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  新句(十九音) 作品集3(2007年9月分)



肉体は、皮膚一枚に包まれており。


いったい、何のことじゃ。
ここのところ、私は「空」という概念について考えている。
そして、驚くことにホーキングが『般若心経』と、とどのつまり同じことを言っているのを不思議に思う。その時間のギャップを考えてみて。

そこで、私もミクロコスモスに関して考えついた。「内管」や「外管」という概念から始めて。自分自身が、すでに細菌や化学物質に犯され始めてしまった被害意識によるのかもしれない。

自分自身を皮膚で囲まれた一つのシステム系(生死・取捨・有無の集合)と考えるときに、人間の脳がもたらす不都合や諸悪が始まるようだ。現在の人間社会である。

システム系については、他の動物や昆虫についても、調べているところだ。そんなことで、日々忙しい。


吹く風は涼しくなりて、秋を感じる。


「暑い暑い」と言っていたが、急に涼しくなってきた。
ここのところ、私は抗生物質を飲んで、身体の血液を浄化しようとしているが、それでも季節感などには敏感。
限られた文字数で、日々のことがらを綴る。そうすると、たまたま次のようなこともある。

実は、テーマの新句(十九音)はもしかしたら下記の「本歌取り」か、さらに悪く言えばパクリであろうかなどと気づく。

<ふく風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり>

『金槐集』にある源実朝の作品。

いかがなものだろうか?


「生きている証明」として、一日一句。


あなたを初めとして、親しい人々に日々のお便り。
いろいろと忙しい日々、あるいはなすべくもない日がな一日。
そんな中で、何となく自分自身を見失いがち。
そこで、一日一句。

やってみると、俳句や短歌よりも、やさしく簡単。
むろん、エッセーなどよりは手軽だし、短編小説や私小説などのような構成に関する面倒くささがまったくない。メモ日記のようなものである。

だから、ちょっとした断片でも、かまわない。
そんなわけで、少しも負担にはなりません。

あなたも、この短詞形をいかが?


「生死」「取捨」「有無」など、すべて「空」の空間。


だいぶ前から、『般若心経』や『伝道の書』で言う「空」とは何かと考えている。
もうじき私も、その「空」の空間に溶け込まなければならないからである。

生の後に、死があるのではない。(と、私は思う。)
また、そこから取っても自分が増えるわけでもない。また、そこへ捨てても減らない。「取捨」は、いわば脳のもたらした幻想。
さらに、ものが有るのではない。また、無いのではない。無いというのは、単に「無い」という状態が、そこにあるだけなのだ。それは、時間の概念を考えると、何となくわかる。

そんな「システム空間」を考えてみた。そして、いままとめている。
なお、ここで言うシステムとは、「生死」「取捨」「有無」から、それぞれ一文字を取って命名をした。


度忘れか? 名前を忘れ、困ってしまう。


老いてくると、耄碌(もうろく)をするのであろうか。
人の名前や物の名前が、なかなか思い出せないときがある。

誰かと話をしているときになど、言おうとして思い出せない。それを言おうとしているときには、イメージとしてわかるのであるが、どうしても具体的な名称が浮かばないのである。

したがって、相手には何も通じない。
まったく、困ったことである。

おそらく、脳の記憶は脳自体ではなく、そこに流れている血液が担っているのであろう。つまり、血液が劣化してくると、記憶が保持できなくなるのではないだろうか。


鮮やかな記憶になりて、君は残れり。


と言っても、実際の人ではない。
きのう見た映画のこと。1975年イギリス映画『バリー リンドン』、191分の大作。ライアン=オニールが演じている。
ジョージ三世の時代、アイルランド出身の成り上がり貴族の生涯。決闘で結果的には左足を失い、言葉通りではないが失脚をして、アイルランドへ母親と二人で逃げるように帰るところまでが描かれている。

妻の前の夫との子、ブリンドン卿の心の葛藤がメイン・テーマ。
アレキサンダー大王やナポレオンほどのスケールではないが、貴族社会や人間関係の中で、愚かな野心とその哀れな結末は、似たようなもの。
いったい、何をしたのか? いったい、何のための人生か?

全編にわたって「ラ・フォリア」が、通奏低音として執拗に歌う。別なチェロ曲などが少しあるが、「これでもか、これでもか」と反復する。
最後は、「美しいものも、醜いものも、今はすべてあの世」というテロップが出て終わる。


何となく、夏の疲れがそのまま残る。


外(そと)は、台風である。大型のものが、本土に上陸したようだ。
かなり風が強く、また雨もしぶいている。

今年の夏は、とくに暑かったようだ。
いま(2007年9月7日、金曜日、午前3時)、のそのそと起き出して、パソコンに向かってみた。
きょうは、南大沢の病院に行く日でもある。
この強風の中で、交通機関は大丈夫だろうか。

ここのところ、夏の疲れが残ってしまったためであろう。身体が、とてもしんどい。あるいは、現在服用をしている抗生物質のためかもしれない。

人生には、いろいろな変化がある。
何となく、いま自分自身の身体の中を台風が進んでいるような気もするが、……


久々に大食いをして、至福の時間。


腹がいっぱいになると、何となく幸福である。
しかし、インシュリンが不足になりがちなので、尿糖がなかなか戻らない。そこで、幸福ではあっても、「ダモレスクの剣」のような先行きの心配が生じる。

もともと、「心地よさ」が人生の目的のようだ。
教育や倫理などで、私たちは幻影をいだく。
そして、存在をしない目的に猪突猛進する。空しいことである。あたかも、ドン=キホーテが水車を悪魔と錯覚したように。

「生死」「取捨」「有無」などをまとめた概念として扱うと、価値観がちょっと変わってくるかもしれない。抗生物質を飲んでいると、気力がなくなって、何となく目的を失ってしまったのかもしれないが、……。


お互いに利害関係、反して敵に。


最初から悪い人は、意外に少ない。それが、何らかの拍子に相手が敵や悪人になる。人と人との関係は、そんなものらしい。
さらに、国と国の関係も同じパターンを辿る(たどる)。

親が死んで財産の問題から、兄弟が争うなどということは、まったくバカげている。しかし、そのような事例は思ったよりも多い。また、お互いに親しくしていたと思ったら、たちまち喧嘩である。
『徒然草』にも、

 <世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。>

という記述があった。


クラジミア・クリプトコッカス、血液に住む。


クラジミアやクリプトコッカスは、血液に住むパラサイト(寄生体)である。
したがって、私たちの血液中の栄養分をかすめ取る。その分量は、決して少なくない。やがて、本体がアウトになってしまうほど。エイズなどと同じである。

社会保険関係の人たちが寄生虫のように多く横取りすると、取られた本人たちは大変なことになる。つまり、横取りされて身を滅ぼしてしまうのである。

恐ろしい菌であるから、早めに何とかしたい。抗生物質を飲んで退治をするのであるが、身体が不調になるという問題もある。

血液は血管を流れているのだが、大動脈から毛細血管、さらにはグルミューに至って心臓にふたたび戻るまでは、何と地球の二周半もあるという。

そのようなことについて、

rikの「クラミジアなどを排除する血液浄化法」

に、独自な見解をまとめようとしている。


何故か? 夏の疲れが激しく残る。


今年の夏は、とても暑かった。
それでも、九月の半ばになると凌ぎやすくなる。すでに、秋になったみたい。

でも、身体がすっかり疲れてしまった。
昨年の夏は、10日間ほど入院・手術をしたが、疲れなどはなかった。
今年は、その後の経過がよくなく、抗生物質を飲んでいるせいか、何となく困憊(こんぱい)気味。

やはり、身体の中にパラサイト(寄生体)がいて、それに多量の栄養を横取りされてしまうためだろうか。

しかし、多くの人が私のような状態になっているという。保健所の係官が話してくれて知ったことだが、100万人くらいの人が治療をしないまま、どうしようもなくなってアウトになっちゃうらしい。


名人の棋譜(きふ)見て楽し、岡目八目。


岡目八目という言葉がある。
「おかめはちもく」と読むのだが、「岡目」は「傍目」と書くこともある。意味は、「やっている本人よりも他人のほうが、物事の是非がよくわかる」ということ。
囲碁を観戦している者は、実際の対局者よりも八目(はちもく)先の手まで読めるということらしい。

私は、囲碁でなく将棋が好きになった。
『青空の入門・創作ページへようこそ!』にある「ゲーム入門」の「将棋」のお陰である。

名人や有段者の勝負をテレビで見ていて、「ここに打てば、いいな?」と思うと、たいがいそうなる。岡目八目である。

政治や経営、戦争、そしてスポーツの試合や音楽の演奏などの批評は、自分の能力の10倍くらいまでできるという。したがって、物言いは簡単である。
実際にするのではなくて、……


何故か? 餓鬼のごとくの日々の饑さ(ひだるさ)。


どうしてだろうか?
ここのところ、馬鹿に腹が空く。食べないとひもじくなってしまう。
以前は、一日ぐらい食わなくても平気だったんだが。

おそらく、体内に住み着いたパラサイトが横取りをするせいであろう。
パラサイトも大量になると、ものすごく栄養を必要とするらしい。

昔から「腹の虫が治まらない」などというのは、心理的なことでなく、実際に体内で行われていることではないだろうか?

そこで、大食いをする。すると、しばらくはOK。
しかし、インシュリンが不足しているので、尿糖が出てしまう。
何とも、困ったことだ。


忙しげに(せわしげに)鳴く蝉ありて、秋は来にけり。


つくつく法師である。
私は、毎年つくつく法師が鳴くのを聞くと、秋の気配を感じる。
「かなかな」と鳴く蜩(ひぐらし)よりも、この声高(こわだか)に「おうしん、つくつく」と鳴くつくつく法師のほうが、何となく寂しく、そして狂おしい。

もしかしたら、反対に感じる人もいるかもしれないが。

私は、つくつく法師を聞くと、実朝のことなどを考えてしまう。
大きな船を造ったものの進水ができなかったり、暗殺をされる予感をもちながら過ごした焦燥の日々。

そして、短歌などに情熱を傾けざるを得なかった将軍職。
『東鑑(あずまかがみ)』に書いてあることが、何となく気の毒になってくる。
……


ステロイド、抗生物質、使いたくなし。


マクロライド系の抗生物質を3週間ほどやった。
そして、今日の通院から薬の種類がペニシリン系に変わる。新たな菌があらわれたので、それに対応するため。その上、ごていねいに体力維持のために、漢方薬までが処方された。
かなり、大きな包みになったから、持ち帰ったときに妻が驚いてしまう。

「毒をもって毒を制す」というような感じで、身体がもつだろうか。
できたら、抗生物質やステロイドのお世話になりたくない。ホメオスタシス(恒常性=自然治癒力=自己治癒)で治したいところ。

悪い物が内部にあるからといって、外部から強力な薬品を与えるのは、何となく恐ろしい。ベトナム戦争のときの枯葉剤ではないが、後に荒廃した結果をもたらすのではないか。


よい水を飲んで、新陳代謝していく。


血液にいるパラサイトには、参ってしまった。
長い間に、血液が汚濁してしまったからであろう。
そこで、抗生物質による治療だけでなく、自分でも血液自体を浄化することにした。
血液が完全に機能をしなくなった現代人が、いかに多くいるかということを知ったからである。

まず、血液や細胞に水分を十分に与える。
多いくらいでよい。余った分は腎臓で濾過される。むくみが出なければ、思い切って大量に水を飲む。血液を浄化するためである。

そのときの水分が問題。
長い期間に、私たちの遺伝子に慣れている生水でなければいけない。
ペットボトルなどの加熱処理をした清涼飲料水はダメらしい。私は、地下水をフィルターで濾過したものを日々用いている。
加工品では、丹沢水系の天然水を用いて作ったビールがいいみたい。
何となく、身体の調子でわかるからだ。


口と目と鼻が争い、眉に談判。


兪曲園の『顔面問答』である。

<あるとき、口が「自分は、三度の食事をして生命を維持しているにもかかわらず、顔の中でも最も下位にいるのは納得がいかない」と考えて、鼻に言った。「おい、君は飲み食いのような重要な働きをしないのに、僕の上に胡座(あぐら)をかいているのは酷い(ひどい)じゃないか」 すると、鼻は笑って「僕は君よりも、重要な呼吸という任務に服してる。食事は二、三日しなくとも死なないが、呼吸は待ったなし。不眠不休の大活動であるから、顔の中で最高の地位を占めているのだ。」 そのことについては、口も同意した。

しかし、続けて口は鼻に言った。「それでは、眼は飲み食いも呼吸もしないのに、一つならずとも二つまでも鼻の上で僕らを見下して(みくだし)いる。不合理ではないか。」
 そして、口と鼻は、眼に向かって「僕らは、日頃から飲食と呼吸をして生命をつないでいる。しかし、君らは重要な任務をなすこともなく、僕らの上位にあって始終僕らを眼下に見下ろしているのは、怪(け)しからんじゃないか」と文句を言った。すると、眼は「いかにも、僕は飲食も呼吸もしない。しかし、僕が種々の危険物を高いところから監視しているからこそ安全なんだ」
 これには、口も鼻も反駁できない。

さらに、口はまだ腑に落ちないことがある。それは、眉毛の存在。ほとんど無能でありながら、顔の最上位にいる。それが、気に入らない。そこで、口は鼻と目を連れだって眉毛に談判をした。「僕らは、飲食とか呼吸とか監視などの重要な任務を負っている。しかし、君はいかなる任務を負って顔の最高位を占め、しかも多数の同族で群居をしているのか」
 眉毛は、眉をひそめることもなく、平然と答えた。「君たちの労苦には、感謝している。ただ、僕自身が何をしてるかということになると、自分でも判らない。ただ、昔からこうしろと言われるままに、こうしているだけだ」>

ここのところ、私(黒田康太)は「身体全体が一つのミクロコスモス」だと、つくづく思う。そして、各部分は単に役目や大きさが異なるだけ。

顕微鏡で地球を見たが、地球人があまりに小さく発見できなかったというヴォルテールの『ミクロメガス』。
宮沢賢治の『気のいい火山弾』や『どんぐりと山猫』。
「最近の世界情勢」と「細菌の体内状態」。
「脳の不気味な存在」と「脳のもたらした幻影」。
「血液の不思議」
などについても書きたいが、長くなっちゃうのでやめる。


ご利益(りやく)や、効果ばかりを求めていない。


久々の休日、妻が巣鴨のとげぬき地蔵に行きたいと言う。どうやら、妻も身体にアレルギーが出かかっているみたい。そんなために、いつもお世話になっているお地蔵さまのお札(御影)のストックがなくなってしまったらしい。

同病相憐れむである。私もここのところ身体の具合が悪いので、一緒に出かけることにした。前回の足のときに、御影ですっかり治ったからである。
しかし、そうかと言って何が何でもご利益(りやく)や効果ばかりに預かりたいというわけではない。もしかしたらという程度の期待でしかないのだ。
乞食僧・雲渓桃水が壁に貼った阿弥陀絵に書いた和歌と同じ主旨である。
いつ行っても、とげぬき地蔵は大繁盛であった。だから現在まで多くの人にご利益があり、有効であったことが何となく解る。

妻のアレルギーは、皮膚自体よりも血液の問題らしい。
私たちの皮膚は、伸ばして広げてみると非常に大きなものであるが、血管はもっとすごい。人間一人の大動脈から毛細血管、グルミューまですべてを足して計ると、何と地球を二回り半の長さになるという。

私の場合は、その血管を流れている血液が何となくおかしい。
そこで、耳なし芳一が耳に貼るのを忘れたどころではなく、血管には御影が張り切れないと妻に言ったら、流れているから二箇所に貼ればOKと言う。それで、私は当面二十五柱分くらいで足りると考えた。

むろん、私も一緒に行ってお参りをした。しかし、僧によるお祓いは妻だけがしてもらった。妻は100円を入れたが、鉢の中には10円玉が多かったそうだ。それから、御影を大量にいただいた。二人で千円分、つまり五十柱の仏さまである。

帰りに吉祥寺に寄って「いせや」で焼酎(梅割り)と煮込みと焼き鳥6本をそれぞれやった。焼き鳥は、レバ・ハツ・タン。50年前の学生時代と同じである。
とても有意義で、楽しい一日であった。


思いつくままの回答、次々とした。


今考えてみれば、ちょっと無責任だったかもしれない。
相変わらず、おっちょこちょいの謗り(そしり)を免れ得ないだろう。
Yahoo!などのサイトを初めとして、後でまとめた

「健康Q&A」  「パソコンQ&A」  「雑学Q&A」

の三つである。
でも、自分自身の「ボケ防止」、つまり「老化予防」にはもってこいの場所。そんなことで、大いに意義があり、楽しかった。
しかし、私のした回答が間違っているんじゃないかという不安がつきまとう。
それでも、性懲り(しょうこり)もなく、この度

「Q&A質問箱」

『青空の入門・創作ページへようこそ!』などに新設した。

必要があれば、ご利用くださって結構です。
また、回答が間違っていたら、どうぞご教示いただきたい。
今後とも、よろしく願います。


難しい言葉を使う愚かさ避ける。


相手を見て、言葉を使い分ける必要がある。
文豪の誰だったかが、猿にでもわかるように話せと言った。「朝三暮四」になっては、いけないからだ。

「ありていにとろしろ」というよりも、「ありのままに言いなさい」と言ったほうがよい。さらに、「どうしたの?」のほうが好ましいだろう。

幼稚園の子どもだと、「有り体に吐露しろ」などは絶対にムリ。
「ありのままにいいなさい」でも心配。おそらく、その子は「蟻のお母さんは、どこにいるの?」と聞き返してくるだろう。
つまり、「どうしたの?」がいちばんいい。

間違って伝わってしまったり、説明に時間がかかるようなことは、なるべく避けたい。そんな考えで、ここのところ文章の技法を研究しているんだ。
そして、

『青空の入門・創作ページへようこそ!』

「文章技法1」  「文章技法2」  「文章技法3」

として、何とかまとめようとしているんだが、……


いろいろと指導いただき、感謝してます。


三木さん、きょうは浜田山の珈琲苑で、どうもありがとうございました。
あれから吉祥寺に行って、DELLに寄りました。プリンタとディスプレイ27インチワイド(1920×1200)を注文する準備のためです。
プリンタは5000円くらい、ディスプレイは10万円ほどです。

とくに、ディスプレイは現在のが1280×1024ですから、いかに大きくなって、能率がよくなるかがわかります。
とてもうれしくなって、話題になった土屋商店で買い物。さらに、ふらふら〜っと「いせや」。そして、お決まりの梅チュウ、煮込み、レバ・ハツ・シロ各2本。

そんなわけで、足がもつれてしまい、西武線の是政から歩くのはムリ。すでに上北沢から、浜田山まで歩いたのでいいとしました。そこで、京王線で帰宅。

聖蹟桜ヶ丘まで帰ると、何とまたまた腹が減ったので、吉野家で100円の牛丼と、丹沢水系自然水100パーセントのビール中瓶400円。どうやら、空腹は血液中のパラサイトのなせる影響らしい?

それでも、いいご機嫌で無事に帰宅。
お陰様で、有意義な楽しい一日でした。


衰えは、いたしかたなし、せめて気力を!


還暦と古希の間くらいから、何となく衰えてきたみたい。日々どうしても、肉体的に衰えが進むようだ。疲れてしまう。

気持だけでも、フレッシュでいたいと思う。
しかし、身体と精神は一体なので、どうもそうはいかない。福祉センターで話してみたら、誰でもそうらしい。
つまり、「ウルマンの詩」のようには、なかなかなりにくいのである。

体力的に衰えるのは、致し方ないであろう。しかし、重篤な病気にはなりなくない。ところが、大切な血液にパラサイトが巣くってしまった。それが原因であろう。衰えが、どんどん進むのである。

担当の医師や保健所の係官が言うには、そのようなタイプの患者が、最近になって、ものすごく増えているそうだ。1万人くらいが、未治療のまま放置されているという。つまり知らぬ間に、人間の身体を植民地のようにして寄生してしまうパラサイトが増えてきたのだ。

中には、エイズ菌や肝炎菌などのように、抗生物質がまだないものもさえある。そんな菌に寄生をされると、もはやアウト。

検査をした結果、私のはまだそこまで行っていない。
早めに、何とかしよう。


久々に電話が来たり、奥さまの声。


蒲田の工学院で講師をしていた時代に、ご一緒をした玉野さんの奥さまから電話である。いつも、そのようにご本人ではなく、奥さまやご子息から電話があったときは、一瞬ギクリとする。

幸い、今回は亡くなったのではなく、代わりに電話をかけたと言うことで、まず一安心。しかし、寝たきりになってしまったという。そして、襁褓(おしめ)の状態になってしまって、電話にも満足に出られないそうだ。
それでも、奥さまに

「黒田くんは、元気にしているだろうか。一度、合いたいなぁ」

と言ったらしい。
現在も、町田の芹が谷公園の上に住んでおられる。ついこの間、町田に行ったんだが、疲れちゃっていたので、連絡もせずにそのまま帰った。小山田の蓮田と薬師池に行って、バスの都合で町田駅を経由したときだ。

ソニーに長くいて半導体の権威であられ、工学博士であるが、もはや記憶も薄らぎ始めているらしい。何とも残念なことである。
10月に入ったら、お見舞いに行ってみよう。


少しずつ整理をしよう、HPのなか。


四年前に意気込んで始めたホームページであるが、なぜか訪問者が少なかった。そこで、仕方なく自分のメモとして使っている。

当初は「取らぬ狸の皮算用」ではないが、「健康」や「老化予防」のテーマで地域社会にお役に立てると考えた。そして、いくつかのサイトを作ったのだ。

しかし、効果がない割りには、かなりの手数がかかって面倒くさい。
そこで、整理をすることにした。しかし、縮小をする必要はまったくない。
なぜならば、Yahooのサイトが一つ1ギガバイトになったからである。今までの300メガバイトのホームページ3つ分が、すべて入ってしまう。

『青空の入門・創作ページへようこそ!』である。

拡張や拡大をしていくときは、勢いがあるから簡単であった。
しかし、整理をしたり、統合や撤退をするときは難しい。個々の関係(リンク)に、齟齬(そご)を来すからである。また、仲間も散り散りになってしまい、一人で細々と全体を繕(つくろ)わなければならない。

個人のちっちゃなホームページでもそうなんだから、「企業の縮小・閉鎖」や、さらには「先の太平洋戦争」などは大変であったことが、何となくわかる。
私の場合は、そんなことが何となくわかったと同時に、やはり何となく初めから大きくしなかったほうがよかったみたい。


パラテロの危険性、極まりない立場?


日本人は、テロのターゲットになっているという。
なぜか国民性がずるい印象を与えて、安全や健康などより金儲けを考える商社があったりするので、その世界に敵を作ってしまったらしい。

ただ、地域上、国が海上に閉じている形なので、外国に武器を売ったりしても攻撃をしにくいという特徴があるので、今までは無事。危険の多い国にいるのに、何とも有りがたいことだ。

日本人は、何でも食べる。つまり、貪欲だからである。
また、タダで街頭でくれるティッシュなども安心して使う。貧しいからだ。
例えば、中の紙に細菌が潜ましてあっても、そこまで考えが及ばないだろう。そんな方法であれば、地下鉄の中にサリンを放射するよりも簡単。また、少しずつすれば効果抜群。犯人の特定も、しにくいと思う。

日本人の『化学薬品症候群』など、摩訶(まか)不思議な病状を考えると、すでに、化学薬品を食べさせることによって、パラサイトのテロリズムが徐々に進行しているように私は思う。


三木さんのHP拝見、考えてみた。


どうも、ホームページのあり方について自信をなくした。
自分のものを見て冷静に判断をしたり、考えたりするのは、何ともいたたまれない。そこで、先輩である三木さんのHPを見て、客観的に判断をしよう。

自分が、誰も訪問してくれないHPを続けているのは、何のためか?
当初は情熱をもって作成したが、やがてマンネリになっちゃって、諦めと自己満足の域を出ないのはなぜか?
私は、日記をつけるような感じで「健康」に関して、日々社会に警告を与えようとした。大げさに言えば、立正大師の「立正安国論」のように。以前から、私も「この国が健康に関して危機にある」と考えていたからである。

しかし、やがてわかった。
まだ「寝耳に水」ならよいが、むしろ「馬耳東風」なのである。

結局は、何となく宗の蘇軾(そしょく)が書き残した

<字を識(し)るは、憂患の始め>

になっちゃうことを発見して、我ながら愕然とした。
人生において、文字を知って覚えることは、心配をしたり心を痛めることの始まりなんです。学問をして文字を知ると、いろいろな情報が自分自身に入って、それから悩みが生じます。
むしろ、何も知らないほうが気楽でよいのかもしれません。

先輩のHPを見て思ったことだから、自分自身のもっとおそまつなHPであれば、なおさらいっそうのこと。


コスモスの花咲き乱れ、秋は来にけり。


コスモスは、「宇宙花」である。マクロコスモスとミクロコスモスがあるようだ。

cosmos

多摩川の河川敷で、コスモスが咲き乱れている。台風が来て、大水が出たらお終い(おしまい)だろう。根こそぎ流されてしまうから。
なお、上の図をクリックすると大きくなります。

「コスモス」の思い出もある。宮先生。滝口英子さん。三木アヤさん。その他、大勢の人がいた。今は亡い人と、今も元気な人と、今は病気の人がいる。また、新聞の選者になっている人もいる。

そのころ、三鷹台には家が少なく、教会が大きくてもひっそりとあった。井の頭線の反対側の高台には、立教女学院。神田川ではヌートリアを飼育して、毛皮を売っていた人がいた。ときどき玉川上水に入水する人がいて、どんどん橋のところで土左衛門になって上がった。よく見に行って、覚えている。

私は『やさしい短歌入門』で自信をなくしたので、この『新句(十九音)』を始めてみたんだが、……


見つけたり、世界制覇も愚かな仕業。


古希も近くなって、とうとう見極めたような感じがする。
政権や権力争い、そして国家間の抗争、つまり戦争など。それらは、何れも愚かな始業(しわざ)であろう。
その意味で、私はアレキサンダー大王やナポレオンの業績などを偉大ではあるが、愚かしいことと考える。征服などと同時に、スポーツの世界も同じ。

先日、森内名人と郷田九段の対戦を見た。棋譜を見ていると、双方ともに実に鮮やかである。結局は、郷田九段が破れたが、それに至った経過は誰にでも明らか。素人の私が、テレビに映った盤面を見ていてもわかる。

話を戻して、私はいつも将棋における一つの戦略を考える。
もしも、相手の駒を取っていって、全部取ってしまったらどうなるであろうか。金銀財宝ではないが、取った駒を使わずに一方がすべてを貯める。
使うときは、別の駒を取るときである。例えば、桂馬で飛車・金取りなど。
すると、最後は王将だけになる。しかし、そんなことをしていったい何になるのだろうか。
やってみれば、よくわかる。
例えば、『青空の入門・創作ページ』の「ゲーム入門」にある『将棋』を見ていただきたい。その最後のほうにある「○何とも愚かな持久戦」のところです。


「新川」という川、いまはすでになくなる。


三鷹市に、「新川」という地名がある。
かつて、そこに「新川」という川が流れていたらしい。しかし、今となっては、川の面影はまったくない。「仙川」の場合とは、ちょっと違う。

似たようなことが、「入間川」(いるまがわ)にも言える。
滝坂小北にある甲州街道のところで、上流が暗渠になっているらしい。それ以前は、どうなっているかわからない。もしかしたら、ないのかもしれない。
ただ、中央高速下の中原四丁目第一アパートの辺りで、ちょっとその上流らしき姿があることはあるが。
かつて、三鷹市野ヶ谷のあたりに湧水(ゆうすい)や沢があった。もしかしたら、入間川はそこが水源地だったかもしれない。

下流のほうは武者小路実篤記念館のところで、ずれ曲がって入間町の西側を流れ、子鹿幼稚園のところで「野川」に注いでいる。つまり、別な川に合流をしているのだ。

地図を見ると、上流の分断された面影が何となくわかる。
「新川」とこの「入間川」のレポートを『青空の入門・創作ページへようこそ!』に後日しようと思う。


久々に会いたる友は、疲れたと言う。


高齢になると、誰もが日々疲れちゃうらしい。
そして、慢性疲労というか、人生に疲れてしまうことがある。歳をとると、疲労は仕方のないことかもしれない。

かつて、疲労というのは「疲労素」というものが、体内に蓄積すると考えた時代があった。それならば、それが貯まらないようにすればよい。

しかし中には、老人でも疲労など感じられないほど元気な人がいる。
目もいいし、耳も大丈夫。それどころか、食欲が旺盛。そんな人は、いったい何が原因なのであろうか。
羨(うらや)ましいかぎりである。

私も、ここのところ疲れて仕方がない。いま考えると、若いころは疲れなどあまり感じなかった。よほど、激しい運動をしたときなどのほかには。

それが、何となく疲れているのだ。
「疲労困憊」(ひろうこんぱい)という言葉がある。「疲弊困憊」(ひへいこんぱい)とも言う。また、それらを短くして「疲憊」(ひはい)などとも使う。

その友だちも、慢性的に疲憊してしまったらしい。それは、現代人の一般的な傾向かもしれないが。
お互いに、何とかして頑張ろう。


Kuroda Kouta (2007.09.01/2007.10.01)