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  新句(十九音) 作品集10(2008年4月分)



際限のないことがらを追うは愚かか?


ニュースを見ていると、まったく驚いてしまう。
「何のために何をしているかが、わからない」ことがあるからだ。
つまり、私にとっては驚天動地に近いような行動であるが、その理由が理解でないことが、多くの事件でわかってくる。

おそらく、当事者というか犯人は、そこまで行ってしまうほど、エネルギッシュであったのであろう。際限のないことを自分が追っていることに、まったく気がつかなかったのかもしれない。「鹿を追うものは、山を見ず」などとも言う。

また、「蛙(かえる)の腹自慢」という話がある。
蛙が腹を膨らませると、仲間たちが立派だと言う。そこで、もっと大きくする。さらに、賞賛。そして、そんなことを繰り返しているうちに、腹がパンクしてしまい、あっけなく死んでしまうのである。


楽しみは身近なところにも、多くあり。


海外旅行をする人が多い。
おそらくあと数十年もすれば、人類は宇宙旅行をするようになるでしょう。科学技術の進歩は、目を瞠(みは)るばかりです。
私も若いころは、ずいぶん遠くまで行ったものだ。しかし、最近になって、あまり遠くへ行かないし、海外に出かけたりもしない。

身近なところで、楽しみを探すことを覚えたからでしょうか。また、マクロコスモスもと言っても、結局はクロコスモスと同じ時空にあることがわかったからかもしれない。

私にとっては、「……どてんかいめい」であっても「……どてんめいかい」であっても、どちらでもよい。あまりにも遠かったので、ローマ神話の冥界の名が付けられた月よりも小さい星が、実際には月よりも大きくてもかまわない。


度忘れとボケの予防に連想記憶。


「連想記憶法」は「ニーモニックメソッド」と言って、「回想創造法」の一技法である。ボケ防止に効果抜群であるから、私もしばしば行っている。
例えば、「カタクラカタクリ」である。つまらない内容のものではあるが、「ボケ防止」や「うろ覚え対策」には好ましい。

「ニーモニック」は、かつて「ムネモニック」などと言って、プログラム言語の命令を覚えやすくするために用いた。単に「あだ名」や「愛称」と言ってもよいだろう。物事を言葉で関連付けて、何とか覚えるのである。

また、それを関連から思い出すのだ。
単なる言葉遊びや、語呂(ごろ)合わせでもよい。さらに非論理なこじつけでもかまわないのである。したがって、まったく楽しい一つの空間を構築できる。
具体的なことは、後日に機会があったら改めて示そう。


大仏と観音、閻魔、七福神も。


大仏があって、観音もまします。閻魔も、十王もいる。七福神もあって、さらに別に恵比寿・大黒がいる。そんなありがたい寺院があった。ちょっと遠いが、東武東上線の下赤塚にある乗蓮寺。

大仏は、ずいぶん大きくて日本で三番目という。黒くて、とても見事なお姿である。観音も、かなり大きな福寿観音。
閻魔は、自分も含めて小さい十王を従えている。つまり、大小十一位あることになる。考えてみると、死んだあとも何となくおっかない。

七福神のセットのほかに、弁天池に美しい金色の厨子があって、そこにおられる弁天さま。その畔(ほとり)に恵比寿・大黒。そして、かなりでっかい布袋(ほてい)さま。まったく、いたれりつくせりの乗蓮寺。

青空のホームページ』の「美術エクジビション」にあるプチさん(プティ散策)レポートとして、「下赤塚駅周辺」にまとめてみた。


ナマケモノ、見れば見るほど動作緩慢。


いままで、ナマケモノはほとんどの動物園にいなかった。教育学的見地からなのだろうか。しかし、先日(2008年4月3日、木曜日)ふと思って、念のために係員に聞いてみた。すると、「いる」と言うではないか。

上野動物園である。さすがだと、私は思った。友達と上野顔大仏を見た帰り。まったく運がよかったことに、ちょうどそのときナマケモノは小屋の外にある木の運動場に出ていた。そこで、デジカメでパチリ。

動きが遅いのは、ナマケモノが「怠け者」のためではない。
ナマケモノは「樹懶」と書き、貧歯目ナマケモノ科の哺乳類の総称である。体長は約50センチ、鉤(かぎ)状の爪で木の枝にぶら下がる。歯が不完全だから、柔らかな木の葉や芽を食べる。代謝が遅いので、動作が緩慢に見える。

見ていると、不思議な感じのする動物だ。


新川に大仏のある寺、見つけたり。


三鷹市新川に、大仏のある寺があった。しかし、ちょっと三鷹駅からは行きにくく、最寄の駅は京王線「つつじヶ丘」。そこから、北に歩いて1.5キロメートルほどのところ。歩くのがしんどければ、仙川駅からバスに乗ってもよい。

春清寺という幼稚園も経営しているお寺。境内は、なかなか落ち着いている。
そのお名前は「多摩大仏」と言って、かなり大きく、海老茶色の衣をまとわれて金色(こんじき)に輝いている。
何となく、スリランカ風の大仏である。

写真は、右の『青空のホームページ』にある「美術エクジビション」の「つつじヶ丘駅周辺」にあります。


「主人公」、この言葉には深い意味あり。


主人公という言葉は、意味深長。私は、つくづくと思う。
徳山(とくざん)の孫弟子だった師彦和尚(しげんおしょう)には、独り言をいう癖があったらしい。

それが、まず「主人公!」という言葉。つまり、相手に話しかけるのである。
すると、それに自分自身が次のように答える。
「はい。」

「いつも、冷静であれ。平常心を失うな!」
「はい。はい。」
「誰かに、騙(だま)されるな。人を騙すな。自分自身に騙されるな!」
「はい。はい。はい。」

つまり、一連の自問自答なのである。


「身勝手な人が多い」と、言う人もあり。


世の中には「身勝手な人が多い!」などと言って、こぼしたり、嘆く人が多い。また、怒(いか)ったりする。実は、私もそうかもしれない。

しかし、考えてみれば身勝手と言われる人も、それを怒る人も「それが当然」。なぜならば、本来「ヒトの遺伝子が、そうなっている」らしいからである。

だから、最初からオーソドックスなほうの考え方をすると、怒りや愚痴も生じない。でも、社会が荒(すさ)んでくると、いきおい常識や良心も失われてしまう。例えば、戦争中。また、暴動の最中(さなか)。

そんな中でも、何とかして平常心を失わないようにしたい。
と、まぁ考えるのだが、……


野暮ったいデザインであり、HPとプログ。


このプログ、何とも野暮ったいスタイル。デザインが垢抜けない。用意された型紙を見ると、いずれも素敵である。しかし、何も知らないままに自作をしたので、このような次第。きっと、センスを疑われてしまうだろう。

ホームページも、まったく同じ。わからないままに、少しずつ作ってきた。
そして、後で気がついたのである。

文字が大きい。(高齢者向けというよりか、自分自身が眼の弱いため)
写真がバカでかくて遅い。(ある程度、細部までわかるようにしたかった)
BGM(音楽)が鳴り出したり、朗読があったりする。(当初は、視聴覚が弱くなったオジン・オバンたちも対象として考えたため)

所詮、自分自身にセンスがないので、仕方のないことかもしれない。


要(い)らぬもの、使わぬものが、あまりに多し。


部屋にある品物や持ち物を改めてみて、まったく驚いた。
いわゆるガラクタや不要物が、あまりにも多いのである。おそらく、死ぬまで使わないであろう品物が、かなりあった。そして、今となっては何のために、それを求めたのかがわからない。

品物ばかりではない。自分自身が作成したメモなども、まったく価値がないだろう。もしかしたら、小説などのモチーフに使おうかとも考えたのだが、その必要もなくなってしまった。

したがって、少しずつ整理をしていこうと思う。まず、不要なものは思い切って捨てる。また、くだらない断片やメモなどは削除してしまう。そのような作業をぼつぼつ始めたい。

人生とは、いったい何のためにあるのだろうか。


何となく不真面目であるメールの世界。


ここのところ、いかがわしい内容のメールが、たくさん来るようになった。中には、インチキや汚らわしい内容のものも多い。

科学技術の最先端ツールであるインターネットをくだらないことに利用する愚かさは、何とも困ったことである。もっとも、そのようなことを続けてメリットがある立場も考えられる。

現代人がインターネットの社会で生きているのは、あたかもニワトリが飼われているような状態に置かれているのかもしれない。自分自身の立場がわからないままに、貪欲に餌をついばんでいる。

やってくるメールの半分以上が、スパムや迷惑メールであると、もはや情報化社会で何をしているのかが、私にはわからない。ムダが多く、効率が悪いからである。


コツコツと続けてみたり、プログの記述。


誰も見ぬままにとでも、言ってよいかもしれない。それでも、自分自身が「生きている証明」としてプログを続けている。プログになる前のメール本文方式のときから数えてみると、今日で4500回をすでに越えた。

それはまったく愚かしいこと、そしてムダなことかもしれない。
でも、個人の日記のことを思えばよろしい。読んでもらうためにインプットしているのではなく、自分自身のメモとして文章を残しているのである。

その文章の内容はともかく、インターネット上では操作が簡単。とくに、検索の機能が優れている。以前は自分自身の内容にハードディスク内の索引を作ったが、最近ではウェブ内でグーグルがほとんど拾ってくれる。したがって、どこに何を書いたかなどを後で簡単に調べることができる。

何ともありがたく、すばらしいシステムである。


カンチレバ、膝の痛みを早めるばかり。


最近、リュックを背負っている人が多い。誰かが始めた、無責任な流行であろう。その結果、しばらくするとほとんどの人が膝を痛めてしまう。

カンチレバ(cantilever)とは、「片持ち梁(ばり)」とも言って「ト」の形のようになっている梁(はり)である。つまり、「ト」の縦棒から横にはみ出している部分をバランスを取って支える。力学的には、不安定きわまりない。

そもそも人間が立っていること自体、不自然で不安定な姿勢。なぜならば、元来は「梁」(はり)として作られた背骨を「柱」として使っているからだ。

当然のことながら、加齢とともにダメージがある。とくに重力を支える膝の部分。それをわざわざ早めるために、リュックを背負う。軍隊などの重装備なら仕方がないが、ハイキングなどで荷を背負うのは愚かなことと思う。

本当は、荷物を頭に載せるのが力学的に好ましい。しかし、不安定になるので手で持つ。背負うと両手が使えるようになるので、さらなる人類の進化が、もしかしたら数万年後にあるかもしれない。


老いたらば、何をするにも簡素にしたい。


若いころは、「あれもしたい」「これもしたい」と際限がなかった。
しかし、老いてくると「そうはいかない」。
つまり、体力が要求に追いつかないからである。

そこで、日々の生活を簡素にしていく必要がある。
持ち物などは、死んでしまったら二束三文。あまりため込んでも、仕方ない。それどころか、後に残った人たちの笑いものになってしまう。

でも、私の場合。どうしても、簡素にできないものがある。
それは、プログとホームページ。いっそのことやめてしまおうかと考えたこともある。しかし、「生きている照明」という自分自身の目的があるので、そう簡単にはやめれない。

そんなわけで、手数だけでも簡素にする方法を模索しているのだが、……


死んだとき、妻がうろたえないようにする。


これでは、ちょっと舌足らずかもしれない。
つまり、「私が死んだときに後に残った妻が、何をどうすればよいかなどで迷ったりしないような配慮が、ぼつぼつ必要な時期になった」ということ。

例えば、葬式に来て「ご主人に貸した五百万円は、いつ返してくれますか?」などと言って、未知の人が詐欺をしようとするケースが増えているらしい。
どこに何があるかとともに、貸借などもリストアップしておく必要があろう。

柳田国男の『遠野物語』に出ていた話。
茸(きのこ)を食べて、子ども一人を残して一家が亡くなったときに、村人が次々来て、「これは、私が貸したものだ」とか「生前にくれると約束した」などと言い、糂汰瓶(じんだがめ)一つ残らず持って行ってしまった。

もっとも、兼好法師の『徒然草』(第九十八段)には「後世を思う者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持っちゃダメ。」というくだりもあるが。


『冬の旅』、身にしみじみと味わいがあり。


シューベルトの『冬の旅』は、私の大好きな歌曲。聴けば聞くほど、味わいがある。そして、それが次第に深まっていく。

いつも手持ちのフィッシャー=デスカウの盤などで聴くが、きょう(2008年4月14日、雨の月曜日)はBS102、バリトンのクリスティアン=ゲルハーヘルで聴いた。ピアノは、ゲロルト=フーバーである。

歌詞が、字幕で出るのも素晴らしい。ピアノ伴奏も、鮮やか。とくに、最後の「辻音楽師」。24曲目であっても、疲れた様子はなく、改まってものすごく真剣な顔付きで歌っていた。

<誰も耳をかたむけない。目もくれない。皿は、いつまでも空(から)。>
すべてをあるがままに受け入れる。そして、ふと聴いている自分自身をそこにエンパシー(empathy=感情移入)して、つくづく考えてしまうのである。


素人の域を出ずとも、自分は自分。


展覧会に行くと、凌駕した作品に圧倒されることがある。音楽界に行くと、卓越した演奏に驚き入ってしまいがち。そして、あたかも充実した時間が過ごせたなどと、つい考えてしまう。

しかし後で考えると、そのような感激は一時的なものが多い。なぜならば、そのような芸術を理解できないからである。正直言って、自分には消化ができない。つまり、消化不良を起こす。

自分自身が、そのような次元に昇華できないばかりでなく、自信まで失ってしまう。それどころか、昇華熱でもって自分自身を焼いてダメにしてしまう。

やはり、素人の域を出なくても、自分自身に合ったレベルがよいことが次第にわかってきた。評価をするのは、結局は自分自身だからである。


『羅生門』の実物?を見た、大きなもんだ!


このあいだ、府中駅から多磨霊園駅まで歩いてみた。そのとき、東郷寺があった。とくに、そこへ行きたいとは考えてなく、たまたまプチさん(プティ散策)の途中。

そして、はっと気付いた。この大きな山門は、いつか見たことがある。その威容さ。すぐに思い出した。『羅生門』という映画に使われていたものだ。

実際には、『羅生門』ではなく『藪の中』であったと思う。しかし、そんなことはどうでもよい。とにかくこの山門は、私がかつて映画で見た記憶に残る風景を構成する建物なのである。実に堂々として大きな門。もしかしたら、「キエフの門」と匹敵するのではないかなどとも考えてもみた。

プチさん(プティ散策)には、そんな発見があって楽しい。


すばらしい場所の多くをプチさんで知る。


身近なプチさん(プティ散策)でも、多くの再発見がある。意外に知らなかったことが多いからだ。また、目がそこに向いていなかったことも事実。

そこで、風景を楽しむのもよろし。また、歴史をひもとくのもよろし。
しかし、そこに自分自身の知的空間(その奥義)を築くのが花札の「あかよろし」ではないが、明らかによろしい。

身近に楽しみや幸福があることを知る。捜し求めた『チルチル・ミチル』の最後にあるように。かつて、わがままなバラといた小さな空間に、やはり生きがいがあったことを知り、そこに戻る決心をする。『星の王子さま』のように。
そしてまた、実際の日々の生活に喜びがあることに気付く。『銀河鉄道の夜』のエピローグに書かれているカンパネルラと別れた後で、ジョバンニが現実の生活に戻ったように。


公開を中途半端で、未熟なままに!


私は、ホームページやプログの内容が中途半端で、未熟であるにもかかわらず、公開をしてしまう。なぜならば、完成をさせようとすると時間がかかってしまうから。つまり、古希前後になると、もはや先が長くないであろうと考える。

そんなわけで、実にみっともない内容のものが次々とできる。アップロードしたものを見直すと、我ながら恥ずかしい。つまり、恥のかき捨てなのである。

なぜやめないか。その理由は、公開をするということよりも、インターネットの機能を使いたいからだ。例えば、ウェブ上での検索。全体が1ギガバイトにもなると、もはや自分のハードディスク内ではムリ。また、Googleの地図と連動させることも、インターネット上でないとできない。とどのつまり、最先端の技術を使わせてもらいたいから、恥をしのんで公開してしまうんだ。


面白い人は少なく、変人多し。


以前は、市の福祉センターによく行ったものだ。
しかし、とくに親しかった三人が来なくなってからは、あまり行かない。一人は寝たきりに、そして二人は亡くなってしまった。

最近は行っても、面白い人がいない。つまり、話をしていて楽しくなるような人が少なくなった。その代わり、ちょっと変った人、悪く言えばいわゆる変人が多い。自己本位な人や、還暦を過ぎたにもかかわらず金儲けがしたいというような山っ気がある人が多いのは、いったいなぜだろうか。

もっとも、私のほうが変人で、金儲けはともかく知識欲にとらわれている奴だと思われているのかもしれない。とにかく「高齢になったので、社会のお役に立ちたい」と考えている人は、さっぱり少ないのではないか。
それはやはり、操作された報道やFMなどによるマインドコントロールによる結果かもしれない。


ミスドにてカフェオレ二杯、知的空間。


とくに甘いものが好きというわけではないが、「ミスタードーナツ」にはよく行く。禁煙席があって、コーヒーのお変わりが自在だからである。そんなわけで、20分ぐらいねばるときが多い。

「カフェオレ」のお変わりは必ずするが、ドーナットはいつも二つ。
とくに、何かをするというわけではないが、一人でカウンタ席に座る。そして、いろいろなことを考える。たいがいは、プチさん(プティ散策)の帰りだから、ちょっと疲れている。それで、甘いものを食べて元気回復。

黙っていても、お変わりをもってきてくれる。しかし、忙しいときは来ない。そんなときは、自分でカップを持って取りにいく。客は、若い人が多い。また、ほとんどが女性。私のような古希前後の老人は、めったにしか来ていない。

それでも、そこは私の「知的空間」の場所。有難いことである。


同じこと、いつも反復、それが人生。


同じことを言ったり、繰り返したりすると、くどいと感じる。とくに、相手が老人であると「また、つまらない繰言(くりごと)か?」などと軽蔑をする。
また、そのことは話したから、もう話さない。そこは行ったから、もう行きたくない。そんな人がいる。しかし、それは知能の低い人。本来、すべてが反復。

歴史や日々のことがらを考えると、そんなことが遅蒔きながらわかってきた。旧約の『伝道の書』ではないが、日はまた登るのである。ヘミングウエイの作品にしても、ベストセラーにしても、かつてあったものの二番煎じというのが、コヘレットの考え方。それも、大金持ちのソロモンの言葉を借りて、くどくどと吐露(とろ)している。

私は、さらにそれを脳のもたらした幻影だと考える。
そして、「そのことは知っている」というのは、「今朝(けさ)朝飯を食べたから、もう今後は飯を食わない」とか、「今息を吸ったから、もう吸わない」などと言うように、まったく愚かなことであると思う。


すぐ疲れちゃうので、あまり遠出はできぬ。


古希(数え年の七十歳)の前後から、急速に体力が衰えるという。
そんなわけで、すぐに疲れちゃう。かつてのように、10キロメートル以上も歩く強行軍は、もはやできない。

そこで、近場の散歩。それをプチさん(プティ散策)という。駅を中心として数キロメートルの範囲内。もしも体調を崩しても、周辺には病院があるだろう。また、疲れてから帰ってくるときにも駅から電車にすぐ乗れる。

そんな状態であるから、安心できる。
つまり、交通機関そのものが母船のようなもので、頼りになるのだ。

老いてからも冬山に行ったり、太平洋に乗り出したりする人もいる。しかし、遭難などをすると多大な迷惑がかかるだろう。そんなわけで、私たちのプチさん(プティ散策)は安全で安心。


何をするにも疎(うと)ましく、老いを感じる。


ここのところ、何となく衰えてきたのだろうか。「老いを感じる」と言ったら、ちょっとオーバーかな。

でも、何かするときに「面倒くさい」とか「億劫(おっくう)だ」などと思ってしまう。そして、何かをしたときにすぐに疲れてしまう。その結果、「疲れた、疲れた」などと言う始末。

何となく老化・退廃の兆(きざ)しである。
よく考えてみれば、還暦をとっくに過ぎて、もはや古希である。だから、当然のことと言えばそれまで。

しかし、何とかして「サムエル・ウルマンの『青春』という詩」のようにありたいとも思う。できることならば、……。


何回も、同じことする楽しみもあり。


同じことを繰り返すと、くどいと感じたり、ともすると飽きがち。しかし反面、その中に再発見があったりして楽しい。

私は、宮本武蔵の

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。
自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>

という言葉を思い出す。
何事もわかっているようで、考えてみればわからない。そんな中で、「お百度」や「百曼陀羅」のような修行をすることを考えると、まさしく自分自身を見直す瞬間になるのである。
そんなことが、最近になってわかってきた。


次々と脳裏をよぎることをメモする。


単に、それだけのことである。
それがいったい何になるのか。あえて言えば、いつまでも脳をフレッシュにする技法の一つと考える。つまり、「老化予防」の一つであろう。ボケ防止などとしてもよいかもしれない。

そのメモも、「回想創造法」や「自己福音書」にまで発展させることができる。そうなれば、何とも楽しいことではないか。

次々とイメージを心の中でリンクしていく。心の中というよりも、脳の中かもしれない。そして、その場が「知的空間」となる。自分自身の中に、マクロコスモスを構築する。その宇宙は、次第に膨張をしていくかもしれない。つまり、エントロピーの増大と同じで、際限がないことだ。しかし、それでもいい。


何となく、我とわが身をもて余す日々。


精神的にも肉体的にも、何となく物憂いことがある。さらに、面倒くさくなってしまう。やる気がなくなったり、体が重く感じたりする。そして、何をするのも煩わしくなりがち。

「我」は「心」、つまり「気」。「わが身」は「身体」。そして、「気は心」などと言う。
また、「病は気から」とも言うではないか。

気力がなくなると、身体の抵抗力が少なくなって、病気になりがち。そして、最後はアウトになってしまう。知人を見ていると、そんな人が多い。かつて、あれほど精力的であった人が、すっかり静かになってしまった。

少しでも、そうならない工夫が必要であろう。考え方で、かなり結果が異なってくるからだ。


コツコツとメモや写真を残す楽しみ。


他人が見たら、幼稚で愚かな内容かもしれない。しかし、自分がよければよいのである。評価をされることを目的としているわけではなく、自分自身が「生きている証明」をしようとしているのであるから。

そんなわけで、散歩に出かけるときには、デジカメを持参。そして、何かに興味をもつと、気軽にパチリ。また、いつもメモ用紙を持っている。思いついたことは、直ちにメモる。

デジカメの写真とメモ用紙の内容は、帰ってから整理・編集。ほとんどの写真やメモは、削除をしてそれでおしまい。しかし、ホームページに残したり、プログの記事になったりするものもある。

いずれにしても、「生きている証明」なのである。


帰ったら歩いた距離を測ってみよう。


プチさん(プティ散策)から帰ると、歩いたところをグーグルの地図「マイマップ」で見る。縮尺を変えたり、航空写真にしてみたりする。上から見るのは、「鳥瞰図」や「ナスカの絵」のように楽しい。自分が、どこを歩いたかが再確認できるから。ただし、森の中を歩いたときはダメ。

さらに、歩いた道をグーグルの「距離測定ツール」を用いて、地図上でトレースすることによって簡単に歩行距離がわかる。メートルでなくヤードでも測れるが、私はメートルのみ。

わずか3時間くらいのプチさん(プティ散策)ではあるが、4キロメートルくらい歩いている。途中で休んだり、立ち止まって考えたり、何かを見学をしているので、平均時速はものすごく遅いことになる。

プチさん(プティ散策)は、それでいいんだ。


Kuroda Kouta (2008.05.01/2008.05.01)