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  新句(十九音) 作品集2(2007年8月分)



八月は葉月というか、間もなく晩夏。


陰暦で、八月は葉月(はづき)と言ったそうですね。でも、私は晩夏という言葉のほうが何となく実感を受けます。

幼いころの夏の思い出が、今でも残っています。
銀ヤンマを追ったり、小魚を捕りに行ったり、いろいろと楽しいことがありました。三鷹の上連雀や牟礼(現在は井の頭四丁目になっている)に住んでいたころのことです。

いったい、時間とは何でしょうか?
アルバート=アインシュタインは、

<過去と現在と未来の区別は、いかに根強いとは言え、単なる幻想にすぎない。>

と言っていますが、……


食堂で、ビール飲むわけ、言ってしまおう!


きょうも、吉野家に行きました。
期間限定の鰻丼(うなどん)は、すでになくなっていた。そこで、いつもの通り、私は豚丼(とんどん)とビールを注文する。

ビールは、サントリーモルツの瓶で500ml。ラベルに「粒より麦芽 100% 天然水仕込み」と書いてある。それは、かつて「武蔵野ブルワリー」と言った工場で、丹沢系の地下水を用いて作られている。

「より」が「選り」となっていないのが、ちょっと心配。でも、私は安全性の確認のために、何回かその工場の製造工程を見学しに行っている。

実は、私は食堂で水が飲めないのである。
多摩市の水は、地下水なので夏は冷たくおいしい。

しかし、市の周辺には十近いゴルフ場がある。そして、いずれも市の水源地よりも高台。ゴルフ場にはよく行くが、雑草一本も生えていない。米軍に接収されて、治外法権になっている場所は、かつて陸軍が化学兵器などを作っていて、そのまま地下に放置されているという。

地下水や多摩川の伏流水が、どう流れているか知らないが、安全のために市の水道水は飲まない。

そこで、ニール=ドルフではないがビールの常習?


デジカメでパチリ、覚えは五七七する。


散歩やハイキングのときに、ちょっと変わった風景があったら、デジカメでパチリ。そして、その覚えを五七七にしてメモっちゃう。
それが、そのまま「生きている証明」になると考える。

そんなことをすると、実に日々が活性化をするではないか。

デジカメは、かなり大きな範囲が何万画素という高密度で取れる。したがって、必要な箇所をトリミングしてもよい。そんな楽しみと、記事の五七七を作る楽しみがある。

言ってみれば、小学生の日記帳と変わらないかもしれない。
しかし、簡単に編集をしたり、手軽に追加ができるところが、パソコンでするときの大きなメリットであろう。

いわば、記録自体が成長していくことができるのである。


何もかも、するのがいやになるときもある。


若いころは、そんなことがなかったようです。
しかし、老いてくると疲れちゃって、何となく何もかもするのが億劫になりがちです。

つまり、精力が衰えて、物事に対する情熱が薄れたためでしょう。
そんなわけで、あまりムリをしてはいけません。

私の場合、重篤な病気をやってしまったので、その退院後くらいから次第に気力が薄れてきたみたいです。

横井也有でしたか、俳文集『鶉衣』が有名です。その中に「老嘆辞」という老いを嘆いた文章があったと思います。そして、「ぼつぼつ引っ込むべきか」というようなことが書かれていました。

それを読んだのは、まだ私が四十歳代のころでした。
今、思えば。


校正や更新をする楽しみが、〜
〜図書よりも、気軽にできるこの五七七。



誰か忘れましたが、ある作歌が志賀直哉宅に訪問すると、彼が短編を手直ししていたという話があります。
小説の神様などと言われるほどの文筆家でも、何回も加筆や手直しをするようです。

ホームページの場合は、図書などと比べると校正や更新が簡単です。
また、全文中から検索をしたり、文字の置換をすることにも時間がかかりません。

そんなわけで、校正や更新そのものが、知的空間を広げる作業でもあり、「生きている証明」にもなるのです。


河原を進めばバッタ、わが先を行く。


多摩川の河原の草むらを歩いているときです。
青いバッタが、私の歩いている先を飛んで行きます。そこまで行くと、さらに前のほうへ飛びます。

そんな習性が虫にあるのでしょうか。ただ、逃げているだけなのでしょうか。
幼いころに、ハンミョウという虫がいました。
その虫は、やはり前へ前へと逃げていきます。虹色の美しい虫なので、必死になって追っかけるのですが、決して追いつきません。

河原にいる青いバッタは、おそらくトノサマバッタなのでしょう。
「ギィーッ」となくキリギリスは、めったに道には出てきません。


久々に浅漬け(あさづけ)食べる、懐(なつ)かしき味。


妻が働いている会社の秘書さんから、トウモロコシとキュウリ、そしてキュウリの浅漬けをいただいた。そこで、私もお裾分け(おすそわけ)を食べた。
とてもおいしかった。それとともに、何となく母の記憶が蘇って(よみがえって)きたのである。
そして、懐かしい記憶の断片が次々。なぜならば、幼いころに母がよく作ってくれた味だから。

妻の食事が危険であると言って、喧嘩をして台所を交代してから、私はここ10年ほど味噌汁や漬け物を作っていない。第一、台所には味噌も置いていないし、塩や砂糖さえもない。むろん、マヨネーズやトマトケチャップなどない。味付けは、醤油だけ。

野菜や果物は、ふつうそのまま食べる。
トマトやキュウリ、そしてリンゴや梨、それらはふつう丸ごと皿に盛る。盛るというか、ただ洗って載せるだけ。そして、小さいナイフで少しずつ切り出して食べる。切り口を酸化させないためです。

サツマイモやトウモロコシなどは、圧力釜で茹でる(ゆでる)。やはり、いただいたトウモロコシもそうした。甘みがあって、とてもおいしかった。
秘書さん、ありがとう。


夏の日の河原を行けば、キリギリス鳴く。


多摩川の堤外(ていがい)を歩くのが、私は大好き。
そこは、堤防のいわゆる内側であるから、河川敷(かせんじき)。つまり、大水が出たときに河床になる部分で、砂利のままである。そして、ふつう雑草が生えている。

そこを素足にサンダルを履いて歩く。とても、気持がよい。
夏の日照りには、キリギリスが鳴いている。「ギース、チョン」という鳴き声が喧しい(かまびすしい)。
しかし、歩いていくと鳴きやむ。そして、そこを過ぎ去ると鳴くのだ。

どこにいるかなと思って、立ち止まってみることがある。しかし、なかなか見つからない。
そんなときに、ふっと思う。こんなことが、幼いときにもあったということを。それは、デジャビュ(既視感)などとは違って、実際に体験をしたことだから、とても強く懐かしい思いがする。

そんなこと、ありませんか。


ルカ一章、二十八節、アナウンスなり。


「新約聖書」の『ルカによる福音書』第一章・第二十八節に神のみ前に妊娠をしたことを告げられます。日本語では、「受胎告知」とか単に「告知」として有名なくだりです。
この宗教も含めて、厳かな言葉を用いるという悪い習慣があるので、最近では単に「お告げ」となっているかもしれません。

ダビンチの絵もあって、なかなか素晴らしいシーンとは思いますが、私は別な考えをもっています。
つまり、実際に起こったことを後になって神聖化する工夫が訳された文章からも見え見えなのです。また、実際になかったことを構築する技法が何となく感じられるのです。

しかし、私は学者ではないので、いずれが真実であるかを確かめようとは思いません。ただ、自分自身の常識でわかる範囲の解釈をすればよいと思うのです。
あなたは、いかがでしょうか?

参考ながら、下記はダビンチの「The Annunciation」という絵です。

http://www.artbible.info/art/large/270.html


この道はいつか来た道、なつかしい道。


なんとなく聞いたような言葉です。
しかし、この五七七ではいいんです。真似であっても、引用でも、さらにパクリでもかまいません。

(もっとも、著作権者との問題については、責任を取らねばなりませんが、……)

人にはデジャビュ(既視感)がありますから、誰もが同じような体験をすることもあるでしょう。

古くは『徒然草』などにも、そのようなことが書かれています。

第七十一段の後半、

<またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

という部分です。
あなたも、そんな経験をなさいませんか?


恐(こわ)くなり、「奇想天外入門」止め(やめ)ぬ。


「神と時間と空間」というようなサブテーマで、

『奇想天外入門』というページを作ろうとしました。

しかし、なぜか恐ろしくなって先に進みません。そこで、しばらくは止める(やめる)ことにしました。

なぜならば、力不足な自分が「めくら、蛇に怖(お)じず」であったり、さらには「蟷螂(とうろう)の斧」であるような気がしてならないからです。

また、自分自身が何となく、次元の異なる対象に全力で向かっていくドン=キホーテのような感じがしないでもありません。

ちょっと、間をおいてみましょう。


訪問者、少ないままに続けてきたり。


誰も見てくれないホームページを作るのは、意味のないことだなどと言う人がいます。
でも、そうでしょうか?

私は、そのようなホームページでも、自分自身が自分自身に対する「生きている証明」として、とても有意義だと思うとります。
そして、子どもを育てる楽しみや、物事を完成させていく喜びが、その中にあるような気もするのです。

何も知らないままに始めたホームページですが、それでもいろいろなことが次々とわかりました。知らなかったことを理解するという喜びも、その中に多く含まれているようですね。

あなたの場合は、いかがですか?


楽しみは、梅雨明け晴れて、野を歩くとき。


梅雨の間は、あまり歩けません。
とくに、林道などは湿っているので、素足にサンダルの私には苦手です。
また、蝮(まむし)などに噛まれる危険性も大きいのではないでしょうか。

そんなわけで、梅雨が明けて晴れた日がくるのが楽しみです。
山林を歩くと言っても、そこに「自由が存す」などとは思っていません。ただ、何となく雰囲気が好きだからなのです。

そして、歩くところは多摩ニュータウンに隣接して、まだ「武蔵野」の面影が濃く(こく)残っているところです。
例えば、町田市の小山田地域などです。

あなたも、行ってごらんになれば、おわかりになるでしょう。


木漏れ日の道を歩めば、懐かしき日々。


木漏れ日のした林道を歩いていると、ふっと懐かしい気がします。
もしかしたら本能的に、誰でもが感じる気持なのかもしれません。

しかし、私の場合は幼いころの記憶が強いようです。
実際に、そのような経験が何回かあるからです。

小学生のころは、まだ住んでたところの回りに雑木林などが残っていました。そして、近道をするときには、その中を通って行けるようになっていました。
カブトムシやクワガタを捕りに行ったこともありましたが、首つりをした人がいたりもしました。

ですから、子どものころに感じた気持が、何となくノスタルジアとして出てくるのでしょう。


可能性、一つずつ、わが過去に失う。


考えてみれば、可能性を次々と一つずつ失いながら、人生を引きずってきたようにも思うのですが。

若かったころは、希望に満ちあふれていました。
それが、今になってみると何となく気力がなくなってしまったのです。

そして、ふっと暗い気持ちになっています。
この間、フィッシャー=デスカウと言ったでしょうか、『冬の旅』という曲を聴いていましたら、最後の「辻音楽家」というところで、なぜかそんな暗い気持ちになりました。

ただ、上のテノールだったアルトの名前やシューベルトの曲名などは、もしかしたら記憶違いをしているかもしれませんが。


恵美子さん、ふっと名前の懐かしさあり。


聖蹟桜ヶ丘VITAの7階で、恵美子さんという人に会うたびに、私はたまらなく懐かしく思う人があります。

しかし、私の「恵美子」さんは、その恵美子さんのように「ふくよか」、あらっぽく言えば「ちょっとでっぷり気味」ではありませんでした。むしろ、ひょろひょろしとしているやせ形だったのです。そして、最期のときは一層に痩せてギスギスしてしまったという話です。

私は、残念ながら彼女の死に目には会っていないので、見たわけではないのです。

その人のことを、「絵美子」という名前に変えて、『カンムリバト』として、記憶のために物語としてまとめてみたんですが。


鬱々(うつうつ)とするときもあり、うつらうつらも。


何となく気持が晴れなくて、憂鬱なときがあります。
そのようなときは、鬱陶しい気持をなるべく早くぬぐわなければなりません。ますます、それが進んでしまわないようにです。

また、眠気をもよおして、うつらうつらすることがあります。
いくら身体をしゃんとしていようとしても、ついとろっと眠気に引き込まれます。

そのようなときは、血液中に糖が残っていることを考えてください。
つまり、糖尿病になって尿糖が出ているのでしょう。
ふつう、食後2時間もすれば血液中の糖はなくなると言います。しかし、糖尿病の症状が進むと半・半日(6時間)くらい尿糖が出続けることがあります。

もはや、そうなると抜本的な体質改善が必要になるでしょう。


ふらふらとする感覚で、思考しており。


頭は、いつでも物事を明快に判断しなくてはいけません。
ふらふらとするような判断では、あまり当てにならないからです。

そのためには、あまり考えすぎてもダメでしょうし、また考えることなくして過ごしても、やがて機能が衰えてしまうでしょう。

つまり、考えないこともいけませんし、考えすぎてもダメなのです。

アメリカの大企業で、

Think Think Think

と言う三連の言葉を社是にしているところがあるそうです。


愚かなり、古くてでかい家に住むのは?


そんなことを考えて、私は今の超高層ビルが新築・完成したときに引っ越しをしました。すべてが、新しい建物だからです。
また、全体はかなりでかい建物ですが、住んでいるところは小さい小部屋です。だから、ホテル住まいのような感覚でもあり、また「牢屋」「たこ部屋」のような感覚でもあります。

いずれにしても、公団の賃貸住宅ですから気楽です。
知人のように家の修理や保守に費用がかかるようになったと嘆く必要はありません。また、古くなれば他に引っ越せばよいのです。

でも、今のところは、すっかり気に入っています。
ですから、少々家賃が高くても、気になりません。


思いつくことを細かに、書き留めてみる。


「なぜそんなことをするのか」と、おっしゃるのですか?
それは、「生きている証明」をしているからです。

この新句には、簡単な五七七の形式を利用して、考え方や思いついたことを記録できます。それも、気楽にできるのです。

そこで、思いついたことは、忘れてしまわないうちに作品としてメモっておくとよいでしょう。

メモにしておくと、後で見直して、それを育てることができます。
しかし、ちょっとしたことでも忘れてしまったら、それでお終いです。
そんなことが、結局は「生きている証明」なんですよ。


次々と、記憶のうちの欠片(かけら)が戻る。


記憶の断片、つまり欠片(かけら)ともいえる些細(ささい)な部分が、脈絡もないままに蘇って(よみがえって)くることがあります。しかし、それの原因が何によるものかはわかりません。

得てして、それはなぜか、いつも私を苛む(さいなむ)のです。
中には、犯罪に近いようなものもあるのですが、なぜそんな記憶が今頃になって、唐突に蘇ってくるのかがわかりません。

もしかしたら、脳が私に自己反省の機会を与えようとしているのではないでしょうか。
脳というものは、まったく不思議です。
もしかしたら「人間に寄生をしたエイリアン」ではないかと、私は思ったりもするのですが、……


思い出とともに生きゆく、寝たきりの老い。


これは、ある先輩のことについてです。つまり、その先輩をテーマにした私の作品なのです。

その人は、すでに歩行が不可能になってしまいました。病院へ行くときなどは、お子さんに車椅子を押してもらいます。

記憶も薄らいでしまって、何となく生気がありません。
そこで、私は思い知らされた次第。

寝たきりの老いが、いかに問題であるか。
また、なすべくもない日々が、いかに無意味になってしまうか。

そんなために、症状が軽いうちから「生きている証明」のために、新句(十九音)を始めるのがよいでしょう。


考えてみれば、さほどに要(い)るものはなし。


考えてみると、身の回りには「どうしても必要だ」というものは、あんがい少ないようですね。
身近に、使わない物、活用をしていないものが、かなりあるからです。
また、不要なものが多すぎるようでもあります。

しかし、不要なもの、活用をしていないもの、使わない物なども、求めるときは考えが違いました。

私は、「吾唯足知」(われただたるをしる)という蹲い(つくばい)に書かれているデザインを思い出します。そして、その「口」を他の四つの文字が共用している姿勢などに、まったく感心させられるのですが、……


人生は、欲求の追求? 愚かなりけり。


「金が欲しい」「物が欲しい」「恋人が欲しい」などと言って、次々とがんばるのが人生のようです。
とくに若いときには、際限がありません。

しかし、老いてくると違ってきます。
キリがないということを知ったからでしょうか。

そんなわけで、老いると欲望が少なくなるのがふつうです。
しかし、老いてますます物欲が増す人もいるので、驚きです。

また、老いてなお勝負をする意欲がある人もいます。
しかし、老いたら内面的な問題をクリアして、「生きている証明」をなすべきではないでしょうか。


最近は、イタリア料理大好きになる。


「肉や魚を食べない。」「油っこい料理は食べない。」「ベジタリアンだ。」
などと言っていたが、最近はちょっと違う。

入院・手術をして、その後ちょっと具合が悪い。カテーテルから院内感染をしてしまい、体力が維持できないのだ。そこで、ベジタリアンを撤退。肉や魚も食べる。そして脂っこいものや、油っこいイタリア料理もOK。

先日、吉祥寺の武蔵野公会堂にある「TRATTORIA Piccina」で臼井さん、高守さんと食べたイタリア料理1500円のコースはおいしかった。

また、きょう妻といっしょに仙川の「Cafe Jr. ITALIAN TOMATO」で食べたイタリアン・モーニングも、とてもおいしかった。

ベジタリアンなどと言っていた日々が、今となってはバッカみたい。


新句して、あなたも日々の生きる証(あかし)を!


だいぶ前に、

五七七、あなたもやって、生きる証(あかし)を!

という句を作りました。

その後、五七七ではなく「新句」とするほうがよいと考え、この句を作ったのです。しかし、最初は「新句」ではなく「真句」を考えましたが、他の短詞形に対してちょっと厚かましく、また「Think」などとするのもキザっぽく、またサギっぽいようなので、単純なこの「新句」に相成り(あいなり)ました次第。

しかし、名前は変わったものの目的の主旨や中身はまったく同じです。
とても簡単です。
あなたも、やって確かめてごらんになれば?


何事もしばらくすると、慣れて飽きちゃう?


最初は興味をもって始めたことですが、しばらくすると何となく面倒になって、遠ざかっていくようです。飽きっぽい私は、とくにそのような傾向が強いのですが、知人にもっとひどいのがいます。つまり、彼は、人生そのものに飽きちゃったみたい。

能役者で謡曲作者だった世阿弥元清の言葉に、

<初心忘るべからず>

とあります。
それは、「常に最初の意気込みと、物事に対する謙虚さをもって当たらなくちゃダメ」というような意味でしょう。

また、宮本武蔵が言った言葉、

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。……>

なども印象的ですね。


蛇の皮、蝉の脱け殻、空しくもあり。


小山田緑地の林道を歩いていると、蛇の皮や蝉の脱け殻を見かかることがあります。いずれも、木に引っかかっているのですが、蛇は脱皮をして一回り大きくなったのでしょう。また、蝉は地中の生活から地上に移った後で、飛べるようになるために殻を脱ぐのでしょうか。

いずれにしても、変身と言えるでしょう。
蛇は変身をしても、あまり姿に変わりがありません。
しかし、蝉は羽を使って飛べるようになるので、大変身です。

動物の身体は、なかなかうまくできているものと感心をします。
人間は、とくに脱皮などをしませんが、その代わり皮膚の表面から定期的に垢(あか)を落とす必要が生じるのではないでしょうか。


マシンなど、故障をしても致し方(いたしかた)ない。


しばしばパソコンが、壊れてしまうことがあります。
修理に出すと、しばらくは手元にないので使えません。

しかし、考えてみれば致し方ないことです。
機械や道具が故障をするのは、当然だからです。

ちょうど、人間の身体が不調に陥って、そのまま病気になってしまうのと似ているではありませんか。
人間の場合は、修理に出すのとは違いますが、入院をしたりすると、何となく故障をした機械と同じ状態のようになってしまします。

機械の場合は、「もう修理をしてもダメだから、新しいのにしなさい」などと言われて、そうしたりすることが多いようです。
人間の場合は、……


ありがたい、ゴミ・不燃物、いつでも出せる。


私の住宅では、一階にゴミ収集所があって、燃やせるゴミ、不燃物のゴミ、ビン・カン・ペットボトル、さらには蛍光灯や電池などがいつでも出せます。

可燃物のゴミと不燃物のゴミは、大きなタンクになっていて、鍵のかかった投入口から捨てます。鍵は各自がもっていて、その都度開閉するので、外部の人は捨てれません。

二つのタンクは、かなり大きなもので大型タンカーに全体を積んで搬出するようです。

そんなわけで、いつでもゴミが出せるのでありがたい次第です。
臭(にお)いや防虫の問題も、今のところまったくありません。
快適な生活ができるゆえんです。


新句とは、「考えよう」と、ついに見つけぬ。


最初は仮に「五七七」と言っていましたが、私にとっては「真句」なので「新句」と名付けました。「真句」では、他の短詞形、つまり短歌や俳句などに対して不遜だと考えたからです。

しかし、「新句」では何のことかわかりません。
そこで、当分の間は「十九音」と補うようにしました。「五七七」が、十九音だからです。

そして、IBM社の社是が

Think,Think,Think.

であることなどから、「考える」ことの大切さが「生きている証明」につながることを知ったのです。


HP二つ、ブログ・掲示板各一、計四つ、四年目。


いったい字余りだか、字足らずだかわかりません。
また、「HP」は何と読んだらいいのでしょうか?

全部で十ほどあったホームページやブログですが、訪問者も少なく、どうも面倒になってしまい、少しずつ整理をしてきました。
そして、きょう(2007年8月5日、日曜日)、やっと上の四つになった次第。
四年目のなりの果て、つまり結果がもたらした現状です。

情熱を燃やしてやったみたのですが、「燃え尽きた納屋」のように、すっかりアイディアが出尽くしてしまったみたい。

そんなわけで、鴨長明ではないが、がうなやみさごのような自分が好ましいと考え始めた次第。遅すぎた春か?


したきこと、あまりに多く、未完のままに。


あれもしたい、これもしたい。などと考えると、結局は中途半端になってしまいます。つまり、未完のままになってしまうのです。

つまみ食いのような感じで、私のやり方はどうもいけません。
高齢者がいかに日々生き甲斐をもって暮らしていくかを考えて、「生きている証明」のための「入門コース」などを作ってみました。
つまり、「隗より初めよ」で自分自身が確かめながら進めて来たんです。すると、「ミイラ取りがミイラになる」ような感じで、なかなか進みません。

そこで、ある程度で切り上げます。しかし、どうも後味がよくありません。そんな感じで、どんどん深みにはまっていっちゃう。
人生には、ほどほどが大切なのかも?


懐かしきケンプのピアノ、円熟を見る。


中学時代に上方仁さんのお宅で、ウイルヘルム=ケンプのレコードをよく聴いた。まだ、SPの時代だった。でも、後のウイルヘルム=バックハウスなどと比べると、演奏は今ひとつと私は思い続けてきた。

しかし、きょう(2007年8月6日、月曜日)お昼前のNHK(BS102チャンネル)で聞いて、大いに考えを改めた。モノクロのフィルムで、演奏会場の実録であるが、聴衆の表情なども多く交えた録画。

曲は、ベートーベンのピアノソナタ17番(作品31第2)ニ短調、俗に『テンペスト』と言われる曲。すばらしい演奏で、感動した。第二楽章の歌うようなところでは、なぜか涙が出そうになったほど。

そして、終楽章に入ったところが素晴らしかった。何回目かに、わざわざシンコペーションしているのは、実に効果的である。そして、最後は消えゆくようなデクレッシェンド。

ケンプは、<演奏は毎回違う>と言い、<ピアノに向き合うときは、いつも初めてのような気がする>というメッセージを演奏前にしている。
演奏中は鍵盤をあまり見ない。ときには目を瞑(つぶ)っている。
私は、改めて円熟をした芸術を見れてうれしかった。


何回も繰り返し言う、至福の昼餉(ひるげ)。


朝から晴れているので、昼過ぎから散歩に出かけた。
大栗川、乞田川、そして多摩川のいつものコース。堤防を歩くと木陰(こかげ)がないので、とても暑い。

乞田川が多摩川に合流するところの公園のベンチで、30分ほど横になる。藤棚になっているので、陽は当たらず、また風があって気持ちよい。これもまた、しばし至福の刻(とき)。

それから、てくてくと歩いて聖蹟桜ヶ丘駅に戻り、吉野家に入る。
きょうは、豚丼が50円引きで280円。瓶ビール(500ml)と併せて(あわせて)何と680円である。退院後に体力がなくなって、ベジタリアンをやめたので、これまた肉食ができる至福。

ちょっと食べたりなくもあったので、ミスタードナツへ梯子(はしご)。
エンゼルクリームとハニーファッション、そしてホットカフェオレをお代わりして2杯。535円だった。これまた至福?


親鸞を在家で奉る(まつる)、「妙好人」(みょうこうにん)。


知らなかったのではあるが、私が自作のことで外村繁や林田茂雄の話をしたら、彼らを「妙好人」と呼ぶのだと言う。高守さんが、教えてくれたのである。

あまり聞かない言葉であるが、「みょうこうにん」と読むそうである。
それでは、なぜ「妙なる」という字と「好ましい」という字が用いられているかまでは、気後れがして聞けなかった。
もしかしたら、「妙好」は人名なのかもしれない。

高守さんは、国文学の大家であるとともに、仏教の知識がものすごく深い。さらに、キリスト教に関しても学者肌。

私は、仏教やキリスト教に関してわからないことだらけ。そこで、高守さんに聞きにいくことにしている。
そして、忘れないために上のような新句(十九音)の形にして覚えることにしてるんだ。


少しずつ書き足してゆく楽しみもあり。


ホームページやブログは、なかなか面倒です。
いっぺんに作ろうとすると、かなり大変な作業になってしまいます。

そこで、私は少しずつ仕上げていくことにしました。
当然のことながら、できあがるまでは不完全な内容になっているでしょう。
それでも、アップロードをしてしまうのです。

大きなテキストなどは、自分自身のハードディスクやオンメモリでするのは、いちじるしく作業効率が悪いからです。
そんなわけで、Internet Explorerを利用して内容の検討をします。

例えば、「健康のページ」「創世記」はかなり大きなテキストですから、そうせざるをえません。


「エイズとは、どんな病気か?」調べつつあり。


最近になって、「HIV」とか「AIDS」が問題になっています。急速に増えていて、死んでしまう人が多くなったからです。
何となく「いやらしい病気」と考えがちですが、そうではありません。

エイズは、後天性(Acquired)免疫(Immuno)不全(Deficiency)症候群(Syndrome)なのです。
そして、ヒト(Human)免疫不全(Immunodeficiency)ウイルス(Virus)によって起こる病気なのです。

問題は、私たちの「免疫」という仕組みが効かなくなることです。つまり、ホメオスタシスのバランスが崩れて、体内の抵抗力がなくなってしまうのです。

そのために、普段なら何ともないウイルスや細菌、さらにはカビなどに感染をして、アウトのなっちゃうんです。
歯周菌が血液中に入っても、問題が生じるようです。男性同士の性行為から感染するともいわれますが、それは血液を介してなる場合が多いようです。
また、母親から赤ちゃんへダイレクトに感染することもあるので、感染経路はいちがいに言えません。


切り詰める言葉のうちに、余韻(よいん)が残る。


短詞形では、だらだらと説明をすることができません。
かいつまんで、短い表現にする必要があるからです。

細かいことはさておいて、重要なポイントを最初に述べるようにしましょう。そのようにすると、不思議なことに「余韻」が残ります。
さらに、「奥ゆかしさ」まで生じることがあるので、不思議です。

何でもそうでしょうが、あまり細かいことに注意をすると、膨大なことになってしまいます。

私が愛読している『正法眼蔵』という本には、「歯の磨き方」から「お尻の拭き方」までも書いてありました。そして、その「お尻の拭き方」には、「紙の場合」と「箆(へら)を使う場合」など、細々と書いてあるのです。


久々に聴くケンプなり、なつかしき音。


バックハウスなどと比べると、何となく地味な感じがしたウイルヘルム=ケンプのピアノですが、聞き直してみるとそこにはなつかしい音がありました。

中学生のころから、ケンプが弾くベートーベンのピアノソナタをしばしば聞いたものです。
その後、全32曲を続けて聞くのはバックハウス、そしてアンネ=オランドと変わりました。バックハウスのは、だいたい番号順になっていますが、アンネ=オランドは10枚組のCDになっていて、一枚ごとの取り合わせが実によくできています。

そんな日々でしたが、久々に実況の録画でケンプを聴くと、バックハウスやオランドにないなつかしい響きがあったので、驚いた次第。
それは、私にとって「技巧ということを感じさせない技巧」でもあるようです。


旅先で和んだ人は、一期一会(いちごいちえ)か?


人生には、いろいろな出会いがあります。また、人生自体が旅ではないでしょうか。そして、そこにおける出会いは、一期一会のようです。
私の言っている意味が、おわかりでしょうか。

例えば、こんなことをお話ししておきましょう。

学生時代に親しかった人と再会をしました。風貌や口調は、あまり変わっていません。しかし、考え方が変わってしまったのです。ずいぶんと打算的になりました。企業のトップだったから、当然のことでしょう。

しかし、私は「別の人」を彼の中に見たので、その後は会うのをやめました。つまり、彼とは一期一会だったのです。なぜならば、私が懐かしく思う学生時代の彼は、もはやいないからです。

ゲーテでさえ、二・三人しか親しい友人がいなかったと晩年に吐露(とろ)しています。
そして、私は思うのです。「どうやらエッケルマンも、それに入っていなかった」のではないかと。


リーダーのいない社会が、ヤマアリにあり。


人間の社会にはリーダーがいて、よかれ悪しかれ音頭(おんど)をとります。支配ばかりではなく、扇動や画策などをすることもあるでしょう。

しかし、とくにリーダーがいなくても、互いにコミュニケーションを取っている昆虫がいるので驚きです。
それは、巨大コロニー国家を作っているヨーロッパアカヤマアリです。

私は、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思い出します。
その小説が、つまらないことを言い争う人間社会を風刺しているからです。

また、アリストテレスの言葉

<人間は生まれながらにして、政治的動物である。>

なども、大いに考えてしまうのですが、……


考えてみれば、学問するも疎まし。


人間の生活には、何と疎ましい(うとましい)ことが多いのでしょう。
おそらく、昔からの生存競争というか、人間社会の実情に合わせた教育などがその原因になっているようです。

無駄で無意味なことが、日々何と多いことでしょう。
私は「非三無」(ひさんむ)と言って、「無為」と「無理」と「無駄」をしないようにしています。

『徒然草』にも、

<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>

というような記述がありました。
第七十五段の後半です。


「ら抜き」だが、「食べれる」ことと「見れる」幸福。


私は、自分が外食をして何でも「食べられる」ことと、自宅でケーブルテレビなどを「見ることができる」のを幸福と思う。自分の健康が維持できるし、さらに知的空間が広がっていくからだ。

言葉に対して、識者の意見が喧しい(かまびすしい)。
日本では、言語学者が言葉を作るのではなく、向こう三軒両隣、ちらほらする人たちが勝手に作って広げていく。そして、やがて、なぜか、広辞苑に載る。
フランスのように、アカデミーで認めないと「新語」ができないようにすれば、現在もチェンバレンやモラエース(モラエス)が言ったような美しい日本語であったろう。
私は、最近になって敬語以外は「ら抜き」の言葉にした。なぜならば、早晩そうなるであろうと思うから。

若い人は、敬語さえも意識しないのではないか。
そこで、「旧約聖書」の神や「新約聖書」のイエスのお言葉さえ、敬語抜きにしてしまったのだが。
はてさて。


「ぬ・れ・ろ」三文字(さんもじ)で始まる作品はなし。


新句(十九音)の索引を見ていましたら、「ぬ」「れ」「ろ」で始まる作品が、まだありませんでした。2007年8月7日(火曜日)現在です。

現代では、「ぬばたまの」などはむろんのことないでしょう。
また、「霊柩車」とか「蝋燭の」などという言葉も、あまり身近でないようです。
実は、少し前に「蝋燭の炎がぱっとひときわ明るくなって、すぐに消えた」というような作品を作ろうとはしたのですが、誰かの臨終の句にあったように思ってやめたのです。

また、心筋梗塞でしたが死ぬ前に元気だった人を揶揄(やゆ)ってもいるようで、ちょっと心配だったからです。

まぁ、言葉の好みは人によってさまざまですから、一概には言えませんが、……


肝炎やエイズなどには、なりたくもなし。


そこで、注意をするわけですが、すでになってしまった場合には、何らかの対策が必要です。ふつう、エイズなどというと自分には関係ないと思いがちです。しかし、体調が悪いのは、まさしくエイズかもしれないのです。

なぜならば、後天的に免疫が不全になる症候群を「エイズ」というのですから。とくに、男性どうしでいかがわしいことをしなくても、エイズになるのです。

つまり、エイズは「Acquired」(後天性)と「Immuno」(免疫)と「Deficiency」(不全)と「Syndrome」(症候群)の略語なのです。
そして、HIVつまり「Human」(ヒト)「Immunodeficiency」(免疫不全)「Virus」(ウイルス)によって起こる病気なのです。

だから、体内の血液に入ったウイルスが不都合な状態を引き起こせば、エイズと言えるでしょう。ホモにエイズが多いというのは、関係をするときにお尻を使うので、ムリをして傷口ができ、そこから菌が入ってしまうのです。

また、歯を磨いていて歯茎(はぐき)が出血をした場合、歯周菌が血液に入ってしまったり、すでにエイズの母親から胎児に感染する危険性もあります。
いろいろと、注意が必要になるゆえんです。


身の回り、小ぎれいにして、そろそろ準備。


何の準備をするというのでしょう。
それは、お迎えの準備です。

還暦を過ぎたころから、いつ自分が死んでもよいような準備をしておく必要があるでしょう。それは、なかなか気が付かないことですが、あっという間のことになりかねません。

『方丈記』の第百五十五段にあるとおりです。

<春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月(かんなづき)は小春の天氣、草も青くなり、梅も莟(つぼ)みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる氣、下に設けたる故に、待ち取る序(ついで)、甚だ早し。生・老・病・死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。>


これでもか? これでもか? 繰り返すか? バカは?


バカな人間は、しつこいほど繰り返しをします。
おそらく、私はその部類でしょう。
しかし、それはそれでよいのではないでしょうか。
パンダカかはブッダに言われて、「塵を除く!」という言葉を数十年も唱えたといいます。なかなか覚えられなかったからです。

しかし、考えてみれば人生そのものが反復の歴史のようでもあります。
「旧約聖書」にある『コヘレットの書』(「伝道の書」とも言う)には、そのようなことが書かれています。
つまり、「日はまた昇る」のです。

何かをすると、やがて忘れてしまいます。
そして、また同じことを始めるのです。
そのようなことが遺伝子に組み込まれているので、ふとデジャビュ(既視感)のような感覚が生じるのでしょう。


貧しさに、耐えて忍べば、楽しかるべき。


『論語』に書かれている顔回(がんかい)は、貧乏でした。しかし、心が豊かであったために、学問に励んで日々を楽しく過ごしました。
残念なことに、若くして亡くなり、孔子を悲しませたということです。

『徒然草』に出てくる許由(きょゆう)という人も貧乏でした。
その第十八段には、次のように書かれています。

<人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀(まれ)なり。

唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。>

許由に続いて、孫晨(そんしん)のことも書かれています。
ご関心のある方は、『徒然草』の第十八段をお読みください。


原因のまだわからない病気が三つ。


私のもっている『家庭の医学』(監修 中尾喜久ほか)という本には、「原因不明の全身疾患」として、

ベーチェット病
サルコイドーシス
免疫不全症候群

の三つが書いてある。

その「免疫不全症候群」が、いわゆるエイズ(AIDS)。ウイルスの一種であるHIVの感染によって生じるらしい。私が診断された血液が異常になった状態が、どうやらそれであるらしい。

本来、私たちの身体は、病原体の侵入に対して免疫機能があるのだが、免疫機能が低下すると感染への抵抗力も弱まる。それには、多くの原因があるので「症候群」と言う。

何とかして、身体を元の状態に戻して、免疫の機能を取り戻したい。


可能性、失いたるは齢(よわい)のためか?


若いころには希望に満ちていた自分が、いつの間にか衰えてしまっている。つまり、希望が次第に小さくなってしまった。

かなりの年齢に達していることを「高齢」とか「老齢」と言い、「年には勝てない」などと言う。
その理由は、年をとると「気力はあっても、体力の衰えはどうしようもない。」からではないか。

「年に不足はない」などとも言うが、「何かするのに、十分な年齢に達している」ということよりも、「長生きをしたので、いつ死んでもよい」などという投げやりの意味に使う。

いずれにしても、歳とともに可能性は減少してしまうようだ。


蝋燭(ろうそく)は、燃え尽きるとき、輝きを増す。


蝋燭の燃えるのを、じっと見ています。
すると、最後に燃え尽きて消える寸前に、一段と明るく輝きを増します。

私は、お寺などでそれを見ていると、いつも思うのです。
人生も、そうありたいと。

つまり、高齢になって先が短くなっても、何かに打ち込みたい。
例えば、親鸞は八十五歳を過ぎてから、物に憑かれたように執筆をしたと言います。

また、貝原益軒が大著述家としての本領を発揮するようになったのは七十歳からです。主要な著書だけでも99部251巻にもなるといいます。有名な『養生訓』は、死ぬ前年の84歳のときに書かれました。

人生に何となく疲れちゃった私にとっては、羨ましい気力です。


蓮根(れんこん)は蓮(はちす)の根なり、泥土(どろつち)の中。


蓮(ハス)は、水面で美しい花を咲かせます。
とくに、白い蓮の花は美しくもあり、気高くもあるでしょう。例えば、「白万万」などです。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の極楽(ごくらく)の記述を思い出してください。

さらに、さかのぼって『法華経』の原名が『正しい教えの白蓮』であることも印象的です。

水上にあって美しい蓮の花。しかし、その根は水中の芥(あくた)の中で育ちます。つまり、泥の中にいても美しい花を咲かせることができるのです。

どうも、思いつきではなかなかうまいことが書けません。
じつは、まだ「れ」と「ろ」で始まる作品がなかったので、「蝋燭は、……」の新句(五十音)とともに、この記事を書いているのです。


呂律(ろれつ)なのか、「つーつーれろれろつーれーろ」?


呂律(ろれつ)とは、言葉を発音するときの調子です。
「呂律が回らない」と言えば、舌がよく動かないために、言葉がはっきりしないことを言います。

もともと、呂律とは古典音楽で旋律や調子のことを言った言葉です。
そこで、兼好法師の「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」ほど複雑ではありませんが、私は

<つーつーれろれろつーれーろ>

の元の意味が知りたいのです。

何かの音楽のリズムと音程を表しているのでしょうか。
もしかしたら、越天楽(えてんらく)?


何故か? 眠りが浅く、激しき疲れ。


いつ頃からだろうか?
入院して手術。そして退院をしてから、だいぶ過ぎたころからのようだ。

なぜだろうか?
眠りが、非常に浅くなったためだろうか?
とにかく、激しく疲れるのである。

ここのところ、梅雨が明けて一気に夏になって、蒸し暑い日が続く。もしかしたら、そのためかもしれない。
しかし、秋が来て涼しくなってもこの倦怠感が続くようであれば、やはり体内の血液にウイルスが入ってしまったためと考えざるをえない。

もしかしたら、というよりおそらく、数ヶ月用いたカテーテルから、感染をしてしまったために、身体の負荷が大きくなって、激しい疲れを感じるようになったのかもしれないからだ。

何とか、しなければならない。


考えてみたら吉野家、牛丼でない!


ここのところほとんど毎日、午後2時頃に吉野家で外食。
朝飯を食べない習慣なので、一日で最初の食事である。
そして、牛丼でなく豚丼。それに、瓶ビール(500mlの中ビン)。

私は、とくに肉が好きというわけではない。牛丼がちょっと重いので、味付けの薄い豚丼にする。今は、並(なみ)が280円で食べれるというからでもない。また、その豚丼がおいしいから行くのではないということがわかった。

ここのところ、いつも暑い中を2時間以上も歩いた後なので、喉がとても渇く。そして、無性にビールが飲みたい。その瓶ビールを安心して飲めるところが吉野家。

私の行く他の食堂には生ビールが多いが、瓶が置いてあるところが少ない。
そこで、つい吉野家に足が向いてしまう言うことがわかった次第。

なぜ瓶かというと、生ビールが入っているアルミ製の圧縮タンクやアルミ缶を恐れているからである。アルミを長く摂取すると、人体、とくに脳に悪いダメージをもたらすことはほぼ事実。


めしいちゃうこと、足なえることの心配。


ここのところ、ちょっと健康に自信がなくなった。
去年までは、そんなことは決してなかったのだが。

実は入院・手術をしたのであるが、その前後にカテーテルから院内感染をしたらしい。悪いウイルスが血液に入って、どうも体調がよくない。

そして、とくに目が疲れるのである。
さらに、同時に足がやれれてしまう。具体的に言うと、少し歩き続けると膝の部分が痛くて歩けなくなることがある。

そんなことがあって、目が見えなくなってしまうことが心配である。食後に尿糖がいつまでも残るので、もしかしたら糖尿病からめしいちゃうんじゃないか。

また、同じような経験をした知人が、すでに車椅子になっているのも気がかりである。
南無、仏さま、神さま。


銀ヤンマ、池面(いけも)を風に、ホバリングする。


私は、夏に銀ヤンマを見るのが大好きです。
おそらくテリトリーを守りながら、虫を捕るために周遊をしているのでしょう。

塩からトンボや赤トンボなどと比べて、ヤンマは大きいので悠然と飛ぶのが特徴です。微風の風に向かって、ちょっとホバリングして空中を静止します。
そんなときに、腹の空色が鮮やかに見えました。

私は、子どものころを思い出します。
異常発生をした年だったのでしょうか。夕方、空にいっぱいの銀ヤンマが飛び交っていました。雌(メス)は腹が茶色くて、羽にも渋みがかかっているようでした。

その空いっぱいの光景は、私の記憶に「B29が編隊でやってきたとき」よりも、もっと美しく勇姿のような印象を残しました。


多摩川の土手を歩けば、キリギリス鳴く。


この作品のモチーフは、前にも何回か取り上げました。
したがって、いずれも似た新句になっているはずです。
もしかしたら、まったく同じかもしれません。

しかし、この新しい短詞形である新句(十九音)では、重出などは問題ありません。なぜならば、それだけそのテーマに印象が残ったからだと考えればよいからです。

それは、あたかも一句の中に、同じフレーズが反復されるのと同じ扱い。
例えば、明恵上人(みょうえしょうにん)が

<あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかやつき>

と一つの作品の中に、同じ言葉を反復して詠んだのと似ています。
この新句(十九音)では、一生の作品が続いていると考えるからです。


バックして歩いてみたり、夏の堤防。


後ろ向きに歩くと、平衡感覚が発達して健康によいと言います。
その真偽は存じませんが、私もときどきやってみます。

まず、真っ直ぐな道。そして、安全な道である場合。です。
例えば、多摩川の堤防や尾根幹線の歩道など。

多摩川の堤防は、車が走りません。国土交通省の監視員がオートバイで走っているときや、除草作業の自動車がいるときはありますが、まず安全。また、自転車レースのプロ選手は安全に配慮をして走っているようです。

尾根幹線の福祉センターから長池公園までの区間は、歩行者さえめったにいません。

ここで、正直に告白。
私が多摩川の堤防を後ろ向きに歩くのは、実は真夏の太陽が耐え難いからなのです。だって、「郷土の森」から関戸橋までの左岸には、木陰がまったくないんですもの。


望遠もミクロもあった、私のカメラ。


私のデジカメで、大発見をした。
「望遠レンズ」としての機能、「広角レンズ」としての機能、そして「接写レンズ」としての機能。こんな内容でも、新句(十九音)として残しておくと便利。という作品見本。

ただし、あまり本格的なものでない。
望遠と広角は、「光学ズーム」のスイッチを押すだけ。メニューなどを操作する必要はない。だから、簡単。

「W」を押すと「広角」、「T」を押すと「望遠」。それぞれのズーム倍率は3倍。
さらに、デジタルズームを併用すると、何と約15倍。でも、メニューの操作が私には難しいようだ。

「ミクロ」は、近くのものを取るときに使う。
「マクロ撮影」という名称で、メニューとは独立してトグルになっているので、簡単。押すたびに「マクロオン」「マクロオフ」となる。
20cm〜50cmくらいの接写に使うとよい。


ダーク・エンジェルのマックス、仮想現実?


ここのところ、ケーブルテレビ(AXN 232チャンネル)でやっている。私は、ときどき見る。とてもよくできたストーリだ。

しかし、仮想現実か?
私は、もしかしたら事実の一部かもしれないと思う。なぜならば、かなり現実に考えられることを多くストーリに取り入れているからだ。

マックスという役を演じている女性も素晴らしい。
そして、それをフォローする仲間たちもなかなかいい。

このような映画が、どのような目的で作られたか私は知らない。しかし、もしかしたら事実の一部を民衆に知らしむるためかもしれないという不安や戦慄が脳裏をよぎる。

かつて、ドラゴンが出てくる映画が、そのような目的でないかと疑ったときと同様に。
なお、この作品は五七七でなく七五七に転位させてある。「マックスのダーク・エンジェル」でもよいだろう。そんなことは、しばしばある。


アロリンと友が言いたる季節になりぬ。


いったい、これは何のことじゃ?
意味が、まったくわからんではないか。

しかし、この新句(十九音)という短詞形では、意味不明でもいっこうにかまわないんだ。作者が、何となくわかっていればよいのである。
意味がわからんからと言って、「辛苦」や「Think」する必要はない。

しかし、そうは言っても自分自身の覚えやメモのために、このように付記する次第。

神農の配達で、ようやくリンゴが配達される季節になった。したがって、友達が「健康によい」と言ったアロエ・リンゴジュースが来週から食べれるのだ。アロエのほうは、家に10年分ほどすでにある。

なお、「神農」とは「中国の伝説上の帝王」ではない。
私が便宜的に付けた「神奈川県農畜産物供給センター」の略。


熱帯夜、うつらうつらと寝苦しくあり。


だから、どうというわけではありません。
また、単なる愚痴でもないでしょう。

新句(十九音)では、感じたことをそのままに表現をすればいいんです。
とくに、文学的である必要はありません。
メモや覚えの口調で、かまわないのです。

熱帯夜が暑苦しく、寝苦しいのは言うまでもないでしょう。
しかし、人生そのものが一連の熱帯夜とも考えたらどうでしょうか。

その中にも、冷静になって回りの環境に左右されない日々があるものですよ。そして、そんな日々を繰り返したいものです。
あなたは、いかがでしょうか。


今までのデジカメ写真、整理をしよう!


もしも、五七五七七の短歌でしたら

「写すばかりが、能じゃないから」

などと、続くことでしょう。

短歌には、概して上(うえ)の五七五で情景や心象など何かを言い、下(した)の七七でその理由を言う形があります。

しかし、新句(十九音)では理屈は必要ありません。
「何が、どうした」だけで、十分なのです。さらに、「何が」だけでも、「どうした」だけでもかまいません。

もしも、言い切れなかったら、続けてメモを添えておいてください。


己(おのれ)の身、燃やして尽きぬ、蝋燭に似て。


人生は、完全燃焼をしたいものです。
前に、

蝋燭(ろうそく)は、燃え尽きるとき、輝きを増す。

という作品を作りましたが、燃え尽きるときは「ぱっ」と明るくなりたい。なぜならば、持っているものをすべて出し尽くすからです。

元来、人間や動物は一代限りなのではないでしょうか。
野生の動物が、遺産相続で裁判をしたというような話を、私は聞いたことがありません。死んでしまっても、後に問題を残すようでは完全燃焼をしたと言えないのではありませんか。

人間社会の教育のあり方などに、かなりの問題があるようです。


きょうもまた至福の時間、吉野家・ミスド。


「あんた、また、しつこいな!」と言われそう。
でも、きょうもまた、そういう気分がするのだから仕方ない。
新句(十九音)では、同じ事を何回も繰り返していいんだ。

吉野家で豚丼、瓶のサントリー・モルツ、そしてミスタードーナッツでホットカフェオレ2杯、エンゼルクリーム、ハニーチェロ、ハニーファッション各1、計3個のドーナット。

いつも、とても幸せだと思う。
ほんとうは、吉野家で肉以外のもの。そして、ミスドで甘くない物。そうあれば、もっといいだろう。
吉野家は、朝いちで行けば納豆定食があるかもしれない。また、ミスドにはカリー・ドーナットがあったみたい。

しかし、なぜか私はいつも上の定番。そして、しばし至福のとき。


くねくねとするピアニスト、音色(おんしょく)見事。


山の上のピアノの先生から、音楽会の招待状をいただいた。
そこで、公会堂へ聞きに行った。

プログラムの終わりのほうで、かなり中年の女性のピアニストが、ショパンの曲を弾いた。
ところが、身体を異常にくねくねと動かす。私は、驚いてしまった。
腕を鍵盤上に置くと、どうしても上半身が動く。それが必要以上に動いていて、何となくアクロバットみたい。

もしかしたら、その効果を狙っているのかもしれない。でも、音楽を表現するのに、身体までを必要以上に動かすことはないのではないか。
しかし、音はきらびやかで、美しい響きがしていたのでやれやれ。

私は、もっとシャンとしていたら、その女性が一層美しく見えるのではないかと思った。


Think(シンク)して、新句作れば、真句なりけり。


これは、いったい駄洒落(だじゃれ)か?
この新句(十九音)は、駄洒落でもかまわない。

原則として、十九音の中に自分の気持ちなどを封じ込めればいいのである。舌足らずでも、仕方がない。いちおう短詞形なので、言葉の制約があるからです。

もしも、言い足りなかったことがあれば、作品の下に10行くらいでメモをしておけばよい。
おそらく、それでも満足には言い切れぬであろう。

言葉には、やはり限界がある。
余韻が残っていても、考えることが、必要であろう。


聡明な白川候の奥方選び。


何かで、読んだことがある。
白川候は、奥方を選ぶときに側近に言ったという。
藩の中で、あまり注目をされていないが、賢い女もあろう。容貌などは、問題でない。また、身体が不自由になっていても差し支えない。
そのようなものがいたら、私が娶る(めとる)。
そうすれば、藩の者も私に見習って、目が覚めるであろう。

御殿医が、白川候の藩邸を訪れたときである。
応対に、片足を引きずった年増な女が出てきた。医師は召使いであろうと思って、ぞんざいな言葉で取り次ぎを申し出た。そして、後で聞いてわかったことである。

その婦人は、白川候の正妻であったことを。
そして、それを見抜けずに、自分は愚かであったことも。
何で読んだことだろうか、私の記憶に鮮やかに残っているのである。


脳そのものが寄生体? 恐ろしいこと。


かなり以前に、ふと気づいたことである。
人間の脳は、人間に寄生した生命体ではないかという疑惑。
なぜならば、あまりにも生命という本質から離れた愚かしいことをする人類が、本来の姿ではないということに注意が向いたからである。

脳のもたらす幻影で、人間でありながら、全体として人間には考えられない愚かしい行動をする。

ミトコンドリアや白血球、さらには腸内細菌叢など他の生命体と言ってよいような組織が、人体を維持していることを考えると、脳自体についてもさもありなんと考えるのが至当なのではないか。

脳は、いわゆるアラビアンナイトの「海坊主」のようなものではないだろうか。


脳自体、ヒトに寄生をしているのかも?


人間の社会は、「多重支配」の構造をしています。
古くから王がいて、人民を支配したことを考えると、細胞レベルでも同じことが言えるのではないでしょうか。

私たちの体内に何兆とある細胞が、それぞれ互いの機能を果たしているのは、不思議なことです。また、脳が細胞で作られていながら、手術をするときには、麻酔が不要なことも不気味です。

ちょっと、中国の近代小説『顔面問答』を思い出します。
それは、目や耳、そして鼻や口が「誰がいちばん偉いか」と言って、お互いに糾弾をするのです。

そして、その結果、矛先が「眉」に行くと「眉」は言います。
「昔から、私たちはここにいるのだ!」


何故に心と身体(からだ)、矛盾をするか?


どうも、「心」が曲者(くせもの)のようです。
ここで、曲者とは「怪しい(あやしい)者」や「一癖(ひとくせ)あって、油断ができない奴(やつ)」のことではありません。

それは、「表面には表れていない何かがあって、用心しなくてはならない」ことを言うのです。

例えば「人間社会のシステムがうまくできすぎていて、それ自体が曲者」なのです。そして、また反対のことも言えるからです。

だから、結果的には身体から心を切り離して考えるというような矛盾を「矛盾でなく」考えなければならなくなるのです。
ちょっと、なかなか説明のしにくいことですが、……


あの人は「どうしているか?」、問うと「死」と言う。


久々に福祉センターに行ってみると、前に来ていた○○さんがいません。
そこで、

「○○さんは、どうしているのでしょうか?」

と、常連に聞いてみました。
すると、

「先月、死にましたよ。」

という答えが、平然と返ってきました。

次々とお迎えが来るのが、当然だと言わんばかりです。
そんなもんでしょうか。


金(かね)わずか、学問わずか、思い上がるな!


お金をわずかばかり持っているからと言って、思い上がってはいけません。
また、学問をしたからと言って、尊大になってはいけません。

所詮(しょせん)、人間のする範囲のことはたかが知れています。
世界中の金をもったところで、いったい何になるのでしょうか。
また、すべてを知り尽くしたとしても、それは「すべてを知らない」ということに等しいでしょう。

つまり、4桁のカウンタであれば、9999の次に0、1、2、……と戻るだけです。
9999の次に、大爆発をしたりするわけではありません。
宇宙のシステムや人間の造りは、そんなものでしょう。

あなたは、脳のもたらす幻影に惑わされてはいけません。


行きたければ、どこにでも行け! 私はここに。


何となく、開き直ったような捨て台詞(すてぜりふ)みたいです。貧乏だから、旅行一つできないという意味ではありません。でも、私の本当の気持ち。

私は、海外旅行などをして自慢をしている人に対して、何となく軽蔑の念をもってしまうのです。また、「ほとんどのところに行った」などと得意げに述べる人の人間性も、何となく疑ってします。

そして、何となく私は「ミクロコスモス」とか「時空」、つまり時間と空間の問題を考え、さらに「知空」、つまり知的空間の問題を考えてしまうのです。

だから、「月へ行った」とか「宇宙旅行をした」などと聞かされても、せいぜい何となく「ああ、そうですか」というくらいにしか、感じないのです。

なお、この新句(十九音)は「五七七」でなく、「六七七」です。
最初の上(かみ)を字余りにすると、何となく重みを増すというようなことも、最近になって何となくわかりました。


救急車、ひっきりなしに走るこのごろ!


ここのところ、毎日のことですが、救急車が頻繁(ひんぱん)に走るようになりました。私の住んでいる地域では、1時間に数回。
しかし、交通事故が多発しているわけではありません。
そのほとんどが、病院の救急センターに向かっているということです。

つまり、意識不明になったり、身体の調子が悪くなって、病院にかつぎこまれるのです。中には、すでに死んでいる人もいるみたい。

最近になって、身体に異常をきたす人が増えて来たのは事実。
私たちの生活に、何か異変が起こっているのでしょうか。

いずれにしても、あまり好ましいことではないでしょう。
偉そうなことを言っても、実は昨年、私も救急車のお世話になったのです。
なお、救急車については、rikの「前立腺肥大症」一部始終を参照。


キリのないことはしないで、まとめていこう。


人生において、次々とものを求めていく。
キリのないことである。

『荘子』(そうじ)にもあるように、

<有限の身でもって、無限のものを求めていくのは危うい。>

と、私も思う。
それよりも、集大成をしていくことが必要。とくに、人生の終わりに近くなったときには。

求めるのはほどほどにして、今までのものをまとめたり、整理することのほうが大切ではないか。
持っているものの整理や分類などであるが、例えば小さいことでデジカメ写真の整理なども、そのようなことにあげられるであろう。


諍い(いさかい)を妻とするのは、愚かなことか?


つまらないことで、つい妻と諍い(いさかい)をする。
愚かな人間と言い争う人間は、愚かな人間であるという。何で読んだのか、誰の言葉であったのか忘れた。

妻は、どうやら愚かな人間らしい。
その妻と、私は言い争う。すると、私も愚かな人間であることになる。
非常に、残念なことだ。

そもそも、争いは利害関係が対立したときに起こるらしい。
ここのところ、お盆に入ろうとして、テレビでは先の戦争の番組を恒例の企画として取り上げる。
聞いていて、国と国とのような大きな問題でも、私と妻のような個人的な些細(ささい)な問題でも、何となく共通した箇所があることに気付く。

それは、大きいか小さいかの違いはあっても、利害関係の対立である。


五十音、組み合わせれば新句ができる。


五十音を組み合わせて、五七七のリズムに合わせれば、新句(十九音)がそれなりにできる。

出来栄え(できばえ)は、あまり問わない。
自分がいいと思えば、いいのである。

評価される必要もないし、また芸術性である要素も不要。
つまり、独り善がり(ひとりよがり)と言われても仕方がない新しい方式の短詞形なのである。
また、その出来不出来さえも前例がないので、比較ができない。
「松尾芭蕉の俳句と比べると雲泥の相違」だとか、「石田波郷には及ばない」などと言えない。
なぜならば、幸福なことに、芭蕉や波郷は新句を残していないからです。


アオサギは神経質か? すぐに飛び去る。


多摩川の畔(ほとり)や田の畦(あぜ)のそばに、ときどきアオサギがいる。
大きくて美しい鳥だから、よく見たいと思って近づきます。すると、すぐに飛び去ってしまう。

真っ白いダイサギやコサギと比べて、非常に神経質な鳥みたい。
人間には、まだあまり慣れ親しんでいないようだ。

私は、「つげよしはる」という人の書いた『鳥になる人』というストーリを思い出す。(氏名も書名も、ともにうろ覚えです。)
そこには、飼い慣らされたアオサギが鳥師の後について調布の団地ができる以前の染地(そめじ)辺りの鳥屋にやってくるというくだりがあった。

そして、その鳥師だったかが、高いところから羽ばたいている姿が印象的であったから。


念のため受けてみようか? エイズの検査。


手術前後のカテーテルから院内感染をして、体調を崩してしまってから久しい。おそらく、血液中にウイルスなどが住み着いてしまったのではないか?

その種類を特定したいので、まずエイズの検査を受けてみようと思う。
しかし、エイズの検査では

細菌としては、淋病。
ウイルスとしては、エイズ・B型肝炎・陰部ヘルペス・尖圭コンジローマ。
その他として、クラミジア・トリコモナス症・梅毒

などの有無がわかるらしい。
しかし、私の場合はそれらではなく、意外にも歯周菌・クリプトコッカスなどではないかとも思うんだが。そして、検査項目にないので引っかからないのではないか。

それでも、しないよりはいいだろう。


人間の社会、どうやら飼育場(しいくば)なのか?


何となく人間の社会は、何か計り知れないものの飼育場の感じがします。
かつては、それを神などと呼んだのでしょう。

しかし、そんなに異次元のことを考えなくても、何となくわかります。

例えば、極端に言えば市役所の人たちが「市民を飼っている」と考えることもできるでしょう。なぜならば、飼っている者たちから自分たちの生活の費用が贖える(あがなえる)からです。

それは、飛躍をした考え方のようですが、家畜を飼っている牧場主と同じ論理なのです。
また、私たちの体内にいる寄生虫の言い分とも、似ているかもしれません。
最初に書こうとしたことをやめると、上のように意味がわかりにくくなるようですね。


朝起きて「今日も生きてる!」、新句を作る。


この新句(十九音)には、自分自身が「生きている証明」をするという目的もあります。

そこで、一日に一つ以上作るとよいでしょう。
とくに、その内容が文学的にどうであるとか、奥行きが深いとか、そのような必要はありません。

平坦なだらだらとしたものでも、内容の薄いものでもよいのです。
それ自体が、「生きている記録」なのですから。

そんな意味で、ぜひ新句(十九音)を始めてください。
説明は、

http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/nyu_577.html

にあります。


遠回りばかりしてきた、私の過去は。


考えてみれば、私は今までに、何とまぁ「無駄で無理なこと」ばかりしてきたことだろうか。
言ってしまえば、ほとんどが無為(むい)なことばかり。

それでも、一つ一つは何とかがんばってきたみたい。
そんなことを考えれば、反省はするが後悔はしない。

あと何年、自分は生きられるだろうか?
そして、充実した日々を送れるだろうか?

身体(しんたい)が何とか健康であって、また頭もそれなりに正常であれば、それでいいんだが。
しかし、身体が不調になる心配と頭がぼけてしまう不安が、いつも心をよぎるのは、いったいどういうことだろうか。


身の回り、病みてより後、整理を始む。


入・退院をしてから、何となく先行きに自信をなくしました。
そこで、身の回りのことを少しずつ整理をしようと考えたのです。

趣味や蒐集なども、ある程度でやめて、今までのものを整理していきたいと思います。

しかしここで整理とは、すべてを捨ててしまうことではありません。
不要な物やムダなものは捨てますが、その他はどこに何があるかを再確認します。そして、それを社会や自分自身のために、有効に活用したいのです。

実際には「宝」などというほどのことではないけれど、ちょっとした知識の断片などでも「宝の持ち腐れ」などということがないようにしたいものです。


忘れてる資料などにも、目を通したし。


私たちの生活の中には、意外に途中でやめてしまって、そのままになっていることが多いものです。つまり、「やりかけ」のことが多くあるということ。

「百舌の速贄」(もずのはやにえ)という言葉があります。
百舌は、長い尾と鉤状(かぎじょう)の鋭い嘴(くちばし)をもつ鳥。攻撃的で、昆虫やトカゲ、そしてカエルなどを捕食します。

それらの獲物を木の枝などに突き刺して、速贄を作る習性があるのです。後で食べるためでしょう。しかし、百舌は多くをどこに作ったか忘れてしまようです。速贄がそのままの形で、いつまでも残っていることがあるからです。

そうなると、まったくムダなことではないでしょうか。
資料などに目を通して、再発見の喜びを求めつつ、そんなことにならないようにしたいと思います。


やりかけのことや作品、仕上げてみよう!


何となく、先が短くなってきました。
そこで、この辺で自分なりに集大成をしてみたいと考える。

しかし、大げさに言っても内容のないものであろう。
また、評価をされるようなレベルのものでも、決してない。

それでも、自分自身の「生きている証明」をすることは、自分自身に必要なことではないか。

つまり、自分の人生における最終仕上げは、自分の納得のできる範囲でよろしい。評価されることなどを考える必要はない。
そんなところか。


人生に思い、残さず完全燃焼!


人は、それぞれに、それなりに生涯を終えます。
しかし、あまり他人のことを考える必要はありません。

自分自身が納得できる人生であれば、それでよいからです。
むろん、不満や思い残すことは、多くあることでしょう。
しかし、それが現実であれば仕方ありません。

とどのつまり、完全燃焼をしたいということです。
ちゃらんぽらんの生活では、自分で自分を欺いたことになりかねません。

少なくとも、自分自身で納得のできる完全燃焼をしたいものです。


あまりにも多くのことを求めるのは、愚(ぐ)。


「あれも欲しい。」とか「これもやりたい。」などと、次々と欲望には限りがありません。
しかし、それも若かったときです。

老いてくると、次第に意欲が薄らいでくるようです。
「ほどほどにする」というような考えが、そろそろ芽生えてきたからかもしれません。

ほんとうは、若いときも自制が効かないといけないのです。
間違った学校教育の結果というか、原因は明白です。

なぜ、そのことを国や文部科学省などが気づかないかということに、私は疑問をもっています。


有限の身で、限りなく求めゆく馬鹿!


『荘子』(そうじ)ではありませんが、無限に近い分野まで求めていくことがいかに危うい(あやうい)か。

ヒトの遺伝子が、競争をするようにできているので、それは仕方ないのかもしれません。
しかし、そのために人間の社会には学校があるのです。
そこで、人間性を教育することが人間にはできるのです。

しかし、現代の競争社会では「本来の教育」とは異なった形のことが行われているのでしょう。
いつまでたっても、戦争をはじめバカバカしいことが多く、理想的な社会が来ないのは、必然のことです。
学校教育を受けた子どもたちが大人になって、その大人が社会を運営するのですから。

総理大臣なども、例外ではありません。


学校で学んだことを答えてみたが、……


就職試験のときのことです。
私は学校推薦でしたから、筆記テストはありませんでした。
総務部長の後に、社長であられた岩崎小弥太という方の面接がありました。何となく学者風の物静かな方で、「学校で何を学びましたか」とおっしゃったのです。

戦後、10年ほどの時期でしたから、「東条英機を尊敬している」などとは言わずに、「憎しみを払拭することが大切だ」と答えました。
また、「心を研ぎ澄ます技法」などを学生時代に習得したとも言いました。
そして、さらに欲に捕らわれない心構え。いかり、ぐち、むさぼりなどを注意したい。つまり、「物質的な充足だけではいけない」などと生意気なことを言ったのです。

経営陣は、呆れかえって辟易(へきえき)したみたいですが、それでも合格。
私は、何年かその会社で楽しい日々を過ごしました。


忙しげに(せわしげに)、鳴く蝉たちの声高まりぬ。


早朝に起きたら、すでに蝉が鳴いている。
2007年8月15日、水曜日である。
近くの「霞が関公園」から聞こえてくるのであるが、ものすごい数のようだ。

ミンミン蝉でも、ヒグラシでもツクツク法師でもない。
おそらく、アブラゼミであろう。

早朝の静寂(しじま)を破って鳴いているのであって、その音は岩に浸み(しみ)入ったりする感じではまったくない。

しかし、賑やか(にぎやか)ではあるが、何となく命の儚さ(はかなさ)を感じるのは、私だけであろうか。


生きざまを一つずつ書き、記憶にしよう!


日々の細かいことでも、思いついたことはメモっておこう。
それは、「生きている証明」のためにだ。

なぜならば、高齢になると「何もかも面倒になってしまう」人が多いので、つい自分を見失いがちになる。

好々爺(こうこうや)などと言われる人に、そんな人がいる。
また、意地悪ばあさんなどという人たちもいる。

いずれにしても、歳をとると独りよがりになりやすい。
「生きている証明」の他にも「自分自身を見直す」ことができるから、日々思いついたことなどもメモをするんだ。


よい水を飲もう! 身体(からだ)の維持のためにも。


八月の半ば、盆の時期。終戦の日前後でもあって、暑い日が続く。
熱中症で死んでいる人も、かなりいるというニュースがあった。

テレビなどで、「水を飲め」と盛んに言う。
しかし、ちょっと無責任ではないだろうか?
どんな水でも、飲まないよりは飲んだほうがよいのかもしれない。しかし、健康的な飲み水は、もはや私たちの回りにあまりないからである。水道水なども含めて。

人間は、古くから地下水などの清潔な生水(なまみず)に親しんできた。とくに、日本人はそうである。
遺伝子は、化学的な水や作られた水には慣れていない。煮沸をして滅菌をしたからといって、身体によいとは限らないのである。
おいしい味がするということと、身体によいということは、まったく別なことと思うのだが、……


さあ行こう! 死出(しで)の旅路へ向かって一歩。


毎年、八月の暑い盛りに私の誕生日は来る。
今年も、やってきた。
来年は、来るのだろうか?

死出とは、「死んで冥土へ行く」ことである。冥土(めいど)とは、仏教で言う「死者の霊魂が行く暗黒の世界」である。「あの世」とか「冥界」などとも言う。

「死出の旅」というとふつう「死ぬこと」であるが、死ななくて生きているうちも、そこへ向かって旅をしていると思えばよい。
少なくとも、私はそう思う。

そこで、今年もそこに向かって、暑い最中(さなか)ではあるが、一歩近づいて踏み出したという感じだ。


ドラマより、面白くなる棋譜(きふ)の中継。


必要があって、少しばかり将棋を勉強した。
高齢者向けの楽しみのために考えた、下記のパソコン講座である。

将棋

単なる『青空の創作ページへようこそ!』に置いた「ゲーム入門」の講座ではあったが、やってみると面白く、最近ではテレビドラマなどよりも奥行きの深い楽しみが味わえる。有段者や名人の実況・中継の棋譜(きふ)などを見ていると、興味がつきない。

盤面で、次はどこに指すだろうかなどと考えていて、それが当たっていると「ほっ」とする。あるいは、意表を突いたような手であっても、「う〜ん」と感心をしてしまう。
楽しみが増えたので、とてもうれしい。


どうすればよいのだろうか? でっかいHP!


何も知らないままに四年前に始めたHP(ホームページ)であるが、かなりでっかくなってしまった。
後で、改めて画像などを入れたいと思っていたのだが、すでに二進も三進も(にっちもさっちも)いかなくなってしまった。

大きくなって、事実上ホームページビルダーで編集ができなくなってしまったからだ。
検索や文章を眺めることなどは、インターネット上ですると素早くできる。いきおい、未完成のものまでもアップロードをする必要が出てくる次第。

かっこうが悪いが、あまり訪問者がいないので、未完全の謗り(そしり)を受けたり、追求をされて恥をかくことも少ないだろう。そんな現状である。
やれやれ。


ほどほどにすれば、気楽な日々になるかも?


前にも、

ほどほどにすれば、……

とやったことを覚えている。
しかし、似た新句があってもかまわない。
さらに、まったく同じ作品があってもよいのである。

そんな気楽さが、この新句のよいところ。
また、連句の発句だけで述べるような難しさはなく、むしろ結句を言っているから簡単。

つまり、あまり難しい技法はいらない。


物事に熱中すると、生き甲斐がある。


何かに熱中をすると、時間の過ぎるのを忘れてしまいます。
そして、充実をした時を過ごせるのです。

その対象は、人によって異なるでしょう。
趣味や蒐集に、生き甲斐を感じる人も多いことです。

しかし、一方では金を貯めることに全力をつくしたり、名誉や有名になることを求めて汲々(きゅうきゅう)としている人もいるでしょう。

そして、何のために何をしているかが、解らなくなってしまいます。
大げさに生き甲斐などというよりも、ただ快適な日々が過ごせればよいと、私は考えています。

それぞれに、人生の目的をどこに設定するかの問題になるでしょう。
あなたは、いかがでしょうか?


何となくうとましくあり、日々の生活。


二年前までには、そんなことを感じたことはありません。
昨年の夏に、入院・手術をしてから、何となく体調が崩れてきたみたい。

気力がなくなって、疲れ気味である。
数ヶ月もカテーテルを用いたので、エイズや肝炎などのように、おそらく血液の中に異物が入ってしまったのであろう。

まだ異物についての特定はできないが、もしかしたら「歯周菌」や「クリプトコッカス」などではないか。思い当たるふしが、かなりあるからだ。
あるいは、院内感染をした思いもよらない異物かもしれない。

とにかく、早く何とかしなければならない。
疎(うと)ましいというのは、いやで避けたい気持であるが、私の場合は何となく疲れ気味で、物事をするのが億劫になっちゃうんだ。


失礼な人とは、初めから付き合うな!


礼儀を知らない人とは、最初から付き合わないほうがよいでしょう。
そんな人とお付き合いをしても、互いによいことはないからです。

失礼な人は、それなりに「自分がそれでよい」と考えています。
そこで、その人から見ると、こちらが逆に失礼だと思ったりもするでしょう。

つまり、価値判断の異なる世界に、お互いがいるということです。
そのようなことは、政治や宗教の分野でもあります。

思想や信条は、互いに理解をしあえるものでなければ、争いが生じるのが古くからの習わしのようです。
いかがなものでしょうか。


感謝などされる必要、私にはない。


めったにないことではあるが、たまに

「あなたのホームページで、いろいろなことを学びました。
感謝をしています。」

というようなメールをいただくことがある。
どういう人なのか私にはよくわからないが、それでもいちおうお礼の返信メールを出す。

しかし、私は正直のところ、自分のために自分の費用でやっていることで、感謝をされるような立場ではないんだ。

インターネットに接続をしてあるから、誰もが見れるのではあるが、私はスイスイと閲覧できるので、自分自身でも自分自身のために活用しているわけである。


一つずつ治していこう、私の病状。


昨年の入院・手術前後に、カテーテルから感染をしてしまった私の病状。
まったく、困った症状である。

rikの「院内感染の話」

数えてみると、我ながら驚くほどである。
しかし、ここのところ、ちょっとばかり調子がよい。

一つずつ、何とか元通りに治していきたい。
ヒトの身体には、元来ホメオスタシスが有効であるのだから。
まず、体力のリカバリーからと考える。

そんなわけで、なるべく疲労をしないようにしている。
身体とともに、頭の中も。


愚かなる人間(ひと)のすること、空しかりける。


この意味は、非常に大きなことなんです。

毎年、八月になると先の大戦関係の報道が、多く特集として行われます。
しかし、見ていていたたまれなくなってしまうのは、私だけでしょうか。

なぜそのような感情が起こるかというと、それは人間(ひと)のもつ基本的な愚かさに気づくからです。少なくとも、私の場合は。

「しなくてもよいこと」を「しなくてないけない」などと考えるような愚かしい教育を自らの(みずからの)子孫に施すという誤謬(ごびゅう)を繰り返してきた私たちの社会の歪み(ひずみ)に原因はあるのです。

かつて、スパルタは国の方針として子どもたちに「泥棒をすること」を奨励したそうです。そして、強国が築き上げられました。


持ち味が違う風景、単線区間。


ここで持ち味というのは、「食物に備わっている味」という意味ではありません。むしろ、「持ち味を生かす」と言ったような感じなのです。

つまり、その風景がもつ独特の趣(おもむき)や味わいのこと。
「俳優の持ち味がよく出ている映画」などのような使い方です。

本論。
西部是政線のことです。
ときどき武蔵境から、西部是政まで乗ります。空いていたら、必ずいちばん前の運転室の後ろの椅子に座ります。古いタイプの車両ですから、二人がけの椅子が左右にあるのです。

そこから見ていると、単線を走るわけですが、宅地などは開発されたものの私が小学生くらいのときの景色が残っているのです。
他の路線では、あまりないことです。


下らんと言ってしまえば、それまでのこと。


よく、

「お前の言っていることは、まったく下らん。」

とか、

「お前自身の存在も、ほとんど意味がない。」

などと言われます。
まったく、その通りだとも思うんですが、私は黙っています。
そして、

「それでは、あなたはどうなんですか?」

などとは、絶対に言いません。


概念にすぎないことが、そうでなくなる。


概念とは、改まって言うと

「個々の対象から、共通する性質を調べます。そしてそれを抜き出して、総合的に構成しなおす考えなのです。つまり、普遍的な概念?」

そんなことから、物事についての概括的な意味内容をいう曖昧な言葉として使われます。
例えば、「『平和』という概念」とか「『健康』という概念」というようにです。

しかし、これが曲者(くせもの)。
言語によって表され、それ自体、内包(ないほう)と外延(がいえん)をもつからです。例えば、「健康」という外延には、数え切れないほどの内包があるからです。


少しずつ直していこう、記事の間違い?


思いついたことを次々と書き足す。
そんな方法でしているホームページやブログだから、全体の見通しが悪くなってしまう。

また、間違いも多いみたい。
だから、気付いたときに直す。でも、なかなか面倒になって、全体を直しきれない。分量が多いからである。

いきおい、いいけげんな内容になってしまう。
そんなことではいけない。

インターネットにつなげているのだから、他の人が見てもそれなりのメリットがある記事にしておきたいものだ。
なかなか難しいことではあるが。


私(わたくし)の新句で作る、知的空間。


私はわずか十九音で、知的空間を築くことができる。とても簡単である。
あなたの「新句で作る知的空間」も、きっとそうであろう。

「知的空間」とは「知空」(ちくう)とも言う。それは、「時間空間」を「時空」というのに似ている。

その詳細は、

知的空間

その奥義

を参考にしてください。


一人相撲(ひとりずもう)、バカバカしくもあり、クマさん。


いつ見ても、一人で四股(しこ)を踏んでいるんだ。

このブログの右上「ご案内」にいるクマさんのことである。
その下の「似顔説明」とともに、何となく恥ずかしく思う。

アイキャッチャーとして、最初から

『RKOホームページへようこそ!』

『青空の入門・創作ページへようこそ!』

にも使っている。
全部で、三箇所。それぞれに、いつ見ても動いているクマさん。


「和(なご)やみは、もって貴(とうと)し」、私は思う。


部屋の壁に、「以和為貴」という掛け軸が吊してある。
作左部幸秋先生の書(しょ)で、聖徳太子の言葉。

十七条の憲法の冒頭第一条である。

<一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
(一に、曰く。和(やわらぎ)を以て貴しと為す。忤(さから)うこと無きを宗と為す。人皆党(たむら)有り。亦達(さと)れる者少し。是を以て或は君父に順(したが)はず。乍(たちま)ち隣里に違ふ。然れども上和(やわら)ぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、則ち事理自ら通ず。何事か成らざらむ。)

しかし、自分自身への戒めとして、私はタイトルのように読んでいる。


アロエベラ、植え替えるときノーチェス思う。


ちょっと説明が必要と思います。
ノーチェスのことです。

手塚治虫の『アディオス・ノーチェス 夜よ さよなら』という50ページほどの短編があります。
そこに出てくる名もないサボテンのことです。名もないというのは、お茶の水博士が作中で言っているのですから、未発見の新種なのでしょう。

そのサボテンがメキシコの荒野で落馬をした日本人の二世、岡崎タブロを救い、さらに帰国をした彼の後を慕って付いてくるのです。分身を作って、かすかな波動をたよりに、さんざん苦労をした旅路でしたが、彼に会うことができました。

しかし、……


つきつめて、思うことなく過ごした時間。


考えてみれば、今までは何となくちゃらんぽらんな態度で生きてきたかもしれません。しかし、ここで過ぎたことを言っても始まらない。

つまり、時間というものが何であるかがわからなかったんだ。
道元は『正法眼蔵』の中で、

<時間は飛こするもの>

と言っている。
「飛こ」の「こ」という字を忘れてしまいましたが、「飛び去る」というような意味だったと思います。「飛枯」か「飛去」だったようにも、思うのですが?

「時間」の概念は、何となくわかりにくいものですね。


長々と文で書くより、図表で示せ。


言っていることをなかなかわかってもらえないもどかしさは、何ともしがたいことです。文章で書くと、どうしてもわかりにくいものです。

そこで、図表を利用したらどうでしょうか。
その図も、デフォルメをしたほうがよいのではないでしょうか。

いずれにしても、なかなか難しい問題です。とくに、

知的空間

その奥義

などという抽象的な説明は、文章だけではわかりにくいものでしょう。


野暮ったいこのブログは、恥ずかしくもあり。


最近のブログには、目を見張るばかりの素敵なデザインがあります。
また、テンプレートを用いることによって、かなり垢抜けたブログが簡単にできるようです。

何も知らないままに始めたブログですが、とにかくこの「青空の新句(十九音)ブログ」は、最初から何とも野暮ったい感じ。

センスがなくて、デザインが悪いのでしょうか。
また、配色が好ましくないのでしょうか。

何とかしなければならないと、だいぶ前から考えているところです。
どなたかに、アドバイスをいただきたい。


人間は一代限り、脳の不気味さ。


人間は、記憶そのものを直接には子孫に伝えられない。
遺伝子を通じて、本能とか直感のような程度でしか伝えられないからである。
そこで、いずれの世代でも改めて初めから学習をする必要が生じる。

その点に関しては、野生の動物や昆虫などにも劣っている。
哺乳類でも、たいがい生まれてすぐに歩けるようになる。しかし、人間の場合は非常に時間がかかる。

脳が可能性をもっている反面、白紙に近い状態にあるからだ。
つまり、他の器官に対して脳は欠陥(けっかん)をもっているとしか考えられないのだ。

そこが、脳の不気味なところである。
あたかも、脳が人間に寄生をしているような感じがしないでもない。


「無」と「空」と「時間」が、同じ概念と見る。


『般若心経』を調べていて、道元の『正法眼蔵』や旧約聖書の『伝道の書』などを思い起こすと、ふとタイトルのようなことを私もついに見つけました。

また、かつて習った樫山欽四郎先生の

<時間をおいて時はない。が、だからといって「つらなり」がないわけでもない。「つらなり」があるからといってそれに任せるならば、「自己の時なる道理」は消え去るであろう。だから「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々」である。時は過ぎたのではあるが、過ぎたのではない。つらならないのでもなく、つらなるのでもない。>

などという、べらぼうな理論の実態を何となく垣間見たような気がする今日この頃なんです。


「無」と「空」について、今朝インプットしたばかり。


今朝インプットした「無」と「空」である。
三鷹市美術ギャラリーの作秋院書展に行ったら、作左部先生のそれがあったのでびっくりした。

「無」と「空」

画像をクリックをすると別画面になって、ちょっと大きくなるかも?

帰りにはJRで八王子へ出て、八王子保健所に寄って京王線で帰宅。
楽しくて、有意義な半日であった。


いろいろと工夫をしよう! このブログでも。

音を鳴らしてみよう。右向きの三角を2回クリック。





次に、動画を入れてみよう。

銀河鉄道の夜

上のチラチラ図をクリックするといいかも?


音と絵を一緒に入れるのは、面倒だ!


細かい設定をこのブログの管理ページにある「ファイルアップロード」でいちいち行うのは、ちょっと面倒くさい。

私は、面倒くさいのが大嫌いだ。そこで、URLの貼り付けと相成る。
例えば、

回創法・自福書デモ

のようにである。
ただし、上記の文字部分とURLのコピペを一緒にできないので、2回に分けて行う。

しかしこれは、すでに何回か行っている方法で、そのままホームページに持って行ける。音だけでは、ホームページに行ってからWindows Media Playerがうまく動作しないようだ。
為念。


つきつめて求むるものは、「心地よさ」なり。


福祉センターに行くと、お前は「何を求めているか?」とか「何が人生の目的なのか?」などと聞かれることがある。

私は、「脳のもたらした幻影」をあまり信じない。
動物の社会を観察したり、昆虫の世界を眺めたりして、わかったからだ。
人間のことについては、例は少ないのであるが「狼少女・カマラとアマラ」や「アヴェロンの野生児」などについて考えてみた。

私は、「人間の思考や哲学は群生(群棲)の中で、何とも方向を失ってしまったみたい」だと思う。
そして、時間と空間、さらに知的空間その奥義までを考える。
揚げ句の果ては、「無」や「空」という状態まで云々。

しかし、私は日々単に「心地よさ」を求めているようだ。
自分で、自分を観察し、直感で感じてみたら。


そこにいて、楽しくもある新句の世界。


わずか十九音で、何とか考えを言う。
俳句や短歌のように、難しくはない。

言い切れなかったことは、その下に十行程度書き足しておけばよい。
つまり、そことは自分の「精神世界」を構築することではないか。
そして、そこに漂っている。

そんな楽しさは、それこそ自分自身の「生きている証明」でもあろう。

つまらないことでも、自分に意義があれば、それでよい。
でも、意義のあることでも、面倒であれば何となく遠ざかってしまう。

そんな意味で、これは私にとって手軽な短詞形。


無為のまま、することばかり多い人生。


何のために、何をしているか?
ふと、そんなことを考える。

そして、自分の人生が「中途半端で、空しく終わるのか」などとも思う。
しかし、それがどうして「そんな考えになるのか」などについては、配慮が届かない。

まったく、何をしているのだろうか。
そもそも、「無為」とは何であろうか?

「有意義」という言葉がある。そのアントニム(反義語)なのであろうか。
そんなことを考えること自体が、いわゆる誰も気づいていない「教育の歪み」なのではないか。


この場所を「生き甲斐」として、使うも自由。


プロバイダさんから借りているサイトではあるが、この場所を自分自身の独り言のようなメモに使えるのでありがたい。

老いてくると、何となく日々に活気がない。そこで、何らかの方法で「生きている証明」をする必要があろう。
体操をしたり、趣味を持つのもよいだろう。しかし、日記をつけるのが手っ取り早い。

なぜかというと、ボケ防止になるから。
つまり、老化予防のために、短い文章を書くということは素晴らしいことだ。長ければ、もっとよいかもしれないが、私にはムリ。
武者小路実篤とか芹沢光治良などの作家は、高齢で頭脳明晰。
そこで私も見習って、お粗末な断片。


暑い日々、続く最中(さなか)に救急車行く。


今年(2007年)の夏は、とくに暑いようだ。40度を超す日が、何日も続いている。そんな中で熱中症で死ぬ人も、かなり多いみたい。

私の住んでいる周辺は、老齢化が進んでいるためであろうか、最近になって救急車の出動回数がかなり増えた。とくに、「桜ヶ丘」という地番をもっている山の上からは、ひっきりなしにパープー・パープーが聞こえる。

生水を飲まないことや「化学薬品症候群」による結果ではないかと、私はかねてから警告をしてきた。

そして、そのようなことに私が努力をしているということをわからせるために、「最近は、救急車が多くないですか?」などと聞いてみる。

しかし、大異変が生じ始めているのではあるが、無頓着な人が多いのに驚かされる次第。何となく立正大師の「立正安国論」がバカにされたのと似ている時代の社会だ。


ぼつぼつと身近な整理、始めていこう!


どうも先行きが、何となく心細くなってきた。
身体の調子がよくないことと、度忘れが激しくなってきたことが、大きな心配の種(たね)。元気でも呆け(ボケ)ちゃうと、もはやアウトだろう。

そんなわけで、身の回りの整理を始めた。
品物はいさぎよく捨ててしまえばよいのであるが、原稿やモチーフなどはそうはいかない。

ホームページに書きかけたことなども、かなりある。
また、作曲をしようと考えて作ったモチーフなども、何とかしたいものだ。

どうせ、大した作品にはならないかもしれない。
しかし、自分自身に対して忠実に「生きた証明」にはなると思うからだ。


往き往きて、真(まこと)の世界、そこに安らぎ。


いま、私が勉強をしている『般若心経』である。
独覚(どっかく)というのであろうか、何となく自分なりに「覚り」(さとり)を得た感じだなどと、つい思ってしまう。

それほどまでに、今までの解釈と異なるのだ。
「空」は、「空間があるが、時間のない宇宙である。」と考えた。
つまり、「空」は「無」でもないし、「ゼロ」でもない。
また、「空しい」という意味でもないし、「空」(から)のことでもない。

総文字数262字の中に、「空」が7文字、「無」が21文字も含まれているので、つい勘違いをしやすい。10パーセント以上もの割合だから。

私は、「空」を「生死」(しょうじ)、「取捨」、そして「有無」などの概念を含む「意思や計らいを捨てた」空間だと思った。


耄碌(もうろく)とアルトハイマー、致し方なし。


「耄碌」という言葉は、ちょっと古いかもしれません。
最近になって、「度忘れ」、「勘違い」、「認知症」などという言葉が、私の回りでも多く使われるようになりました。

いずれも、何となく「老人」、つまり「お年寄り」に使われる言葉のようです。
そして、還暦を過ぎたころから私もそのお仲間入りをしたので、何となく自分が言われているようです。

「アルトハイマー症」に至っては、過去にはあまり問題にならなかったのではないでしょうか。
脳にアルミの微粒子が入って発病をするなどと言われていますが、まだ全治させる特効薬がないそうです。
平均寿命が延びているので、仕方のないことなのでしょうか。


タイミング、事件の話題、マッチしている。


ちょっとわかりにくいかもしれません。
事件が発覚したり、問題が生じるタイミングは絶妙です。

内部告発が原因とも言いますが、私はそれ以前に、何となく何者かの意思を感じるのです。

つまり、あらかじめ仕組まれたことのような気配を感じざるをえません。
宇宙そのものさえも、人間に見られるための意思をもっていると言います。ホーキングが言っている「人間原理」なのです。

また、ホーキングは次のようにも言っています。

<我々は過去を記憶することはできる。しかし、未来を記憶することはできない。>

ここで「我々」ができなかったりすることでも、「何者」かはすべてができるなどとは、言っていませんが、……


捨てるのは惜しくもあるが、あえて行う。


いただき物をすることもある。
しかし、食べ物に関しては注意をしているために、せっかくではあるが捨ててしまうことが多い。

ハムや佃煮(つくだに)、そしておみやげにいただく各地方の珍味など。
もったいないと思うが、どうもそれらを食べる気がしない。そうかと言って、それを誰かに差し上げるのは、やはり失礼であろう。

なぜならば、自分が健康によくないので不要だから、それを知っていて、そのことを知らない人にさせるのは、えじょうの言う「ほう居士の故事」と同じ。

ほう居士は仏道に入ろうとしたときに、家財道具すべてを車に積んで、海に運んで捨てた。誰かが、布施に用いたらと注意をしたら、

「自分が持っていて、自分のためにならないと考えたものは、やはりその人にもよくないであろう。」

と答えたという。


親が親なら子も子、師が師なら弟子も弟子。


一字余りの句である。十音目の次で読点「、」、続く十音が一音の字余り。
そんなわけで、ちょっと言葉のリズムと響きが悪い。

最近は、躾(しつけ)がなっていない。そんなわけで、「身」が美しくない。
子どもは、驚くような犯罪を次々とする。しかし、本人が後で何をしたかわかっていない有様。考え方が身勝手で、支離滅裂なのだ。
また、弟子が師の指示などは聞かない。相撲でも、伝統などは関係なく、ただ強くあればよいと考えるのであろう。意外にお粗末である。
もっとも、日本はかつてモンゴルという国の属国か、一つの州になりかかったことがあるから、仕方がないのかもしれない。

芥川龍之介が(赤ちゃんとして生まれたその日)「親子になったときから、人生の悲劇が始まる」、そして吉田松陰は(後で後悔をするから軽々しく)「誰かの師になってはいけない」というようなことを言っている。


八月も過ぎ去りてゆき、余命幾ばく?


八月には終戦記念日があったり、私の誕生日がある。
暑い日が続いて、身体には堪える(こたえる)月でもある。
それでも、あっという間に過ぎてしまった。
そんな中、血液の中に化学物質や病原菌が入ってしまったらしく、ここのところずっと病院がよい。
きょうも、通院である。

結果が思わしくないので、何となく心細い。
抗生物質を続けて飲むわけであるが、副作用が出てしまって、思うようには快癒しないようだ。

最近は、ほとんどの人がすでに私のような状況になっているとのことである。そんな人が、日本国内に100万人もいるという。
そんなわけで、「青空の入門・創作ページ」の「健康入門」にまとめているところだ。


Kuroda Kouta (2007.08.01/2007.09.01)