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  新句(十九音) 作品集4(2007年10月分)



下(くだ)らないメールを飽きず、呆(あき)れるばかり。


と、先輩が言った。
「よくも、飽きないので感心。いつまで、出すのか?」
とも、宣(のたま)わく。

私は、憮然(ぶぜん)として答える。
「あなた。あなたの心臓や肺は、いつまで動いているのか?
あなたが、日々の食事に飽きてしまわないのは、なぜか?」

飽きてしまったら、終わりなのである。
何でも、未知の新しい物ばかりを好む馬鹿者もいる。
中国のある王の話。

毎日の食事が面白くないので、すべて新しい料理を日ごと出すように料理長に命ずる。料理長は、日々苦労して今までにない料理を作る。しかし、やがて行き詰まってしまう。

そこで、ある日
「これは王が召し上がる初めての料理で、私の最後の特別料理です。」
と言って、かなり大きな銀の蓋の付いた料理皿を運ばせる。
そして、自分の部屋に戻って、包丁で腹を切って自殺をする。

王が、食事係の家来に蓋を開けさせると、そこには料理長の子どもの丸焼きが調理されていた。
気分を悪くしたら、ごめん。


パラサイト、それより恐い湖面猿たち。


「湖面猿」というのがいる。しかし、私が言っているのは関係が安定していない共生である。村上龍『共生虫』のように、不安定な関係だと最期は悲劇。

関係が良好のときは、互いに何でもない。
しかし、それがいったん悪化すると、必ず片方の悲劇的な命取りで終わる。

ちょうど、組織の中に不満分子がいて、内部告発をしようと考える。そして、マスコミなどの報道機関に対して、たれ込みの時期を狙っているようなものだ。
そんな意味で、私は「commensal」を「湖面猿」と訳した。ふつう、そこには単独で住み得ない生物であるから。

その意味で、体内にいる緑膿菌・溶連菌などのような日和見菌も、いつ豹変するかわからない湖面猿なので、非常に恐ろしい。
しかし、もっとおっかないのは、血液中にいる得体の知れない生命体。
エジプトのハトシェプスト女王が、血液に異常をきたして死んだことなどを考えると、私はいつも恐れる。死の間際には、激しい苦痛に耐えられなかったことがうかがえるからだ。
絶大な権力を誇った美貌の女性ファラオでさえ、断末魔があったらしい。

詳細は、毎度お馴染(なじ)み『青空の入門・創作ページへようこそ!』の
rikの「クラミジアなどを排除する血液浄化法」
を参照のこと。


よい水を飲もう! 毎日、健康のため。


何回も言っているが、「生水(なまみず)はOKだが、死に水はダメ」。
しかし、「生水」とは何か? それでは、「死に水」とは?
そんなことを、ここで一通り確認しておこう。

例えば「湯冷まし」は、残念ながら「死に水」。飲んでみても、あまりおいしくない。でも、それを衛生的だと言って、好んで飲む人がいる。
そうかと言って、湯冷ましばかりを長期的に飲用するのは、あまり好ましいことではないでしょう。むろん、水を高熱殺菌をしたのだから、バイ菌などはありません。しかし、人類が長い間経験をしてきた飲み水ではないのです。

もしも、それを確かめるのならば、金魚を湯冷ましの中で飼ってみてください。むろん、水温は常温にしてからですよ。金魚には、気の毒ですが……

酸素やミネラルを含んだ生水が、人体に好ましいことは何となくわかります。
そこで、どんな方法で生水を求めたらよいのでしょうか。
私の住宅の水道には、地下水が来ています。だから、それを濾過して化学薬品などを取り除き、そのまま飲用します。
濾過した水は、常温で放置しておいてはいけません。なぜならば、雑菌が繁殖するからです。

また、私は丹沢系の地下水を100パーセント原料にしている瓶ビールを愛用しています。ビールは、それ自体が利尿剤ですから、飲んだ量よりも多くが尿となって出ます。そして、その分を生水で補えるので一石二鳥です。
なお、「私が食堂で瓶ビールを飲み、自宅で肉を食べない理由(生水を飲む健康法・疑似ベジタリアン)」に、関連記事があります。


保菌者は人間兵器? テロ戦略か。


最近になって、ちょっと不思議なことに気づいた。
身体の外部からやられるのではなく、内部からアウトになる人が多くなったからだ。また、日本にビル破壊や乗り物の爆破などが、まだないことである。

もしかしたら、日本が島国であることが原因かもしれない。面積は小さいが、海岸の長さで言ったら世界で6番目の大国である。そんなことが、事情を変えているのだろう。

アメリカやヨーロッパのことを考えると、まったく不思議である。
そこでどうしても、日本に対しては別戦略が行われているのではないかという、揣摩憶測・げすの勘ぐりが生じてしまう。

つまり、炭疽菌などとは異なる新しい細菌兵器による侵略なのである。
吉田戦車の『いじめてくん』や村上龍の『共生虫』は、単なる創作であろう。
しかし、いろいろ調べてみると、次々にパラサイトが増えているという現実があることに気づく。
大昔にある国は、敵対する国に数人の美しい女性の保菌者を送り込んだらしい。そして、その女性を媒介して病人が増えていき、国が衰えていったかどうか、私は知らないが。
また、過去にある国が別な大国を支配しようして、軍に何と祭禁舞台などを設けたということがあったようだ。

でも、現在はそんな幼稚な方法ではないらしい。
院内感染の不思議さなどからも、何となく私も当事者としてわかるような気がする。どこでどうしてなったかが、まったくわからないからです。
そんなことは、私だけの杞憂であればよいのだが、……


三木さんのアドバイスにて、リンク改善。


三木先輩からは、いつも有意義な意見をいただく。
先日、思い切ってVISTAにしようと考えて、いろいろと聞いてみると、まだその必要はないようだ。
また、かねがねホームページのリンクの方法なども指導いただいた。

そんなわけで、この度かなりの手直しをしてみた。
すると、エリアがずいぶん少なくなって、ムダをしていた部分がなくなる。

そのことをプロバイダに言ったら、契約を先月付で変更してくれた。3日なのに、先月末付けで今月から料金を改定してくれるという。
いままでよりも、月額4620円ほど安くなるそうだ。

三木先輩には、ホームページの作り方も、ずいぶんと教えてもらった。
いま考えてみると、感謝をするとともに大いに勉強になった。とても有意義であったが、反面ではあまり意味のないことを次々としてきたようにも思う。
パソコン本体やプリンタなどのほかに、ホームページの費用を毎月1万円以上もプロバイダに支払って、いったい何をしてきたのだろうか。

ほとんど誰も見てくれないのに、そんなムダなことをしていたのはなぜか。金の問題ではなく、ただ最初に集まった仲間への面子の問題であった。
その仲間も、すでに3人死んでしまった。そして、二人は寝たきり。

結局は、自分自身への意地の問題に他ならない。


いろいろな人に答えた文章残る。


一時期、老化予防のために自分自身の「脳の活性化」をはかる試みをした。
その方法として、いろいろなサイトの質問を利用するのである。
つまり、質問に対して考えて回答をすることによって、自分自身の記憶の整理や確認などをするのだ。

むろん、中途半端な回答や無責任の内容はいけない。そのようなことは、相手のあることだから当然であろう。
しかし、後で考えてみると

健康Q&A
パソコンQ&A
雑学Q&A

などの内容は、何となく無責任で軽薄。我ながら恥ずかしくもなり、今になって何とかならないものかと思う。
そんなために、ここのところ時間がある度に書き直しているのだが。
しかし、それがいわゆる「恥の上塗り」にならなければよいが。


可能性、次々と失せ(うせ)元の木阿弥(もくあみ)。


だいぶ前に、健康に関する広報をホームページでしようと考えた。
初めは、この市を中心とした地域社会で行って、全国的な運動にしたいとも企画をしたのだが、どうもうまくいかない。

私たちの回りには、あまりにも病人が多いので、ついそんなことを考えてしまったのだが。そして賛同者も、当初から10数人いたからである。

しかし、予防が目的であって、個々の治療などはできない。
医療機関でないからであり、個人差が大きいからである。その個人差を考えないと、現在の医療でもあまり効果がないだろう。

会長だった人のほかに二人が死んだり、一人はアルツハイマー、そして二人が寝たきり。奥さんが、認知症になった人もいる。

健康を指向して、病気にならない「食べ物」や「生活習慣」を考えたのだが、市の広報で集まった人たちは、すでにかなりの重病人であった人がほとんど。中には肝炎の人や、重度の糖尿病で失明寸前の人もいた。

なってから直すのではなく、なる前に予防をしようという主旨が、どうもはっきりしなかったからであろう。


楽しみは、初めての道、小さな発見。


老いてしまったせいか、あまり遠くへは行けない。
しかし、近場のそぞろ歩きの中にも、大きな楽しみがある。
それは、ちょっとした小さな発見ができること。

路傍に咲いている美しい花や、珍しい花。そして木々。また、石や建物、さらに景色などすべてだ。
そして、暑い日差しのときの木陰の気持ちよさ、吹いてくる涼しい風なども。
そんな中に楽しみがあったり、小さな発見がある。

ときには、デジャビュ(既視感)というのであろうか、何となくなつかしい気持がする場所がある。
もしかしたら、幼いときに同じようなところに来たのかもしれない。さらに、自分ではなく、父母や祖父母たちがそこにいたのかもしれない。理由はわからなくても追体験をすることは、なかなか興味深い。
そんなことを考えると、楽しくなってしまう。

初めてのコースを行くと、そんなことがよくある。


紅白のだんだら車両、走るのを見た。


先日(2007年10月5日、金曜日)午後2時頃、京王線の多摩川橋梁を府中方面に向かって、工事用車両の編成が走っていくのを見た。

いつも、高幡不動の西側の車両基地に置いてある電車だ。
3両ほどで編成されていて、すべて紅白のだんだら模様が付いている。その中央の車両は、クレーン車であろうか特異な形をしているので、注意を引きやすい。

私は、おそらく夜間の保線工事用に利用するものとばかり思っていたので、日中に本線を走っているところを見たので、とてもうれしかった。

しかし、その走行には思いもよらず急に気付いたことだったので、デジカメで撮影する間がなかったことが、大いに残念。
でも、見ただけでも思い出になって楽しい。


『ニュートン』と『ムー』があるかを探していたり。


ときどき書店に行くと、雑誌コーナーに行って、『ニュートン』や『ムー』があるかどうかを確かめる。そして、内容が面白かったら買う。

しかし、『ニュートン』は雑誌のところにはない。奥の科学書のコーナーに専用棚があるからだ。『ムー』は、手前の雑誌コーナーに置いてある。いつも私が買う聖蹟桜ヶ丘A館のくまざわ書店アカデミアでは。

前者は、竹内という編集者の考え方が私とは大いに異なるので、ちょっと抵抗を感じるが、すでに買ってもっている十数冊の内容は素晴らしい。

後者は、大学の同じ科の後輩であるマイトレーヤという人が愛読していたなどとテレビにかつて報道されたので、ちょっと買うときにやはり抵抗を感じる。

私は、宗教や超能力を好むわけではない。むしろ、その反対なのである。
ただ、自分自身の回りに生じている不可解な現象を調べたいだけだ。
むろん「ああ言えば、こう言う」などというような御託(ごたく)を並べたり、屁理屈をこねるつもりなど、まったくない。


体力は、次第次第に衰えていく。


老いてくると、それはいたしかたないことかもしれない。
しかし、智力はそうではないらしい。
老いてきても、ますます増していくようだ。

もっとも、加齢によって呆(ぼ)けてしまったり、記憶が薄らいでいく人も現実にかなり多くいることはいる。
また、高齢になってから、投資や趣味などでも愚かしいことを始めたり、まるで赤ちゃんのような理屈では考えられないことをする人もいる。

もしかしたら、老いると節操や自制心がなくなってしまうのではないか。
そんなことを思案していると、先行きが何となく不安になってしまう。
「オレだけは大丈夫だ」などと言えるのは、若いうちの間だけであろう。

体力が衰えていくのは、いたしかたない。
しかし、記憶力や智力は何とかして、いつまでも保持しておきたいのものだ。
あなたは、自信ありますか?


ブツブツと言い始めたら、注意が必要!


最近になって、知人が何やら独り言を言うようになった。
誰とも話をしていないときでも、いつもブツブツと呟(つぶや)いている。顔を見ると、何となく放心をしているみたい。

私が、

「どうしたの?」

と言うと、はっとして正気になるようだ。
すると、もはや何でもないのである。
ちょっと不気味ではあるが、ここのところ身の回りに、そんなタイプの人が増えているという。
おそらく、精神に異常を来たし始めているのかもしれない人が、多くなったのではないか。
正直な話、自分自身でも、そんなことがあって心配。
あなたは、いかが?


闇サイト、気をつけましょう! インターネット。


最近になって、インターネット上の犯罪が急増しているという。
とくに、携帯電話を利用した闇サイトの事件などが次々と表面に出てくる。
何も知らないままに、またあまり深く考えないままに、被害者になってしまう。それは、いたしかたないことかもしれない。

被害者になって、始めて自分の過ちに気付くのである。また、被害者でありながら加害者である場合も多い。
最初にソフトなどの使用許諾契約などを詳細に読む人は、実際にどれくらいいるのであろうか。

そんなことを考えていると、なかなか先に進まないからである。
ちょうど、六法全書に書いてあることをくまなく知っている人が、ほとんどいないのと同じであろう。いったい、人間の社会は無駄なことが多く、その合間をぬって犯罪が起こるのである。
それぞれが、注意をするしかないのだろうか。


はっとするほどの驚き、いかにせむかと?


道を歩いているときになど、ときどきではあるが、景色や路傍などに突然はっとするほどの驚きがある。
それは、たいがい些細(ささい)なことではあるが、私にとっては斬新な驚きなのである。

そんなときは、この新句(十九音)にして、断片をメモっておく。
すると後になっても、その驚きが何とか復元できたり、あるいはさらに醸成することができるからだ。

つまり、忘れてしまうようなつまらないことでも、いったん記憶のうちに残ると、それが鮮やかに蘇る(よみがえる)のである。
そして、それは走馬燈や万華鏡のように、単純な繰り返しや簡単なシンメトリー模様である場合が多い。

でも、私には楽しいこととなるのである。
人生とは、そんなものか?


幸福でなければ、○○○まで連絡を!


「あなたは幸福ですか? もしも、そうでなかったら○○○までご連絡をください。」という内容の新聞広告を出すという話をかつて読んだことがある。
まだ、私が若かった時代のことであるから、かなり以前のことだ。
しかし、最近のインターネット社会のことを考えると、違う目的でも同じようなことをビジネスとして考えた人が、過去にもあったことがわかる。

○○○は人名ですが、いったい誰だかわかりますか?
それは確か、灰色の脳細胞をフル活用させる「ポワロ」だったと思います。
つまり、アガサ=クリスティのエルキュール=ポワロなんです。

人間の脳は、かなり高性能でもあり、またお粗末でもあることをポワロの言葉から私は学びました。犯罪者の悪知恵は、たいがいポワロの推理にはかなわないからです。そして、さらにすごいのは、あまり動かないニール=ドルフや「隅の老人」などがいることです。

インターネットの社会では、健全な彼らの脳細胞とは異なって、あまり動かなくて身勝手に考えるだけでしたら、奇妙な結果が生じることがあるようです。『共生虫』なども、その一例でしょう。


人生は、無駄と無為との一連の須臾(すゆ)。


須臾(すゆ)は「しゅゆ」とも読んで、短い時間を言う。「寸刻」などの概念だろうか。仏教では、一日の30分の1の時間を言うから、一瞬とは違うようだ。
いずれにしても、短い時間を言うようになった言葉。

それにしても、人生には何とも無駄の多いことか。
脳のもたらした幻影に、どうかすると惑わされてしまうらしい。
可能性は大きいが、それを見いだして活用する人は非常に稀(まれ)、ほとんどは空しく終わる。

あたかも、脳が人体に乗ってレースをしているみたい。
それは、騎手が馬に乗ったり、宇宙飛行士がスペースシャトルに乗るのと同じ構図。

無為のうちに過ごす一連の時間を人生と言う。
いろはにほへと、ちりぬるを……


ぐうぐうと鳴るほど腹が、減るのはなぜか?


ここのところ、私は腹が減ってしかたがない。
若いときにはともかく、今までに体験がなかったことである。
よくわからないが、妊娠をした女性がやはりそうであるらしい。なぜならば、体内の赤ちゃんが大量の栄養を必要とするのだから。

私の場合は、おそらく体内に常駐したパラサイトが栄養分を吸収してしまうのではないか。
よく民話などに、餓鬼のようにやせ細った人が、ものすごく大食いである話が出てくる。痩せているのだから、そんなに栄養が必要ではないのだが、体内に化け物が住んでいるということだ。

近代になって、人間の血液ほど住みやすい場所はないということが、パラサイトたちは知ったのであろう。そこで、少しずつ移住をしてくるらしい。
そんなわけで、考えられないほどの生命体が人体の血液中に住み着く。
用心しなければならない。


調べ物、インターネットに勝る術(すべ)なし。


今までは、わからない文字やあやふやな意味などを『広辞苑』で調べた。
しかし、ここのところ肉体的に、それが億劫で無理になった。

なぜならば、私は目が悪い。そこで、以前から文字の大きい「机上版」を愛用していた。その重さは、何と4キログラム。
棚から下ろして、机上で開く。そして、終わったらふたたび棚に戻す。机上に置いておくと、大きくて邪魔になるからである。

そこで、インターネットを利用するようになった。
図書館に行ったり、博物館を訪ねなくても、自宅でできるから手っ取り早い。
むろん、中には間違った内容のページがあったり、無責任な文章もある。さらに、犯罪に結びつくような怪しげなページさえ見受けることもしばしば。

しかし、自分自身の責任で、それらを見て取捨選択をすればよいのである。
なぜならば、私のホームページ自体が何となく荒唐無稽で支離滅裂な内容であるから、偉そうに他人のことなどは言えない。


バイオテロ、ないのが不思議、この日本では。


アメリカでは、すでに郵便物に炭疽菌を入れたバイオテロなどが過去に起こっています。そんなことを考えると、日本ではまだ何も起こっていないほうが不思議ではありませんか。
地下鉄サリン事件などは、外国による戦略ではなかったからです。

日本人は貪欲ですから、世界の消費者として貴い存在なのでしょうか。つまり、国民をすべて抹殺してしまうと、顧客が減って世界経済が成り立たなくなってしまうのです。放射能に汚染された穀物などを消費してくれる国や商社は、世界に少ないからです。

だから、殺してしまうのはいけません。
生かしておいて、貪欲な消費者として利用をしようというのです。そして、そのための戦略が着々と進められているのでしょう。

もしも、この現代において私たちが何も操作されていないと考えるのならば、それほどお目出度いことはありません。
それこそ、「知らぬが仏」なのです。


うとましき人間関係、空しくもあり。


『徒然草』ではないが、人と人との関係には空しいものがあるようだ。
「一人がよい」という理論などは、それが可能であればよいと私も思う。

人間関係には、感情的な下らないことが多すぎるのである。
政治や宗教、そしてスポーツの社会や相撲部屋の内部などでも、何をしているのかわからない。

おそらく、人間社会のもたらす醜い感情の発露の場所となるのであろう。
ナポレオンや西郷隆盛の最期の孤独などを考えると、初めから何もしなかったほうがよかったと感じるのは何故だろうか。

私が二十歳代のときのオリンピックで優勝した外国の選手に、報道記者が「孤独を感じませんでしたか?」と聞いたら、その選手は「こんなに大観衆がいるのに、何で孤独なのですか?」と聞き返していた。

魚や昆虫の群れなどは、それ自体が相互関係で、個々の思惑などはないのではないか。


裏の裏まで考える、アマ・プロ将棋。


先日(2007年10月13日、土曜日午前中、270チャンネル)、「囲碁・将棋チャンネル」で「アマ・プロの将棋対戦」を見た。
アマ側は、荒木長一氏(書店店主)で下手(先手)、アマ四段であられる。
いっぽう、プロは前田祐司八段。飛車・角の二枚落ちで対戦された。

結局は、荒木氏が前田プロに勝ったのであるが、非常に印象に残った将棋であったので、ここにメモっておこう。

最後は、画面上右端から歩4枚を後方に残して、前に出た後手の王が行き場を失って、前田プロが投了、つまり負けを宣言した。
しかし、私には終盤になって「桂馬による角・銀取り」になったときに、角を逃がさなかったことや、そもそも歩を4枚も後に残して王がどんどん上がってくることも、プロにはちょっと考えられないことであると、素人ながら考えた。

前田プロのお人柄を考えると、この勝負は始めから「相手に花を持たせる」気持があったのではないかとも思う。あるいは、荒木氏の実力やその人間性はプロから見ても、相当なものかもしれない。
しかし、素直に見た場合、素晴らしい名勝負であったと思う。


屁理屈か? 高守さんの「やめちゃえ!」の説。


先日、吉祥寺のルノアールで高守さんたちと話をしていたら、「何事もやめちゃえ」というような意味の意見を聞いた。しかし、私は「天台摩訶止觀」のことを考えながらも、そのときは別の人がいたので黙っていた。

それは、『徒然草』第七十五段後半にも引用されている、

<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>

のことである。
愚かな人間は、脳にあやつられて四苦八苦する。その結果、自分で自分を苦しめたり、隘路に追い込んでしまうサディズムになる。騎手が馬に乗って、疾走をするのよりもひどい。

馬が、つぶれてしまうまで走るのである。多額の賞金のためか。世間の名誉のためか。愚かなことである。私はなぜか、ふとそのときに「かえるの腹自慢」という話や、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」、さらには兪曲園の「顔面問答」などを思い出したのである。


プリンタもスキャナもやめた、壊れたままに。


プリンタが壊れたので、井の頭線の高井戸にあるhpに行ってみた。
すると、そこでは答えていないという。にべもなく、きりはなこくった感じ。

実際には、いろいろと知りたいことがあったので、担当者から意見が聞きたかったんだ。でも、無駄足になったので浜田山の珈琲苑で、先輩の三木さんとダベって帰った。

結論として、今後はプリンタもスキャナも使わないことにした。
そして、市の不燃物回収のときに200円のワッペンを貼って故障品を出す。修理は、手続きが面倒だからしない。
おそらく、プリンタやスキャナとには、個人的な意地もあって永久のお別れになるであろう。とくに、hpの製品とは。

DELLのプリンタなどは、優れものが5000円前後で買える。
しかし、メカ音痴な私には、慣れるまでに相当の期間が必要になるだろう。そんなわけで、買うのを躊躇してしまう。決して、5000円という金額の問題ではない。ここのところ、時間が惜しいのである。

今後は、手持ちの品物を工夫をすることによって、何とかしようと思う。
スキャナは、デジカメ写真で代用する。そして、印刷は一切せずにパソコンの画面で見ればよいのである。いっそ、PDFにしたらよいかもしれない。


おっかないテロ感染に注意をしよう!


ここのところ、どうも体調がよくない。
すでに一年以上も通院をしているのだが、さっぱり治らない。

先生も不思議がって、気のせいではないかと疑い始める始末。
私の質問に答えられないので、とうとう心療内科のほうへ行けと言い出した。
つまり、気分によって状態が悪化しているのではないかと考えたようだ。

しかし、そうではない。
私は、しっかりとした原因を知っているのだ。残念ながらその証拠はないが、何が原因なのかはわかるし、なぜ治らないのかもうすうす理解ができる。
なぜならば、新種のパラサイトやコメンサルが体内に侵入したからである。

それは炭疽菌や肝炎菌などよりも治りにくいのであるが、細かいことをここに書くわけにはいかない。また、被害妄想などとも言われたくもない。
先の戦争のときに、すでに歌舞などは禁止されていたが、最後まで蔡勤舞台などもあって、うろ覚えであるが西向く士の最初のような饑餓した。
元来、侵略とはそんなもんだろう。

ここのところ、私は腹が減った気がしてしかたがない。
もしかしたら、徐々にカルシウムの代謝が悪くなって、身体の活発さや持久力を失いつつ、食料だけを消費させるという戦略があるのかも知れない。古典である「六稲三略」や「クラウゼビッツ」なども、改めて勉強してみるか。


裏の裏、奥の奥まで理解できない。


いくら調べても、人知では計り知れないことがあるようだ。
裏の裏や、奥の奥を知ろうとするのは、空しいことであろう。

例えば、養鶏場のニワトリを考えてみるとわかる。
自分たちがニワトリであることは、わかっているだろう。また、何となく自分たちがフライドチキンにされちゃうんじゃないかというような一抹の不安が、彼らの脳裏をよぎるかもしれない。それは、動物のもっている本能であろう。とさつ場に引かれる牛が、しりごみをするという。

学問が進んでも、わからないことがあるにちがいない。ある天文学者は、宇宙の秘密はまだ5パーセントくらいしか解決していないと言う。しかし、私は99.999パーセントが未解決と思う。

それよりも、身近な疑問がある。それは、なぜ自分が人間であるかということ。また、なぜニワトリや牛が、ニワトリや牛に生まれたかということ。
そんなことを考えると、理解できないことが多すぎる。そして、それらの理由はわかる必要がないのかもしれない。


人生は無駄多きゆえ、後悔つきぬ。


人生には、何と無駄の多いことだろう。
一人一人がそれぞれに無から始めて、際限のない欲望に支配されながら生きていく。動物や昆虫と比べると、効率が悪く愚かしいことではないか。

いくら可能性が無限だと言っても、それぞれの人間を見ると、互いに似たり寄ったり。なるほど中には、他より優れているものもいるかもしれない。
しかし、優れたと言っても他の人間と比べてのこと。

とどのつまり、最終的には自分自身の問題となる。そして、あまり意味のないことをしていることに気づき、愕然としてしまう。そして、「学問も技術もやめちゃえ」と天台摩訶止觀で言っていると『徒然草』に書いてあったり、蘇軾(そしょく)の「字を識(し)るは、憂患の始め」などという言葉を思い出すと、何となくがっくりしてしまう。

学問をして文字を知ると、いろいろな情報が自分自身に入って、それから悩みが生じる。さらに、パソコンなどを利用すると、ついには情報過多になって疲れてしまう。

むしろ、何も知らないほうが気楽でよいのかもしれない。


何となく、病気は自分で作るものかも?


同じ状態に置かれても、病気になる人とそうでない人がいる。
もともと「病気」は、「気が病む」ことかもしれない。

確かに、怪我や外傷も病気であろう。
それらの場合、病院に行って治療を受けるのであるから。

しかし、内臓の病気の場合、かなり気持の持ち方、というより「気」の「持ち方」が影響をするようである。
同じように病原菌にさらされても、感染する人と感染しない人がいるのはなぜだろうか。

本来の身体自体がもっている拮抗力(きっこうりょく)や抵抗力などは、正常に働いている間は問題がない。しかし、ホメオスタシスなどがいったん失調してしまうと、いわゆる「病」の状態になる。
乱暴な言い方をすると、病気は自分で作るものかもしれない。
最近になって、つくづく私はそう思うようになった。
あなたは、どうですか?


アオサギは、霞の中に佇みており。


聖蹟桜ヶ丘駅から上り電車に乗ると、すぐに多摩川の鉄橋を渡る。
そのときに、私はじっと川面を見る。
小雨の降るような日に、アオサギがいることがあるからだ。
以前は、狛江の辺りに多かったアオサギであるが、最近になって百草園から高幡不動辺りの浅川まで、ときには登ってくることがある。

アオサギは、コサギやダイサギなどとは異なって、かなり神経質な鳥らしい。人間がそばに行くと、すぐに飛び立ってしまう。
だから、雨模様の日や霞んでいるときには、安心をするせいだろうか、近くまでくるようだ。鉄橋のすぐ下に、いることもある。

もっとも、彼らは散歩や逍遙をしているわけではない。
各自のテリトリーがあって、小魚を捕っているのである。だから、そのアオサギの回りには、他の鳥がいない。
それが、私には「孤独や孤高を守っている」ようにも、見受けられるのだ。


「豚生姜焼定食」を注文したり。


私は、吉野家の大ファン。
ときどき、「豚生姜焼定食」480円を注文する。むろん、中瓶ビールとともに。

そのときに、ふと思うことがある。
固有名詞であるから、それでよいのであろうが。ちょっと、気にかかる。
最初から正しく読める人が、いるのだろうか。

むろん、「生姜」は「ショウガ」である。古くから、辛みと香気のある地下茎を食用・香辛料にしてきた。薬としても漢方で、生姜(しょうきょう)と言って健胃・咳止めとして用いた。ハジカミとも言う。
しかし、「姜」の寺である。美しい女を想像する人もあろう。そんなために、「豚生」で区切って読んでしまうかもしれない。豚の生肉は、いただけない。

私は、「□肉□食」の□の中に文字を入れる入社試験が、かつてあったことを思い出す。答案の中には「弱肉強食」ではなくて、「焼肉定食」と書いた人がかなりいたそうだ。


(注) 同じ値段(480円)の「牛すき鍋定食」というのがある。
 「すき」は「すき焼き」のことで、「鋤焼き」と書くのであろう。「鋤」の字が難しいので、ひらがなにしたらしい。
 書くのが難しいのと同様に、読むのが難しかったら「豚生姜」も「豚しょうが」としたらいいだろう。
 そんなことは、わかりきったことだろうがそうなっていないところに意味があるのかもしれない。



「群れたがる」習性と、「個になりたがる」あり。


人間には「群れたがる習性」と、その反対に「個になりたがる習性」があるようだ。まったく反対の方向であるのが、何となく不思議でもある。

「群れたがる習性」とは、大きなものに集まりたがる気持である。ふつう、群れていると安心ができると考えるようだ。また、一人では何となく不安な気持になってしまう人が多い。

しかし、反対の「個になりたがる習性」というのも一長一短である。
『徒然草』や『方丈記』の著者たちは、そのことについて見極めていたようだ。
私には、卜部兼好よりも鴨長明のほうが、進んでいると思う。それでも、いずれも徹底していたとは、とても言えないようだ。

とどのつまり、必要に応じて群れ、不必要なときには個になるのがよい。
いくらがんばっても、日本国民であることを止(や)めれない。国籍を変えればよいかというと、そうしても同じことになってしまう。
さらに、人間であることを止めれない。例えば「私は貝になりたい」と思っても、なれるものではない。
そんな中にいるから、心の葛藤があるんだろう。


ソリティアと将棋・麻雀、ボケないために。


私は、勝負事が嫌いである。
人と争うのはむろんのこと、籤(くじ)・賭(かけ)、競争などもしない。だから、競馬や競輪などもやったことがない。また、宝くじも買わないし、お年玉付き年賀状なども出さない。

ソリティアなどは、ボケ防止よりも運試しにする人がいる。
しかし、私は占いとか占星術などには興味がない。だから、単に老化防止の一環として、楽しむだけである。

ソリティアを3回、将棋を一局、そして麻雀は半チャン、それでやめる。「もう一ちょう、勝負!」などとならないようにする。

そんな意味で、すばらしいゲームである。
いずれも、インターネットから無料で使わしてくれる優れもの。
詳細は、ここ をクリックしてね。


Kuroda Kouta (2007.10.01/2007.11.01)