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  新句(十九音) 作品集5(2007年11月分)



腰痛と膝の痛みは、加齢のためか?


還暦を過ぎたころから、腰痛が出たり、膝が痛む人が多いらしい。
私も、そんなことがよくある。しかし、まだ痛みに耐えられなかったり、歩きにくくなって医者に行くほどのことはない。

腰痛も、膝の痛みも成り行きは、当然なことであろう。
人間の歴史を考えてみるとわかる。
元来、背骨は梁(はり)であった。直立歩行をするようになってから、それが柱(はしら)の役目を担うようになったのである。したがって、どうしてもムリが生じる。

また、食うに追われた時代には、体系は一般にスリムであったろう。
それが、飽食の時代。どうしても、体重が増え気味。そこで、必然的に膝に負担がかかり始める。その結果、歩くのも不自由になる始末。

インシュリンの不足による糖尿病や食べ物の不都合による血圧上昇などは、何となく化学的な症状であるが、腰や膝の問題は物理的な現象のようだ。
そうじゃないだろうか?


高齢になるとご注意! 尿路感染。


ふつう、高齢になると免疫力がかなり弱ってきます。
また、腎臓や尿路の病気になりがちです。とくに、尿路感染症が発症しやすいので、注意が必要。男性の場合は、だらしなく不潔になりがちなので。

もしも、尿道カテーテルなどを使っている人がいたら、細心の注意をしなければなりません。なぜならば、とても細菌に感染しやすい状態になっているからです。

しかし、高齢者の場合は尿路感染症になっても、あまり顕著な痛みなどの症状が出ないこともあります。実は、私の場合がそうでした。

実際には、腎臓のネフロンにある糸球体の一部が破壊・剥落して、ボーマン嚢を通過して尿に出てきていたのですが、痛くも痒くもありません。ふつうは気が付かないのでしょうが、私は日ごろから尿を計量カップの採っている習慣の関係で、そのような事態がわかったのです。

高齢になって水分の摂取量が少ないと、不都合なことが増えるでしょう。
とくに、夜間はトイレに起きたくないので水分をひかえます。しかし、実際には水分を多く摂って、ある程度の尿量を確保しなければなりません。
また、尿をすることによって尿路のクリーニングもできるわけですから、チビチビではいけません。洗い流すだけの流量がなければ、感染を阻止できないからです。


一つずつ撤退したり、ドメインは今日。


最初に勢い込んで始めたホームページではあったが、訪問者がさっぱり。
つまり、計画したほどの広報結果はなかった。何となく「取らぬ狸の皮算用」とでも言ったところか。そんな次第で、意味のないムダなことをするのが面倒になってしまった。

そこで、いったん整理・縮小をすることにした。
その作業としては、

(1) 5つ以上あったホームページを2つにした。

(2) 2つあったブログを1つにした。

(3) 掲示板は、スパムのメンテナンスが煩わしくなって解約した。

(4) ドメインの解約をした。

などの作業が、ようやく今日(2007年10月23日、火曜日)になってすべて終了した。これらの結果、月々1万円近くの経費節減にもなる。

拡大をするときは、何も知らなかったせいか、「めくら蛇に怖じず」で簡単だった。しかし、いったん大きくした規模を縮小・合理化をするときは大変であることが、よくわかった。NOVAの倒産ではないけれど、……
アレキサンダー大王やナポレオンの場合もそうであったと思うが、『孫子』や『クラウゼビッツ』などにも、撤退が難しいと書いてあった。
残る人生では、あまり自分の力量以上のことはすまい。


ヨーロッパアカヤマアリの不思議な社会。


ヨーロッパアカヤマアリは、食料の一部をイモムシとの共生で得ているのだが、無駄な闘争をしないという。
むろん、そのイモムシにクモなどが襲ってきたときなどは、超音波を信号とするイモムシからの要請によって、いっせいに出陣してクモを撃退する。

また、そのコロニーの中では、目立った支配階級がないらしい。
一匹の女王アリから生まれたすべてのアリが、同じ働きをする。とくに、兵隊アリとか働きアリなどというような機能分担をしていない。

当然のことながら、仲間のアリ同士の競争や戦いはなくて、ムダなストレスを避けて、全体として平和に暮らしている。

嘘か本当かわからないが、そんなことを知った。
私は、ファーブルのような昆虫学者ではないので、そんなことはどうでもいい。しかし、昆虫社会のシステムをヒトの社会に取り入れるようにしたら、もう少し好ましい国になるのではないかと考えた。
もしかしたら、人間を昆虫にしてしまうほうがよいかもしれない。
『水棲人』にも、あるように。


俯(うつむ)きて歩みたる我には、彼岸花。


小道を俯いて、何となく歩いていたときのこと。
いったい自分の病気は、どうなってしまうのだろうなどと心配事を考えながら。すると、突然にぱっと赤いヒガンバナが路傍に咲いているのが視野に入る。

その瞬間に、何かがひらめいたのだ。
そして、かなり前に、

思案して歩みをるときふと曼珠沙華燃ゆるがごとき赤が目に滲(し)む

というような短歌を作ったのを思い出した。
もしかしたら、稚拙なので学生時代だったかもしれない。

何とも、すごいことではないか。
上の短歌作品の出来が、すごいなどと言っているのではない。そうではなく、条件反射のような早さで、完全に忘れていた記憶の断片を思いつくことだ。それこそ、電光石火のように過去の経験が、頭の中で検索できることがある。

自分自身のことでありながら、人間の脳がもつ不思議さと、さらにはその不気味さに驚いてしまう。


お互いの利権のみにて、動く愚かさ。


まったく、困ったことである。
国の指導者や行政の担当者が、レベルが低く、モラルの欠如していることには、驚き呆れるかぎり。

日本の文部・学校制度に、何か欠如があるのかもしれない。
『父母恩重経』に、

<二歳。懐(ふところ)を離れて、初めて歩く。父にあらざれば、火の身(からだ)を焼くことを知らず。母にあらざれば、刀(はもの)の指を落とすことを知らず。
三歳。乳を離れて、初めて食らう。父にあらざれば、毒の命を落とすことを知らず。母にあらざれば、薬の病(やまい)を救うことを知らず。>

というくだりがある。
基本的なことを必要な時期にマスターしないままに、単に学力だけがあって大きくなっても、まったくダメなのではないか。

単なる欲望に支配されて生きているのは、二歳・三歳児と変わりないのであろう。落ち着いて考えてみれば、「清貧」がいちばん心の安らかな状態であるようだ。
それをなぜ遠ざかる方向に、突き進んで行くのかわからない。


及ばれね、心と言葉、塵にも同じ。


うろ覚えであるが、「心もことばも及ばれね」とか「偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」などという言葉を覚えていたので、入院をする前に『平家物語』を読んでみた。そして、さらに『一億人の昭和史』も眺めた。

『平家物語』は、内海弘蔵のものと菊池寛のもの。前者は高校時代に古文の時間でテキストで使った原文、後者は現代語訳である。
『一億人の昭和史』は、分冊を含むと7冊の大作。

退院をしてからは、テレビ255番のヒストリーチャンネルで『映像の世紀』ちゅうのを何本か見た。だいぶ前に、NHKで放映したものである。

読んでいたり見ていると、何ともやりきれない気持ちになる。
すべてが事実を述べたものと仮定してみても、あまりにも意味のないことに人間が固執して、繰り返し同じことを争うからである。

また、宗教についてもコンスタンティヌス帝や聖徳太子のころの事情はともかく、インド独立時のガンジーの悩みなども、他人事(ひとごと)ながら、私も心が痛む。現在の核に関する両国の問題などが、当時からすでに潜在的に内在していたからである。

あっ、どうやら宗教と政治の本質的な問題になりそう。
そこで、この辺でやめる。


「若ければなぁ!」などと言う、老人の愚痴。


私の知人に、よく「若ければなぁ!」という人がいる。
愚かしい年寄りの愚痴である。時間というものを誤って考えている思考の誤謬であろう。

私は、いつも横井也有の『嘆老辞』や仙崖の『老人六歌仙』を思い出す。
仙崖の『老人六歌仙』の画賛に、

<しわ(皺)がよる ほくろ(黒子)が出来る 腰曲がる 頭がはげる ひげ白くなる
手は震え 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる
身に添うは 頭巾襟巻(ずきんえりまき) 杖 眼鏡
たんぽ(湯たんぽ) おんじゃく(カイロ) しゅびん(尿瓶) 孫の手

聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心がひがむ 欲深くなる
くどくなる 気短かになる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる
またしても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に 人は嫌がる>

というのがあった。
これだけ現実を示されると、私は参ってしまう。
あなたは、いかがなものだろうか?


切り詰めたたつき(たずき)見直し、乞食寸前。


私は、「吾唯足知」をだいぶ前から実践している。簡単に言ってしまうと、いわゆる「清貧」の生活である。
ときどき、パルテノン多摩の屋上階にあるつくばい風のそのデザインも見に行く。元来は仏典にあった言葉であるが、ものが豊富な現代社会には何となく忘れられていた。

しかし、政府の高官が役職におぼれて賄賂や接待を受けて、最後には失脚をしたりする。少しずつ奈落の底に落ちていくのと、まったく同じである。
いくら一時的には甘い汁を吸っても、自分の退職金で返済するというようなことになっては、愚かであって元も子もない。

なぜ、そんなことになるかというと、現代の「学校教育の歪み」であろう。
ものがあり余って、どちらかというと使い捨ての時代、そんなときにこそ、「吾唯足知」や「清貧の尊さ」を教えないといけない。物が豊かなよりも、心が豊かなほうがよいからである。
歯止めを失って育った人間は、政府の要職につくと貪欲なまでに「たかり」を覚えてしまうのかもしれない。
私は、乞食寸前になっても一向にかまわない。


「無責任ではないか?」とも、先輩は言う。


始めはいきおいこんで作成したホームページだが、訪問者も少なくさっぱり。当初の仲間から、「やっぱり、投げ出したぞ」と言われたくないので、やめるわけにはいかない。

仕方なく、自分自身のノートやメモのような使い方をしている。原稿や思いつきを、そのままアップロードしておいて、インターネット上で推敲をする。それが、もっとも簡単で効率のよいやりかただから。

恥をかくとか、みっともないなどということは、あまり考えていない。そもそも、私が生きていること自体、それがすでに恥ずかしいことだ。

ホームページが大きくなると、ホームページビルダーの中で疑似サイトができない。メモリの容量が、足りなくなるからであろう。そんなために、未完成のままインターネットを利用して、そこを見ながらホームページビルダーで修正をしなければならなくなる。

だから、私の場合はほとんどが結論もないままの中途半端なページ。
しかし、おそらくそのようなことはできなくなるだろう。なぜならば、このままでは、やがて法令が改正されてインターネット上の「未完成な作品」や「破廉恥な行為」、そして「犯罪」などを厳しく統制するであろうから。


肉体は、単に心の乗り物なのか?


魂が生命体で、一種のエネルギーと考える私には、なかなか理解しにくいことである。
だいいち、わざわざ「肉体」と「心」とを分けて考えるのはなぜか。
おそらく、機能の面から説明がしやすいからであろう。心の受容器として、五感があると考えれば、それはそれでわかりやすい。

しかし、「脳」を考えるとわからなくなる。
ディスカバリーチャンネルの「生命誕生」という番組を見たら、「脳は、すでに胎児のときから機能する」という。母親の胎内で、胎児はすでに思考ができるようになっているらしい。
すると、脳は「肉体」なのであろうか。あるいは、「心」なのであろうか。
また、肉体にある千億個もあるニューロンは、何となく「心」の機能を果たしているのではいのか。

肉体を単に「心の乗り物」などと考えるのは、ちょっと早計であろう。
しかし、このようなことを考えている私自身は、ちょっとどころではない大バカものかもしれない。


友からのメールがないと、安否気遣う。


親しい友人からのメールが久しくないと、「どうしたんだろうか?」などと安否を気遣う。
そして、もしかしたら入院をしたんじゃないか、さらに最悪の場合は亡くなったのではないか、などと思ってしまう。
なぜならば、友人のほとんどは還暦をとっくに過ぎた人たちだから。

それにしても、まったく健康な人が少なくなってしまった。
私は、かつては健康に自信があった。しかし、前立腺を切ってからは、どうも調子がよくない。

カテーテルから院内感染をしてしまって、血液中にパラサイトやコメンサルなどが大量に巣くってしまったからだ。
何とかして、早々にそれらを退去させてしまいたい。

いっぽうでは、冗談ではなく友人に、
「私のメールがなくなったら、死んだと思ってくれ」
といつも言うようになった。


青空の中に漂う雲を見ている。


突き抜けるような青空、そんな日が秋になるとある。
私は雲を見ていると、何となく楽しくなる。

雲は、むろん生き物ではない。
しかし、生きているような動きをすることがある。そんな雲を見ていると、想像が限りなく広がる。

「浮き雲」というようなタイトルの小説があるのも、さもありなん。
私は、二葉亭四迷や原田康子の作品を知っているが、他にもかなりあるだろう。インターネットで調べてみれば、そのようなこともわかる。

しかし、私にはそのような必要はない。
私自身の浮き雲で、じゅうぶんだからである。


コスモスが堤外に咲き、そこは異次元。


異次元とは、大げさに言えばのことである。
また、私だけのことかもしれない。

コスモスは、宇宙花である。
マクロコスモスとミクロコスモスがあるが、私はとくにミクロコスモスについて興味がある。

自分自身が一つのミクロコスモスであって、それ自体をいかに動かしていくかについて、考えなければならない。
しかし、多摩川の堤外に咲き誇っているコスモスを見ると、かなり大きな群生である。

『星の王子さま』のバラが、「自分は一人であって、群生などは考えていない」ことをプティプリンスが知って、後に地球のバラの大群生を見たときに「黙っていたほうがよいだろうなど考えた」ことを、私はそれなりに納得したのである。


浩然の気を養うために、プチさんをする。


「浩然の気」とは、『孟子』にある言葉で「自然の空気を吸って、のびのびとしよう」と言ったような意味ではないだろうか。
もっと大きく「天地間に満ちている自然の気」と考えてもよいだろう。

いずれにしても、よい環境で、よい空気を吸うのはよいことである。
よいよいになってからでは、外出ができない。
そこで、元気なうちにプチさんをする。

プチさん(小さい散策)とは、言葉通り「プティな散歩」と言ってよい。身近なところで、気軽にできる範囲でよいのだ。

私は、駅の周辺でプチさんをする工夫をして、いままとめているところ。
詳しくは、下記の「プチさん(小さい散策)」を参照して下さい。

http://www.geocities.jp/rikwhi/index_sousaku.html


失礼な人がたくさんいる、この社会。


人間の遺伝子は、自分自身のことしか考えないで、身勝手に動くようになっているらしい。そんなわけで、この世の中には失礼な人が多い。
自分の利益のためには、他人の健康や幸福などは考えない。儲かればそれでよいという単刀直入な考え方をする人が、次々と後を絶たない。

また、不愉快な人も多い。
仏典にも「怨憎会苦」(おんぞうえく)という言葉がある。「四苦八苦」の中に「生」「老」「病」「死」などと一緒に含まれている。いやな人や嫌いな人と、一緒に何かをしなければならないという苦しみ。
嫁と姑(しゅうとめ)の間などでも、よくあることだ。

また、私はソクラテスの話を思い出す。
ある人が、「出会っても挨拶をしない人がいる」とソクラテスにこぼす。
すると、彼は「君は道で、足のない人にあったら怒るか?」と尋ねた。
そして、言った。
「挨拶もできない人は、足がないと同じように身体に何らかの精神的な欠陥があるのだ。」


限られた人とだけしか付き合わぬ人。


実は、私もそうである。
いろいろな人と会うが、どうも気を使って疲れてしまう。なかなか人間関係は面倒であるからだ。

よいときは、よい。しかし、いったん利害関係がこじれると問題。部外者からも、たれ込みや横やりが入る。あげくの果ては、裁判になったり、国会の証人喚問のように、あまねく恥をさらす。

そんなことなら、最初からしないほうがよい。
『徒然草』第七十五段に、

<人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。>

というくだりがある。
上の新句(十九音)が短歌ならば、

「限られた人とだけしか付き合わぬ哀れでもあり愚かでもある」

と、私もするでしょう。


500メガバイトになって、まだまだ未完。


ホームページも、すでに4年目。
いまだに未完で、不満。なかなか思ったようにできない。

『青空のホームページにようこそ!』(yah)

の容量は、1ギガバイトある。しかし、まだその半分しか入っていない。
だから、今後もどんどんと増やしていける。
楽しみではあるが、なかなか大変。

そこで、残っている部分を自分自身の覚えやメモとして活用しよう。
なぜならば、訪問者も少なくて反応もあまりないみたいだから。

自分の責任で、自分が費用を出してしていることだが、インターネットに接続をしてあるので、注意も必要。なぜならば、あまり無責任なことを書くと問題が生じるであろう。
その辺が難しいところ。今後の課題でもある。

あなたは、どうしていますか?


すぐ疲れちゃうのは、どこか病気のためか?


最近になって、疲れやすくなったみたい。
ちょっと歩いたり、力仕事などをすると、とても疲れてしまう。
まったく、困ったことである。

いわゆる加齢のためであろうか。それとも、何か重大な病気になったためか。いずれにしても、何とかしなければならない。

しかし、栄養のあるものを食べると太ってしまう。太ると、糖尿病や腰痛、そして膝の痛みを生じるだろう。すると、それがまた不調の原因。何のことはない、堂々巡りで悪化してしまう。

それでなくても、食後はだるくなったり、眠くなったりする。
そんなわけで、内科の先生に診てもらっている。しかし、なかなか結果がわからない。消化を助けるツムラの漢方薬などが出る始末。

話は飛躍するが、もしかしたら私の回りの空間が変わって、身体の負荷が増えているのかもしれない。例えば宇宙飛行士が帰還すると、3段ほどの階段も上がれなくなって、昇降機が必要になるという。

自分自身のことではなく、環境の変化が原因の場合もあるということ。
実際は、どうなのだろうか。


後継者、いない事業はする価値もなし。


考えてみれば、人間が一代限りですることなどは大(たい)したことではない。やはり、伝統が受け継がれることが必要であろう。

多摩市の落合に「三代目」という料理屋があった。
しかし、いつの間にかなくなってしまったのである。
おそらく、四代目がいなかったのであろう。

貸家の張り紙を「唐様(からよう)で書く三代目」などと言う。
代は続いたものの落ちぶれてしまった様(さま)を冷やかした川柳。
だから、何とかして跡継ぎを作ろうとするのも必然。
家元などでは自分のできの悪い子どもに無理をさせたり、嫁婿を迎えたりして、何とも大変なことである。

まぁ、それに比ぶれば気楽ではあるが。


突き抜ける青空の日は、多摩の横山。


秋には、突き抜けるような青空の小春日和がある。そんな日は、あまり風が強くないかぎり、多摩の奥山にプチさん(小さい散策)。

長沼駅から登るか、平山城址公園駅から登る。いずれも、二時間から三時間の歩行。深山渓谷ではないが、それでも尾根縦断の気分が味わえる。木が多いので、空気もいいみたい。

いちばんありがたいことは、混んでいないことだ。
平日であると、ほとんど誰もいない。

だから、足を捻挫などすると困る。むろん、救急車が入れない林道である。そうは言っても、突き抜けるような青空であると、私はどうしても歩きたくなってしまうんだ。


プチさんの後で、Google見ては楽しむ。


プチさん(小さい散策)をした後で、歩いたところをGoogleの地図で見るのが楽しみだ。
とくに、鳥瞰図というか航空写真モードで見るのは面白い。

でも、林の中の木漏れ日の道などを歩いたときは、航空写真ではちょっとわかりにくくてダメ。なぜならば、上から見ると木が茂っていて、道がどこにあるのかがわからない。

ふつうの道ならば、家一軒がはっきりとわかる。
はじめは、縮尺を大きくしておいて位置を決めてから、拡大をしていく。すると、はっきりと自分自身が歩いたところがわかる。

「もっと近道ができたなぁ」などと思うこともある。
客観的に、自分が歩いた道を見るのは、何とも面白いことだ。


クマさんの一人相撲は、さびしいかぎり。


いつも思うことであるが、クマさんが一人で四股(しこ)を踏んでいる。
この動画ファイルは、4年前に買った富士通のノートパソコンにプレインストールしてあったホームページビルダーに付いていたもの。

しかし、なぜかその時点では他の動画ファイルのようには公開をしていなかった。いわゆる隠しファイルであったのだ。最近のバージョンでは、緑色のドラゴンくんなどといっしょに並んでいる。

私は、マイコンピュータのエクスプローラで、画像ファイルを一つずつビュアーしながら試していって見つけたもの。そんな努力と苦労があったので、気に入ってしまったのだ。
招き猫でもよかったのではあるが、自分で作るのは面倒くさい。そこで、クマさんのほうが手数がかからないとも思った。

でも、いつも一人相撲をしているようで、我ながら何となく、ちょっと情けない気持ちもすることは事実。


朝起きて、つくづく思う、今日も生きてる!


なんとも有りがたいことである。眠りが浅くなってしまったせいか、午前2時ころに起きてしまったり、体調が少々よくないけれど、それでも生きている。そして、いろいろと楽しいことが日々尽きない。

プチさんをしたり、デパートに行ったりする。
雨が降ったら、ちょっとプチさんは無理。しかし、隣のデパートならば傘なしで行ける。何も買わなくても、それはそれでいいんだ。

プチさん(プティ散策)は、私が始めたゆっくり歩きの身近な再発見。とても楽しい時間である。歩行禅を兼ねて健康的であるし、金もあまりかからない。

デジカメをもっていって、あちこちでパチリ、パチリ。
帰ってからが大変。エキスプローラでざっと見た後で、ペイントショッププロで若干のトリミングや編集。ホームページビルダーでアルバムにする。
しかし、その作業もやってみると楽しい。生きていることの充足感が、そのようなつまらない作業の中にもある。

道元が唐で見たという「椎茸を干す老いた和尚」の話を思い出した。


書き足していけば、次第に誤りは減る。


いっぺんに大きなものを作ろうとするのは、体力的にもムリだろう。また、飽きっぽい私にはとても気力が続かない。

そこで、少しずつ作っていく。最初は、ごく簡単なもの。そして、それを機会があるごとに、メークアップする。そんな方法に決めた。

「推敲」(すいこう)という言葉がある。
詩や文章を作るときに、字句をいろいろと考えること。このことは、老化予防に素晴らしい効果があるんじゃないか。私は、いつもそう思う。

唐の詩人、賈島が「僧推月下門」の「推」を「敲」にしようとして迷ったことによる。自分ではなかなか決めかねて、韓愈にアドバイスを受けて「敲」にしたという。

私も、ときどき元新聞社の論説委員だった高守さんにご教示を願う。
素晴らしい助言がいただけるので、感謝をしている。


関係のないメール来て、迷惑である。


ここのことろ、関係のないメールが多く来る。むろん、いちいち開いたりはしないが、削除をするのが面倒。ただ、ノートンをやめて新しいウイルスチェックにしてから、迷惑ホルダーに自動的に分類してくれる。

それでもバイアグラなどは、別のメールアドレスで来るらしく、何回もすり抜けてしまう。とにかく、一日に二・三百通もスパンなどが来るので煩わしい。そこで、原因になるであろうヤフーほか二つのドメインをやめた。

いかがわしい案内やビジネス、そして犯罪としか考えれないメールは煩わしい。それに巻き込まれるのを自分で避けなければならないからだ。パソコンをしないのが手っ取り早いので、10年ほどやめた期間がある。しかし、現在はそうできない事情になっている。

包丁が各家庭にあっても、誰もがそれで人を殺したりしない。また、わざわざ危険な地域の外国に旅行をしたりする人はいないだろう。なるべく、自分のほうから近づかないのにかぎる。危険なサイトや不愉快なグループは、すでにやめてしまった。


喧嘩して別れるほどの愚か者なし。


老いてくると、あまり不愉快な思い出は作りたくない。
そこで、私は喧嘩をしないようにしている。実際には、喧嘩どころか勝負事一般、競争、賭(かけ)、籤(くじ)などもしない。

将棋をするじゃないかというが、実際に相手とするわけじゃない。パソコンのゲームでする。実力を伸ばすためとか、勝つためではない。単に、老化予防のためのいわゆる脳のトレーニングである。

決められた規則の中で、いかに工夫をすることが大切であるか。そんなシミュレーションが9×9の小さな升目の中で行える。その効果までを考えると、素晴らしいことである。

そんな意味で、近代将棋よりも木村名人や益田名人、そして坂田九段の棋譜は勉強になる。囲碁・将棋チャンネルで、過去の棋譜の再現と解説をしてくれるので、何とも楽しみである。


おっかなくなってやめたよ、大食いと酒。


間違ってはいけない。
大食いをやめたわけではない。また、酒も毎日飲んでいる。例えば、吉野家でも松屋でも、必ずビール。お茶を飲まないかわりに、ビンに入った500ミリリットルのもの。

それでは、上の句は何なんだ。
健康の問題から、まったくやめてしまった「大食いと酒」。
つまり、「大食い」をして「大酒を飲む」のをやめたわけ。片一方ならば、かまわないのである。

なぜかというと、加齢とともに身体のバランスが崩れてきたらしい。具体的には、インシュリンの分泌が減ったのであろうか。血液の中の血糖値がなかなか下がらないのである。つまり、食後数時間は糖尿病と同じ状態。

したがって、シェーキーズのピザ食べ放題はまだ大丈夫。そして、そのときピッチャー半分ならばよろしい。半分は、妻が助けてくれる。
うんと酒を飲むことは、体力的に無理なので、今後はないであろう。
しかし、腹いっぱい食べたいという気持ちは、まだまだなくならない。
困ったことである。


意味のないことを続ける意地の愚かさ。


私のホームページがその一つ。最初の仲間たちと始めるときに、つい偉そうな宣言をしてしまったことを後悔する。

今日、たまたま高瀬さんに道で会った。
彼は、パソコンなどをまったくしないが、それでも元気溌剌。頭もしっかりしている。

私は、毎日のようにパソコンで脳に刺激を与えている。しかし、それでも度忘れや勘違いが激しい今日このごろ。いくら刺激を与えても、衰えていくのは仕方ないのかもしれない。

今まで、「継続は力なり」を信奉してきた。それも、幻想なのかもしれないと思ったりもする。
「意地」というのは、ふつう「相手に対する心遣い」や「ものを欲しがる気持ち」である。そして、「意地になる」となると、「状況に逆らって、押し通そうとする気持ち」。さらに「意地を張る」のは、自分の思いを主張しようとすること。
考えてみれば、つまらないことに意地を張るのは愚かしいことらしい。


簡単なメモや写真が楽しみとなる。


ちょっと思いついたことをメモ用紙に書く。
また、いつもデジカメをもっていて、気軽にパチリ。
そんなことでも、後で日々の生活の中の大きな楽しみや思い出になる。

メモがいくつか合わさって、パソコンの中でまとまった文章になる。
デジカメの写真も、いったんすべてをハードディスクに移す。そして、そこで若干の修正。例えば、たてに撮った写真を横向きにする。周りの不要な部分を除くカットやトリミングをする。そんなことをして、アルバムの写真となる。

しかし、写りが失敗をしたもの、あまり意味のないもの、使用済みの写真などはすべて削除をしてしまう。いつまでも残しておくと、後で使用をしたかしないかで、混乱をするからである。

仏教の説話にある「筏」(いかだ)の話をいつも思い出しながら。


Kuroda Kouta (2007.11.01/2007.12.01)