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  新句(十九音) 作品集7(2008年1月分)



新しい、よい年であるよう、健康で。


明けまして、おめでとうございます。
おかげさまで、何とか幸福な一年を過ごし、きょうここに新しい年を迎えることができました。

今年も皆さまとともに、よい年であるよう、そしてお互いに健康であるよう、心から祈っています。

日々のメールを差し上げていますが、健康についての考え方や人生を豊かにするテーマが含まれています。
しかし、限られた知識の中でまとめたもので、中途半端なものもあるでしょう。それでも、何らかのメリットがあるものもあるはずです。

ちょっとした日常の細かい注意が、健康や幸福につながることが多いのではないでしょうか。そんなことをメールしています。
よろしくお願いします。


健康に老い、安らかに死にたくもあり。


ちょっと贅沢かもしれない。
たいがい、よいよいになったり、脳軟化症やアルツハイマーによる寝たきり、そんな状態になる人があまりにも多いから。
でも、ちょっとした心がけで健康に老いることができるらしい。

すると、安らかに死ぬことも夢ではない。
つまり、死ぬ日まで何とか意識がはっきりとしていて、かつ歩ければよい。そんなために、日々の注意が必要になる。

何のことはない。食生活と生活習慣に注意をすることである。
現代生活においても、あまり栄養を取り過ぎない。むしろ、控えめにするほうがよいらしい。生活習慣にしても、激しい運動をしない。もたもたと歩く程度でよいらしい。
何となく、私にも希望が湧いてきた。


「自福書」と「回創法」は、「老予」のこころみ。


これでは、いったい何のことかわからない。
そこで、説明をしよう。
「自福書」とは、「自己福音書」のこと。「回創法」は、「回想創造法」のこと。そして、「老予」とは「老化予防」の略である。
しかし、そんなことを言っても、さっぱり。

そんなために、見本を示そう。
自己福音書の見本。
回想創造法の見本。

つまり、回想創造法は一種の脳の活性化、老化予防である。
また、自己福音書は心の安心のため。一種の安心立命なのである。
老いてくると老化予防を心がけ、そしてさらに死が近づくと安心立命が必要になる。


信仰は、一人ひとりの心の中に!


ここのところ「心の時代」が到来したのではないかと、私は思う。
心が貧しいために、世界中で問題が次々と起こるからである。

ふつう、宗教は徒党をなして信仰をする。政治などと、あまり変わらないのではないか。信仰から外れたとはいえないまでも、十字軍のようなケースも多々ある。また、最初は純真なグループが次第にカルト集団になってしまうこともある。なぜならば、社会と対立するからである。

そこで、信仰は一人ひとりが一人で行えばよいのである。
そんなことを取りとめもなく「安心立命のページ」を書き始めて、鈍い私も遅まきながら解かった次第。

だから、その方法ですれば「ジョーンズタウンの悲劇」のようなカルト集団の結末は迎えないはず。大好きな「修道士カドフェル」を見てさえも、つくづくとそんなことを考えた。


キラキラとまばゆくばかり、月光注ぐ。


新句(十九音)は、過去の記録でもよい。老化予防の目的もあるからだ。
2007年12月24日(振替休日)だった。
満月である。

私の部屋には、カーテンがない。昼は日光が差して暑いほどであるが、夜は月光が入ってくる。とくに、晴れた日には外の景色や夜空が美しい。

東京のこの地方では、あまり星が見られなくなった。その代わり、人工衛星が光っている。また、横田基地へ行く飛行機の航路らしく、ときどき上空を行く。かなりの高度である。

夜に寝付かれない日は、ガラス越しに戸外を見ている。
昼間は、ダイサギなどが目の高さで飛んでいるが、夜は何も見えない。ただ、空に光るものがあるのがわかる。とくに満月のときの部屋は、明るいほど。でも、室内は20度前後で寒くない。
想像は、宇宙の果てまで行っているのにもかかわらず。


死んだ後(あと)、何も残さず、忘れられたし。


死んだ後に、何とかして名を残したいと思う人が多い。しかしまれには、反対の人もいる。高山樗牛は<死後の盛名何するものぞ、如(し)かず生前一杯の酒。>と書いている。
また、生きている間に金を貯めたいなどとも思う。逆に、借金だらけになって死ぬ人もいる。
しかし、そのようなことを考えること自体も無意味であろう。

第一、生きているということと死んでしまったということとの区別が分かっていないのではないか。
金は、生活をするために必要なもの。また、名は互いに識別をするためのものだ。したがって、そのように考えると、わからないままに物を欲しがる子どもと同じ。愚かなことである。

莫大な遺産を残して死ぬと、なかなか成仏ができないという。そんなことは、バカらしい考えかもしれないが、何となくわかるような気もする。物に執着があったり、体面ばかりを考えるのは貧しかった時代の本能のはたらきと、異常に発達をしたヒトの脳のもたらす幻影なのであろうか。


さびしさに耐えて生きたし、西行のよう。


西行の短歌。『新古今和歌集』「巻六冬歌」である。

<さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里>

まったく一人になりたいとは言っていない。おそらく、その意味は
「私(西行)と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵を並べて住めるんだがなぁ。」
と詠嘆をしているのではないか。

すべてを捨てて出家をしたわけであるが、自然の寂しさの中にあって、ふと人が恋しくなった西行の心の奥底が何となく感じられる。もしかしたら、西行は鴨長明ほどにも、心が強くなかったのかもしれない。

私(黒田康太)も、ぼつぼつ孤独に耐える心を養いたい。とくに、死後のことを考えて。徒党をなして生きているのは、自分が弱いからであろう。人を頼るのである。
親を頼り、先生を頼る。医者を頼り、経営者を頼る。挙げ句の果ては、教祖などを頼る。しかし、いったん自分が被害者や不幸になると、責任を人になすりつける。それならば、最初から人を頼らないほうがましだ。


何となく、七福神を回ってみたり。


ここのところ、身近な場所の七福神を回って参拝をしてみた。苦しいときの神頼みとは、よく言ったものだ。体調があまりよくないから、そんなことを思い付いたのかもしれない。

と言っても、面倒なことは大嫌い。そこで、一ヶ所で七柱の福神様がましますところだけ。八箇所。

観蔵院七福神(多摩市東寺方)
洗心禅院七福神(八王子市高尾町)
雲龍寺七福神(八王子市山田町)
ほほえみ七福神(柴崎・光照寺)
福寿殿の七福神(三鷹・井口院)
高蔵寺七福神(町田市三輪町)
成子天神七福神(新宿区西新宿)
福生七福神(福生市・熊川神社)

身近にも、探してみれば結構あるもんだ。


ぶつぶつと言い始めたら、注意が必要!


最近になって街や電車の中で、よく見かける。わけのわからないことをぶつぶつと独り言。突然、大声になったりする。最初、携帯電話をかけているかと思ったが、そうでない。話し相手がないのに、何かを言っている。

友達の医者に聞いてわかったことだが、どうやら精神的に異常が生じているらしい。話しているだけならいいが、病状が進むと刃物を振り回したりすることもあるらしい。

まったく、困ったことである。
しかし、である。ここのところ、私は度忘れ・失念などが激しい。そのうち、精神的に異常をきたしてしまうのではないか。そんなことを恐れている。

OTさんの父上は、帝大卒のエリートで弁護士を長く勤めた立派な人であったが、晩年になって包丁を振り回して奥さんに怪我をさせたと息子さんが嘆いていた。どうして、そのようなことが起こるのだろうか。


さまざまな方法があり、話しと治し。


バロン吉本の『徒然草』を読んでいたら、次のような記述があった。
教養ある者の話し方は、人がたくさんいても、その中の一人に向かって話すようにするもので、自然と他の者も耳をかたむけるものである。
(第五十六段62ページ)

(盛親僧都は)また、どんな病気にかかっても、親芋をたくさん食べることによって、治してしまうのだそうです。
(第六十段68ページ)

『法華経』や『般若心経』などでも、シャーリプトラ一人に話す形をとっている。だから、私には関係ないと言うならば、シヤーリプトラは死んでしまったので経典は無意味。グループメールなどでも、同じだろう。

しかし、いっぽうの大食いをして病気回復を求めるのは、ちょっとムリ。やってみると、とても成功しにくいことがわかった。


『落歯』とは韓愈の詩なり、老いの現実。


韓愈(かんゆ 768〜824)は、中国唐時代の官吏・詩人。
仏教を保護した皇帝が短命であったことから、仏舎利を批判して『論仏骨表』(仏骨を論ずる表)を皇帝に奉って、左遷されたりもした。

しかし、韓愈の詩には、ユーモラスなものがある。

<去年一牙(いつが)を落とし、今年一歯(いっし)を落とす。
俄然として落つること六七(ろくしち)
落つる勢ひ殊(こと)に未だ已(や)まず
余の存するものは皆動揺し、
尽(ことごと)く落ちて応(まさ)に始めて止(や)むべし。>

まったく、そのとおりだと私(rik)も思う。
幸か不幸か、私はまだ親不知(おやしらず)四本と八重歯(やえば)一本、つまり五本を失っただけであるが、同じ年の友達が、ほとんど総入歯になっていることなどからも。
そんな状況で私は、残った歯のメンテナンスに月に二回、必ず歯医者さんに行かねばならない。


『偶成』は朱子の諌(いさ)めか、老いて悔やみぬ。


老いてから悔(く)やんでも仕方ない。朱子(1130〜1200)は中国宋代の儒学者。その有名な詩。「後悔先に立たず」というのと、まったく同じだろうか。

高校の漢文に、

<少年老い易(やす)く学成り難(がた)し
一寸の光陰(こういん)軽んずべからず。
未だ覚めず池塘(ちとう)春草(しゅんそう)の夢
階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声(しゅうせい)>

というのがあった。その後半の

「池の土手の若草が、春の夢心地からまだ覚めていないのに、すでに庭先の青桐には秋風が吹いている。」

というのが、とくに私の身に応える。
あなたは、いかがであろうか。


老人の楽しみのためHP作る。


老人というか、高齢者になると楽しみが少なくなってしまう。
なぜならば、若いときのように身体の自由やムリが効かなくなるからでしょう。ちょっとムリをすると、後がいけない。いきおい、家にこもってじっとしていることが多くなる。

怪我などをして寝込んでしまい、そのまま寝たきりになってしまうこともある。軽い病気から少しずつ進んで、起きられなくなったりもする。そのようなことにならないために、ムリのない日々の日課が必要である。

そこで、老人の手軽な楽しみのためのホームページが必要になる。
そのテーマの一つが、「プチさん(プティ散策)」である。

実際には、駅の周りをぶらぶら歩く。意外に、再発見があるかもしれない。
青空のホームページ』の「美術エクジビション」にある「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」に参考例をいくつか示しておいた。
あなたのものは、あなた自身で作っていただきたい。


いろいろと考えられるサウナの効用。


毎週、仙川の「湯けむりの里」というスーパー銭湯に行く。サウナや水流ジェットがあるので、身体の健康によいかもしれない。

(1) 発汗をうながして、新陳代謝する。
 体内の老廃物や余剰の塩分などが、汗となって出る。

(2) サウナと水風呂の交互による皮膚を丈夫にする効果。
 さらに石鹸を付けなくても、皮膚が伸縮をするために、垢がよれる。

(3) ジェットに当てることにより、神経痛や結石を改善。
 とくに、冬季は神経痛を改善してくれる。体外からジェットすることによって、腎臓結石が小さくなったみたい。

フィンランドでは、「サウナで治らない病気は治らない」というそうだ。つまり、たいがいの病気はOKだが、例外的にガンなどはダメという意味だろう。
詳細は、ホームページの「健康入門」に書き足していこう。


ジュセリーノ、知れば知るほど不安はつのる。


ジュセリーノというブラジルの予言者をご存知だろうか?
今までに、「9・11同時多発テロ」「地下鉄サリン事件」などをすでに警告した驚くべき的中率の高い予知能力をもっている人です。

その予言の中で、次のような警告をしています。
今年(2008年)については、
・ 7月に、フィリピンでマグニチュード8クラスの地震。
・ 9月に、中国でマグニチュード9クラスの地震。100万人以上の犠牲者。
・ 同じく9月、アメリカのエンパイアステートビルでテロ。

そして、来年(2009年)は
・ 世界的な暴力事件。新しい疫病の発生。
・ 1月25日、大阪・神戸に大地震。
・ 8月、トルコのイスタンブールに大地震。

いったい、どうすればよいのだろうか。
いま私は「神と仏」に、その「傾向と対策」を研究して、書き始めようとしているのだが、間に合うだろうか。


トンネルを抜けて明かりが、眩(まぶ)しくもあり。


小さくて短いトンネルであったが、出口のところで、ぱっと明るくなったときのうれしさ。その安堵。幼いころの思い出である。

具体的には、鎌倉の佐助から大仏に抜ける切り通し。そして、小坪海岸の切り通しである。なぜ、それらが懐かしいのか?
小学校に上がる前、鎌倉の扇ガ谷(おうぎがやつ)に住んでいた。
それで、長谷寺に遊びに行くときは、その切り通しの近道をする。現在は、市役所の通りに大きなトンネルができて、切り通しは閉鎖されてしまった。崩落の危険が、あるからだともいう。
小坪の自転車がやっと通れたトンネルは、逗子マリーナができたときに大きくなったようだ。

なぜ、トンネルが懐かしいのであろうか。ボスの絵にある筒のような天国への道。それらは、おそらく母の産道を出たときの潜在的な記憶があるからかもしれない。


はっとして気がついたこと、直感の現実。


これでは、いったい何のことかわからない。
日々の生活の中で、はっと気付くことがある。また、昔から言う「虫の知らせ」などもある。私の場合、結構そんなことが予告となって事態が生じてきた。つまり、直感で感じたことが現実になるのである。

何となく、友達が懐かしくなったりする。でも、懐かしさのほかに、胸騒ぎがする。そこで、電話をかけてみた。すると、奥さんが出て「入院をした」と言う。

それからしばらくして会わないままに、亡くなってしまった。
そんなことが、何回かある。

昔は、「男が外出をすると七人の敵がある」などと言って、注意をしたようだ。しかし、外出をしなくても「心の中には、すでに魔が住んでいる」。
だから、いつも自分自身で直感を研ぎ澄ましておく必要があろう。


目をやられ、歯がダメになり、不自由始まる。


若いころは、目が疲れるなどということがなかった。しかし、最近になってパソコンをちょっとやっただけでも、すぐに目が痛くなる。目というか、目の付け根の奥の部分である。

また、歯も何となく調子が悪い。疼(うず)くような痛みを感じるので、韓愈の詩のようには達観をしたユーモラスな気持ちにはなれない。いきおい、鬱陶しい毎日を過ごす。

「目には目を、歯には歯を」という言葉があるが、どういう意味だろうか。もしかしたら、「目の痛みには目医者を、歯の痛みには歯医者を」ということではないか。

注意をして、これ以上さらに悪化をしないように配慮する必要がある。
しかし、そうは言っても、高齢になると仕方ないのかもしれない。


ガタガタになりたる身体(からだ) 慈(いつく)しみたり。


長く使い続けて、ガタガタになってしまった自分自身の身体を、何となく哀れに感じるときがある。ずっと気にしなかったことだが、身体はあたかも乗り物のようなもの。それが、最近になって調子が悪い。

おそらく、二年前の入院・手術後にホメオスタシスが狂ってしまって、フィードバックが効かなくなったのだろう。使い古した廃車寸前の車のような状態。その後ずっと通院をしているものの、何となく気分が優れず、憂鬱な日が続く。

仏教の話に、長年連れ添った三人の夫人の話がある。それは、普段から目立たなかった第三婦人だけが、最後まで一緒に行くという内容。そして、それを私は自分自身の身体だと考える。

つまり、健康で調子のよいときは忘れていて、ふだんからあまり注意をしていなかった部分である。反省は、しているのだが、……。


悪い箇所、あげればキリがないくらいある。


ここのところ、いろいろと身体に問題が出てきた。

高血圧
高血糖(糖尿病)
腰痛
膝痛


頭痛持ち
結石(腎臓)

など。言ってみれば「病の器」で、お恥ずかしい次第。
しかし、「踵(かかと)のひび割れ」は昨年から直ったみたい。冬に素足・サンダルで、歩かなくなったせいであろう。


身の回り、整理・整頓、ぼつぼつしよう!


そのためには、持ち物を整理したり、部屋を片付ける必要がある。
しかし、その前にこのブログやホームページである。だらだらと続けてきて、何ともみっともないものをさらけ出してしまったからだ。

今までは、何とかして社会のお役に立とうと「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などの問題を考えてきた。しかし、そのようなことに関心をもっている人は、あまり多くないようである。

むしろ、金儲けのほうが関心の対象である人が多いのではないか。
私は、いままでの生き方から金儲けにはまったく自信がない。つまり、その観点からは「人生の落伍者」なのである。

したがって、あまり社会のお役には立たないであろう。
そんなわけで、自分自身の身の回りの整理・整頓だけでも、ぼつぼつしようと思う。


注文のない料理店、多い現実。


駅前の食堂街。料理店をやめるところが多い。そして、しばらくは空き家。
しかし、やがて同じような食堂が開店。同じことの繰り返しである。

いっぽうでは、大手のチェーン店が入る。その場合は、なかなか閉店にはならない。最初、誰も入っていない店も、しばらくすると大繁盛。

客の流れを見ていると、まったくダボハゼ的。
私は、禁煙をしている店で、食材が安全そうな店だけに行く。うまいという評判の店でも、危ないと思えば行かない。

「注文の多い料理店」は、客の注文が多いのではなく、店側の注文が多いのである。その注文とは、「食材などにかまわない」「おいしければよい」「安ければ危険なものでも黙って食べる」などなど。


『青空のホームページ』は、軽・薄・短・小。


青空のホームページ』の内容は、一口に言って「軽・薄・短・小」の世界をすべて含んでいる。

つまり、自分でも簡単に作曲できるような軽い音楽。
芸術的には薄いが、簡単にできる絵やデジカメ写真。
短い詩、例えば短歌や超簡単な新句(十九音)。
小説もどき、それは簡単に自分でも作ってみれる。
などなど。

そして、それらは誰でもできるような簡単な易しいもの。なぜならば、「老化予防」のためには、自分が主体にならなければならないから。
しかし、それでも「生きている証明」や「日々の励み」にもなるのだ。
それでいいじゃないか。


すっきりとしたスタイルに、したいと思う。


身体(からだ)のことじゃない。
今までに作ってきた『青空のホームページ』である。

最初、300メガバイトの大きさで4つに分けていたものが、ヤフーの1ギガバイト1つに、すべてが入ってしまった。それと、「日々のお便り」はHP内では追加が面倒、そこでこのブログとした。そのように、何とか工夫をしてみたものの全体としては、まだすっきりしていない。

「index.html」は、むろん一つである。
しかし、前の状態を引き継いだので
「index_riko.html」「index_nyumon.html」「index_sousaku.html」
の三つがある次第。

何とかして、もっとすっきりしたスタイルにしたい。


鼻を花の形にして、虫捕る奇妙。


前に読んだ本である。『鼻行類』という書名だったと思う。創作らしいが、日高さんが監修をしているので、学術書の形態をしている。したがって、内容を荒唐無稽と学問的に反駁するのは困難であろう。

不思議な動物、鼻行類は実在したか?
絶滅をしてしまったタスマニアウルフやアイリッシュエルフなどのことを考えると、あり得ないことではない。また、現存するカモノハシなども参考になる。

さらに、鼻の効用を考えるとゾウ。ゾウほどではないが、バクも鼻が進化をする途上にあるようだ。有るものを在るというのは簡単だか、無いものをかつて在ったといわないで、初めからなかったというのは難しいかもしれない。

ある宗教団体は、恐竜などいなかったと言う。じゃ、「化石はなぜあるのか」と尋ねると、神は「疑い深い人間のために、最初から骨だけをお作りになった」と答える。そんなもんかもしれない。


メンテ料、振り込むときに連想したり。


今使っているDELL DIMENSION 8400を購入してから、はや3年。「保守サービス終了期間の終了」案内が手紙できた。そこで、銀行から2年の保守サービス料29,400円を振り込んだ。5年間は使えると考えたから。

そのとき、なぜか「でるですでむでん」という言葉、そして続いて「デデデン」という言葉を思い出した。

「でるですでむでん」は、ドイツ語の冠詞というのだろうか、その変化形。そして、「デデデン」というのは従兄弟に「デデデンのお兄ちゃん」といわれた三木さんのこと。

そして、さらに「ローゼンストック」の話を思い出した。
N響の常任指揮者だったローゼンストックではなく、Werner Bergengruenの「DER SPANISCHE ROSENSTOK」(スペインのバラ)である。


たのしみは、まれに友からメールあるとき。


久しく無沙汰をしていた友からメールがあると、ほっと安堵する。
そんなことも、大きな楽しみである。つまり、安心をするという贈り物があったことになるからだ。

橘曙覧(たちばなのあけみ)の短歌に、

<たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時>

というのがあった。
私は、すでに児等がいないし、魚も肉も好きでない。しかし、親しい友や妻と吉野家に行って、牛すき定食をお互いに「おいしい、おいしい」と言って食べるときは何とも楽しい。


橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌に、楽しみを知る。


<蟻と蟻 うなずきあひてなにか事ありげに走る西と東へ>

何とも面白いではないか。単に「蟻がお互いに何かの合図をして、東西に走り去った。」というのである。とくに、私が好きなのは『独楽吟』(どくらくぎん)。生活の中のささいなことにも、はっとするような楽しみがある。

<たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時>

平成6年(1994年)に天皇・皇后両陛下が初めてアメリカをご訪問されたとき、歓迎レセプションでクリントン大統領がこの短歌を引用したと漏れ聞いたことがある。

<たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見しとき>

<たのしみは世に解きがたくする書(ふみ)の心をひとりさとり得し時>

など、私も橘曙覧と同じ「生きる楽しみ」がある。


目の中に万華鏡あり? キラキラ光る。


薬の飲みすぎであろうか?
目の調子が、突然におかしくなることがある。

ふつう、滝のように水が流れて視野が狭くなる。また、ときには極彩色の万華鏡のように美しい模様で、視界が覆われてしまう。いずれにしても、視神経が侵されてしまうためであろう。

しかし、じっとしていると間もなく治ってしまう。
やはり、目の使いすぎが原因かもしれない。パソコンのインプットを3時間くらい続けていると、その現象が起こりやすい。

いったい眼球や視神経というのは、どうなっているのであろう。
目には、単に生物学的進化では考えられない複雑な仕組みがあるようだ。
それは、あたかも高度な設計によって作られた被創造物ではないか。そんなことも、ふと私は考える。


パラダイム・シフト、いくつかあって今日。


「パラダイム・シフト」という言葉がある。それは、歴史上にある大きな理論の変革のこと。例えば、
天動説 → 地動説
ニュートン力学 → アインシュタイン相対理論
そして、最近アメリカの学会で問題になり、ブッシュ大統領の教書にまでなった「インテリジェント・デザイン」。

そのインテリジェント・デザイン論は、例えば「脊椎動物の眼球の構造・組織」「鳥類や虫などの飛翔構造」「血液の凝固作用」などは、偶然と必然からできるという進化論によるよりも、何者かに設計されたと考えるほうが妥当だというもの。

前に読んだ本に、昆虫学者が研究をして、物理学的には飛べない羽の構造の虫がいるとあった。しかし、現実にはその虫がすいすいと飛ぶのである。
いずれにしても、価値観のターニング・ポイント(転換期)である。


行き詰まるシステムなどは、ほどほどにする。


何事も複雑になると、行き詰まってしまうらしい。
また、あまり完全を求めてもダメ。
ペルシャの絨毯(じゅうたん)は、昔からなぜか織り間違いを一箇所だけ残しておくらしい。どうして、そんなことをするのか。

「キリがないことを追求しては、キリがない。」

それでは、何となく同義反復(トゥトロジー)ではあるが、それは真実であると思う。アントニム(反義語)として、

「キリがないことを追求すると、キリがつく。」

と言って見ると、当然であることがわかる。
何が言いたいのか。言い始めると、キリがないだろう。


Kuroda Kouta (2008.01.02/2008.01.31)