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  新句(十九音) 作品集9(2008年3月分)



老いたらば知識を生かし、一人で遊ぶ。


知識というほどのことではないかもしれない。
それまでの経験や知っていることの範囲で、いろいろと面白い工夫や楽しい再発見ができる。そして、そんな一つの方法が「プチさん」(プティ散策)。

駅周辺のとても小さな散歩である。そんな簡単なことでも、やってみると、あまり危険もなくて、なかなか楽しい。さらに、健康にもよいようだ。

デジカメがあれば、楽しみが倍増できる。なぜならば、臭化銀などの感光乳剤を用いた今までの鉛銀フィルムとは異なって、パソコン内での加工が容易であるし、気に入らない画像は削除をしてしまえばよいからである。

そんな「プチさん(プティ散策)の見本」は、『青空のホームページ』にある「美術エクジビション」をご覧いただきたい。


ありがたいことだ! 自分がここにあること。


仏教の「人身受けがたし」ではないが、私は「自分自身がある」ことを不思議に思うとともに、つくづくありがたいことと思う。

まさしく、「在り難い」ことなのである。
だから、日々を大切にして有意義に過ごしたいと考える。

今さら自分があることの確率などを考えてもしかたがない。また、過去のことや未来のことをあれこれと考えてもしかたがない。

ただただ現在の一点で、あるがままにあるのがよいのではないか。
周囲のことに捕らわれずに、自分自身の置かれた位置を知って、少しでもよい状態になるように努力をしていけば、それでよい。人生などとことさらに言ってみても、始まらないのである。


できるだけシンプルな日々、至福の至り。


「方丈の館」に住んだという鴨長明。
晩年は、「シンプル・ライフ」に徹した永井荷風。
そんな人たちの心情が、私にも何となくわかる。

生活の場に品物があふれては、煩わしいばかり。少ないものを活用するのがよい。あまり物を持ちすぎると、物に捕らわれた生活になってしまう。

むしろ、品や物によらず、豊かさは心の中の問題であろう。
心が豊かであれば、それでよい。と、私も思う。

ぼつぼつ古希である。品物を持とうという欲望は薄らいだが、まだまだ知識や興味に対する貪欲さは消えないようだ。
何とか、生活を改めていきたい。


400と300くらいが、見やすい画像。


ホームページには、デジカメで撮った画像を張り付ける。
「百聞は一見に如(し)かず」などというが、くどくどと説明をするよりも、画像のほうがわかりやすい。

しかし、その画像である。
あまり小さくしてしまうと、かえってわかりにくいようだ。
そうかといって、大きくするとロードに時間がかかったり、メモリも大幅に使用してしまう。その辺が、むずかしいところ。

そこで、私は400ピクセル×300ピクセルくらいの画像を用いる。
それでも、かなり大きいのであるが、何となくわかりやすい大きさである。
しかし、説明の文書などは画像上に文字が書いてある。したがって、その大きさでは読めない。そんなときは、もっと大きくする。読めなければ、仕方ないからだ。


ガラクタを集めて楽し、ホームページに。


よくゴミなどをため込んだ人のことをテレビでやったりする。部屋中いっぱいになったゴミの山で、身動きがとれない。
あるいは、部屋ばかりではない。敷地全体に廃品が置いてある。出入り口も満足に使えず、窓から出たり入ったりする。

そんなことを見て、バカなことだと思う。しかし、実際にそうであろうか。自分自身が、それとまったく同じことをしているから。

私のところには、実際に品物や廃品が身動きのできないほどあるわけではない。でも、それと同じことなのである。

実は、『青空のホームページ』の中。そこには、実に下らないものがゴタゴタといっぱいだ。何とかしなければならない。テレビでやっていた「おそうじ隊」のような人がいたらいいとも思うのだが、……


くさってもベンツであるか? それは間違い!


谷沢川に沿って等々力渓谷を下り、ジブラルタ生命保険のところに出て、目黒通りが多摩川に突き当たろうとしたところにあった自動車屋の置き場。そこに、赤いベンツのスポーツカーが放置されていた。

「腐ってもベンツ」と言いたいところだか、実際はそうでない。

フェンダーに穴が空いていて、タイヤはすべて空気が抜けている。赤色も褪(あ)せて、もはや走ることもできないままに放置されている。

かつては、愛用された車であろうが、何とも情けない有様になっている。もっと早い時期にスクラップに出してしまえばよかったのだろうが、何らかの事情で残してあるのだろう。何となく、「恥をさらしている」ような感じである。

なお、写真は『青空のホームページ』の「老化予防入門」、そこの書きかけた「老人学」にあります。


「こんなこと、いつかあった」と思うことあり。


道を歩いていると、ふと前にもここに来たような気がしたりする。
また、本を読んでいても、やはりすでに読んだような気がする。
デジャビュ(既視感)というのであろうか。

おそらく、その経験が遺伝子に組み込まれているのであろう。
過去の時代には必要であったことが、すでに科学技術の発達した現代では不要になってしまったり、意味がわからなくなってしまったことが多い。
だから、ふと記憶の中に似たことを思うということは、かつてはそれなりの内容があったのであろう。それが、すでに何故かわからない。

やがて、すべてがすでに行われていたことで、自分自身がそれを思い出せないだけではないかというような不安が脳裡をよぎる。旧約の『伝道の書』などを読むと、何となく不安になるのはなぜだろうか。


デジカメの写真を整理・分類しよう!


最初のころ、デジカメの写真はハードディスクに入れたままだった。しかし枚数が増えても、すぐ見れるアルバムにしておきたいと考えた。
いろいろな方法があるだろうが、私は次のような手順を守っている。

(1) 散歩に出かけて撮ると、100枚前後になる。場所の表示メモや後でする説明のために、看板や番地表示板などもすべて写してしまうからだ。

(2) それをいったんすべてハードディスクのワークに移す。むろん、デジカメのメモリには一枚も残さない。

(3) それらを分類・整理する。
その過程で、半分以上のネガ?が削除されて失われる。

(4) 編集をして、「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」などの本文に追加・交換をする。


全国の「さくらがおか」を調べてみよう。


先日、世田谷美術館に行った帰りに、用賀駅から成城学園駅まで東急バスに乗った。すると、途中に「さくらがおか」というバス停があるではないか。実は、私の住んでいるところも「さくらがおか」なのである。

そんなことがあったので、桜の開花に先立って、いったい全国にどのくらい「さくらがおか」という地名があるかを調べてみようと考えた。

すると、何と113ヶ所もあった。がんばってすべてを調べたつもりだが、まだあるかもしれない。
もしも、あなたがご存知なら教えてください。

私が調べた一覧は、『青空のホームページ』「文学エクジビション」の「言葉アラカルト」にある「桜ヶ丘という地名・桜ヶ丘という駅名」にあります。


人生は、恥・失敗の連続であり。


いろいろ考えてみると、今までには多くの「恥」や「失敗」があった。むしろ、「恥・失敗」の連続であると言ってよい。

中には、楽しい思い出もあることはある。しかし、無念な記憶のほうが多いのではないか。

ゲーテは、晩年になって一生を思い出し、「楽しいことは数時間もなかった」とエッカーマンに吐露(とろ)したという。かつて『ゲーテとの対話』で、読んだことがあるような気がする。しかし、うろ覚え。もしかしたら、「三分間」だったかもしれない。

とにかく、ゲーテのような偉大な芸術家・文学者でもそうであれば、自分がそうあっても畢竟(ひっきょう)仕方がないのではないか。
でも、日々何とか自分自身では、それなりの納得ゆく生き方をしたいものだ。


一生は恥のかき捨て、未完に終わる?


残念ではあるが、完全なことなどは私にムリである。
そもそも力不足であるから、いくらがんばっても完成などはできない。
そこで、仕方なくあきらめるのである。

しかし、いろいろと考えてはみる。
完全を求めるのは、一種の病気ではないか。また、物欲・金に対する欲、さらには名誉欲なども、考えてみれば本能ではないので空しいものである。
しからば、何を求めているのか。
それは、知的な充足か?

『パパラギ』という本に、酋長ツイアビの演説として「考えるという重い病気」というタイトルがあった。
欲などというものは、すべて脳のもたらす幻影なのかもしれない。


倶会一処、本当だろうか? 信じられない。


倶会一処(くえいっしょ)という言葉がある。
仏教の言葉で、墓石などに彫られることもあるみたい。

意味は、「念仏を唱える人はすべて西方浄土に往生し、死後も一つところで出会う」という意味。つまり、「南無阿弥陀仏」と言った人は死んでも同じところに集まるのだ。

「最後の審判」や「復活」などと同じで、何とも眉唾な話。

私の考えとは異なるので理解ができない。
青空のホームページ』の「多磨霊園(多磨墓地)」に墓石があった。また、意味は「私の仏教(サマリー)」にある。
墓にまで彫るのだから、そのように信じる人も、実際にはいるのであろう。


こだわりのない日々であれ! こころ安けく。


こだわりがあると、いつの間にか神経が参ってしまって疲れる。そして、その結果、病気になりやすいことも事実。

心を安らかに保つためには、あまり物事にこだわってはいけない。
「こころ安けく」とは、私なりに「心が安らかであるために」というような意味である。しかし、文法的には間違っているかもしれない。

だいたい「安けく」なんていう活用があるのだろうか。
「きりはなこくった」という言葉がインターネット(ウェブ)で調べてもないように、独自なものかもしれない。文学作品では無責任であって許されなくても、新句(十九音)の中ではいいのである。

むろん「ら抜き」や「体言止め」なども、一向にかまわない。


それなりのバランスをとることが健康!


健康などと言っても、個人的にはかなり違った状態である。
豊富な栄養を摂っていても健康でない人もいるし、ものすごい偏食をしていても元気な人がいる。その違いには、理解に苦しむものがある。

つまり、ホメオスタシスを行っている機能や状態は、すべての人に多かれ少なかれ違いがあるようだ。幼少時からの習慣によって、自分自身の状態をどう保つかが異なってくるのだろう。

むろん、人間の身体も結果に対してフィードバックしているのだから、原因が好ましくなければ、おかしくなってしまう。つまり、その原因と結果の相関は、個人個人によって異なるように作られているのではないか。

だから、健康に関しては一概に、どうしたらどうなるとは言えないことのほうが多い。つまり、恒常性が個人個人によって、かなり異なっているからである。


雨の日は、部屋にこもりて禅などをする。


雨が降ると、プチさん(プティ散策)ができない。
そこで、部屋から出ずに、私なりにテレビを見たり、禅などをする。

しかしテレビはともかく、禅などと言っても、大げさなものではない。
いろいろと考えてみる。そして、その考えを次第に広げる。さらに、広げていけば、やがて考えが「知的空間」(その奥義)に飽和する。

それで、よいのである。
つまり、考えることに飽きてしまったり、敢えてとらわれなければよい。
人間が考えるということ自体、それを考えるのは脳のもたらす誤謬だからである。と、まぁ、私はそんなことも考える。

したがって、禅などと言っても私の場合は、意味のないことをする無意味を意味づけるようなものであろう。


青空の日は、デジカメの写りがきれい!


曇った日には、何となくコントラストが悪い。
しかし、空が青く澄み切っている晴れた日には、デジカメの写りがくっきりときれいに仕上がる。なぜかわからないが、きれいに仕上がるのは何ともうれしく、我ながら満足である。

そんなわけで、晴れた日にはデジカメをもってプチさん(プティ散策)。
ブラブラと歩きながら、思いついた対象をパチリパチリ。

川の流れや木の姿。神社や仏閣。そして、変った表札。お墓などまで。
やってみると、いろいろと興味は尽きない。

帰ってから、すべての写真をハードディスクに移す。そして、そこで自分なりに編集や削除。デジカメだからこそ、そんな楽しいことができる。
下手くそな出来上がりではあるが、自分自身の思い出のためにホームページに張り付けておこう。


行くたびに、書き換えてみるプチさんページ。


晴れた日にはデジカメをもって、プチさん(プティ散策)をする。
前に行ったところでも、再発見があってうれしい。
そんなときは、気軽に写真を撮る。

すると、前回よりもベターな画像ができることがある。当然のことながら、前の写真と置き換える。そんな楽しみがある。

楽しみと言っても、ちょっと面倒なことは事実。しかし、「老化予防」の一環としては、すばらしい作業ではないか。文章を書くのは面倒であるが、デジカメで撮影するのは簡単。昔のような焦点距離やシャッター速度などのセットは不要で、ただパチリですむからである。

技術の進歩は、つくづくとありがたいことだと思う。


「乱」と「猿の惑星」とを交互に見たり。


ヒストリチャンネル(255ch)とムービープラス(220ch)で、同じ時間帯に「乱」と「新・猿の惑星」をやっていた。3月14日(金曜日)である。

どちらも、前に見た映画。そこで、互いにタイムシェアリングをして見た。つまり、途中のコマーシャルがきたときに、互いにチャネルを変える。

「乱」は「リア王」であり、「猿の惑星」はいわゆる「桃太郎」である。そんな見方をしてみた。「乱」のほうはわかりやすいが、「猿の惑星」は何となく身勝手な征伐・退治的。つまり、価値観の異なるところへ出かけていって、自分の側を正当な立場として考え、相手側を恐れて殲滅しようとする。

いずれの作品も、人間の愚かさを描き出しているように思う。それぞれに、素晴らしい映画だと思う。


たのしみは、まれに友来て語りあうとき。


橘曙覧ではないが、意外に楽しいことが日々にある。
それも、ふっと生じたり、何気なくやってくる。

つまり、花が咲いていることに気付いたり、思いがけなく友が来たりすること。
朝起きて見ると、昨日まで青かったブーゲンビレアの苞(ほう)が、急に紅くなったりしているとうれしく、楽しい一日になる。

また、友だちが久々に尋ねてくれると、楽しい会話ができる。
しかし、親しかった友だちの多くが、すでに亡くなってしまった。
でも、思い出が残っている。

花が咲いたりしても、その友を思い出すことがある。
蝋梅(ろうばい)の季節になると、大岩さんが偲(しの)ばれる。


たのしみは、デジカメで撮る写真の写真。


だいぶ前に、スキャナーをやめてしまった。
そこで、たいがいのものはデジカメで撮ってしまう。とくに、古い写真などがそうである。写真を写真で撮るのであるが、それでもそれなりに仕上がる。

まだデジカメのなかった時代の写真を使うために写すことが多い。むろん、ネガなども探せばあるだろう。しかし、今さらDPEなどは面倒だ。

もっとすごいのは、テレビの画面をデジカメで撮ってしまう。もっとも、そんな方法よりも精度の高い別なやり方もあるはず。しかし、メモ程度にするのであればデジカメで十分。

工夫をするとデジカメの楽しみ方は、いろいろとあって面白い。
ほんとうに便利なものができたと、つくづく思う。


知ることのよろこびを知る、日々の幸せ。


何が何だかわからないのが、私たちの人生である。
納得をしていたことにも、裏があったりする。さらに、裏の裏。まったくわからないのが、現実である。

学問や常識も、いつくつがえされるかわからない。
とくに、人間の評価などは不安定なもの。価値観さえが大きく変転していく時代であるから、むしろそれが当然のことかもしれない。

戦前の考え方と戦後のそれを比べれば、よくわかる。よくもこれほど変るものかと、驚いてしまう。つまり、誰もがコロリと変化をしてしまうのだ。そして、「一億総懺悔」などと言ったりする。

少なくとも正しく知って、自分自身の中では納得のいくようにしたい。直感や本能もはたらかせて、自分なりの発見をする。そんなことが、日々の幸せではないか。


落雁のなつかしき味、さがしてみたり。


落雁(らくがん)という菓子がある。
もともと、落雁とは池や沼に降りてくる雁(がん)のこと。それが、米や麦、その他の穀物の実などを粉にして甘味を加え、煎(い)り固めた干菓子(ほしがし)の名になった。パサパサ・もぐもぐはするが、何となく素朴でなつかしい味がする。

隣のOPAに、駄菓子の大きな専門店ができた。店中を、探してみたがない。そこで、若い女性の店員に聞いてみた。

すると、落雁という言葉も知らない。
もはや、そのような製品はなくなってしまったのであろうか。
思うに、何となく物のなかった貧しい時代の菓子まがいのもののような感じもする駄菓子である。


「寺の名が駅名である」ときは、プチさん。


駅名が、寺院の名のときがある。
例えば、吉祥寺。また、豪徳寺。そして、永福町。さらには、国分寺。
似ている駅名に、八王子(はちおうじ)や王子(おうじ)。

しかし、八王子や王子は四天王寺や東寺と音が似ているが、明らかに違う。また、国分寺は「元国分寺」や「元国分尼寺」といったところ。

そこで、吉祥寺。そこにはなぜか吉祥寺という寺がない。月窓寺(がっそうじ)くらいがそうであるかと思ったが、まったく関係がない。なぜだろうか。おそらく、江戸にあった吉祥寺が火事のときに疎開をした人たちが、その寺号を使ったのであろう。

永福町や西永福は、永福寺が駅名の由来。「寺」が駅名では、「町」になっている。現在は「永福○丁目」という地番で、「永福町」ではない。
したがって、本命は「豪徳寺」タイプ。今後、そのようなところをプチさん(プティ散策)してみたい。


はかどらぬホームページの修正作業。


はじめは「健康」と「老化予防」、そして「安心立命」などを追求しようとして、市のサークル仲間たちで計画して立ち上げたホームページ。しかし、間もなく会長の物故などがあって、その後は進捗がはかばかしくない。

ホームページの内容も、原稿の段階のままに残ってしまった部分が多い。
そんなことを愚痴ったり、ここで言い訳しようと考えているのではない。

言いたいことは、「手がけることは簡単であっても、仕上げることは難しいということがつくづくとわかった」ということ。つまり、「気力の維持の問題」になってくるのであろう。

ちょうど、大洋に航海に乗り出した船が幽霊船になったようなもの。もはや、船長がいないから、しっかりとした目的地がわからない。


雨の日は、メンテナンスを終日(ひねもす)したり。


今日は朝から雨が降って、出かけられない。そこで、部屋にこもってパソコン二台のメンテナンスなどをする。かねてから考えていた次のようなこと。

(1) 下の(2)を含む一連のウインドウズのアップデート。
(2) インターネットエクスプローラを7にバージョンアップ。
(3) ハードディスク内の整理とバックアップ。

ここで、(3)は自分の責任で何とでもできるが、(1)(2)は契約に「同意する」必要がある。小さい字で細かく書いてあるので、面倒なのでざっと見るだけ。

やってみると、(2)はずいぶんと時間がかかる。ハードディスク全域の悪質なウイルスなどのガベージコレクションやチェックをしているようだ。何となく、泥棒と警官が追いかけごっこをしているみたい。つまり、泥縄(どろなわ)式。

健康と同じで、神経質になって細かいところまでをいじり出すと、キリがない。自分の責任でできることは、ほどほどにしておこう。


体調がよくない日々は、静かに休む。


かつてはあまりなかったことだけれど、ここのところ体調がよくないときがある。そして、そんな日が何日か続いてしまう。しかたがないので、部屋で静かに休んで、自然回復を待つ。

通院・入院、そして手術をしてから、身体のペースが狂ってしまった。手術の結果そのものは大成功であったが、副産物のような症状が残ったみたい。

それが原因かどうかわからないが、血糖値が高くなったり、血圧が上がったりする。もしかしたら、それらは老化による現象かもしれない。

何とか治したいと考えて通院をしてみたが、結果はさっぱり。よくならないばかりか、次第に薬の副作用が出たり、体調が悪化をしてしまう。
もはや、ホメオスタシスがダメになってしまったのだろうか。


誰のため書くものでなく、自分のメモに!


ホームページやブログは、誰かのために作成するものではなく、自分自身のメモのような形で、「老化予防」の一環として利用できることがわかった。
むろん、インターネットに接続されているので、誰が見てもかまわない。

しかし、私の場合は世の中に発表をするほどの内容ではない。
まったく、みっともない内容であり、恥をさらしているのと同じであろう。

最初は、一太郎で文書を作成して、ハードディスクの中にすべてを置いた。
しかし、1ギガバイト近くある全体の文書や画像、さらにメモ帳で作った文書などを検索をすると、自分のハードディスクの中ではのろのろと時間がかかる。そこで、アドレスを指定してインターネット上で検索。すると、あっという間。

そんなメリットのために、自分自身の「老化予防」にもってこい。


歩いたら、墓地もけっこう楽しいところ。


墓地などは陰気で、あまり楽しくないところだとばかり思っていた。
しかし、最近になって考え方が大きく変った。
つまり、歩いてみるとけっこう楽しいところであることがわかってくる。なぜならば、今までに気付かなかったような再発見が多くあるから。
例えば、

青空のホームページ

の「美術エクジビション」にある

「多磨霊園(多磨墓地)」
「お墓の文字(墓碑銘さまざま)」

などのような発見が次々とあって、いまだに楽しみがつきない。


バスに乗り、市内巡りて桜たのしむ。


今年も桜のシーズン。4月6日(日曜日)が、第27回「せいせき桜まつり」だそうである。しかし、今年はそのころすでに咲ききっているのではないか。
毎年、あちこちと花見に行った。大岩さんが健在であったころは、さそわれて足を伸ばし、川津桜までも行った。むろん、温泉に泊まって数日の遊山。

しかし、入院・手術をしてからは、何となく遠くへ行くのが億劫(おっくう)。そこで、今年から新しい方式を考えた。そして、きょう(3月28日、金曜日)、満開の桜めぐりをやってみた。

まず、バスで聖蹟桜ヶ丘駅から多摩センター駅。愛宕団地の尾根を通る路線で、南側が一望できる。帰りは、鹿島経由でやはり聖蹟桜ヶ丘駅までバス。すると、バスの走る尾根から北側を一望。つまり、車窓から桜を見れる。

残念なことは、桜の写真が撮れない。それでも、ホームページの「美術エクジビション」に「番外」として、「バスによる花見(写真なし)」としてまとめよう。


片倉に、咲き誇りたるカタクリの花。


片倉城跡公園のカタクリの花は、なかなか見事である。小さな山の谷間(たにあい)に、めずらしいほど多く群生をしている。毎年、三月の下旬から四月にかけてが見ごろ。

カタクリは「片栗」と書いて、ユリ科の多年草。山地の林に生えて、高さは約15センチ程度。早春に紫色の花を下向きに咲かす。花びらは6枚あって何となくその先が、ダリやポワロの髭(ひげ)のように反り返っている。
その鱗茎(りんけい)は良質のでんぷんを含み、「片栗粉」になる。

片倉城跡公園は、その名のとおり城の後が公園になっている。
京王片倉駅から南へ300メートルくらい歩くと、その入り口。公園の中には、「住吉神社」や「彫刻の庭」もある。
そんな楽しいところなので、私はとくにカタクリの季節でなくても、しばしばプチさん(プティ散策)に行く。「京王片倉駅・片倉駅周辺」である。


麻雀と将棋、ソリティア、楽しみがあり。


パソコンの中で、麻雀や将棋が楽しめる。また、ソリティアも面白い。
ソリティアは、いわゆる一人で楽しむトランプ占いのカードめくり。やってみるとなかなか難しく、私は十回に一回くらいしか上がれない。

将棋は、相手を上級(有段者)クラスに設定して、飛車・角の二枚落ちで対戦させてもらう。それでも五分五分。まったく、面白い。プログラミングされている内容ではあるが、実際に相手がいる対戦と同じ感覚である。

さらに、麻雀も。相手は三人。よく見ていると、中には「ひっかけ」リーチをしたり、ダマテンで待っていたりする。まったく油断ができない。

最初のころのパソコンやソフトと比べると、ものすごい進化だ。そんなわけで、そこにも大きな楽しみがある。しかし私は、自分自身用に老化予防のポイントを「ゲーム入門」にまとめてみた。


Kuroda Kouta (2008.03.31/2008.03.31)