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  新句(十九音) 作品集6(2007年12月分)



足萎えは仕方がないが、めしいちゃうは、や!


先日、蒲田時代にご一緒したTさんのお見舞いに行った。
すでに、彼は寝たきりで動くときは車椅子。そして、片目が見えない。
実は、見舞った私もここのところ、どうも体調がよくないのである。
そこで、ぼつぼつある程度の覚悟を決めておかなければならないだろう。

おそらく、足の故障を起こすのではないか。今までに、かなり重い体重を支えてきたからだ。膝なども、もしかしたらすでにすり減っているのかもしれない。

しかし、いちばん心配なのは目。糖尿病から、失明をしてしまうんじゃないか。
何としても、めしいてしまうのは、やだやだ。車椅子は仕方がないが、目が見えなくなっては、テレビも見れないし、パソコンもできない。

でも、当然の成り行き。
ここのところ、インシュリンの出が悪くなって、食事をした後は数時間も尿糖が残るようになってしまった。昨年の入院・手術の後にホメオスタシスすべてが狂ってしまい、通院をしていても治らない。
ぼつぼつ覚悟を決めておいたほうが、よいのだろうか。


することを少なくすると、日々は安らか。


若かったころは、「あれもしたい、これもしたい」などという気持ちが強かった。しかし、高齢になって体力が衰えるにしたがって、次第にそのような気持ちが減って、あまり起こらなくなる。
自分の体力の限界を知ったからであろう。

つまり、その気持ちはあったとしても、身体や気力が追いつかないのだ。いきおい、何事も中途半端になってしまう。そして、中途半端すると後で後悔をしたり、心の葛藤が生じる。

そんなことを考えると、高齢になったら、日々生きていくためにすることをなるべく減らすほうがよいかもしれない。必要な最小限のことだけをしていれば、心のゆとりが出てくるんじゃないか。

年金生活者になってからは、むろん仕事のノルマなどはない。だから、考え方を変えて、日々を気楽にゆくことが健康のためにも大切だろう。


ユリカモメ群れなし飛びて、いずくにか行く。


多摩川の砂州で、ユリカモメの一団が羽を休めていた。
聖蹟桜ヶ丘駅付近であるから、海からはかなりの距離がある。鳥たちは散歩というか、物見遊山に来ているのではないだろう。小魚を啄(つい)ばんで、食べるためである。つまり、日々の食事に来ているのではないか。

そう言えば、カワウなども群れなし飛んで来ていることがある。
そのカワウは、上野動物園の中の島から来るそうだ。山科の人が言っていたので、ほんとうだろう。

餌の小魚を求めるために、鳥たちは遠くまで飛ぶようだ。
近所に餌場がないときは、かなり遠くまで行く。むろん、野生の彼らの間には経済などないだろうから、居ながらにして食事にありつくことはない。
動物園でなかば飼われているカワウでも、集団で餌を求めて飛来する。

ユリカモメは、満腹して羽を休めたのであろうか、しばらくすると全部が飛び去っていった。鮮やかなものである。


木漏れ日の道を歩けば、カッコウが鳴く。


小山田の林道を歩いていると、カッコウが鳴いている。
何となく、楽しくなってしまう。

また、季節によってはウグイス・ヤマバトなども。
ウグイスは、まだ谷渡りのようであって完全には鳴かないときが多い。ちょっと練習をしているみたい。
ヤマバトは、ドドッーポ・ドドッーポと何となくさびしげ。

また、夏の暑い盛りには蝉しぐれ。かしましいばかりだ。ここのところ、すっかり涼しくなったので、秋の虫が忙(せわ)しげに鳴いている。
そんな素敵な道を歩いていると、なんだか懐かしい気持ちがしてくる。何となくデジャビュとでもいうのだろうか、かつて幼いころに経験をしたような気がすることがある。

それが、どこだったかは思い出せない。
もしかしたら、母の胎内にいたときかもしれないと思ったりもする。
あなたにも、そんなことがありますか。


知的なる、かなり独自な空間作る。


私は、今まで心の中にかなり独自な空間を作った。(と思っている。)
そして、それを自分なりにまとめてみたいとも考えている。
なぜならば、支離滅裂に思われるような理論展開であっても、それなりの構築理由があるからだ。

そのようなことをまとめていると、自分自身でも考えが整理できたり、展開が図れる。そして、その中で考えを自由に飛翔できる。それは、なんとも楽しいことではないか。

私は、もうじき死ぬであろう。したがって、安心立命したいんだ。
そこで、最終的には宗教なども、自分自身用に作っておこう。なぜならば、現時点では自分自身が納得する既存の宗教がないからである。

芸術などもそうであるが、いかに偉大でも自分がその中に入れないものでは仕方がない。大作曲家の交響曲などでも、私には「猫に小判」みたいなことがある。「早く終わればよいなぁ」などとさえ、考えることが多いからだ。


誰も見ぬホームページをなぜ作るのか?


一言にいえば、自分自身が「生きている証明」なのである。
それでは、誰に証明をするのか。それも、自分自身に対する証明でよい。
つまり、自己満足というか心の安心立命のためなのである。

それは、あたかも日記帳のようなもの。
日記帳も、そんなに深く考えてつけるものでもない。気軽に記述する人が多いのではないか。

みっともないものでも、自分がよければそれでよい。当然のことであるが、インターネットにつながっているので、誰でも見れる。人が見ることよりも、私は自分自身のホームページ内をグーグルやヤフーで、瞬時に検索ができるので有りがたい。
私は、「見せない」とか「見るな」とは言わないが、「見てもレベルが低いので、面白くはないでしょう」とは言う。

なぜならば、ホームページは私自身の「生きている証明」であって、自己満足にすぎないから。


十三の霊場めぐり、今年も元気。


多摩十三仏霊場というのがある。
それは、一番から十三番までに

不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿門如来(ただし、門の中には「人」が三つ。「あくしにょらい」と読むのだろうか?)・大日如来・虚空蔵菩薩

が安置・祀られている寺である。
何回かに分けて、秋の素晴らしい青空の日々に回り終えた。
私は現在、通院している状態ではあるが、まだ何とかプチさん(プティ散策)ができる。有りがたい限り。

木々が、すっかり紅葉している。
もうじき、木枯らしが吹いて、ジングルベルが鳴って、やはり今年も終わるであろう。後、何年生きられるであろうか。


階段を上るときにも、衰えを知る。


階段を上りきったときのうれしさ。
この間、大宮神社の階段を上ったが、とてもきつかった。わずか99段であるが、勾配がかなりきつい。今までには、そんなことはなかった。体力がガクンと衰えたのだろうか? むろん、階段を登る途中でもハアハアふうふう。体力が落ちてきたことをいやでも知らされる。

それどころか最近になって、そもそも階段を上るのを避けたい気持ちが何となく出てきた。そのきつさが、あらかじめわかっているからだろう。正直言って、なさけない次第。

重力に対する抵抗力は、誰でも赤ちゃんのころからもっている。しかし、老いてくると自分の身体が思うように動かない。ちょっと無理をすると、すぐに疲れてしまう。
そして、いったん疲れると回復もおぼつかない。元に戻るまでには、かなりの時間がかかる。それでも、何とか元に戻るのでありがたい。しかし、間もなく元に戻らなくなっちゃうんじゃないだろうか。


むずかる子、あやしつつおり若き母親。


病院の待合室である。
おそらく、アトピーのような病気であろう。幼い子が、むずかっている。なかなか治まらないので、母親も困っている。

いろいろな原因があろう。
子どもは、おそらく全身がかゆいのではないか。そんなために、泣き叫んでいるらしい。

ここのところ、皮膚に異常をきたす人が増えたみたい。子どもばかりではなく、大人でもそう。アトピーというのかアレルゲンというのか知らないが、最初は皮膚がとてもかゆい。そこで、かく。そのうちに、そこが爛(ただ)れる。そして、炎症。

そのような繰り返しをして、ステロイド剤の使用。その副作用などもあって、何がなんだかわからない状態になるらしい。そして、症状は一向になおらない。その子どもも、どうやらそんな感じがする。
困ったことである。


欲しくなる、「そうだ、そうだ」と肯(うなず)く人が。


老いてくると、自分の行っていることに相槌(あいずち)を打って、「そうだ、そうだ」と言ってくれる人が欲しくなるそうだ。そう、ほとんど誰もがそうだ。
とくに、夫婦ともに生きていたときは、互いに愚痴をこぼしたり、慰めあっていたので、あまり気がつかない。

しかし、相手に死に別れて一人になると、誰も慰めてくれる人がいない。
あれほど期待をした子どもたちであったが、「そうだ、そうだ」などとは決して言わない。逆に注意をされたり、叱りつけられたりする。

また、第一こちらの言い分などを聞いてくれる人は、すでにいない場合が多い。したがって、病院の患者になったりしても、先生にくどくどと自分のことを話す。先生も、よほど気の長い人でないとうんざりしてしまうだろう。

そこで、最終的には自分が言って、自分が肯けばいいんだ。
そんなための『青空のホームページ』なのである。


面白くないことばかり、通院の日々。


通院をしていると、楽しいことは少ない。
なぜならば、自分の不注意と不勉強が原因で、悪い結果になっているから。つまり、自分自身の愚かさに愛想がつきるのである。

また、先生の言うことに納得はするものの、知らなかったことなので、何となく抵抗を感じる。私は『十王経』に書いてあることを思い出す。

そこには、愚かで無知だったために罪を犯し、閻魔大王ほかの取調官に糾問される哀れな人間が描かれている。散々な目にあわされて、それでも「私は知らなかった」と言うのである。しかし、係官は

「前の世(せ)でも、その前の世でも、その前の前の世でも、ずっとそうだった。同じことの繰り返しではないか」

と言って責めさいなむ。
何となく、そんな感じ。


体調は、その日その日で、かなり異なる。


老いてくると、ちょっとしたことで身体の具合が悪くなってしまう。
それどころか、風をこじらせて死んでしまうようなこともある。

むろん、コンフォタブルな日が長く続いたりはしない。
むしろ、不調の日のほうが多く、快適な日が少ない。それは、致し方ないことかもしれないが、……

「ホメオスタシス」というのだろうか。
人間の身体は、もともと恒常的に好ましい状態を保つようにできている。もしも、そこを離れるとフィードバックして正常な状態に戻るようにできている。

しかし、だ。それは、若いころのこと。老いちゃうと、なかなか戻らない。それどころか、悪いほうにどんどんと向かってしまうことがある。そして、そのままアウト。
そんなことにならないよう、私は今後も注意をしたい。
あなたも、お大事に。


病人が作られていく過程、知りたり。


先日、南大沢の病院に行ったときのこと。
あふれるばかりの待合室。50人以上もいて、椅子には座りきれない。最初、私は集団中毒のような異変でも起こったのかと思った。

しかし、そうではない。
一人ひとりは、異なった症状のようである。
そして、互いに病人が多いことを驚いているような様子。そんな感じがしたのである。

でも、実際には私もその中にいるのである。
したがって、偉そうなことは言えない。少しずつ、体調を崩していくうちに、ここの常連の客になってしまった。

そんなことは、待合室にいる全員に言えそう。
病気は、自分自身が作っていくものらしい。


身体(からだ)とは、汚い皮の袋と思え。


何とも、いさぎよい考え方かもしれない。
ここのところ、血液の中のパラサイトに痛めつけられたので、そんな考えになってしまったのかもしれない。

また、いっぽうでは口腔に住みついた歯周菌にも悩まされている。いくら歯科医にかかっても、なくならない。おそらく生きている間、なくならないのだろう。

具合の悪いことには、その歯周菌までもが血液の中に入ってしまったらしい。そして、日和見菌として虎視眈々と隙を窺っている様子。
まったく、おそろしいことだ。

血液の中のパラサイトについては、マクロライド系、ペニシリン系、そしてもう一つ1時間半の点滴で抗生物質を入れた。その結果、何となく収まった感じ。
今までの愚かだった食事生活と生活習慣の結果であるから、情けない限り。
身体が、パラサイトの入れ物になっちゃったみたい。


十九字で、言いたいことを書く難しさ。


言いたいことはたくさんあります。
十九字というか、十九音では、言えることが限られてしまうでしょう。
あれも言いたい。これも言いたい。などと言っていると、書ききれません。そこで、骨子のみを文字にするのです。さらに、追記が必要であれば連作をするか、このように作品に添え書きをすればよろしい。

いずれにしても、自分自身が生きている証明として、このようなことをしているのですから、あまり他人を意識する必要はありますまい。

そんな意味で秀作である必要はなく、心の記録となれば表現に問題があってもいいのです。

今までの短詩系とは、ちょっと異なった形を用いているのも、言ってみればそのためです。
この新句(十九音)も、種田山頭火や尾崎放哉の作品が俳句とは言いながら俳句を超えているのと、よく似た事情でありましょう。


そんなこと、どうでもよいと思いつつする。


人生には、いろいろと煩わしいことがある。
そんなに大げさに言わなくても、日々の生活の中には面倒なことが多い。そして、それが習慣化をしてしまったために、ムダなことをし続ける。何とかならないものかと思いつつも、即座には何ともならない。

つまり、価値観をどこに置くかによって、ムダなことをし続けてしまうようだ。
それではいったい、日々の生活は何のためにあるのだろうか。

エントリピーが増加するのであるから、必然的にすることも増える。
エントロピーは、システムの無秩序さや不規則さの度合を表すので、不可逆変化をするときには必ず増大する。

そんなわけで日々、科学が進み、新製品が出てくる。法律なども、次から次へと制定されて、キリがない。しかし、複雑になればなるほど、ムダも増えてしまう。
何とかならないものか。


バイアグラばかり続けて、迷惑メール。


ここのとこと、バイアグラのメールが、続けて次々と来る。
最初は送信者のアドレスを「迷惑メール」フォルダにしておいたが、それでもすり抜けて「受信トレイ」に入ってしまう。

おそらく、たくさんのメールアドレスをもっているか、何が何でも受信トレイに入っちゃうように細工がしてあるのだろう。
さすが、バイアグラのメールだけあって、なかなか精力的である。

しかし、「である」ではあるけれど、私の場合にはバイアグラの必要性がまったくない。それでなくても、体調がよくないのでメールが来ても、仕方のないことである。

しかし、このメールと同様に、送信の費用はあまりかかならい。
したがって、相手にいやがられても、性懲りもなくしつこく出し続ける。
このメールと同様に。


ほどほどにしてもらいたい! 四添加物。


最近の食材には、かなり多くの添加物が含まれているようだ。
いわゆる「四添加物」とは大げさに「四大添加物」とも言われ、「化学調味料」「人工甘味料」「合成着色料」「人工保存料」の四つである。

流通や保存のことを考えると、いたしかたがないのかもしれない。
しかし、それらが人体に好ましくない影響を与えることはほぼ事実。

安全のためにも、何とか体内に取り入れる量を少なくしたい。
素材から調理をすると、摂取量が減るかもしれない。しかし、果物や野菜などを考えると、すでにポストハーベストの問題がある。

ポストハーベストは、収穫後の農産物に使用する「殺菌剤」「防カビ剤」など。つまり、ハーベスト(収穫)のポスト(後)という意味。
日本では、収穫後の作物にポストハーベストすることは禁止されているが、アメリカなどから輸入する果物には倉庫保管や輸送中にカビ等の繁殖を防止するために使用されている。


目的のないプチさん(プティ散策)も楽しからずや。


とくに、何時までにどこに行く、などということはない。
ただ、ぶらぶらと逍遥をする。何とも楽しいことではないか。

なるべく、近所の見知らぬ道を行くのがよい。すると、はっとするような再発見などもあって、認識を新たにすることができる。
また、いつもと違った目で見ると、斬新な光景として写るから不思議だ。

本当は、遠くの見知らぬ土地に旅行をすればよいのであるが、交通機関など途中の事故や、自分自身の体調を考えると、なるべく危険や心配のあることは避けたい。人には、迷惑をかけたくないからだ。

そんな次第で、ご近所のプチさん(プティ散策)に相成り、負け惜しみでなく正直言って、海外旅行や世界資産などを見に行かなくても、私は大いに満足をする。さらに詳細は、ここの「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」をご覧ください。


ケラ才の自分自身に嫌気がつのる。


まったくだ。
「けらざい」という言葉がある。何をやってもダメなのである。
それを「オケラの才能」と揶揄する。螻蛄(おけら)のように種々の芸をもっているが、巧みなものは一つもない。

オケラは小さな羽根があって飛べるが、山を越せない。穴を掘れるが、深くまで行けない。鳴くこともできるが、鳥を防御できない。……
もしかしたら、鳴くはなかったかもしれない。
一説によると「飛ぶ」「登る」「潜る」「掘る」「走る」の五つの能力。いずれにしても、それらどれ一つとして卓越したものがない。
つまり、多芸多才でありながら、どれも中途半端であること。あるいは、そのような役に立たない才能。螻蛄芸とでも言うか。

そういえば、『荘子』の中で恵子(けいし)の悪口が出てくる。本を車いっぱいもっているが、役に立たない知識だと言うのだ。
なんとなく、そんなことがある。
ケラ才の自分自身に嫌気がつのる人も多くいることであろう。


あるはずのファイルがなくて、探し続ける。


「確かあったはずだ」などと思って、画像ファイルなどを探すことがある。なかなかなくて、いつまでも探し続けることになる。もしかしたら、削除をしてしまったのではないかなどと心配しながら。

その方法はいろいろあるが、一長一短。
ファイル名がわかっていたり、うろ覚えのときはエクスプローラの検索でOK。むろん、ワイルドカードをフル活用する。すると、大概のものはどこにあるかが出てくる。

ホームページビルダーの中でも、探すことができる。
ふつう、そこではすでに文章になったものの語句やシラブルで探す。しかし、ホームページの大きさが600メガバイトくらいになったときから時間がかかって実用的でない。もたもたとハードディスクを読んでいるからである。

すでに、文書がインターネット上にあるときは、もっと簡単。
グーグルやヤフーのウェブ検索で、自分自身のホームページアドレスを指定する。すると、瞬間に出る。キーワードとなる語句は、ほとんど拾っている。
私にとっては、何とも有りがたい話である。


いっぱいになってしまうよ! メールボックス。


ここのところ、メールがたくさん来る。
そして、そのほとんどがスパム。次々と削除をしないと、メールボックスがいっぱいになってしまって、それ以上は受信できなくなるだろう。

ちょうど、何日かを留守したときに、郵便受けに新聞やチラシなどがいっぱい入っているのと似ている。それ以上、入りきれなくなっているからだ。

いったい誰が、どのような目的でチラシやメールを届けているのだろうか。むろん、趣味や道楽ではあるまい。
ビジネスの一環として、非合法まがいのことをやっているところもあるようだ。インターネットのいちばんの魅力は、隠れたままできること、そして金がかからないこと。

モラルの向上なくして、科学技術だけが発達した状態では、それが当然なことであろうか。インターネットには、そんな盲点があったようだ。


デジカメの写真、ほとんどページに入れた。


今まで撮ったデジカメの写真。どこに何があったかを忘れてしまった。見ようとしても、探すのが大変。そこで、整理をしてホームページにアップロード。大きさは、原則として400×300ピクセル。かなり大きくて、重くなる。

しかし、小さい画面ではよくわからない。そして、わからなければ、役に立たないだろう。中には、文字を含む説明文などもあって、とてもその大きさでは読めない。やはり、読めなくては仕方ないので400×300よりも大きくする。

そんなわけで、ますます重いホームページになってくる。
それでも、まだ契約の大きさの60パーセントくらいしか利用していない。何とも有りがたいプロバイダ「ヤフーさまさま」の1ギガバイトである。

これからは、メモとして残してある膨大な文書や断片を整理してアップロードしよう。これは、おそらく今までの文章すべての量くらい入るのではないか。
いきおい、ものすごく重いホームページになってしまう。一つ当たりのページを分割しなければ、……。


いつの日か、老いと衰え、現実になる。


いつの日かなるのならよい。しかし、すでに今日この頃のことなのだ。
急にガクンとくるのが、思ってもいなかった現実。
眠りが浅くなったためか、日中に疲れが出る。パソコンをしていたり、テレビを見ているときも、トロッと眠くなったりする。電車に乗って座ると、寝過ごす。そんなことは、今までになかった。

それと、インスリンの分泌が悪くなったのだろう。食後は、なかなか血糖値が下がらない。それも、ウツラウツラする原因。

何とかしないといけないと思いながら、何ともできない。すでに、身体のバランスが崩れて、ホメオスタシスが正常に機能しなくなっているのかもしれない。

老いと衰えは、紛(まが)う方(かた)ない現実である。
では、安心立命を願うことしかないのか。


キリのないことには、あまり深入りしない。


人生には、いろいろとしたいことがある。
また、一方ではムダが非常に多い。
『荘子』に書かれているように、確かに「有限の身体でもって、無限のことがらに立ち向かうのは危うい」ことだろう。

「あれも欲しい、これもしたい!」などと考えるのは、愚かなことかもしれない。キリのないことはほどほどにして、あまり深入りをしないというのも、人生の奥義であるかもしれない。

なぜならば、「人生の目的は何か?」とか「人生とは何か?」ということ自体がわからないのに、その中でもがいたり、あくせくするのは何となく苦し紛れのような感じもする。

さらに、「死んだらどうなるのか?」などを考えると、一生の期間にできることなどは、自己満足にすぎない限られたことであろう。
などと、つい思ったりもする。


ほほえみの七柱(ななはしら)あり、有りがたきかな。


何が有りがたいかって?
正直な話。実はだいぶ前に八王子七福神を経巡(へめぐ)って参拝をした。かなりの行程である。夏だったので、かなりバテてしまった。

そんな中に、一つの寺院に七柱すべてがましますところがある。つまり、一ヶ所ですむのだ。かなり、楽チン。疲れないし、また時間もかからない。

それらの中から、まず「ほほえみ七福神」に行ってみた。
京王線の国領駅を降りて、10分ほど歩く。そして、浄土宗・柴崎院・光照寺。
それで、すべての福神さまのお参りをして、終わり。
歩いて、柴崎駅へ出る。そこから聖蹟桜ヶ丘駅まで、電車で帰る。何とも楽で、有りがたいことである。

ほほえみ七福神が必要であれば、ここから見てください。
また、その他の寺院は、ここ


直感と精読による会心の一手。


将棋チャンネルで見た入門講座である。
「直感・精読」は、加藤一二三(ひふみ)九段の講座名。続いて「会心の一手」とある。長い経験を重ねると、80パーセントくらいは直感が正しいと言う。残りの20パーセントは、精読をする必要があるらしい。

現代を代表する最強棋士の一人であるにもかかわらず、話し方がていねいで親切。とても好感がもてる、私には。また、痩せた棋士が多い中で、でっぷりとしていて貫禄がある。
そんなわけで、言葉にも重みを感じる。

実際の日常の問題に関しても、大いに学ぶべきことがある。
なぜならば、私もここのところ「直感」の大切さをつくづくと感じ始めているからだ。むろん、当てずっぽうと言うような直感ではない。良く考えて、決めかねるときに行う判断の方法である。
あなたは、いかがであろうか。


間違って、自分自身の「歩」を取りにいく。


私は争いが大嫌いなので、勝負事・賭(かけ)・籤(くじ)などをしない。しかし、頭のトレーニングとして、パソコンで将棋をすることがある。

そんなときに、間違って自分で自分の「歩」を取ろうとしたりする。当然のことながら、取れない。それでも自分の過ちに気づかず、マウスが壊れたのかと疑う。まったく愚かなことである。

また、どちらの番かを忘れてしまって、相手の差し手を待っている。これも当たり前であるが、いつまでたっても進まない。相手が打ってこないので、考えていると勘違いをするのである。まったく、お粗末な次第。

それでも、私のやっている将棋ソフトは我慢強く相手をしてくれる。
まったく有りがたい次第。


竜神の木も冬支度、独りさびしく。


聖蹟桜ヶ丘のあいおい証券にあるカイコウズの木である。
冬になると、藁(わら)で包まれる。すると、ますます竜神の形。手足があるみたい。

おそらく、その会社にとっても大切な木であるのではないか。例えば、外国の企業と合弁したときの記念樹。毎年のこと、大事にされているので、私はそんなふうに思う。

また、来年の春まではその姿でしか見られない。暖かくなると藁を脱いで、新しい芽。清清しい姿で現れる。そして、しばらくするとルビー色の花を咲かす。とても、楽しみである。

なお、その姿については、ここを見てください。


どうだろう? こんな施設が要(い)るんじゃないか?


人生においては、いろいろと思いもよらなかったことがらが生じます。
例えば、夫婦・親子間でもトラブルが生じ、そのまま進むと不愉快から始まって、傷害にまで発展することもあるでしょう。ひどい場合は、親族間で殺人事件になってしまうようなことも、テレビニュースなどで知らされます。

そんなときは、しばらくそこを離れて頭を冷やす必要があります。つまり、かっとなって行動をする前に、冷静にならなければなりません。そんなために、いわゆる一時的な「避難場所」「駆け込み寺」のような施設が、あわただしい現代にこそ必要なのです。

また、アパートで孤独死をしたり、ホームレスになって誰も知らぬ間に死んでしまったりしないためにも、安心できる場所が必要なのではないでしょうか。

本来ならば、国や行政で用意をしてくれるとよいのですが、適当なところがありません。そんなわけで、私たちは互いに自分で何とかしなければならないのです。


一年が、終わろうとする、過不足もなく。


きょうは、おおつごもり(大晦日)。
多すぎることもなく、そうかと言って不足したこともない。何とか一年が終わろうとしている。病に苦しめられたが、それでもよい年であったと思う。

あと、除夜の鐘を付きに行かなければならない。そして、新年を迎える。

近くの観蔵院という寺であるが、素晴らしい鐘の響き。鎌倉五山、例えば建長寺・円覚寺などの鐘と比べても遜色がない。ここ、五年ほど行っているが、鐘を突くと何とも清々しい気持ちになる。私も妻も、それぞれ付くのは一つずつであるが、それでも百八の煩悩が失われたみたい。
建長寺・円覚寺の鐘の音色の簡単な説明は、「リーダース大事エスト」にある「○梵鐘」を参照下さい。

おまけもある。檀家たちによる枡酒(ますざけ)と甘酒の振る舞いである。妻は甘酒が好きであるが、私は枡酒を二杯もらう。そして、三杯目をこぼさないように持ち帰る。
何と素晴らしい一年の始まりであろう。


Kuroda Kouta (2007.12.01/2008.01.02)