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  新句(十九音) 作品集8(2008年2月分)



書きかけて、そのままになる「百舌の速贄」。


「百舌の速贄」(もずのはやにえ)とは、百舌(もず)という鳥が虫などを捕らえて、木の枝に刺しておく習性を言います。後で、食べるためのものですが、たいがいの場合は放置されてしまうようです。

つまり、どこに貯えたかを百舌が忘れてしまうのです。
そのようなことから、私たちが何かを中途半端にしたままで、未完成の状態でおくことなども言うようになりました。

ホームページに何かを書こうとして、書き始めます。しかし、それを忘れてしまって、完成できないことなど現実によくあることです。実に情けない次第。

「百舌の速贄」の記述自体も、何回目だろうか。yok先生のところにも、書いたうろ覚えがある。つまり、「百舌の速贄」の「百舌の速贄」を恥も外聞もなく繰り返している。
後でしようと思っても、できないことが多い。したがって、その都度ある程度の仕上がりにしておく必要があるようですね。


無駄なこと、あまりに多き現代社会。


情報が氾濫し、何でも満たされるような社会ではあるが、実際には逆。
確かに先端技術はすばらしい。一昔前と比べれば現代社会は、生活が大いに改善されたはずだ。

しかし、心の問題となると別。
相変わらず、犯罪や事故などが絶えない。同じことの繰り返しならよいが、ますます悪いほうにエスカレートしていく。

何となく、子どもに武器を与えるような構図が現代社会ではないだろうか。もっと精神的な基本的問題を先に解決しなければならないところ、物質文化だけが先行してしまった。

いったい、今後どうなるのであろうか。


自分なりの宇宙観を作る楽しみ。


難しい文学を読む。しかし、私にはわからない。
精緻な美術、例えば絵画に接する。まったく理解できない。
偉大な音楽を聞く。交響曲などは、途中の楽章で「早く終わればいいなぁ!」などと考えてしまう。

そんなことでは、仕方がない。むしろ、幼稚なものであっても、自分自身のレベルに合ったものがよい。つくづくと、そう思う。

『方丈記』に「がうな」と「みさご」の話がある。

<寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。>

まったく、その通りだと思う。


外食をやめ、食べ物にしばらく注意!


ここのところ、何となく体調が悪い。
そこで、しばらく外食を減らそうと思う。妻との手前、まったくやめるわけにはいかないが。
少なくとも、一人で食堂へ行くことは当分しない。

一回ごとの摂取量が微量であっても、長い間食べ続けると身体に影響が出てくる物質がある。そんな物質のために、やがて「化学薬品症候群」があらわれることは必然。そして、そのようになると原因が特定できないために、自分の身体にとっては大きな問題になる。

とくに味付けをよくしてある外食の場合は、何を食べさせられているのかわからないので、慎重にならざるをえない。


何となく、世のからくりに気付き始めぬ。


いつごろからだろうか?
ふと、世の中全体が何となく傀儡(くぐつ)のように感じ始めたのである。
むろん、裏づけや証拠のような確証はない。
しかし、傀儡師(くぐつし)や傀儡回しのような存在に対する気配をうすうす感じるようになった。

もともと、傀儡は歌などに合わせて動く操(あやつ)り人形のこと。ポーの作品にも「メルチェルの将棋指し」というのがある。
その後、日本では寺社に仕えて、布教などに従事する人も言うようになった。

そして、それが私の場合、インテリジェント・デザイン論と組み合わさって得体の知れない不気味な存在となってきたのだが、……


「ブルータス、お前もか?」とも似ているCOOP。


「よもや間違いあるまい!」と思っていたところが、……。信用をしていたり、期待をしていたところに、裏切られた感じ。そんなふうに思う人は、かなり多いのではないか。

実は、私は信じていなかったのである。
かつて恩田氏から全農のコンピュータセンターができるときに参加を勧められた。30年くらい昔のことである。しかし、折角ではあるが断ってしまった。

つまり、組織が大きすぎるので、それをかいまくぐる問題が多いのではないかと思った。そして、あまり思うようにできる職場ではないとも考えた。だから、JEOLに行ったのである。

そんな経過があったから、私はCOOPよりもシステムの小さい「神農センター」から野菜や果物、あいがも米、そして「ニッコー食品の冷凍ぎょうざ」などを購入している。


ニンニクもアロエもユリ科、私の薬。


体調が悪くなって、思い当たるふしがあり「食べ物・飲み水」と「生活習慣」に改めて注意・見直しをするようになった。
食べ物には、「にんにく」と「アロエ」を薬として常用するように心がける。身体の新陳代謝が、ここのところ大いに必要だからである。むろん、いずれも無農薬・低農薬のものでなくてはいけない。

ニンニクもアロエも、タマネギなどと同じユリ科である。
『ドン・キホーテ』に、「タマネギやニラは食べてはいけない」などと書いてあったが、『源氏物語』の「月夜の品定め」にはニンニクを常用する博士の娘の話が綴られている。

昔から常用される薬物でない食べ物には、それなりの効果があるらしい。
同様に、飲み水についても注意をしなければならない。
また、生活習慣は見直しをして、少しばかり改善をした。
それらについては、『青空のホームページ』にまとめていこう。「健康入門」の「病からグッドバイ法」に。


次々と友を失う現実があり。


しばらく会わないと思っていたら、脳梗塞で倒れて入院をしていたり、寝たきりになっている友達が数人いる。私自身が、もはや古希に近いので、年上の友達は仕方のないことかもしれない。

高齢になると、誰もが身体の不調を訴えるようだ。そして、そんなことを言い続けるうちにアウト。死んでしまった友達も、十人近くなった。

そんなことを考えると、自分の番が間もなく回って来るんじゃないかと、心細いかぎり。
ここのところ、何となく人生がわかりかけてきたのに、それもはっきりと納得できないままにグッドバイするのは、何とも残念。せめて、自分自身ではわかっておきたいことが、まだいくつかあるのに。

やはり、人生の持ち時間が少ないのか。あるいは、今までにムダなことを多くしすぎたのか?


オオイヌノフグリ咲きおり、春の陽射しに。


毎年のことである。
年が明けて少し暖かくなると、多摩川の土手の日向(ひなた)に、オオヌノフグリが瑠璃(るり)色の小さな花を咲かす。とくに、風の少ない陽だまりになっているところには、早く咲くようである。

「イヌノフグリ」という種(しゅ)の大きなものが、「オオヌノフグリ」。
それでは、何で「犬のふぐり」などというのか。
そもそも、「ふぐり」とは何か?

「ふぐり」は「陰嚢」(いんのう)と書いて、金玉(きんたま)のこと。男のオチンチンの下にぶら下がっている二つある睾丸(こうがん)。

つまり、種(たね)が二つ並んでいる形が、小さいながらも犬の金玉に似ていることからつけられた名前。ヨーロッパ原産で、明治時代に日本に帰化したのであるが、もっとよい和名が付けられなかったのだろうか。


楽しみは、日々の中にも些細(ささい)な発見。


些細(ささい)とは、「あまり重要でないこと」や「取るに足らないこと」などかもしれない。しかし、それでも自分自身にとって、大きな発見の喜びがある。

そんな発見が、意外にもプチさん(プティ散策)の途中にある。
また、それをテレビを見ているときに、たまたま確認したりもする。

ちょっと変わった形の木を見つけたりすると何となくうれしい。
そこで、書き足していけば「木の変容」などというアルバムになる。

また、地名や人名などでもよい。つまり、地番の表示板や表札。
それでも「地名・人名考」のように、メモだけしておいて、後で書き足していけばよいのである。

そんなことが、あなたの「老化予防」の一環としても、大いに有効だ。


騒ぐほど悪くないのか? 身体(からだ)も社会も?


ここのところ、どうも身体(からだ)の調子が悪い。
また、社会の情勢もあまりよくないようだ。

しかし、である。いくら身体の調子が悪いと言っても、まだ動けないわけではない。スーパー銭湯にも行くし、レストランで食事もする。目も見えるし、足も歩ける。
でも、何となく具合が悪いことも事実。いわゆる、どちらかと言うと「健康でない、病める身体」なのであろう。そして、少しずつ悪くなっているのは明白。

いろいろな問題が、次々とニュースになる。
政府高官の汚職や食品衛生の問題。しかし、ペストのように蔓延して、一国の人口の半分以上が死んだり、政府の役人が革命や戦争を起こしたわけではない。つまり、国が少しずつ疲弊をしていく途上にある問題が、次第に露呈しているにすぎないのではないか。


もう一度、読んでみたいと思う本あり。


かなり以前に読んだ本で、もう一度そのストーリに触れてみたいと思うことがある。そのときに、かなり印象的であったから。
しかし、その箇所は覚えているが、書名を忘れてしまっている。
そんなことが、よくある。

同じことが、映画にもある。
シーンだけを覚えていて、題名を知らないときである。だから、再び見ることができない。テレビなどで途中から見たときは、とくにそう。かつて、「かくも長き不在」という映画がそうであった。その題名を知るのに、調査が数ヶ月もかかった。

さらに、もう一度会ってみたいと思う人がいる。
そして、物故してしまったり、転居先不明であったり、どこの誰かがわからなくなってしまった人、そんな場合もかなりある。
もともと、人生は一期一会なのだろうか。


迷いおり、機器に慣れるか、慣らされるかを?


新しい機械やパソコンソフトなどを買う。
最近の機械やソフトは、なかなか高性能・複雑でわかりにくい。一通りは動くのであるが、その性能を発揮させることは至難の業。

そんなわけで、機器に慣らされてしまう。そしてその結果、特定の機能だけを利用して、使わなかったり使いこなしきれない仕様が数多く残る。

とどのつまり、性能や能力があっても、それを出し切れない。
ときには、「宝の持ち腐れ」というようなことになる。
本来ならば、機械は人間が使うものである。それが、逆に機械に人間が使われているような光景をかもし出す。

使いこなせない機械ならば、初めから持たないほうがよいかも。
そう思いませんか?


富士山がくっきり見える、冬の晴れた日。


冬の晴れた日には、富士山がくっきり見える。
とくに、風が冷たく身を刺すような日には、鮮やかある。雲がまったくなく、裾野まで真っ白で清々しい。

また、晴れた日にはデジカメ写真の写りがよい。
青空をバックにした風景などは、思ったよりも素晴らしい仕上がりになる。焦点距離などを合わせなくとも、ピンボケになることは少ない。

デジカメ写真機は、私にとって貴重なツール。
人物や風景以外にも、説明文なども撮ってしまう。すると、部屋に戻ってから、ゆっくりと読み直すことができる。
寒い中を出かけて、いろいろと撮影してきたものをペイントショップなどで、編集をするのも楽しい。

そんなわけで、冬の晴れた日には寒くても出かける。


知足とは日々の幸せ、生きる喜び。


老子だったろうか。
「それが少しでも、満足をすれば至福。しかし、いくらあっても不足と思うならば不幸」。そんな記述が、『道徳経』の中にあったと思う。

同じことをローマ皇帝マルクス=アウレリウスが言っている。『自省録』の中である。


京都の有名な寺の蹲(つくばい)に、ちょっと変わったデザインで書かれた文字がある。これは、はっきりと覚えている。
「口」という字のまわりに「五」「隹」「止」「矢」を配置してある。
「吾唯足るを知る(われただたるをしる)」と読む。
水戸光圀の発案ともいう。


過不足のない生活に、幸せがあり。


物がなければ不便である。また、反対に余るほどあっても、何となく煩わしい。ちょうどよいのが、自分自身にはいちばんよい。

ものを蒐集することに、情熱をかたむける人がいる。
また、ふつう金を際限なく貯めようとするみたい。

しかし、ものが増えると整理をするだけでも大変だろう。
また、金があれば周囲に気兼ねをする必要がある。

「知足」という言葉があるように、「足るを知る」ことも必要なのではないか。
そうは言っても、私の場合、物や金には過不足ないが、どうも知識に関してはダメらしい。過不足のない知識で生きていくのがよいということは、自分なりにわかっているのだが、……。


注意して三種の神器、揃えておこう!


健康に関する「三種の神器」というのがある。
それは、

ヘルスメーター
血圧計
尿試験紙

ヘルスメーターは、ふつうの体重計。
血圧計は、腕を通して計る形式のもの。
そして、尿試験紙は尿糖が出ているかどうかを調べる試験紙。

そのようなものを揃えておいて、自分自身の身体の基本的な状態をいつも知っておく必要がある。そんなわけで、「三種の神器を備えよう!」。


こつこつと見直しており、写真や文章。


はじめは勢いにまかせて、じゃんじゃんと作った『青空のホームページ』。
しかし、今になって考えてみると、何ともお恥ずかしい内容のもの。したがって、見直しや修正をしなければならない。

そんなわけで、全体のページを少しずつ見ている。
しかし、である。

その作業自体が、なぜかなかなか進まない。あまり気が進まないのだ。
やっているうちに恥ずかしくて、いやになってしまうのである。

そんなことを言えば、今までの人生自体が何ともお粗末な、みっともない内容のものであった。そしてそれは、もはや修正ができない時期になっているのであろう。
あきらめてしまうのが、手っ取り早いような気もする。


はやるまで大変だった、小ざさの最中(もなか)。


吉祥寺に小ざさ(おざさ)という羊羹(ようかん)や最中(もなか)を売っている小さな店がある。昭和30年代には、まったく売れなくて困っていた。

私は、そのころいつもお遣(つか)い物に最中を利用した。電話をかけて、むらさき橋の自宅兼工場に行くと、包装紙を巻いて作っておいてくれた。

伊神旦(いがみあきら)さんが中学の同級生で、親しくしていたからだ。そのころは、まだ彼の父親が経営をしていた。遊びに行くと、工場であんこを練っているので、ちょっと待って欲しいなどと母上が出てきて言われたことがある。

その後、テレビで紹介されてから、流行(はや)るようになった。
昔から同じ工程で、同じ品質の味を作っているのだが、売れ行きの伸びは不思議なものである。


申告の季節になりて、忙(せわ)しくもあり。


今年もまた、確定申告の季節になった。
自分自身の申告書と妻の申告書との二通を作らなければならない。

私は年金生活者になってから、わずか数千円ではあるが支払った税金が戻る。いっぽう、妻のほうは三箇所の合算所得である。それぞれの額は小さいが申告手続きをしないと、おそらく「お尋ね」が来てしまうだろう。

そんなわけで、面倒でも毎年必ずしている。
今年も、ぼつぼつ書類を作成しなければならない。

額の少ない多いは、私にとって問題でない。また、法人のときのように義務であるからするという気持ちでもない。むしろ、ボケ防止によいだろう。また、電子申告などをせずに日野税務署まで出向いて申告・納税をする。そして、帰りは秋川・程久保川・多摩川沿いに歩いて帰る。

気持ちの急(せ)く後のそんな楽しみも、あるんじゃないか。


自福書と回創法を広めていこう!


「自福書」は「自己福音書」の略。そして、「回創法」は「回想創造法」の略である。いずれも、大いに期待ができる内容と思う。
いうなれば自己福音書は、心の「安心立命」のため。そして、回想創造法は身体(からだ)の「老化予防」のため。そんな思いで、それぞれ開発をした。

まず、右のリンク集にある「回創法・自福書デモ」をご覧いただきたい。
簡単な「回想創造法」と「自己福音書」のモデルを作ってみた。私の場合であるが、皆さんはそれぞれご自分のケースに作り上げてほしい。

人生において、まず「健康」が必要でしょう。そして、いつまでも若々しいために「老化予防」、さらに老いてくると「安心立命」を確立したいと思うからです。

あなたも、そう思いませんか?


野暮ったい色とデザイン、仕方がないか?


青空のホームページ』とそれに付帯するこの『青空の新句(十九音)ブログ』、いずれも垢抜けのしない素人風のデザイン。

もっと、格好よくできないのか。そんなことを言われることがある。
まぁ、やってみればできないことはないだろう。と、私は思う。

しかし、あまりセンスがないことも自覚をしている。
そんなわけで、私は高望みをしないんだ。

デザインだけでなく、ホームページのハイパーリンクなども面倒なのでいちいちしない。仕方がないので、最初の目録の部分をリバースしてコピー。そして、それをメニューバーの検索に張り付ける。そんな方法になっても、いちいち付けるよりも手数がかからないので楽ちん。

それでは、ちょっと横着なのだろうか。


プチさん(プティ散策)で、プチ発見のよろこびを知る。


日々プチさん(プティ散策)をすると、思いもかけない発見がある。
それは、あまり大きなことではないかもしれない。

しかし、何とも楽しいではないか。発見と言ったら大げさかもしれない。むしろ、再発見の楽しみとでも言ったほうがよいのではないか。今までに、あまり気付かなかったことにも、注意が向くようになる。

つまり、物に対する見方が変ってくるのであろう。
また、以前のように覚えをいちいちメモに取る必要がない。説明文や場所の表示などは、そのままデジカメで撮ってしまう。

ちょうど、交通の取締りをしている婦人警官が、証拠として違反車両やその場所をデジカメで撮っているように、自分自身の覚えになるのである。


認知症、今日は他人(ひと)の身、明日(あす)はわが身?


正直な話。
ここのところ「物忘れ」「度忘れ」が、だいぶ多くなったみたい。
また、人の名前や物の名称が思い出せなく、なかなか出てこないことがある。
そのようなことは、今までになかったことだ。
ただ、加齢による単なる衰えや、一時的な変化に過ぎないのかもしれない。

でも、次第に症状が進んで本当の認知症になってしまった人が、知り合いの中に多くいるのも事実。

「同じことを何度も言ったり、聞いたりする」程度では認知症ではないだろうが、「以前にあった興味が失われてしまう」と、何となく認知症の兆(きざ)し。
また、「置き忘れ」「しまい忘れ」などのような物忘れ、つまり「百舌の速贄」が頻繁に生じると要注意。


溶け込んで生かされており、宇宙の中に。


私は、いま『般若心経』を研究している。まだ、その途中であるが。
しかし、何となくわかってきたことがある。それを「私の「般若心経」入門」にまとめていきたい。そんなことを考えている。

「宇宙」という言葉は、わかりにくいかもしれない。しかしもっと別な言葉で、私はそれを「空」と考えている。もともと、「宇宙」という言葉は、『淮南子』(えなんじ)によれば、「宇が三次元空間」、「宙が時間」のそれぞれの広がりを意味しているのではないか。

『般若心経』のほうは、自分自身で納得できる解釈を考えているが、なかなか難しい。「新約聖書」のときよりも、近づきがたい感じ。
最初のほうにある「舎利子。」という三文字についても、まだ何のことかわからない。架空の存在である観世音が実在の人物シャリープトラに話しかける意味である。
柳沢桂子氏は「お聞きなさい」と訳していたが、私はむしろ「皆さん!」という不特定多数に話しかけている言葉だと思う。


鳥肌が立つほどすごい、「キリストの棺」。


2008年2月24日(日曜日)、ディスカバリーチャンネルで「キリストの棺」というドキュメント番組を見た。このチャネルは、ナショナルジオグラフィックチャンネルとともに、私の大好きな番組。

たまたま見ていたら、「キリストの棺」ではないか。途中からであったが、最後まで引きずられて見た。思わず鳥肌が立つほど、興奮をした箇所があった。

私も、学生時代から考えたことではあるが、すべてが直感による想像なのである。いわゆる学問でもないし、裏づけがないから仮説とも言えない。
私の単なるフィクションの類でしかなかった考えを裏付ける科学が、次々と出てくるのがうれしい。ミトコンドリアのDNA検証などは、十分に説得力がある。

高校生のころからずっと考えていたのは、番組とちょっと異なるが、イエスの妻が「マリハム」であったこと、そしてイエスの兄弟が女であったことである。


もう一度行ってもみたい、なつかしい場所。


かつて行った場所で、何となくなつかしい思いがして、もう一度行ってみたいと思うことがある。

私は、小学校に上がる前に鎌倉の扇ガ谷に住んでいた。そしてその谷戸の突き当りが海蔵寺。横から山のほうへ抜けると化粧坂(けわいざか)、さらに銭洗い弁天を抜けて源氏山であった。旧大仏切り通しを抜けて、長谷寺で遊んだこともしばしば。入場料などが、なかった時代だ。

しかし、それならば一日がかりで行くことができる。
もっとなつかしい場所があるが、それがどこかがわからない。もしかしたら、探してもすでにその場所はなくなっているかもしれない。自分自身の原風景やデジャビュ(既視感)なども、意味がわからないままに気がかりである。

つきつめて考えると、母の胎内などに行き着いてしまうのではないか。


もう一度会ってもみたい、なつかしい人。


過ぎ去った日々のなつかしい思い出が、今でも残っている人がいる。そして、何となく会ってみたい気持ちに駆り立てられる。
しかし、消息を調べてみるとすでに亡くなっていたり、よいよいになって寝たきりの人も多い。さらに、アルツハイマーになっちゃった人もいるようだ。

また、会ってみたら驚いたことに、すっかり変ってしまった人がいた。社会でいろいろと苦労をしたせいであろうか、何となくギスギスとしているのである。そして、話題がほとんど通じなくなっているのだ。
「集まり参じて、人は変れど」どころではない。

むしろ、会わなかったほうがよかった人もいる。
過去のなつかしい思い出をわざわざ壊すために、会ったような形になってしまうことがあると、何とも残念でたまらない。


「おばあちゃん、くさい」と言われ、ショックかくせず。


久々に、唐木田の福祉センターに行ってみた。
そしてMさんから、相談を受けた次第。

Mさんは、だいぶ前にご主人を亡くされ、子ども夫婦と同居をしている未亡人。還暦を過ぎたというのに、小ぎれいにしていて、若いころの面影をいまだに残している。

そのMさんが、愚痴を言って私にこぼす。
娘さんの子ども、つまり孫から「おばあちゃん、くさい」と言われたそうだ。そこで、どうしたらよいかの相談。

還暦を過ぎたころから、どうしても口臭・体臭・加齢臭などが気になってくる。身体(からだ)が衰えたり、新陳代謝が弱くなるのでいたしかたない。それでも、何とか目立たないように隠す方法があることはある。
そんな説明をいくつか具体的にしたら、納得されたようだ。


Kuroda Kouta (2008.03.01/2008.03.01)