどと言ったら、かなり大げさであろう。
そうかと言って、単に冒険とでも言ったら、なおさら誤解をうけかねない。いわゆる小さな「心の旅」なのである。

フランス語からきたアバンチュール(aventure)は、「恋の冒険」というか「火遊び」にも近いニュアンス。老いてからのプチさん(プティ散策)は、心の旅路とでもいうか、いわゆる心の冒険なのである。小さなことでも、心がときめく。また、いつまでも飽きない。

身体はすぐにへたってしまうが、気持ちは鮮やかなのである。
そんな意味で、若いころの恋のような感情を否めない。つまり、残りの人生に対する名残(なごり)なのであろう。歩いていると細かいことでも、改めて驚きがあるのはそのためである。


プチさん(プティ散策)で初めての駅、心ときめく。


今まで、プチさん(プティ散策)などはしていないから、不必要なところへは行かなかった。そして、通過をする駅にもわざわざ降りることなどもしなかった。だから、まったく降りたことがない駅が多い。

そんなわけで、知らない駅に降りるときは、ちょっと心がときめくのである。
それは、ちょうど若い時代だったころに初めての人に会う心境と似ている。初々(ういうい)しい気持ちがないこともないからだ。

しかし、実際に歩いてみると何となく見知っている気持ちがしないこともない。つまり、来たことがない場所でも想像の範囲内であることが多いからだ。まったく予期をしなかったことなども、めったにない。

そんな中で、再発見があれば幸せである。


Googleの地図見たきゆえ、Java学びおり。


ここのところ、何とも大変なことを始めてしまった。
なぜならば、今ごろになってプログラミングなのである。そんなことをしているのは、Googleの地図を何とかして使いたいから。

そんな動機や原因を考えると仕方がない。
具体的には、「HTML」と「Java Script」のアルゴリズム。かつてやった「Java」プログラミングほどは難しくない。しかし、ホームページビルダー上でソースを作成してみると、メモ帳などと異なって文字がとても小さい。

いきおい目の負担が大きくなる。そうかと言って、メモ帳では行間が詰まってダメ。テラパッドなどがよいのであるが、もはや忘れてしまった。だから、目をショボショボさせながらするんだが、脳のリフレッシュにはよいかもしれない。
ご参考までに、ここ を。みなさんも、いかが?


継続は力なりけり、つくづく思う。


「継続は力なり」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりだと思う。

プログなどを見ても、毎日続けている人と、途中で投げ出してしまう人がいる。期待したほどの訪問者がいないので、励みにならないのかもしれない。また、無意味なことをしていると考えて、いやになってしまったのではないか。

私は、あまり周囲のことは気にしない。誰が、どう思ってもよい。
また、金持ちになりたいとか、有名になりたいとは思わない。むしろ、その反対なのである。

嘘だと思ったら、だいぶ前に作った「私の福音書」を確かめていただきたい。もしも、信じられなかったら ここ をクリックして納得なさってください。


外食は、皿にも大きな問題がある。


外食は、おいしいものが手軽に食べれて、とても楽しい。しかし、素材のことを考えると、ちょっと心配。即席のものが、多くなったからだ。

例えば、ギョーザ。昔は、店で一つ一つこねて作っていた。しかし、最近は出来上がったのを大量に買って、冷凍庫にしまっておく。必要に応じて取り出すので、半年も前に作ったのを食べることになる。冷凍だから、味はよい。しかし、作成時からいろいろな化学薬品が混じっている。そして、解凍してそれをそのまま食べることになる。

また意外なことに、外食では食器、つまり皿などにも問題がある。店の作業を見ていると、洗剤の液にドボン。そして、水でサッと流して上向きに重ねて置く。よく漱(すす)がないので、当然ながら洗剤が皿の中にかなり残っていて、その上に料理が載る。ラーメンでは、洗剤入りのスープ。

何とかして、化学薬品症候群に注意をしたいものだ。


闇雲に歩くのでなく、地図を見ておく。


駅周辺の散歩をするときは、ただ闇雲に歩くのではなく、あらかじめ地図を見ておくとよい。どこに何があるかという見当を付けておくことも、ある程度は必要なのではないか。

もっとも、まったく何も調べずに歩いてみると、思わぬ発見があったり、予期をしなかった光景を見たりする。そして、そのときのインパクトは大きい。だから、必ずしも予備知識などは必要ないのかもしれない。

あらかじめ地図で見ておくというのは、そのこと自体が最初の歩行に等しいのではないか。実際に歩くわけでないが、ある程度の擬似体験ができる。どこをどう曲がるか、どこに何があるか、そんなことが知識として得られるので、実際に行ったときに再確認をして、そこで再発見ができるのである。


歩くとき、両手に杖を持つ人もあり。


「両手に花」という言葉は聞いたことがあるが、「両手に杖」というのは知らない。しかし、ここのところ両手に杖をもって歩いている人をしばしば見かける。

おそらく、体重が足にかかるのをやわらげているのだろう。とくに、目方の重い人は、足の負担を軽くしないと痛みが激しいようだ。階段を下りるときなど、一歩ごとに苦痛を感じるらしい。

「転ばぬ先の杖」というのもある。かつては、「杖に頼ると足が弱くなるので、なるべく杖を使わないほうがよい」などと言った。しかし、最近になって杖に頼らざるをえない人が増えてきたようだ。

「スフィンクスの謎」にあるように、「老人は三本足」であるのが、洋の東西にかかわらず現実なのかもしれない。


ある日ふと、「無意味の意味」を閃(ひらめ)き悟(さと)る。


何気なく今までは、「人生の意味」などを考えたものである。そして、自分自身をその考えと比較をしたりして、焦(あせ)ったり、葛藤を生じた。つまり、一種の心のジレンマである。

そのようなことは、当然なことと言ってしまえばそれまで。おおむね「金持ちになりたい」とか「うまいものが食べたい」などと思う。そんな欲望に支配をされて生きているのが普通。

しかし、それは違うのではないか。自分自身が考えて、自分自身を駆り立てているのであって、そんなことをしてみてもキリがないだろう。

世の中には多くの「無意味」があるからこそ、「意味」の意味があるのである。それは、空気があっても自分が全部を吸うのではないことに、ちょっと似ているのではないだろうか。


降りたことない駅で下車、ささいな発見。


いままでに降りたことのない駅がたくさんある。何となくわかっているようで、知らない場所である。そんな駅で下車してみると、意外にも多くの発見があって楽しい。

あるいは、他の駅の周辺にもあったことかもしれない。似たり寄ったりということは、世間に多い。しかし、そんなときも再発見の楽しみがある。

今までに一度も来たことがないはずの場所でも、何となくそこが懐かしかったり、思い出に残っているような気がすることもある。既視感(デジャビュ)というのであろうか。

そんな体験ができるので、降りたことのない駅で下車して、その周辺を歩いてみるのも、なかなかの楽しみである。


楽しみは、知的空間広げゆくとき。


ここで、「知的空間を広げる」などと言っても、たいしたことではない。
いままでに行ったところの地図を見て、まだ行っていない新たな場所を再発見する楽しみである。前のときに、なぜか気付かなかったり、疲れて途中から戻ってしまったりした所だ。

そんな場所を地図で再確認。それが、また楽しみ。
地図は、グーグル。縮尺を変えてみたり、ときには航空写真にしたりする。航空写真は、いわゆる鳥瞰図であるから楽しい。グーグルの地図は、マウスでドラッグするとどこまでも続いている。まったく、ありがたい話である。

そんなわけで、地図を見ながら知的空間を広げることができる。些細なことかもしれないが、楽しい時間を過ごせることも事実。


HPで知識を整理、集大成する。


ホームページを作るということは、どういうことであろうか。
私の場合は、自分自身の知識を整理する場所、そして集大成をするツールと考える。したがって、あまり立派な内容ではない。

多くの訪問客があるホームページであったら、内容が完全であらねばならないだろう。このホームページのような少しずつ仕上げていくようなやり方は、訪問してくださる人に失礼かもしれない。

むろん、見てくださってもかまわない。内容が、とくに秘密ということではない。ただ、未熟な内容で、ホームページの書式なども素人まがい。そんなために、何とかならないかとも考えている。

せめて、デザインだけでも垢抜けた格好よいものにしたいものだ。


広大な宇宙を思い、慄然とする。


広大な宇宙に思いを馳せるとき、なぜか心が慄然とする。
「慄然」とは、言葉通りに「恐れおののいたり、恐怖でぞっとする」ような感覚である。また、「宇宙」とは『淮南子』(えなんじ)によれば、「宇」が天地四方で「宙」が古今往来である空間と時間の広がりだが、私は単にマクロコスモスとミクロコスモスを意味する。

つまり、すべてを含む無限の空間と時間の広がりと内面の微小な世界だ。
あまり勉強をしていないので、哲学や物理学的、そして天文学などの定義がどうなっているかはわからない。

しかし、パスカルが『パンセ』でも言っているように、それを思うだけでも心が慄然とする。それと同時になぜか私には、とくにミクロコスモスについての慄(おのの)きが増してくるのである。


脳のもつ不思議と不気味、うすうすわかる。


今までに「なぜ人間が愚かしいことをするか?」などと、いつも考えてきた。しかし、正直言うと「人間が」じゃない。考え始めた動機は、「私が」なのである。
私は学者ではないので、あまり学問には興味がない。しかし、自分自身のトラブルに対しては、興味どころか現実の切実な問題!

そこで、考えているうちに奇妙な結論に達した。
そして、あまりにもとっぴな事実なので、自分自身でも疑わしいのである。考えていることの整理と検討をするために、
  脳の不思議(脳の不思議・脳の不気味さ=私の宇宙(脳が考える時間・空間」))
とう長ったらしいテーマで、恐る恐るまとめているところ。

そのようなことは、一般の人たちの誰にもわかっていないらしい。あたかも、養鶏場に飼われているニワトリのように。


龐居士(ほうこじ)とフランチェスコは、垂涎の的。


龐居士(ほうこじ)とフランチェスコがしたことは潔(いさぎよ)く、かねてから私はうらやましく思っている。そして、自分もそうありたいなどと、いつも思うのではあるが、……

龐居士(ほうこじ)は参禅を始めるときに、家財道具をすべて荷車に載せて崖の上から海に捨てた。誰かが「困った人に施せばよいのに」と言うと、「自分自身に好ましくないものを他人に与えることはできない」と答えたらしい。

フランチェスコは自分が信仰に入るときに、敷物や衣類などの商品をすべて窓から投げ出して捨て、貧しい人に施したと書いてあった。

「垂涎(すいぜん)の的」は連語になっているが、「何としてでも手に入れたい貴重なもの」ということではなく、私の場合はむしろ「何とか真似をしたい羨(うらや)ましいこと」と言った意味。


だんだんと負荷重くなり、のろのろとする。


老いてくると、何となく身体(からだ)が重い。そこで動きが鈍くなって、のろのろとする。それは、誰にも言える事実であろう。

しかし、ここで言っているのは身体のことではないんだ。
実は、私のこのパソコン。ノートパソコンでは負荷が大きいと考えて、DELLの「DIMENSION 8400」を入れたのは、すでにかなり以前。最初サクサクと動いていたのだが、いつの間にかそれも重くなってしまった。

ディスクのデフラグなどガベージコレクションやファイルの再配置などをするのだが、なかなか結果は改善されず、うまくいかない。面倒なもんだ。

やはり、さらに大型で高性能のものを入手する必要があるのだろうか。動きが鈍くなった理由は、何となくウイルス対策などのムダが多いシステムになってきたような気がする。


どう見ても、やらせはやらせ、空しかるべし。


テレビを見ていると、やらせ番組がかなりある。面白くしようとして企画した結果であるが、実際には面白くない。からくりが、わかってしまうからである。

何かを言ったりしたりすると、「それは知っている」としたり顔にいう人がよくいる。私は、それを言うほど愚かではない。しかし、結果を視聴者に暗示するような番組は、すぐに飽きてしまう。なぜならば、相手の意思で動かされているからである。

「やらせがいけない」などと言っているのではない。私が言いたいのは、個性を奪ってしまうような方法を報道が用いるのは、困ったことだということ。

中には、笑う箇所まで指定するような愚かな番組があるという。


疎ましく、不要なものは持ちたくもなし。


「人生のしがらみ」とでも、言ったらよいだろうか。
「しがらみ」は、「柵」からきている。川の水流をせき止めるために、杭(くい)を打って、木の枝や竹などを横に取り付けたものが柵。そこから、まとわりついたり、じゃまをするものを「世間のしがらみ」などと言うようになったらしい。つまり、「しがら(柵)む」という動詞の連用形である。

「疎ましい」は、いい感じがしないので遠ざけたい気持ち。つまり、イヤなのである。恐ろしかったり、気味が悪いこともある。つまり、しがらみでもつことになった品物のことだ。

パソコンのツールも同じ。ツールというか、ソフトの断片。そんなものが増えていくと、何とも効率の悪いシステムになってしまう。


字だらけと絵だらけとあり、プログの世界。


面白いので、ときどきプログの新着を見る。
とくに、誰の何々というプログを見るわけでない。リストから好みのタイトルを選ぶ。次々と書き込みがあって、1分間に60くらい上がってくる。つまり、1秒に1つがアップされている。作るほうも作るほうであるが、読むほうも大変であろう。また、カウンターを見るとほとんど読まれていない感じのものも多い。

字がぎっしりとつまったもの、そして素晴らしい絵のもの。まぁ何とエネルギッシュな人が多いものだと、つくづく感心してしまう。私もがんばってみたが、そろそろ疲れてきた。

最近になって発掘された古代アッシリアの粘土板に、「誰もが文章を書きたがる時勢になった。世は終わりだ!」というのがあったという。


わからないことばかりあり、マップの仕組み?


グーグルのマップを利用し始めたのが一年前。その素晴らしい仕組みに、ただ驚くばかり。そこで、勉強をして何とかマスターしたいと思った。

でも、やってみるとわからないことばかり。もたもたしていると、「いったい何のために何をやっているか」さえも自信がなくなってしまう。やはり、私にはムリであったのだろうか。

ここのところ、しばらくすると自分自身でやったことも忘れてしまう始末。そんなわけで、まずプライベートな

Googleマップ入門

が必要になる。


キーンという音が聞こえる、耳鳴りなのか?


いつごろからなのだろうか。ときどき、どこからともなくキーンという高い音が聞こえるように感じる。そして、何かの折にふっと消えてしまう。

もしかしたら、どこかでモーターの音が響いているのかもしれない。近くに大型のビルがあって、屋上に換気や冷房の設備が置いてある。そんなために、絶えず音を発しているのであろう。

あるいは、自分自身の耳鳴りだろうか。いつごろからか、静かなときにキーンという音が気になるようになったのは、もしかしたら精神的なストレスに原因するのかもしれない。

いずれにしても、放射線や電磁波などが空間に充満しているので、私自身の身体がその共振周波数をもっていて、何かが聞こえても不思議ではない。


Kuroda Kouta (2008.05.31/2008.05.31)


(注) セーブ時に、「このページには標準コードでない文字があるので、代替フォントを用いる」とホームページビルダーで宣言があり「OK」した。おそらく、「ほう居士」の「ほう」という文字だと思う。