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  新句(十九音) 作品集1(2007年7月分)



つきつめて、思うことなく、人生終わる?


疲れ果て、思考衰え、それでも生きる。


何故に、襲いきたるか、死後のことなど。


よい本は、心の友か、夢の世界か?


あかあかと、あかあかあかと、あかあか夕日!


いきいきと、いきいきいきと、いきいきと生き。


うむうむと、うむうむうむと、うむうむと有無?


はるかな記憶、いつの日か、失せる。


ギガンジウム、大きな玉、紫色の。


あいうえお、いろはにほへと、ひふみよいむな?


いろはにほ、へとへとちりぬ、えひもせすうん。


「どっこいしょ」・「面倒くさい」を言わないように!


ビタミンは、身体(からだ)の中で、作られている。


年取ると、なぜか身体の節々痛い。


タブプラザ、すべて忘れて、元の木阿弥(もくあみ)。


「そうかなぁ」「本当なのか?」と迷いておりぬ。


人生は、空しかるべき一連なのか?


含蓄のある言葉など、覚えておこう!


体調が、優れぬときは、じっとしている。


生きざまは、平凡であるか? 私の場合。


何故か? 襲いてくるか? 錯覚なのか?


きょうは雨、スカルラッティの曲を聴く楽しみ。


いつか見た広々とした景色の中に。


(盗作・パクリ例)この柵に入るべからず警視庁(^_^)


己(おのれ)のみ、歩いてゆこう、己の道を。


 何となく高村光太郎の「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる……」(原文と違うかも?)に似た心境ではないでしょうか。
 五七五でしたら、「己の道を」とできませんから、「わが道を」とすることでしょう。すると、引き締まってはいるが、余韻がなくなってしまいます。そんなふうに考えるのです。


書き足して、病(やまい)八百(はっぴゃく)、膏肓(こうこう)に入る。


 手術後、いつとはなしに体調を崩して、とうとう病膏肓に入(やまいこうもうにい)ってしまいました。
 そんなことを考えて、ちょっとガックリしています。


つきつめて、思うことなく、人生終わる。


 実際には、まだ終わっちゃいないよ。しかし、何となく終わった感じ。生ける屍(しかばね)というほどのひどさではないもののポンコツ寸前である。


疲れ果て、思考衰え、それでもいのち。


 「つきつめて、思うことなく、人生終わる。」に対する捨て台詞(すてぜりふ)。捨て台詞は、役者がその場の雰囲気に合わせて即興的に言う言葉ではあるが、そのときに思いついたのだから意味のないときもあろう。最近では、サワーグレープス(酸っぱいブドウ)どころか、怒りや脅しの言葉を言う人が多い。化学薬品を食べ続けて脳の機能がおかしくなったためだろうか。
 立ち去るときに、相手の返事を求めないで言い捨てるのが捨て台詞であるが、立ち去らなくてもぶつぶつと言っている若い人が増えたようだ。


何故に、襲いきたるか、死後のことなど。


愚かなる至福のきわみ、飲み食いのとき。


 食いしん坊の私はに、食欲を抑えることが至難のわざです。
 大戸屋で「生そばと鶏カツソース丼」(税込み672円)を食べ、さらにふらふらとミスタードーナッツへ寄ってエンゼルクリームとハニーファッションの二個のどーナットとホットカフェオレ(合計で税込み494円)をやってしまうのです。
 また、サウナへ行ったときは帰りに聖蹟桜ヶ丘C館のシェーキーズでキリンピッチャーを妻にそそのかされて(変な言い分かも?)やっちゃう。ピッチャーは2リットルくらい。スパゲッティやピザなどは食べ放題ではあるが、あまり多くは食べない。食べられないのです。
 帰ってから、食後2時間の尿糖をはかると、500mg/dlくらい出ちゃっている。多いときは、2000mg/dl以上。今までは、2時間もあったら血糖値は50mg/dl以下に収まっていたのだが、院内感染をやってからインシュリンの出が悪くなったのだろうか、なかなか正常値に戻らない。ひょっとすると半・半日(6時間)くらい戻らないこともある。


何となくめしいちゃうのも間もないのではないか。


ぼつぼつ、至福のときをやめるときがきたようだ。


面白くないことばかり、増えた世の中。


何故か、記憶の中のあいまいなこと。


はじめより、かなわぬこととあきらめており。


つきつめて、思うことなく、わが生終わる。


何故に、空しき心地、生にあるのか?


生きざまは、一人一人が、作りて終わる。


夢という、現実にない、論理の世界。


もはや死ぬばかりが残る、余生とも言う?


慢性の痛みになりぬ、病み上がりのまま。


身の回り、ぼつぼつ整理、我も晩年?


ふと思うことをこまめにメモしておこう!


あれこれと、悩みおるとき、初蝉を聞く。


朱鷺(とき)の舎(しゃ)に、ニッポニアニッポンは、久しくいない。


 多摩動物公園の朱鷺舎(ときしゃ)。赤色の鮮やかなトキや嘴(くちばし)の平べったいトキなど、数種類がいる。しかし、新潟で保護されていたキンちゃんを最後に絶滅をしてしまったというニッポニアニッポンは一羽もいない。中国に同種のものがわずかにいるというが、いわゆる新潟行きの特急に名付けた朱鷺は幻(まぼろし)の鳥。
 多摩動物公園でコウノトリが手厚く保護されて二百羽近くいるのを見ると、何となく愚かしくも感じるのは私だけであろうか。


やっても、やっても、キリがない。


 何となく作品になっていないような呟き(つぶやき)にも似た言葉。
 しかし、種田山頭火の
 <分け入っても分け入っても青い山>
などのような感慨をもよおした作品。(と言えるかどうか?)
 完成することがない作業について、嘆いたものか。
 そういえば、『徒然草』にまかしかんからの引用で、
 <学問や技術など、キリがないので、いっそやめちまえ>
というのがあった。


やってみて、わかったことは、病人ばかり
  集まった人たちは皆、末期や慢性
  グループの当初の計画、とんだ誤算だ。


 上記の三首は一連のまとまった作品です。ここでは、それを連作と言いましょう。
 五年前に、健康会が発足しました。市の広報にメンバー募集の公告を出したところ、かなりの反応がありました。しかし、あらかじめ健康や生活習慣に注意をして、病気にならないようにするというムードではなく、すでになってしまった病気を治したいという人がほとんど。
 しかし、治療は病院がするので、会の趣旨は予防を中心にしています。したがって、治療の必要な人たちに対するアドバイスなどはできません。世間には、病気持ち(持病というのでしょうか)や末期患者が、かなりいることを知りました。


皆さんも、いかがでしょうか? 五七七など。


五七七などと言っても、意味のないこと?


五があって、七が続いて、もう一度七。


次々と、思いつくこと、書き連ねゆく。


過ぎ去りし記憶の一部、我を苛む(さいなむ)。


健康は、個人個人のテーマなりけり。


一概に言えるものではないと知るべき。


あればある、なければないで、ともに不自由、
  体重やお金があるのは、命短し。


体重が増えれば病、次々と出て、
  金などは、多く持っても、不自由を知る。


お隣の奥さん、いつもお化粧くどく、
  何となく水商売の雰囲気がする。


 中の途中に「、」があってもかまいません。その結果、五七七でなく、九九となります。


反省と悔い多くある日々の生活。


残る日々、有効にする工夫はないか?


勘違い、つもり違いは、避けたいものだ。


このごろ勘違いをすることがある。記憶違いや度忘れなどは、どうしても高齢になると生じるらしい。

しかし、例えば

http://9011.teacup.com/rik/bbs?M=ORM&CID=292&BD=12&CH=5

のような「つもり違い」はしたくないと思う。


葬式で、「花のごとくに去る」と言いたり。


 テレビで外国の映画を見ていると、葬式のシーンで例えば
 「その来たること花のごとくに去る。……されど死のほかに誰か助けを……我らを限りなく死の……」
などのように、牧師(神父)の言う光景がある。

 日本の葬式で御文章「白骨の章」などを読むように、おそらく聖書から引用をしているのだろう。
 しかし、どの部分から引用するのだろうか?
 いままでに、異なったパターンを10以上聞いているのだが。

 何となく「詩篇」や「ヨブ記」なんじゃないかと思う。しかし、「詩篇」は150篇もあるので見直すのが面倒。また、「ヨブ記」も大物だ。
 そんなわけで、思い切って『RKOホームページ』にある「青空ライブラリ」に「詩篇」と「ヨブ記」を入れようと考えている。

 それも、かなり面倒な作業ではあるが。
 さて、どうしたものだろうか?


つきつめて思うことなく、迷いつつあり。


迷うということが、人間の脳のもつ宿命的な欠陥であろうか。
価値判断などというものは、各自の基準によって変わるだろうし、時代によっても異なるだろう。

何が正しいかなどということは、一概に言えないのではないか。
そこで、迷いが生じるのである。


梅雨(つゆ)の日の半日だけど、至福の時間。


梅雨の最中、朝からどんより空。ときどき雨模様。
そこで、仙川にある床屋と風呂に行くことにした。
雨のため床屋は空いていた。思ったよりも早く終わったので、桐朋音楽学校の角にあるミスタードーナッツに行ってホット・カフェオレを飲む。ドーナットも3つほどパクリ。
それから、風呂。床屋の後では、髪を洗い直さなければいけない。化学薬品を頭の肌に塗り込んでいるからである。その風呂はサウナと水風呂の交互。10分と1分。それを3セットする。
すると、身体が引き締まって気持がよい。至福のときと言ってよかろう。
その後は、石けんなしに肌の垢(あか)がボロボロと面白いようによれる。

風呂から出ると桜ヶ丘まで戻って、吉野家で水分の補給。豚丼とともに、中瓶ビールで一杯。これも至福のときである。

至福の半日の費用は、下記のように3721円であった。まったく、安いものである。
京王線は、わずかな費用で安全に仙川まで運んでくれる。徳富蘆花が京王電軌の悪口を言っていた時代が私には嘘みたい。「みみずのたわごと」ではないけれど、……
また、私にはミスタードーナッツのカフェオレがお代わりできるので、有りがたい。いつも二杯飲む。かつては三杯だったのであるが、最近は腹が下ってしまうみたい。
風呂はスーパー銭湯であるので、10時からやっている。都内であるのに、温泉に浸った(ひたった)ような気分になる。何とも有りがたい。
また、吉野家の豚丼はお馴染み。牛丼がなかったときに、何回か食べて好きになってしまった。何となく、牛よりもさっぱりしている。

あなたは、そう思いませんか。


【至福の費用の明細】

聖蹟桜ヶ丘〜仙川 往復 380円
床屋 シルバー 1600円
ミスタードーナッツ(仙川ショップ) 561円
 (内訳:ホットカフェオレ・カリーパンのセット 320円
  ハニーファッション 126円  エンゼルクリーム 115円)
風呂 回数券を買ってあるので、その都度いちいち計算しない。平日・祝日ともに、4500円で10回入れる。つまり、1回450円。
吉野屋 730円
 (内訳:豚丼(並) 330円
  ビール(500ml) 400円)

以上


きょうもまた、あれこれとある、老いの一日。


体調が悪くなってしまい、どうも心細い。
「rikの自然療法(含む漢方薬と薬用酒)」の範囲で治ればいいんだが。手術後、何となくホメオスタシスが失調してしまったみたい。

きょうから青空五七七ブログにしてみよう。
ここにおける記述の負担を少なくするためである。


ウンコするときは、静かに息まずにせよ。


大便をするときは、息んではいけません。なぜならば、息むときに血圧が上がって、そのまま脳梗塞や心筋梗塞になる心配があるからです。

そんなわけで、食べ物は消化不良にならない程度に注意をしながら、便が堅くならない野菜などを多く摂る必要があります。


自分の歩兵(ふ)、捕ろうとする愚、目が悪いため?


将棋のゲームをしていて、相手の歩兵(ふ)を捕ろうとしても捕れません。よく見ると、何と自分の駒なのです。

ふつう、盤面の駒などの配置はわかっていないといけないのです。それを敵味方が識別できないということは、目が悪いなどという前の基本的な知識の欠如なのではありませんか。


じっとしていると、便秘になりやすくなる。


寝たきりや座りっぱなしは、便秘を誘発するという。座りっぱなしの作業をしているときは、ときどき軽い体操などをするとよい。

地震などで避難をした場所でも、じっとしているといけない。なるべくこまめに動くようにするとよい。便秘は、ガンなどを誘発することがあるかもしれない。


儲かれば、何でもするぞ! 違法や改竄(かいざん)。


まったく困ったことだ。
モラルの低下なんて言ったどころじゃない。勝手気ままのやりたい放題、悪事の至れりつくせり。
ここのところ、企業のコンプライアンス(法令の遵守)が喧しく(かまびすしく)言われているのに、そんなことはへっちゃら。

例えば、ミートホープ社である。
牛の挽肉(ひきにく)に豚・羊などを混ぜるのはお手のもの、色をよくするために心臓や血液まで混ぜる。そのほうが見た目がよく、売れるからという。

また、賞味期限の切れたパンまで入れて増量。
その上、賞味期限そのものの表示の改竄(かいざん)などはお手のもの。屋上の雨水(あまみず)で、冷凍肉の解凍までする始末。安くつくからと言う。

さらに、事実などどうでもよいらしい。馬肉と牛の脂で作った肉を牛カルピとして偽装、平然と売り続けたという。
もしかしたら下記にあるように、日本の教育制度に抜本的な問題があるのかもしれない。

『RKOホームページへようこそ!』


私と仏は違う、一八のこと。


「私」という字時と「仏」という字を見てほしい。
「仏」は、「私」よりも一八足りないことがわかる。
実際には、足りないのではなくて私から一八もの無為などを除くと、実質的に仏になるのだと言う。

その「一八」の項目とは?
ここに、恥のかき捨て、乾坤一擲(けんこんいってき)、運を天にまかせて一か八か発表をしてみようか。


五七七、あなたもやって、生きる証(あかし)を!


簡単な短詞形の五七七(ごしちしち)です。
思いついたことなどを残しておきましょう。

自分が「生きている証明」になるかもしれませんよ。
説明は、『RKOホームページへようこそ!』の2行目にあります。


楽しみは、まれに秀歌を思いつくとき。


橘曙覧(たちばなのあけみ)ではありませんが、作品を作っていて、私は百回に一回くらい秀歌もどきのものができちゃいます。まぐれでしょうか、非常に珍しいことです。

そんなときは、何ともうれしいものです。
ただし、この作品自体は駄作ですが、……


よく似てて、まったく違う、みりんと風(ふう)と。


「みりん」(味醂)と「みりん風」というのがあります。
しかし、その内容は違います。

私は、あまり化学物質を体内に入れないようにしています。
なぜならば、「化学薬品症候群」の心配があるからです。

「化学薬品シンドローム」とも言って、人間をじわじわと蝕む(むしばむ)恐ろしいものです。


体内に入れるべからず、化学薬品!


日々の不注意が、不幸な将来につながることが多いようです。
アスベストの問題や輸血の問題で生じたことなど、比較にならないほどの結果が待っているのは事実でしょう。

一億総がかりで、雄大な人体実験をしているのが、現代の軽率な社会と言う学識と先見のある人もいるようですよ。


紫の小さな花が、畦(あぜ)に咲きたり。


五七七(ごしちしち)は、俳句の一派が行うように写生をしなくてもいいんです。自分自身の記憶をたどって、その中の印象でもかまいません。

例えば、上は春にオオイヌノフグリという雑草のような草が、多摩市内の廃止されてしまった水田の畦(あぜ)に咲いていたのを思い出したのです。


やってみて面白いのが、将棋のゲーム。


小学校や中学校のころ、よくやった将棋です。
最近になって、高齢者の「老化予防」というテーマで「将棋」を研究をしてみました。すると、まったく面白いものとわかった次第。

私の場合。有段者クラスと勝負をする。すると、千回やっても勝てない。そこで、相手に「飛車」と「角行」を抜いてもらう。つまり、「二枚落ち」である。
それで、右責めのときは何とか勝てるようになった。

しかし、左攻めのときはなかなか勝てない。ともすると、けちょんけちょんにやれれてしまうんだ。


思いつくことのすべてが、作品になる。


五七七は、非常に簡単な短詞形です。
したがって、誰にでも作品が作れるでしょう。そして、俳句などと違って気楽なのがいい。

私は、ここのところ「健康」「老化予防」「安心立命」に関して、五七七を作ろうとしている。何となく覚えやすいからである。

あなたもいかが?


尿糖が出ているときは、眠気(ねむけ)もよおす。


尿糖が出ているときは、うつらうつらします。
ふつう、食後2時間くらいで出なくなりますが、高齢になってインシュリンが不足してくると、半・半日(6時間)くらい出続けることもあるんです。

食べなければ、尿糖は出ません。しかし、食べない訳にはいかないでしょう。
そこで、少しずつ何回かに分けて食べるほうが出にくいようですよ。


血圧が高いときには、ふらふらとする。


血圧が高くなると、ふらふらします。
ふらふらするだけであればいいんですが、やがて循環器系に問題を起こしてしまうでしょう。

体重を減らしたり、運動をすることによって、何とかふつうの値に戻す必要があるようですね。
脳梗塞や心筋梗塞にならないために。


また逢える、そんな思いが、ふつふつとする。


高齢になると親しい友達が減ってしまいます。
意見が異なって別れてしまったのは、仕方のないことです。それよりも、死んでしまった人が次第に増えてくるからです。

老いてくると、女性ばかりが恋しくなるのと違います。
人間が恋しくなるのです。


エスペラント、なぜ広まらぬ? 素晴らしいのに。


エスペラント語は、理想的な人工語であるのに、なぜ普及して広がらないのだろうか?

ここのところ、私はちょっとエスペラントの学習をした。
でも、いまさらエスペランチストになるわけではない。
なぜ、この言語が世界で大流行をしないかが、不思議であったからだ。

中学生のころ「エスペラントの父ザメンホフ」という岩波新書の本から抜粋が国語の教科書にあった。伊東三郎さんが書いた本で、非常に内容が優れていた。
そのころ、父が京大以後にお世話になった人ということで、伊東三郎さんのお嬢さんと、やはり秦さんの息子(剛平さん)と娘(良子さん)三人の英語の勉強を母がみていた。むろん、無料でしていたと思う。

秦さんの息子は、キリスト教大学を優秀な成績で出て、今は美大の教授になられた。しかし、伊東さんの娘さんも秦さんの娘さんも、その後どうなったか知らない。

秦さんも伊東さんも金銭を父に貸してくれたそうであるが、どちらかの方の学生時代のあだ名か忘れたが「西洋乞食」と言ったそうだ。しかし、それは風袋のことであって、いずれも資産家の家系だったらしい。

ご承知のようにエスペラントは人造語である。
……


割礼はするべきものか? しなくてよいか?


前に玉木さんから有意義なメールをいただいた。
そこには、割礼を早めにすべきだと書いてあった。

ユダヤ人の男子は、生まれて間もなく割礼をするらしい。旧約聖書にもあるように、それは神との契約であるから、かなり古くからの習慣であろう。

聖書の記述には、「割礼をしていない者たち」と敵のような呼ばわり方がある。そして、全滅をさせてしまった記事さえもあった。
しかし、妥協的な教義変更を好んだパウロは、宣教に大きな障害になっていた割礼を廃してしまった。さらに、ユダヤ教の伝統を自分流に解釈して、教義を次々と変えた。
それによって、異邦人に対する伝道が飛躍的に伸びたという。

砂漠の地のように水の乏しい地域では、オチンチンの清潔を保つためにも好ましいことかもしれない。また、ギリシアの彫刻に見るように、楳図かずおの言うミスターブラウンが剥(む)けていない人が多いらしい。

日本人は、明治以前に来日した外人が誰か書いていたが、「風呂で見たら、ほとんどの人が剥けていたので驚いた」とあった。

さらに、日本のように水が豊富なところでは、とくに割礼が必要ではないかもしれない。一日に数回、ミスターブラウンをまくって、水を流しながら洗うこともできるからである。

日本でも割礼をしている家系があることを漏れ伝え聞く。それは、天皇家である。しかし、私は天皇家がなぜユダヤ人の習慣をもっているのかは知らない。


「尿」という文字が気になる、手術の後は。


昨年の夏に、前立腺肥大の手術を受けた。その結果、外科的には大成功。まったくオシッコの苦しさはなくなった。しかし、その後「尿」という文字が目にとまりやすくなったようだ。

例えば、「尿前の関とはどういういわれだろう?」などと考える。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』に「尿前の関」というのが出ていた。それは、「ひとまえのせき」と読むらしい。宮城県玉造郡鳴子町尿前にあって、近くに鳴子公園や日本こけし館がある。
北羽前街道から、ちょっと入ったところである。

以上、前立腺肥大症をやってから、「尿」という字が目に入ってしかたがないという単なるお話。


道元と懐奘(えじょう)を思う、がまとみみずと。


道元と懐奘(えじょう)を考えると、何となく懐奘のほうがわかりやすい。いま、私が調べている

 <切に思ふことは必ずとぐるなり>正法眼蔵随聞記

という記述は、ポールマイヤーなどにもあった。

さらに、

 <「仏というは蝦蟆(がま)蚯蚓(みみず)ぞ」といわば、蝦蟆蚯蚓をこれぞ仏と信じてひごろの知解(ちげ)を捨つべきなり。>(正法眼蔵随聞記)

 <学道の人はもっとも貧なるべし。>(正法眼蔵随聞記)

 <学道の人はまずすべからく貧なるべし>(正法眼蔵随聞記)

 <人の心もとより善悪なし。善悪は縁に随って起こる。>(正法眼蔵随聞記)

 <ほう(まだれの中に龍)居士(ほう公)は、参禅のはじめ、家の財宝を持ち出して海に沈めようとした。>

 <玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁(ひと)となる。……>

 <自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ>(正法眼蔵随聞記)

などと言う言葉に、大いに感激をした。
道元は、わが国の曹洞宗の祖と言われる。さらに、次のような言葉を残している。

 <仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり>(正法眼蔵)

 <ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。>(正法眼蔵)

なお、正しくは「正法眼蔵」を「しょうぼうげんぞう」と読むらしい。
さらに、私は考える。
もしかしたら、弟子のほうが師より数倍も優れていたのではないか?

 <自己をならふといふは、自己をわするるなり。>(正法眼蔵)

雪の中の白い梅についての記述が『正法眼蔵』にある。

 <人間は知識をいっぱいもっているが安心できる世界はないのではないか?>

『正法眼蔵』の「梅花の巻」である。
私にも、静かに目を瞑る(つぶる)と雪の中の白い梅の花が見えるようだ。


作曲の楽しみもある、素人(しろうと)趣味。


作曲の楽しみとして、クラッシックギターの場合を考えてみる。
私は、ギターなど弾けない。右手に重度な傷害があるからである。実際に筋(すじ)が切れてしまって、手そのものに力が入らない。つまり、握力さえもまったくないのだ。

でも、作曲ならできるかもしれない。
作曲を初めてしたのは、かなり大人になってから。何もわからなかったが、ただ自分なりにやってみたのである。
今回は旋律がなく、ただダラダラと進むBGM用の練習曲を考えてみた。自分は練習など、できないのではあるが、……

旋律のないイ短調

そのうち、アラフェンスばりの協奏曲ができるかも?


臼井さん、昨日(きのう)のお越し、感謝してます。


昨日(きのう)は、ご一緒をして、いろいろと楽しかったです。
まず、多摩川べりに行って、小魚を見たこと。
そして、無印商品の隣のカフェで軽食。そこで、アップル(マッキントッシュ)によるホームページーの訪問。
かつて、大岩さんが言っていたことを思い出しませんか?

おかげさまで、とても楽しい2時間でした。
心から、感謝をしています。


簡単なことでも、とくに問題はない。


この五七七は、まったく自由な短詞形。
だから、身近な簡単なこと、取るに足らないこと、そんなことでも自分自身に意味があると考えたら、作品になるのです。

価値があるかないか、文学として優れているかどうか、そのようなことは個人差があるので、自分がよいと思えば、それでよいのです。


同じ句が、いくつあっても、よいではないか?


同じ句が重複するのは、ふつう避けます。
間違って編集されてしまったからです。『論語』などにも、まったく同じヶ所が、別のところに含まれていたりしました。

しかし、この五七七では同じものがいくつあってもかまいません。
それだけ印象が深いと、考えればよいからです。

なお、同じ句の中に同じ言葉がいくつあってもよろしい。
同義反復(トゥトロジー)であってさえも、よいのです。
栂尾(とがのお)の明恵上人(みょうえしょうにん)の月を歌った「あかあか」のようにです。


オシッコをガマンするのは、身体に悪い。


ユダヤのラビも、同じことを言っています。
古くから、そのように考えられていたのでしょう。

「出物腫れ物所嫌わず」などとも言います。
あまり我慢をしないでください。

もしも、膀胱がパンパンに貯まっているときに、転んだりすると大変なことになります。膀胱が破れて、瀕死の状態になるからです。
お互いに気をつけましょう。
とくに、高齢の場合は。


救急車、走りておりぬ、夜の静寂(しじま)に!


今も救急車が、けたたましく走っています。
いったい、どんな人がどんな状態で運ばれているのでしょうか。
ここのところ、ひっきりなしに救急車の音が聞こえてきます。

おそらく、交通事故以外にも、高齢になった人が脳梗塞や心筋梗塞で倒れる場合が多いのではないでしょうか。

私は、あまり救急車に乗りたくはありません。


かつてないほどに多くのガン患者増す。


最近になって、ガンが急増していると言います。
それは、化学薬品を食べるようになったことから、当然の結果ではないでしょうか。それを私は、「化学薬品症候群」または「化学薬品シンドローム」と呼んでいます。

ここ50年は、人類がかつてない雄大な人体実験を行った期間ということになるでしょう。
おそらく、その結果は今までの薬害などの訴訟などの1000倍近くの問題が発生してくるのが、目(ま)の当たりに見えるようです。
私には。


ガンになる人の多くは、食べ物のミス。


食べ物の選択を間違うと、ガンになりやすいのではないでしょうか?

化学薬品のような遺伝子に傷をつけやすい食品は、なるべく避けたほうが無難でしょう。
また、焦げたものや珍味などにも注意をする必要がありそうです。

昔から言われていることにも、気をつけたほうが安全でしょう。
なってしまうと、なかなか治らないからです。


身体(しんたい)に、異物であるか? 化学食品。


化学薬品が食べ物に含まれていると、ガンになりやすいと言います。
なぜならば、人類が今までの歴史上で食べたことがない物質だからです。そんなわけで、大量に食べることを避けたほうが無難でしょう。

私は、なるべく自然の状態で作られたものを食べています。
野菜なども農薬をほとんど使っていないもの。
米は、かるがも米。

水は塩素を除いて、ダイオキシンなどが身体に入らないようにしています。


原点に帰る必要、あるかも知れぬ。


何事もそうでしょうが、行きすぎると問題が生じます。
たまには、原点に帰って考える必要があるのではないでしょうか。

とくに、食べ物です。
私たちは、キケロが言うように

<食べるために生きているのではなく、生きるために食べている>

のですから。


ふと思うことが次第に、習慣となる。


突然に思いついたことでも、正しいと思われることはやってみましょう。
すると、よいことであれば続けているうちに、習慣になります。

そのような習慣は、たとえ些細(ささい)なことであっても、大切にするべきでしょう。

いくら勢い込んでも、小さいことができないと、大きなことが成就しないからです。


簡単にあなたもできる、五七七です。


やってみると、驚くほどのやさしさがわかります。
そんなために、「生きているという証明」が五七七でも、簡単にできるのです。

つまり、文学というよりか、日々の日記、覚え、メモの類なのです。
そして、それはないよりもあるほうが、生活のあり方が異なってくるのではないでしょうか。

次々と作っていって、後で手直しをしたり、見るのもよいでしょう。


おぞましき若き時代の恥の思い出。


「おぞましい」とは、「鈍い」とか「愚かな」という意味です。
若いときには、情熱はあったものの常識がありません。そこで、いろいろと恥ずかしいことをしたのです。

そんな思い出が、何かの拍子にふと蘇って(よみがえって)きて、自分自身を苛む(さいなむ)のです。

神経の太い人は、そんなことはないでしょう。
あなたは、いかがでしょうか。


きょうまた、至福のときが、やってきた?


梅雨も、明けようとしているのか。きょうは、久々に晴れ模様。
そこで、10時のバスで唐木田福祉センターへ。そこから、多摩センターまで小田急線に沿って歩く。多摩センターでは、多摩テレビと多摩パルテノン歴史ミュージアムに寄る。

いずれも、有意義な時間を過ごせた。
楽しくなっちゃって、バスで聖蹟桜ヶ丘駅まで着くと、吉野家で鰻丼(うなどん)とビール、さらにミスタードーナッツへ行ってエンゼルクリームとハニーファッションの二つとホットカフェオレを二杯。

とてもいい気分で帰宅した。
食べ物に関して、意地汚くて、卑しいと言われても仕方ない。


初めての道行くときに、発見がある!


いつも通る道の一本裏手の小道を行ったりすると、新しい発見があって面白い。つまり、いわゆる裏側を見ることになるから。

また、意外にも「前にも、こんな景色があったなぁ〜」などと思うこともある。もしかしたら、既視感(デジャビュ)かもしれない。

『徒然草』にも、そんなことが書いてあった。第七十一段の後半である。

あなたは、そんなことがありませんか?


生水を飲まぬがゆえに、身体(しんたい)を病む。


もともと人間の身体には、生水が合っているのでしょう。
長い人類の歴史で、清涼飲料水やコーヒーなどの飲み物が好まれるようになったのは、つい最近のこと。

おそらく、人体の細胞は科学的な水よりも、生水を好むのではないでしょうか。しかし、かつてのように汚染をされていない清潔な水は、もはや少なくなってしまいました。

ペットボトルに詰められたアルプスの水などは、法令に基づいて一度高温殺菌をしていますので、いわゆる生水ではありません。
フランスから輸入しているエビアンなどは、煮沸をしていませんが、カルシウムが多いので、健康には好ましくありません。腎臓などに結石ができやすくなるからです。


老いにつれ、ホメオスタシス、崩れてきたり。


高齢になると身体のコントロールが効かなくなってきます。
フィードバックというのでしょうか、元の状態に戻す機能も劣ってしまいます。したがって、病気になるとなかなか治りません。

何とか工夫をして、衰えを防がなくてはダメ。
防ぐことができなかったら、進み方を遅めるような努力をしましょう。

なお、ホメオスタシスについては、『RKOホームページへようこそ!』にある「語句・人名などの覚え」を参照してください。


体調が悪いと疲れ、どんどん進む。


身体が疲れても、若いときは眠ると治るものです。
しかし、高齢になるとなかなか治りません。第一、眠りが浅くて熟睡をしないので、疲れも取れないのです。

そんなわけで、悪循環をしてしまいます。
疲れがたまって、体調がますます悪くなり、その結果、疲れも一層激しくなるのです。

そこで、そのようなときは工夫が必要です。
場合によっては、睡眠薬を用いたりするのもよいでしょう。
しかし、やはり医者の診断を受けることが先決なのではないでしょうか。


いろいろなことをしてみて、わからぬままに……
  人生は、中途半端で終えたくもなし。



一つの五七七で終わらなくてもよろしい。
言い切れなかったときは、五七七を何連か続ければよいのです。

そのような形を「連句」と言いましょう。
連句は、最初の句の作者でない別の人が続けてもいいのです。次々と発想を変えていくのも面白いかもしれません。

句が、次の句に続くということを示すために、前の句の最後に「……」などを用いるといいでしょう。


何事も、一所懸命やってはみたが、……
  ことごとく力不足で、失敗ばかり。



「連句」です。
この例は、最初の句で「何がどうした」。そして、次の句で、「どうなった」かを言っています。

あまりよい例ではありませんが、言い切れなかったときには「連句」にします。すると、状態を述べた後で、その気持を吐露(とろ)することができるかもしれませんよ。

いろいろとやってみてください。


Googleをゴーグルという人たちもいる。


Googleは、世界でトップクラスの情報処理会社です。
しかし、日本ではなぜかあまり知られていません。ふつう、グーグルと言うのですが、ゴーグルという人も多いようです。

アメリカの社会では、ゴーグルの検索に出てくるかこないかで、その会社の価値が決まってしまうとも言います。つまり、グーグルの検索に引っかからないとダメだと言うのです。

日本では、むしろYahooのほうが知名度が高いようです。
このヤフーをヤッホーと読む人はいないでしょう。しかし、私はスイフトの抜粋を英文で読んだときに、ヤッホーと読みました。もっとも、学生のころでしたが、……

そして、ガリバーが日本にやって来たという内容を何とも不思議に思ったものです。


ピロリ菌、体内にいて病気を起こす。


ピロリ菌は、常住菌です。
むろん、体内にいない人もいるでしょう。しかし、たいていの人の体内にいて、身体が弱ったときにさらに体調を悪化させます。

エイズ菌や肝炎菌などと同じように、なかなか取り除けません。
最近では、歯周菌が血液に入って健康を害するということが、言われるようになりました。

内部から身体を犯すものは、なかなか治りにくいようです。
もしも、抗生物質で退治をしようとすると、体内のよい菌まで影響を受けてしまうからです。

体内に巣くって、体内を占領されることは何となくガンに似ていて、それと同じように恐ろしいことですね。


不愉快な思い出ばかり、よみがえりきぬ。


本当は、楽しい思い出に浸り(ひたり)たいところです。
ですが、不愉快なことばかりを思い出すのは、なぜでしょうか?
どうやら、それは経験をリフレッシュさせるためらしい。

そうすることによって、同じ轍(てつ)を踏まないようにさせているのではないでしょうか。人間が賢くなって、生き残るように遺伝子に組み込まれているのかもしれません。

それはともかく不愉快な思い出は、言うまでもなく楽しいものではないですね。何とかならないものでしょうか。

私は、そんなときには考えを別に移すために、パソコンでゲームなどを始めるのです。


初蝉(はつぜみ)を聞きつつ、なぜか故郷を思う。


初蝉が鳴くのを聞くと、なぜか幼いころに住んでいた故郷のことを思い出します。断片的なことですが、連想が次々と起こってくるのです。

もしかしたら、幼心に何かを考えたときに、単に蝉が鳴いていたのかもしれません。でも、場所なども特定されて、私にとっては具体的な事象の中にいたことがわかるのです。

しかし、今となってはその場所を訪ねて確かめるわけにもいきません。なぜならば、その場所はすでにないからです。

したがって、「幾歳(いくとせ)故郷(ふるさと)来てみれば……」というようなこともないでしょう。


三木茂さん、こんにちは! お元気ですか?


「これが短詩だと言えるか?」と言われそうです。
しかし、五七七では作品として立派に成立します。秀作とは言えないまでも、完全な作品なのです。

このように、五七七は自分自身が「生きている証明」を具現して、相手があればその相手に対して呼びかけて「何かを問えばよい」のです。

相手が、必ずしも人間である必要はありません。
動物や植物、さらには生物でないもの、例えば石や水であってもかまいません。さらに、風のように形のないものでもいいんです。

そんな例えに、三木茂さんのことを歌った五七七を引用にして、三木さんには、すみませんでした。


何回も、同じ(おんなじ)ことを言うのはバカか?


日々の生活でたびたび同じ事を反復して言うと、バカにされます。
しかし、そうでしょうか。
人間の生活には、かなり同じことを連続している事実が多いからです。例えば、呼吸・心臓の鼓動・食事・排便などです。

また、四季の生活パターンなどにも、同じことの繰り返しがあります。
旧約聖書の『伝道の書』を読むと、すべて過去からの反復というような内容が書かれています。

だから、「言う」ことについても反復があっても当然です。
私には、「空(くう)なるかな空」と言われることが、宜(むべ)なるかなと思われる所以(ゆえん)です。


フランスのエビアンという水は、「生水」?


日本で作られ、売られているペットボトルは法令で加熱殺菌を義務づけられています。
しかし、フランスから輸入している水で源水のままのものがあります。そのために、ときどき腐敗をしたりして、問題になりますが、……

人間は何万年という間、生水を飲み続けてきました。
化学薬品や甘み入りの清涼飲料水などは、用いなかったはずです。

現代人にガンが多いのは、もしかしたら「生水」を飲まなくなったのが原因ではないでしょうか。

もはや水道水にしても、いわゆる生水ではありません。
つまり、私たちの回りに生水が非常に少なくなってしまったのです。そこで、生水を作る必要が出てきました。


名人といえども、駒は同じに動く。


将棋を見ていると、名人や有段者でも駒の動きや機能は同じ。
桂馬が五つ先に飛んだり、飛車が斜めにいくつも進んだりはしません。やはり、私たちの考えたとおりの動きをするのです。

むろん、各駒の動きの範囲の中で、いくつかの駒が有機的に関連づけられて機能するようです。

先日テレビで、羽生(「はにゅう」でなく「はぶ」)名人が深○(「ふかや」ではなかったか)挑戦者とやって負けた試合を見ました。やはり、駒の動かし方は私の知っている範囲でしたが、実に上手な動かし方です。

また、守り方も離れた駒でさえ、実に宏闊で狡猾、絶妙で軽妙です。
さすがだと思うとともに、学ぶことが多くありました。


パソコンが一台あって、楽しみ無限。


パソコンが一台あって、インターメットにつなぐと、私の楽しみは無限に広がります。いろいろなことが、できるようになるからです。

このようなメールの他にも、ホームページやブログなどがあって、

 『RKOホームページへようこそ!』

 『青空の入門ページへようこそ!』

 『青空の創作ページへようこそ!』

などが、その見本です。
皆さんも、ぜひやってみてください。
工夫をすると、さらに面白くなるでしょう。


次々と、思ったことを書き連ねゆく。


ふと思いついたことや、あるいはよくよく考えたことを記事やアルバムに育てていく楽しみは、生き甲斐にも通じるものです。
つまり、そのようなことをするのは自分自身が、まだ「生きている証明」にもなるからです。

したがって、高齢者はパソコンを使う必要があります。
それは、難しいことではないでしょう。

電車に乗るときに、どのようなモーターで動くのか、軌条(きじょう=レールなど)はどうなっているか、乗った駅と降りた駅の駅長の名前は、などということは知らなくてもいいんです。

パソコンでは、知らなくていいことを知ろうとしたり、知っていないと困ることを知らなかったりすることが、あまりにも多いようです。
そこで、『青空の入門ページへようこそ!』を作ってみました。


ハネマンをハネムーンとも言った友あり。


学生時代のことです。
休講などになると、授業の合間によく麻雀をしました。なぜか、そのときにハネマンのことをハネムーンと言った友がいました。その後、一度も会っていませんが、なぜかそのときの表情まで思い出されて、なつかしい気がします。

このような些細なことでも、この五七七では作品になるのです。
つまり、自分自身だけのことで、さらにどうでもよいことなどでも、作品の素材にじゅうぶんなるわけです。

ですから、五七七の世界は老いてなすべくもない日々になってしまった場合でも、大きな楽しみになるでしょう。
どうぞ、皆さんもやってみてください。


人生は、変わらぬことの日々繰り返し。


確かに、私たちの生活には喜怒哀楽や四苦八苦があって、日々が違った様相を呈します。しかし、基本的には同じことの繰り返しなのです。

単調な日々を過ごして、反復をしていくのが、ふつうなのです。
大きな変化のあるのは運命のいたずらか、あるいは本人の不注意と言ったところでしょうか。

自然の災害などは、何とも致し方のないことですが、自分自身の不始末や不注意から、生活を乱さないようにしないといけません。

とくに、身体を損なうことには気を付けましょう。
事故で怪我をしたり、火傷(やけど)をする。病気になる。そんなことのないようにしたいものです。
お互いに。


トロトロと眠きことあり、尿に糖出る。


老いてくると、インシュリンの分泌が少なくなるようです。
そこで、どうしても尿糖が出てしまいます。さらに、他の原因で尿蛋白まで出てくることがあります。

尿糖は、ふつう食後2時間くらいで正常になるのですが、糖尿病の気(け)がある場合には、半・半日(はんはんにち=6時間)くらいも、尿に糖が残ってしまいます。

もしも、100mg/dl以上も出るようでしたら、何とかしないといけません。
一度、血液中の糖、つまり血糖値なども正式に測るほうがよいでしょう。

私は、そのようなときには、

rikの「糖尿病そして腎臓病」素人療法

をすることにしています。


五七七、楽しい世界、自分で作る。


高齢になると、つまり老いてくると自分の楽しみは自分で作らないといけません。誰も作ってはくれないからです。

有名なユダヤのラビ「ヒレルの言葉」ではありませんが、

<自分で自分のためにやらなければ、誰があなたのためにやってくれるか?>

なのです。
また、誰も相手にしてくれないときには、エラスムスの『痴愚神礼賛』にあるように、

<誰も賞賛してくれないときに、自分で自分を賞賛するのは当然のことである。>

と考えたら、どうでしょうか。


麻雀で、「ノーテン」なるは「No点牌(のーてんぱい)」の略。


「ノーテン」などと言うと、何となく変なことを考えてしまいます。
しかし、「点ぱっていない」という意味なんです。「点ぱる」とは、上がりができる状態のことです。

そして、点牌(てんぱい)とは、上がれる牌(ぱい)の一連の並びのことでしょう。このような略語は、なかなか便利です。

日常でも、向かい側のことを「対面」(といめん)と言ったりします。対面(たいめん)ではありません。
また、中村さんのニックネームを「ちゅんちゃん」などと言うのも、麻雀の言葉からきたのかも?

日常の言葉は、いろいろな方面から入ってくるようです。


限りなくある可能性、失いてゆく。


最初にあった限りない可能性を一つずつ失ってゆき、最後には力が尽きて終わってしまうのでしょうか。

将棋などのゲームをする場合はともかく、実際の人生においても、そのようなことが言えそうです。

幸福な一生を満足とともに終えることができるような人は、めったにいないのではないでしょうか。

たいがいは、悔いと無念さが残ってしまうようです。
人生にも、いわゆる持ち時間が限られています。だから、あまり考えすぎても後がダメ。それは、将棋などと同じでしょう。

私の人生の持ち時間も、だいぶ減ってきたようです。


寝苦しき夜も、いつしか風が出てきた。


夏の夜は、網戸(あみど)にしている。クーラーは使わない。
高齢になると、神経痛が出てしまうからだ。

ちょっと暑苦しかったが、やがて風が出てきた。
気持がよくなって、救われた感じ。

人生においても、そんなことがあるようだ。
「楽あれば苦あり」などと言う。
同じ状態が続くことは、むしろ珍しい。

時間とともに、どうしても人間の身体は衰えていく。
仕方のないことであろう。


生前のすべてを写す、浄頗梨鏡(じょうはりきょう)。


死んでから五七日すると、地蔵菩薩の裁きを受けるという。
五七日で、五七七日ではない。初七日から数えて、五人目の面接である。むろん、行いのよい人は、そこまで行かないらしい。

いったい、本当だろうか。
立正大師の書いた『十王讃嘆鈔』(じゅうおうさんだんしょう)に書いてあった。
その書は、有名な『十王経』に基づいている。
源信の『往生要集』にも、同じようなことが出ている。

源信や日蓮のような博学の人が書き残しているのだから、もしかしたら本当のことかもしれない。

もしかして、本当のことであった場合も考えておく必要があると、私は思うのだが、……


牛頭・馬頭(ごず・めず)が苛(さいな)みており、生前のこと。


まったく馬鹿げたことである。と、まぁそんなふうに考える人が多い。
しかし、正直言って、私は何となく不安である。まだ死んだ体験がなくて、わからないからである。

なお、「馬」という字を「め」と読むことは知っていが、「牛」という字の「ご」を具体的には知らなかった。

この間、シェーキーズに言ったら、牛来(ごらい)さんという若くて美しい女性がいた。いや、そうでなくて「若くて美しい女性」がいたので、名札を見たら「牛来」と書いてあったのだ。

馬(むま)のほうは、将棋の角行の裏に「龍馬」(りゅうめ)と書いてあるので、小学生のときから知っていた。


一騎打ちが、できないほどに相手は強い。


パソコンでする将棋のことである。
相手を有段者クラスとすると、けちょんけちょんに負けてしまう。
アルゴリズムがわからないと、そんなことになる。
そこで、二枚落ち、つまり相手に飛車と角行を抜いていただく。
それで、何とか勝てる。

孫子や荀子(じゅんし)、さらにはクラウゼビッツなどの言うとおり。

そんなことを

  将棋

にまとめてみました。


十王が、いるかいないか? 死後の知覚に?


人が死んだら、閻魔大王を初めとする十柱の仏が、生前の行いや遺族の供養に基づいて裁くと言います。

私たちが死んでしまえば、何も意識をすることができないのでしょうか?
それにしても、洋の東西を問わず似たような話が多くあります。

学問や理論と異なる次元のことが、もしかしたらあるのかもしれません。
私は、それを心配するのです。

死後の世界などという空間があるのではなく、時空がまったく異なる次元での知覚が、あるいはあるのではないかと恐れるのです。

なぜならば、「虫の知らせ」とか「神隠し」などという異次元の現象が昔から多くあるからです。


いつまでも、若々しくて元気でいたい!


誰もが考える願いではないでしょうか。
高齢になると、何となく心細いことが増えてきます。

若いときにもっていた体力や思考力が、めっきり衰えてくるからです。そんなために、自信を失ってしまいます。

ウルマンの詩のように、気持だけでも若々しく保ちたいと思います。
あなたは、いかがでしょうか?


健康は、何にもまさる宝なりけり。


言わずもがなでしょうか。
平素はあまり感じないことでも、いったん病気になると健康のありがたさが身にしみてわかります。

だから、そのことを忘れないようにしましょう。


病みてより、まだ病まぬ日の幸福を知る。


私は、日々生きていること自体が幸福だと考えています。
そして、「生きている証明」をするのです。

なぜならば、身体が生きていても考えることがなくなると、認知症やアルツハイマー病になってしまうからです。

そこで、その「生きている証明」にこの五七七という短詞形を用いるのです。とても簡単にできて、効果があるからです。


何となく気分すぐれず、鬱々(うつうつ)とする。


そんな日もあるでしょう。
高齢になると体調もよくないからです。
鬱々とは、「心が晴れない」という意味です。なぜ晴れないかというと、おそらく身体の調子がよくないからです。

そこで、気分転換などが必要になるでしょう。
精神的な問題でなければ、散歩などが効果的です。


カルガモの親子が歩く、公園の昼。


パルテノン多摩の公園である。
池から上がって、カルガモの親子が歩いていた。小ガモが五匹、せわしげに親に続く。

微笑ましい(ほほえましい)光景ではあるが、何となく危なっかしい。水から出てくると、事故などにもあいやすい。

そう言えば、私はカルガモ米(かるがもまい)というのを食べている。
ちょっと価格が高いが、農薬を使っていないので、安全だという。
カルガモが水田にいる害虫などを食べてくれるらしい。

とてもおいしいお米である。


治療には、人間的な触れ合いがない。


都の総合病院で手術を受けるために、私は10日間ほど入院をした。
確かに設備もよいし、先生の技術も優れている。手術自体の成果は、素晴らしかった。

でも、退院してしばらくすると、院内感染にかかったことがわかった。
そして、その後はどうも体調が以前の状態には戻らない。

しかし、そのようなことを聞ける雰囲気の先生ではない。私が納得のできるような説明を何もしないのである。
つまり、何となく患者を単にマテリアルもしくはクランケとしてしか考えていないようだ。
もう少し、病人を人間的に扱ってほしいもんだ。


退院をした直後から、衰え始む。


手術は成功したものの体内に悪性菌が常駐してしまったらしい。
どうしても、それがなくならないのである。

なくならなくても、身体に影響を与えない程度になってほしい。
しかし、次第に悪くなっていく。

やはり、病み上がりというのであろうか。
産後の肥立ちではないが、病後の肥立ちがまったく悪い。

何とかしないといけない。
そこで、

  rikの自然療法(含む漢方薬と薬用酒)

というのを始めてみた。


急速に老けていくのか? 病(やまい)の後で。


身体はちょっと懈い(だるい)だけであるが、こころが問題である。
精神的に、かなりの傷害が起こったみたい。

何となく何事に対しても「やる気」がしない。
この五七七も、高守さんと千首の約束をした手前、せっせと書き込んでいる。生きているうちに何とかしたいという強迫観念からだろうか。

考えてみれば、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
しかし、五七七は身体やこころに負担をかけないで、気楽にできる短詞形であるということが、つくづくとわかった。

嘘だと思ったら、やってご覧なさい。


なにもかも、するのがいやに、なってしまった。


でも、いまインプットをしてるじゃないか? と言われそう。
そうでない。

さっきまでの気分を思い出して、上の句を作った次第。
気分を取り直して、パソコンを始めたのだ。

こころの持ち方が、健康に大きな影響を与えるらしい。
だから、いつも前向きに明るく考えることがいいのではないか?
しかし、体調が悪いと気分まで滅入って(めいって)しまう。

昔から「病は気から」などというのも、ある程度の事実に基づいているのだろうか。


いつ来ても楽しいところ、多摩ミュージアム。


多摩市の郷土博物館が、いつの間にか「パルテノン多摩 歴史ミュージアム」という名前に変わっていました。

しかし、展示されている内容については名前が激変したほどに、変わっていません。

私は、多摩ニュータウンができる前に、よく多摩の山林を歩いたものです。「山林に自由存す」とは思いませんでしたが、とにかくパストラーレの気分に浸った(ひたった)ものです。

そのころの面影が、ここへくると偲(しの)ばれます。
貴重な映像や資料が、多く残っているからです。
皆さんも、行かれては?


いつか来たなつかしい場所、木漏れ日(こもれび)の道。


まったく同じ場所ではないのですが、それでも「はっ」とするような懐かしい(なつかしい)場所があります。

鎌倉の佐助や、かつての大仏切り通しほどには大きくありませんが、多摩にも切り通しがたくさんありました。そして、そのほとんどは多摩ニュータウンが開発されて、なくなってしまいました。

でも、町田市との境をちょっと超えると、今でも残っているところがあります。そして、そんなところを通ると、何とも懐かしい記憶が蘇って(よみがえって)くるのです。

そんなご経験が、あなたにもありませんか?


いつまでも思い出残る、公園の池。


多摩ニュータウンの中には多くの公園があって、池があるところもあります。そして、その池が曲がりなりにも昔あった地形を利用して、そのまま残されたところもあるのです。

例えば、長池公園の三つの池です。
そして、まだニュータウンが開発される前に私は、その池に何回か行きました。魚を釣っている人たちがいました。
私は魚釣りをしませんが、見ているのが好きだったからです。

むろん、池の回りの地形は、大きく変化をしています。
しかし、池自体は護岸を除いて、ほとんど昔のままです。
そんなために、思い出が未だに残っているので、行く度にとても楽しい場所になりました。


いつの日か記憶薄らぎ、朧気(おぼろげ)になる。


ここのところ、何となく度忘れや記憶違いがあるんです。
もしかしたら、認知症が始まっているのかもしれません。さらに、アルツハイマー病がかっているのかも?

それはともかく、記憶が薄らいでいくようです。
コンピュータのメモリーなども、記憶が薄らぐといいます。そのために、リフレッシュというか、内容の再書き込みをするようです。

現在のものは知りませんが、私がコンピュータを学んだ今から半世紀(50年)ほど昔は、そのようなことを言いました。

何かの拍子に、ペロンと消えてしまうようなことがあるのでしょうか。


それぞれに構築しよう、「知的空間」。


この五七七で作られる場を、「知的空間」と言います。
それは、大げさにいうと一つの次元なのです。
そして、個別というか各自の固有な場所なのです。

なお、「知的空間」については、

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/chiteki_kuukan.html

さらに、「その奥義」については、

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/chiteki_kuukan_ougi.html

を参照してください。
よろしく。


「生きている証明」として、五七七する。


この五七七は、まったく新しい短詞形です。
俳句は、幽玄ではあるが、ちょっと舌足らず。そして、短歌は上の句(五七五)に対して、下の句(七七)が冗長の嫌いがあるようです。

もっとも、万葉の時代に考えられたものですから、忙しい(せわしい)現代において、そのままの形を用いるのは時代遅れなのかもしれません。
とくに、若い世代には。

そこで、俳句と短歌の中間、五七七なんです。

なお、五七七については、下記を参考にしてください。

http://rikinf.web.infoseek.co.jp/nyu_577.html


五七七、「知的空間」、その中にいる。


まさしく、その通り。
説明するまでもないでしょう。

なお、五七七は

http://rikinf.web.infoseek.co.jp/nyu_577.html

「知的空間」は、

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/chiteki_kuukan.html

http://www1.ttv.ne.jp/~riko/chiteki_kuukan_ougi.html

の通りです。


老いてきて、人間嫌いにいつしかなりぬ。


誰でもそうかわかりませんが、私は面倒なことが嫌いです。
とくに、還暦を過ぎたころから、煩わしいことをしないようになりました。

若いころは、何にでも興味がありましたが、高齢になると必要以外のことはしたくありません。なぜでしょうか。

そんな中で、どうしても日々の「生きている証明」が必要です。
そこで、このような五七七という安易な日記を付けるようになりました。少なくとも、自分自身の「知的空間」が構築できるからです。

あなたも、いかがですか?


チビマルコ、マルコのイメージ、ちょっと異なる。


言葉というものは、不思議なイメージをもつものですね。
ちびまる子ちゃんは、私の大好きな番組です。とくに、おじいさんの発言には感心させられます。
最後に、で〜んと出るところなどは、まったく素晴らしい。

いっぽう、マルコは「マルコの福音書」でお馴染み(おなじみ)。
私は、「ルカの福音書」とその続編の「使徒行伝」を愛読していますが、短くて簡潔な「マルコ」も必要に応じて、ときどき読みます。

そして、何となくちびまる子ちゃんとマルコが関係あるのではないかと考えるようになったのです。
何となく「なんじゃらほい」がユダヤ語であって、神を賛美する言葉という理屈とも似ていますが、……
なんじゃらほい。


空しかる「この世は舞台」、からくり人形。


いったい、人生とは何であろうか?
ふつう、自分は生きていると考えるのだが、実際には生かされているのではないか。養鶏場のニワトリのように、……

W.シェークスピアは「この世は舞台(ぶたい)」と言って、「男も女も役者」と書き残しています。

私は、学生のころから「傀儡師(くぐつし)が傀儡(くぐつ)を動かしている」ようなものではないかと、懸念をしています。

なお、シェークスピアは

<ついていのないのは、運がないのではなく、自分のせいだ。>

とも、言っているようです。


モルダーとキホーテたちは、異端児なのか?


「病膏肓に入る」(やまいこうこうにいる)と言います。もはや、治らない状態に入ると、何をするかわからない、私も心配です。
「異端児」と「キ印」の境界は、どうもはっきりしないようですね。

『Xファイル』のフォックス=モルダーのように、あまり追求をしすぎると組織内(FBI)でも、異端児になってしまうみたい。

いっぽう、ラ・マンチャの男ドン=キホーテは特異な分野に興味を持ちすぎて、自分自身が過去の時代の騎士になってしまう。従者と遍歴の旅をするのであるが、最後は軍法会議(軍事裁判のような宗教裁判)にかけられる。

そして、物語から出て作者セルバンテスまでが、……
いったい、この世の現実とは何か?


仕方なく、自分自身で医学の勉強!


院内感染をしたらしく、体内に何らかの菌が入った。
しかし、そんなことは担当の医師に聞けない。また、通っている歯科医師にも聞けない。

私が、先生に「聞けない」のではなく、先生に「聞いても納得のできる返答が聞けない」のである。

おそらく、血液中にエイズ菌・肝炎菌・歯周菌などの悪性の菌が増えてしまったのであろう。また、クリプトコッカスのようなものが入ったのかもしれない。

そんなことをある程度詳しく知って、その対策をしたいのだが。つまり、傾向を知らないと対策ができないからだ。
学生時代にも、「傾向と対策」という受験誌があった。

医師は、「変だなぁ。まだ、残っている」と言う。何が、どのように残って、どうなっているかなどの説明はない。
歯科医師は、「歯周菌が血液に常駐すると、どうなるか」とか「糖尿病の患者は、歯周病が治りにくい」などと言わない。

そこで、仕方なく自分自身で医学の勉強までする羽目になる。


トイレットペーパーの芯、利用ができる。


そのままでもよいが、半分または3分の1くらいに切ります。
そして、そこへ電気製品のコードなどの余った部分を通しておくと、すっきりと整理できます。

言葉で書いてもわかりにくいので、機会があったらデジカメでサンプルを示したいとも思っているのですが、……

『青空伝言板』とこのブログが、私のデイリー・メモなんですが、ここには画像を乗せるのが『青空伝言板』よりは面倒なんです。

そこで、ここは文章、『青空伝言板』は画像と使い分けている次第。
そんなわけで、よろしく。


ティッシュペーパーの箱、空いたら利用。


トイレットペーパの芯と同じように、私はティッシュペーパーの空き箱も利用をします。

何にするかと言えば、ふつうはゴミ箱。
さらに、領収書の保管。
そして、上蓋(うわぶた)を四つに切り込んで内側に折ると、カセットテープがぴったりと入る。

私のゴミ箱は、マジックで「Good by!」と書いてある。ある程度たまると、そのまま捨てる。
領収書なども、いくつかに分類して、必要なのはそのまま保存。例えば、医療費や年金の関係などは、数年間は捨てないほうがよいだろう。

収入がなくなってから、何かと工夫をするようになった。


聖書には、私の理解、超えるものあり。


全般的に厳か(おごそか)ではあるが、私には意味不明な箇所や、理解ができない部分が多すぎます。

そこで、いくつかの書を写して、コメントしてみたのですが、……

例えば、『第二法の書(申命記)』には

<近親相姦の子が悪魔となって、この世を終わらせるであろう。>

とあります。

本当でしょうか。
すでに、悪魔になったのでしょうか。
わからないことばかりです。


「金持ちのままで死ぬのは恥」という人。


その人は、カーネギーです。
成功の本を書いたデール=カーネギーではなく、いわゆる鉄鋼王のカーネギーです。

ぜんぜん違うことですが、私はコンピュータ将棋をときどきします。
そして、負けたときはたいがい多くの持ち駒が残っています。
例えば、飛車・角行・金(きん)・銀が二枚、そして桂馬や香車が二・三枚。そんなときは、何のために駒を持っていたのかを悔やみます。

金(かね)は、使うためにあるのでしょう。
金(かね)は生きるために必要ですが、金のために生きているのではありません。
カーネギーほどの金持が、「恥」とまで言ったのは流石(さすが)と思います。


「楽あれば苦あり」「知らぬが仏」とも言う。


例えば、フランスのルイ十四世です。
「朕(ちん)は国家なり」と言い、自分を不滅と信じて「太陽王」と名乗ったそうです。

しかし、リリー運河などに莫大な費用をかけたので、フランス革命となって、自ら(みずから)アウトになっちゃいました。

私は、なぜか凱旋門や300メートルもあるエッフェル塔を見ると、そのことを思い出します。
また、

<朕が死んだ後なら、大洪水が来てもへっちゃら。何のその。>

と言ったということをどこかで読んだようにも思います。


目の不便、極端に言うと慣れの問題?


本当でしょうか?
私は、糖尿病から自分がめしいてしまう場合のことを心配しています。

塙保己一(はなわほきいち)とう大学者は、盲目でしたがたくさんの弟子がいました。ある日、講義をしていて停電をしたか、蝋燭(ろうそく)が消えたかして、真っ暗になったので皆があわてました。

そのとき、塙保己一先生の言った言葉。

<目が見えるというのは、何とも不便なものだなぁ〜>

私は、唐木田の福祉センターから帰るときに、盲目の人を弦巻までガイドすることがあります。その人は、

<生まれつき目の見えない人は、不便を感じないらしい。事故や病気で失明した人は、ものすごく不便だ。>

と言いました。
その人は、還暦を過ぎてから糖尿病が原因で失明をしたそうです。

目の構造自体も、考えてみるとまったく不思議ですね。


この世にも、オーケストラの調和が必要!


適者生存とか弱肉強食などという言葉もあるようですが、全体が調和していることが、この人間社会には必要ではないでしょうか。

それは、オーケストラが奏でる交響曲のようなものです。
例えば、ラッパが目立ちたいので大きな音を出したらどうでしょう。また、ティンパニーが思いついたところで、楽譜に書いていないのに勝手に鳴ったら困るでしょう。

むろん、フォルテッシモで鳴るときもあります。
しかし、それは全体のバランスの上に、指揮者が考えているように、その楽器が鳴っているのです。

そして、指揮者は全体の調和を常に考えているのではないでしょうか。
もしも、指揮者がいなかったら、てんでにばらばらになりがちです。


心の目で見るシュールリアリズムの絵。


正直言って、ミロやカデンスキーの絵を初めて見たときには驚いた。
そして芸術にも、ずいぶんスパンがあるものだと私はつくづくと思った。

ふつうには見えない、だから心の目で見るんじゃないか。
エルキュール=ポワロの中に、

<現実の世界よりも、作中の人物のほうが現実に思えてくる。>

というくだりがあったように思う。
そして、何となくドン=キホーテを思い出したりもするんだ。

カデンスキーは、「音を聞くと、色が見える」と言ったらしい。
私は、色の中にも、音があると思う。いずれも波長であって、ただそれらを感じる器官が違うだけかもしれない。


「巧言令色少なし仁」などと言う。

『論語』にある言葉。
「言葉上手で愛想よしは、人格者ではなく、信頼できない」というような意味であろう。私は、礼儀やエチケットを知らない人と付き合っても、意味がないと父から教えられた。

また、恥や外聞をいっこうに気にしない日本の政治家などよりも、「天知る、地知る、我が身知る」と言って自分を諫(いさ)めた中国の政治家を学ぶべきだと思う。

『仏教聖典』にも、

<言葉だけ美しくて、実行の伴わないのは、色があっても香りのない花のようなものだ。>

とある。

なお、不思議なことに、『論語』にはまったく同じ文章で「学而第一」と「陽貨第十七」の二ヶ所に出ている。おそらく、編者の間違いではなく、非常に大切な言葉だから最初のほうと、最後に近いところに重複させたのかもしれない。


本当の友達増えず、次々と減る。


本当の意味の友達は、なかなかできないようです。
とくに、高齢になると互いに考え方が異なるからです。

また、「次々と減る」ということは、喧嘩をしたりして減るのではありません。死んでしまったり、寝たきりになっちゃたり、ひどいのはアルツハイマー病になってしまうからです。

そんな意味で、高齢になると「本当の友達」というのは少ないのでしょう。ゲーテでさえ、晩年は「二・三人であった。」と言い残しています。
エッケルマンは、その意味では友達ではなかったのかもしれません。

私は、自分を含めて「人間のバカさ加減は言い尽くせない」のではないかとも思っています。なぜならば、自分の中に自分という分身の友達を発見したからです。
ちょっと意味がわかりにくいかも?


ニワトリが、フライドチキンになる工程。


私は、このことを考えると、心が慄然(りつぜん)とします。
なぜならば、自分自身がニワトリと似た立場に置かれていると感じるのです。さらにもしかしたら、日本人全体が何者かに飼われているような立場にあるのではないかという懸念さえあるからです。

話を飛躍させずに、戻しましょう。
倉田百三(くらたひゃくぞう)『出家とその弟子』に、鶏を捌(さば)こうとしていると、突然自分が入れ替わって鶏になっているという恐ろしい話があります。

また、中国の説話で同じような内容が、魚の場合であります。

私も、「食用がえる」の中で、そんなテーマを試みてみたんですが、……


玄米を食べて、大きな大便を出す。


玄米を食べると、驚くほどカサのあるウンコがでます。
そのウンコの色は、黄金色。おそらく、玄米は善玉の腸内細菌叢に好ましいのでしょう。
なぜならば、玄米は古くから人間が食していたものだからです。
便のカサが増えるのは、私たちのウンコの他にも腸内細菌叢が出したウンコも含まれているからでしょう。

薬の代用にするには、生玄米もよろしい。
20分の1カップくらいをコーヒーミルで碾(ひ)いて、そのままスプーンで取って食べます。

ただ、玄米を食べるときには、農薬を使っていないカルガモ米などを用いてください。
農薬は、胚芽に濃縮されて残っているからです。そしてまた、玄米は胚芽を残すように精米されるからです。


空しかる気持を満たす五七七なり。


人生も終盤に近くなると、何となく心が空しくなってきます。
すでに済んでしまった半生(はんせい)以上の期間に対して、悔いと無念さが残っているからです。

しかし、そうかと言って今さら挽回はできません。
すでに、体力がなくなっているからです。
そんな日々に、じっと過ぎてしまった半生の反省をして、残る日々を大切にしたいものです。
そのために、この五七七に託して気持を整理しておくことがよいでしょう。

なぜならば、五七七は簡単で、誰でも素直に心を写すことができるからです。嘘だと思ったら、やってご覧なさい。


若き日の溌剌(はつらつ)とした気力いずこに?


若かったときに溌剌としていた気概(きがい)は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

老いて体力に自信を失うと、多くの人は何となく消極的になってしまうようだ。
そんなことのないようにしたいと私は思っているのだが、どうしてもそうなっちゃう。

まず、健康状態を維持することを実現しなければならない。
何とかして、病持ち(やまいもち)を改善したい。

以前よりは、だいぶよくなってはいるが、……


何事も気力をもちて、行えばよし。


「精神一到何事か成らざらん」などと言います。
また、「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり」と書かれています。

後者は、えじょうの『正法眼蔵随聞記』にある言葉ですが、必ずしもそうとは言えないのです。なぜならば、その文自体がない写本があるからです。

つまり、道元が言った言葉ではなく、書き写した人が書き加えたのかもしれません。
しかし、私の大好きな言葉なのです。

精神力についてはともかく、気力がないと何事も成就しないようです。その気力は、かなり身体のコンディションによって変わってきます。
常に、健康でありたいものです。


ほどほどにしておけばよい! 争いなどは。


人と人とが争うのは、生きていくために仕方のないことだったようです。
生まれる前から、つまり父親が発射をした精子のときから、激しい生き残り競争をしたことを思えば、致し方ありますまい。

しかし、そのようなことは別として、学校教育などによって不必要に競争をしいられていることもあるでしょう。それは、資本主義社会が成り立つために当然の結果なのです。

考えてみると、競争や争いはなるべくしないほうがよいのではありませんか。まして、思想の違いによって争うなど、狂気の沙汰ではないでしょういか。

戦争などは、まったくバカバカしい行動だと言った人もいました。
例えば、マハトマ=ガンジーです。


顧みて(かえりみて)、悔い多くある、今までの生。


もしかしたら、私だけのことかもしれませんが、何と後悔の多いことでしょう。むろん、「あれでよかった」というようなこともありますが、ほとんどが「まずいことをした」と反省をします。

つまり、後悔と反省の連続が、今までの生なのです。
愚かだったために、そうなったのでしょう。

これからは、よく考えて反省をしなくてもよい、さらには思い残すことのない人生を送りたいものです。

そんなことを考える年格好になってしまいました。
もはや、先があまり長くないからでしょうか。
何とか、安心立命をしたいものです。


腰痛(ようつう)が、梅雨(つゆ)の期間にしばしば起こる。


湿度が高いと、腰痛が起こります。
私の場合、梅雨のときには、とくにひどいようです。
腰のあたりが、ぐいっと痛かったり、ギリギリと痛んだりする。まったく、困ったものだ。

人間は、そもそも四つんばいになっていた時代が長かったみたい。
四足歩行(しそくほこう)である。それが、何万年か前に立って歩くようになったみたい。その結果、手が発達して、さらに脳が素晴らしいものになった。

でも、元来は「梁」(はり)として使っていた背骨を「柱」として使うようにならざるをえない。その結果、宿命的に腰痛になりやすくなったのではないか。

そんなことを考えてみた。


青々と繁る林に、鴬(うぐいす)の声。


長池公園の中である。
尾根幹線から入ると、中央の池にたどりつくまで、鬱蒼たる林がある。むしろ、森と言ってもよいくらいだ。

よく、鴬が鳴いている。
静かな森に、響き渡る。静寂を切り裂くようで、何とも言えない。

私は、長池公園の林が好きである。
ときどき、中を歩くのであるが、浄瑠璃姫の碑(いしぶみ)のところで休む。すると、鴬の声が聞こえたりする。

何となく、浄瑠璃姫が観音菩薩の像を背負って入水した様子などが想像できて、哀れをもよおす。


銀ヤンマ、飛び交いており、池の畔(ほとり)に。


私は、銀ヤンマの飛行を見るのが大好き。
小学生のころからだ。

だって、塩からトンボや赤トンボなどと比べると、何と悠然としているではないか。池の畔や水面上を数匹がテリトリーを守るべく、飛び交っている様は、いつまでも見飽きない。

長池公園の池のような広い場所だけでなく、生田の青少年科学館の前にある小さな丸い池なども同じ。毎年、その光景を見る。

何となく銀ヤンマが小さくなったみたい。でも、考えてみると自分が大きくなったので、相対的にそう感じるのかもしれない。
そんなご経験がありますか?


初蝉(はつぜみ)が、せわしげに鳴く林道歩む。


梅雨が明けたころに、林道を行くと初蝉が鳴いている。
もっと早くから鳴いているのかもしれないが、私は毎年そのころに聞く。
しかし、入院をした年は聞けなかった。

そんなわけで、今年は久々に多摩市の境を超えて、町田市側や八王子市側に行く。そこには、雑木林や林道がまだ残っているからだ。

そして、多摩ニュータウンが開発される前の状態が、そっくりそのまま残されている。開発を免れたというか、指定地域になっていなかったので、あまり変わっていない場所がある。

そんなところの風景は、何となくパストラーレでのどかだ。
そして、私の原風景(げんふうけい)なのである。


Googleで「黒田康太」と引くと三人。


こんな文でも、五七七になるという例。
試みに、Google(グーグル)で自分の名前を調べてみました。
すると、何と同姓同名の人が三人もいるではありませんか。(2007年7月1日現在)

一人は、むろん私。
そして、水泳の選手である黒田さんと映画監督の黒田さんである。

もともと、黒田姓は兵庫県に多いみたい。
父方の祖先が姫路藩にいたり、さらにその前は九州のほうにいたらしい。しかし、先祖のことなど私はどうでもよい。

現時点で「生きている証明」ができれば、それで私はよいのである。


tamaさんは玉木さんなり、多摩・多磨でない。


玉木さんには申し訳ないが、このような覚えやメモと言ってもよい言葉の断片も立派な五七七の作品。

そのようなところが、従来の短歌や俳句と異なる。
まったく気楽な短詞形である。

英数字、記号、何でもよい。また、字余り・字足らず、気にしなくてもよい。さらに、句読点なども自由である。

仮に、例えば

「たまにまた、たまたまたまに、またたまさんと?」

というように意味が明確でなくても、自分がわかればよいのである。
五七五では、シュールリアリズムのように価値観や評価が、互いに異なってかまいません。


1000首ほど作ったなどと、うっかりと言う。


この間、高守さんに会ったとき、五七七を1000首ほど作ったなどと、つい口が滑って言ってしまった。しかし、実際に作ったのではなくて、1000首ほどの草案があるということなのだ。

でも、言ってしまったのは事実。「綸言(りんげん)汗の如し」は天子に言う言葉だが、取り消せないのは下々でも同じ。
しかたないので、その草案をここにテッテコテッテコと書き連ねている。
この駄作で、ちょうど173首目。6分の1くらいが、まとまったところ。
ただし、連句は1首としないて、連句の数だけあるとした。

さて、どうなることやら。
橘曙覧(たちばなのあけみ)は「独楽吟」であるが、私のは「我楽多吟」(がらくたぎん)のようで心配。


鰻丼(うなどん)を週に三回、至福の至り。


吉野家で、夏場の期間限定として、鰻丼をやっている。
小さいが手頃な価格、550円である。
いつも私は、ビールの中瓶(ちゅうびん、500ml)とともに注文。

乗っている鰻は、前によく行った新宿角筈の登亭と比べると半分くらいの大きさ。それが、私にはちょうどよいのである。

以前は、登亭に行く前に追分け団子で三本セットを妻とぺろり、妻三本、私三本である。それから大きな特鰻重を食べた。むろん、そのときのビールは各自大瓶。妻の分を少し私が助っ人をする。

しかし、インシュリンの分泌が少なくなったためと、老人になったために多く食べれない。そこで、吉野家の鰻丼と中瓶がちょうどいいんだ。
そして、「至福の至り」。店とともに「ご同慶の至り」でもある。


ピーナット、かじりだしたらキリがなくなる。


私は意志が弱く、また理性が少しばかり欠如しているので、食べるのを途中で止(や)めれんのです。お恥ずかしい次第。

理性でも止められないというのは、情けないことです。
たいがいのことは、何とかなるのですが、食べることに関してはどうしてもダメなんです。なぜでしょうか。

食べるという本能は、どういうことでしょう。
私は、あまり「おいしいものを食べたい」とは思いません。しかし、「腹いっぱい食べたい」という気持が、とくに強いのです。

何とかならんものでしょうか。
まだまだ、修行が足りないようです。


何としてでも治したい、私の持病。


「病の器」のような状態になってしまって、すでに久しくなります。
何となくグチめったいことが、

rikの「院内感染の話」

に書いてあります。
もはや、「病の器」を通り越して「病気博物館」のような様相です。

何とかして治したいと考えているのですが、体内の一部に入り込んでしまうと、なかなか治りません。
「病膏肓に入る」とは、横隔膜のあたりに入ってしまうことですが、私の場合は血液中に入られてしまったようです。

身体の一部になってしまったので、やがてガンなどと同じような結果がもたらされます。
困ったことです。


三木さんと久々に会い、楽しい一時(いっとき)。


きょうは、仙川のロイヤルホストで三木さんと楽しい時間を過ごした。
しかし、三木さんの話の中に、ショックなことがあった。

彼の同級生が、孤独死をしたという。
その経緯(いきさつ)。

優秀な成績で卒業し、一流企業に入った。
おそらく、しっかりした素晴らしい奥さんと結婚をしただろう。

しかし、いつのまにか勝負事のために私生活が乱れ、家族が離散。その結果、最後は孤独死になったらしい。

私も、妻から見放されかかっているので、明日は我が身じゃないかと心配。でも、独自の信仰があるから何とかなるかも?


確認のために、何度も同じこと言う。


それをくどいと感じる人もいるであろう。
『福音書』に、イエスがまったく同じ問いを続けてペテロに三回するくだりがある。ペテロは、とうとう「あなたは、すべてをお見通しです」という。

また、「鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うであろう」と言われたことについても、ペテロは参って、さめざめとしてしまう。

旧約の『コヘレットの書』に書いてあることも、印象的だ。

さらに、『法華経』の陀羅尼編などは、百万陀羅(ひゃくまんだら)などと同じことを繰り返すことの揶揄(やゆ)になってしまった。

そう言えば、人間の呼吸や脈拍、それに食事や睡眠などの生活も基本的には変わりないようだ。『コヘレットの書』をモチーフにしたヘミングウエイの小説『日はまた昇る』のように。


心地よさ、それが唯一、生きる目的。


あまり難しく考えることはない。
コンフォタブル、それが目的なのである。
人間の脳が発達をしてしまったために、何かと理屈づける。すべての物事には、理屈が必要であると思いこむ。

学校教育なども、そのようになる原因。

しかし、素直になって考えたらわかるであろう。
目的のないものに、目的を見つける。ないものを有ると考える。知っているものが、すべてだと考える。

人間の知恵の及ばないことなどはなく、学問で解決できないことはない、などと考えるのは非常に危険なことである。荘子なども、そのようなことを喝破している。


ペロリンと消える怖(こわ)さにページをコピる。


何かの拍子に、すでにインプットしたデータが消えてしまう。
おそらく、誤操作が原因であろう。
しかし、長文をようやくインプットしたような場合は、がっくりしてしまう。

そこで、こまめにセーブをする。本文をバックアップしたり、コピーをするのである。

ちょっと、物をなくすことを心配して予備をもっているのと同じ感じ。
やはり、安心して作業ができる環境であってほしい。

火事などは絶対に起こらないと考えれば、火災保険などは不要になると早合点するのと同じことであろう。


火の玉の先生よりも、宜保愛子(ぎぼあいこ)さん。


私は、小太りの火の玉の先生よりも、むしろ宜保愛子さんの言っていることのほうが何となく正しいと思う。

小賢しい(こざかしい)学問による理屈よりも、人間のもつ本能のほうを信じるというのである。
また、「証明ができないことも多くある」ということを知らなければならない。
学問が片手落ちであることは、過去の歴史から明白。
そんなことを学者は忘れてはいけない。もしも、忘れていれば、それは何とも恥ずかしいことである。

あなたは、いかがですか?


何となく生きてる記録、書き連ねゆく。


五七七は、まぁそんなもんじゃないでしょうか?
つまり、「生きている証明」であり「生きている記録」なんです。

別に、理屈はありません。
『ヨハネの福音書』に、「はじめに言葉あり」とあります。
続いて、「言葉は神とともにあって、神自体なのだ」とまで言い切ります。

言葉は、物を考えるのに必要なツールでもあります。
したがって、語彙(ごい)をたくさん知らない人たち、例えば子どもたちは複雑なことを考えることができません。

五七七は、大げさに言うと自分の次元を神に近づける修練と言ってもよいでしょう。


下手な子の弾くピアノ、美に遠く五月蠅い(うるさい)。


そんなもんでしょう。
しかし、弾いている子どもは違います。一所懸命練習をしているのです。その過程ですから、五月蠅くても仕方ありません。

何でも、最初のうちは美に遠いようです。
この五七七なども、まったく無意味のように見えるでしょう。

それこそ、いくら作っても五月(さつき)の蠅(はえ)でしかありません。しかし、そんなことはどうでもよろしい。
六月の蚊でも、七月のゴキブリでもかまいません。

子どもがピアノでバイエルやチェルニーなどを練習していると、この五七七のことと「美」について考えてしまうのです。


考えて、何とか工夫、五七七する。


次々と五七七を作って、書き留めます。
そのときに、あなたは「こんなことをして何になるのか?」などと考えてはいけません。

そもそも、五七七は「生きている証明」なのですから。
だって、呼吸をするときにいちいち「呼吸などを何のためにしているか?」などとは考えないでしょう。

五七七は、あなたの生活の一部だと考えてください。
おそらく、それがあるために日々の生き甲斐を見つけたり、再発見を記録したりできるからです。
そして、それがさらに次のステップにつながるのです。


身体(しんたい)が失調をして、嚔(くさめ)など出る。


手術は順調にすんだものの、退院をしてから次第にホメオスタシスが効きにくくなってしまったみたい。

ちょっとした拍子に、「くしゃん」ときて風邪気味になる。鼻水が出たり、反対に鼻が詰まったりするんだ。

しかし、重度な症状ではない。
だからと言って、バカにしてはいけないだろう。
小さい不調が、大きな病気につながる場合があるから。

とにかく、体調を整えて健康体に戻すことが先決である。
でも、私にできることと言えば

rikの自然療法(含む漢方薬と薬用酒)

くらいのことかもしれない。


三木さんのホームページは、プロ級だけど……


いつも拝見をする三木さんのホームページ。

http://www.dededen.mikosi.com/

不思議なのは、文字の小さいことである。
そこで、メニューバーの「表示」、「文字のサイズ」、「最大」とする。

いつも思うのであるが、企業のホームページなども文字の小さいものが多い。画面に多くの情報を入れたいためであろう。また、小さい文字が常識と考えているのだろう。
文字を最初から大きくしても、格納をするのに必要な場所は同じ。
「日本には老人が少ないので、文字はうんと小さくするべきだ」と考える人たちが、多いのかもしれない。少なくとも、ホームページを作成しているプロの中には。

そして、その中には、「文字のサイズ」をやっても、でかくならないものさえある始末。私は、そんなものは見ない。すぐに、やめてしまうんだ。情報を収集することよりも、ずっと自分の目のほうが大切であるから。

私は、イエスが福音書で言っているように、「正しく物を見れない目ならくり抜いて捨てたほうがよい」とまでは、思わないのである。

文字が小さいのは、日本人のさもしい考え方からだろう。
日本人は、もしかしたら世界一目のよい民族かもしれない。眼鏡をかけている人も少ないし、視力の悪い人もめったにいない。

昭和初期に外国人たちが、日本人は「目が悪く、眼鏡をかけている人が多い」などと言って驚いたのは、間違いであったのかもしれない。


なすべくもなきときにこそ、五七七する。


老いてくると、自分のほかに興味を示さなくなってしまう人が多い。
中には、自分自身のことでさえ、お構いなしになっちゃう。私の知っている人で、なかなか下着を替えない人がいた。

何となく臭い(くさい)臭い(におい)がする。
だから、無沙汰をするようになって、とうとう会わなくなってしまった。喧嘩をしたわけではないが、……

でも、古くから聖人で汚い人もいたという。
しかし聖人のことを書くのは、ちょっと差し障りがあるかもしれない。

例えば、私の尊敬する桃水(とうすい)やその弟子のじん洲(じんの字は忘れた)たちは、おそらく臭気芬々(しゅうきふんぷん)として、鼻をつくような悪臭がしていただろう。

私は、彼らを文献で読むだけだから、その挿絵(さしえ)を見ても大丈夫。だから、最初のころから変わらずに尊敬をしている。
桃水がキリシタンの疑いをかけられないようにと、阿弥陀如来の大津絵をくれた人がいた。彼は、その絵の上に

 <せまけれど宿を貸すぞや阿弥陀さま、後生(ごしょう)たのむと思し召す(おぼしめす)なよ>

と消し炭で書いたという。

五七七では、書こうと思ったことが、途中で脱線してもよろしい。


本当は、言い訳などをするつもりない。


「何で、こんなくだらない文章を次々と書くのか?」

という質問をいただいた。さもありなん、である。
自分自身でも、そう思うから。

1ヶ月ほど前に、「すでに、1000首ほど作った」と大風呂敷をやった。
すると、読ませてくれというではないか。
そこで、メモにしてあるんだがインプットをしてない、と言い訳をした。

そんなわけで、思いついたものを整理して1000首になるまで入れてしまおうと考えた次第。

おそらく、すでに半分くらいになっているだろう。
そのほとんどが、駄作ではあるが、……


お二人は古来稀(こらいまれ)なり、ますます盛ん!


友達が二人来てくれて、三人で話した。
私の他の二人は、すでに古希を過ぎている。最近は、かつて杜甫が『曲江詩』に書いたたように、「人生七十古来稀なり」などとは言わない。
ちょっとも珍しいことではなく、むしろふつうである。

しかし、である。
私は、還暦を過ぎたころから健康に自信がなくなってしまった。
しかし、いっぽう古希をすでに過ぎたお二人は、ますます盛んである。

まったく、うらやましい限り。学びたいくらい。
いちばん若いのに、気分や気力は、いちばん老けている。
そんなことを発見して、愕然とした。


駄作でも、意味がなくても、作ってみよう!


俳句や短歌とは、アプローチの仕方がまったく異なる五七七です。
形は似ていますが、姿勢が異なるのです。

文学を目指すということよりも、自分自身が「生きている証明」をしようというのです。したがって、あまり文学性を問いません。
むしろ、人生に対する直向きな(ひたむきな)姿勢が問われるのです。ちゃらんぽらんな生き方では、いけません。

真面目に日々を過ごしていくということが、大切です。
間違ったことをしないようにして、自分の力をできるかぎり発揮させるのです。
そして、そこに「日々の生き甲斐」を発見しようとします。
そんなための五七七なのです。


ふと思うことでもよいし、備忘でもよい。


五七七は、思いついたことや備忘のメモでもかまいません。
むしろ、そんな気持で作ったほうがよいでしょう。

文学性や詩としての美しさなどは、二の次になります。
生きていくときに「ふと思いついたこと」、そして「忘れないためのメモ」、そんな内容のほうが大事なのです。

つまり、この五七七は、私たちの「生活の一部」なのですから、それがとくに優れた美しいものとはかぎりません。

例えば、私たちの生活には排便や排尿があります。
どんな美しい女性でも、ウンコもしますし、オシッコもするでしょう。その部分を五七七では、隠す必要がまったくないのです。


目が悪くなければ、すぐに百首でもOK。


私は目が悪いために、画面を長く見れません。
もしも、目が悪くなければ、続けて百首くらいはできるでしょう。

そんなに簡単な五七七ですが、やってみると思い出になる内容もあるので驚きです。

目が悪いと、何となくやる気がなくなってしまうことも事実です。
すぐに、疲れちゃうのです。

そんなときは、眠ることにします。
少し眠ると、また元気が出てくるからです。

元気と疲れのインターバルが、かなり短くなっちゃいましたけれども、……


とりたてて言うほどのこと、ない日も綴る(つづる)。


とくに言うことがないときには、日誌などでは「とくになし」などと書くようです。しかし、この五七七では些細なことでも、どんなことでもかまいません。

また、ものごとは別な角度から見ると違った感じに見えることもあります。そんな体験をするのも、よいかもしれません。

短歌や俳句などでは、同じ作品を忌諱(きい)するようです。
しかし、この五七七では何回も同じ作品を作ってかまいません。

あいうえお順(五十音順)で並べると、同じ作品に気づくはずです。同じ作品があるときは、それだけその作品の内容に関する印象が強かったと思えばいいのです。


日々のこと、忘れないうち、メモにしておく。


記憶は、ふつう時間の経過とともに薄らいでいきます。
いつまでも強烈な印象が残るようなことは、非常に少ないことです。

したがって、メモにしておくと後になっても記憶を辿る(たどる)ことが可能なのです。そんな意味にでも、五七七は有効でしょう。

脳に対するリフレッシュというのでしょうか、再書き込みのような操作が必要になるゆえんです。

その機能が五七七によって、ほぼ完全に果たされます。
いつも、メモ用紙を用意して書き込み、後でパソコンに向かって校正をしながらインプットするのです。

そのようにして、「生きている証明」が日々可能になります。


大戸屋の生そば(きそば)・鶏カツ(とりかつ)、食べ甲斐がある。


生そばと鶏カツのセット定食です。
とても量が多く、食べ甲斐があって、私は腹一杯になって満足です。

かつて、玉木さんとご一緒したときに、玉木さんは全部を食べれなかったようです。生そばを半分くらい残しておられました。

トンカツやステーキなどは、どうも高脂血症や糖尿病になる恐れがあるので、私は鶏肉を食べるようにしています。

魚でもよいのですが、化学薬品を添加している恐れがあるので、注意をしなければなりません。
大戸屋の食材は、何となく安全なように思うのですが、……


吉野家の豚丼(とんどん)味が軽くて飽きず。


私には、牛丼よりも豚丼のほうが、味がさっぱりしています。
また、肉の量も少ないので、何となく健康的と思うのです。

味付けが薄いということも、安心の理由です。
つまり、肉が新鮮であるということの証にもなるからです。

さらに、皿にも注意が必要です。
洗剤で洗って、十分にすすがないうちに、どんぶりを上向きに置く店があります。そして、その洗剤と食べ物をいっしょに盛りつけてしまいます。

そのようにすると、化学薬品を少しずつ体内に摂取することになるでしょう。私は、そのような店には二度と行かないことにしています。
そんなことも、厨房を見て考えなければなりません。
吉野家は、何となく大丈夫のようですよ。


恵美子さん、若くていつも感じいい人。


VITAの「風」にいる恵美子さんは、若々しくて感じがいい人だと皆が言います。そして私も、そう思います。

あまり、私は人のことをどうこう言うのが好きではありません。
しかし、私のところに来てくださる人とは、同じ建物の7階のフロアでお目にかかるのです。

そして、コーヒーなどを飲みながら、お話を伺います。
そのカフェテリア「風」の店員をボランティアでしている人の中に、恵美子さんがいます。

勤務に出てくるときは、颯爽としていて何となく有閑マダムの感じ。
そんなことを言う人もいるようですよ。


忘れないうちに、メモ取る習慣づける。


私は、使用済みのA4用紙を半分の半分に切ったものをさらに半分に折ってクリップで止めて、いつも持っています。

そして、それに小さい鉛筆が挟んであるので、いつでも覚えを残すことができるのです。

その覚えをもとにして、パソコンにインプットをする。
使用後のメモ用紙は、むろん捨ててしまう。

思いついたことは、後で考えると意外なほどにモチーフとなる可能性をもっているので、我ながら驚いてしまう。
風呂で、定理などを思いついたりすることもあるという。また、馬に乗っていたり、厠(かわや)でウンコをしているときなどに思いつくとも、昔から言う。
いずれにしても、そんな思いを大切にしたい。


ふと思うことも残して、記録に刻む。


ふと思うことがあります。
そのようなことは、忘れないようにメモをしておいて、改めてパソコンにインプットします。

さらに、整理をして記録として残しておきましょう。
自分自身の記録を刻むということは、「生きている証(あかし)」を残しておくということです。

そんな意味で、簡単な短詞形を用いると、記録に刻むことが手軽に実現できるでしょう。

金や物は残す必要がありませんが、記憶や記録は残しておきたいものです。死んでしまった場合も、自分自身のために、……


久々に「黒田久太」とGoogle(グーグル)で引く。


個人的なことですが、私は「父に会いたい」ときには、Googleのウェブに「黒田久太」とインプットして、検索をしてみるのです。
すると、そこにはずっと前に死んだ父のデータや発言が、わずかですがいまだに残っています。

そして、それを読むと懐かしい気持がします。
むろん、そこの記事に問い合わせをしても、本人からの返事は絶対に戻ってきません。

それは、消息のわからない知人を捜すときに、しばしば私が利用する方法なのです。しかし、父の消息はわかっているから、同じ方法をするには理由があるのです。
つまり、そのようにすると、私の知らない父の生前のことが、わかる場合があって、父の再発見ができるからです。
そんなときには、とてもうれしくなります。


久々に歩めば涼し、小山田緑地。


久しぶりに、小山田緑地を歩いてみました。
昨年の入院・手術以来、初めてのことです。梅雨も明けかかって、ちょっと体調がよかったからです。

聖蹟桜ヶ丘10時発のバスで、唐木田の福祉センターまで行き、その裏(南側)から、そこは小山田緑地です。最近になって、だいぶ道が整備されて、歩きやすくなっていました。

全体は、下記の地図を参照してください。
なお、「航空写真」にして縮尺をいちばん上にスライドすると、歩いた道がわかります。

小山田の緑地

きょうは、ゴルフ場の間の道を通って、とんぼ池、あさざ池などを経巡り(へめぐり)ました。暑い日でしたが、木陰(こかげ)があって木漏れ日(こもれび)が射していたりして、涼しい感じもしたのです。

4キロメートルくらい、1時間ちょっとの歩行です。不思議なことに、途中で誰とも会いません。
帰りは、多摩丘陵病院から多摩センターまで送迎バス、そしてそこから聖蹟桜ヶ丘まではバスを利用しました。


最近は、ひっきりなしに救急車行く。


ここのところ、私の住んでいる地域では、急病人が多いみたい。
救急車がパプパプを鳴らして、ひっきりなしに走っている。
むろん、交通事故などもあるだろう。

しかし、高齢者の多い地域であるということを考えると、やはり事故や怪我などではなく、脳梗塞や心筋梗塞などがほとんどの原因であろう。

このことに、気づかない人もいるようだ。慣れとは、恐ろしいものである。

私が気づいた現実の問題にも、回りの人はなかなか認めようとしない。
つまり、傾向に対して、対策を立てようとする人が少ないようだ。
そこで、何回もそのことを警告として話す。しかし、「くどい」と思うだけで忠告に気づかない人が多い。
おそらく、その問題を言い出したのは、国内では私が嚆矢(こうし)であるということを、やがて知人たちはいやでも思い出すでしょう。


最近は、礼儀作法を気にしない人。


最近になって、礼儀作法などを気にしない人が増えたみたい。
それは若い人ばかりではなく、年配の人にも見られる。

義姉の場合もそうだ。
敬虔なクリシチャンでもあり、また真面目な人だから、忘れているのではなく、無知のためだろう。

失礼なことを平気で言ったり、無礼な振る舞いをすることがある。
本人は、まったくそのことに気づいていない。

おそらく、テレビなどから知ったことをそのまま真似ているのだろう。困ったことではあるが、不真面目でなく、無知・無学であるから仕方ない。

そこで私は、いつも我慢をすることになる。


脳ドック、したくもあるが、心配もあり。


多磨丘陵病院の「脳ドックご案内」というパンフレットには、「こんな方にお勧めします」とあって、

 <高血圧・肥満・糖尿病、……>

とあります。
 幸運ながらというか、残念ながら私は「高血圧」であり「肥満」であり、さらに「糖尿病」でもあります。

 したがって、お勧めされる第一等の人でしょう。でも、まだなんです。
 眼科では、矢野ドクターに毎年診てもらっていました。検眼もしたし、その結果その病院出入りの町田にある眼鏡屋で、新しい度の眼鏡を作りました。

 話は別ですが、多磨丘陵病院のマークは何とも素晴らしいものだと思いませんか?


吊り橋もあって、なかなか林道らしい。


小山田公園です。
多摩ニュータウンになる前の原風景が残っていて、素晴らしい空間です。その林道を行くと、吊り橋もあって、何となくどこか深い峡谷へ行ったみたいな感覚。

そして、あまり人が来ていないことも、不思議。
東京都の管理地域となっているが、比較的よく整備されている。

私は、月に一度くらいは行くのですが、とても楽しい場所です。
小田急の唐木田駅から行くのが便利ですが、町田からバスで行く経路もあります。ちょっと行きにくい位置にあるので、あまり訪問者がないのでしょうか。

私は、福祉センターの裏から入ることがほとんどです。


ゴルフする人を眼下に見下しており。


小山田公園は、東京国際カントリークラブというゴルフ場と入り組んだ地形になっています。

小山田公園を北口から入ると、ゴルフ場を眼下に見下せる場所があります。そこに、大きな木の切り株があるので座ると、はるか彼方までゴルフをしている人がチラチラ見えます。

むろん、キャリングカーが走っていたり、林に入ってボールを探しているキャディーさんまでが、おもちゃのように小さく見えます。

私は、しばらく景色やその中の人の動きなどを見ているのですが、何となくまどろかしくなってしまいます。
さらに上空から、見ている私も含めて見る次元があるのではないかと、ふと思うからです。


どこに何? 物の所在を覚えておこう!


高齢になると、だらしなくなると言います。
私は、どこに何があるかを忘れないようにしたいと考えています。

なぜならば、身の回りのものに、振り回されてしまいたくないからです。

知人の母上の入っている老人センターでは、「持ち物がなくなった」という人が多いということです。ひどいのは、「隣の部屋の息子さんが、隣の部屋に来た後で、私の……がない」などと言うそうです。

それは、自分が相手にしてほしいから、その代償に言う言葉であるということが、ほぼ明らかです。
そして、私はそのような人になりたくないと思うのですが、……


常に、身の回りを整理、老いた日々には。


いつも身の回りを整理・整頓しておきたいものです。
そして、どこに何があるかをしっかりと覚えておきましょう。

老いてくると、記憶が朦朧としがちです。
現実のことと、考えたこと、あるいは夢に見たことなどを互いに錯覚をすることがあります。

つまり、現実を考えたこと、または考えたことを現実のこと、そんな勘違いをすることが多くなってくるようです。

そこで、身の回りの整理・整頓をしておく必要が出てくるのです。
そんなふうに、あなたは思いませんか?


メモなどを残してみても、仕方がないか?


このように、次々と五七七のメモを残しておいても、仕方がないのではないかと思うことがあります。

ただ、書き残すだけで整理できないのならば、意味がないような気もするからです。

でも、それは残しているから言えることではないでしょうか。
残さなければ、それさえも言えないからです。

とにかく、書かれた内容よりも「生きている証明」として書き残すことに意味があると考えれば、「仕方がない」どころじゃないと言えるでしょう。


日々、生きているということ、覚えに残す。


自分が、「日々、生きている」ということを覚えとして、この五七七という形で残すことには意味があります。

つまり、「生きている証明」が五七七で簡単にできるからです。
むろん、五七七でなくても短歌や俳句、あるいは小説、さらには学術論文などでもできるでしょう。

しかし、短歌は難しく、俳句は幽玄です。小説に至っては、作るのが一苦労。さらに、学術論文では、その基礎研究が大変。なかなかできません。

そんなわけで、自由律の五七七を利用するのです。
五七七には、その表記に関する制約がほとんどないからです。


面白いほどに簡単、この五七七。


またまた宣伝。
五七七が簡単であるということは、やってみるとわかります。

そして、簡単なことは長続きをします。
呼吸や食事は、あまり難しいことではありません。だから、日々続くのではないでしょうか。

もしも、面倒なことであると、それを持続するのは困難です。
そんな意味で、五七七には簡単なしくみですむようになっています。

誰でも、気楽に親しめるように、……


宣伝は煩わしくて、面倒くさい。


何となく、五七七の宣伝がましくなってしまいます。
今までの短詞形は、作法や習慣があって、なかなか親しみにくいというのが現実です。

自分をその中に入れる必要があるからです。
しかし、この五七七では逆で、自分の中に五七七があればいいのです。

したがって、あまり五七七自体について学ぶことはありません。
そんな意味で、自己を表現するツールとして、親しみやすいと思います。あまり、作法や習慣がある短詞形では、気軽にものが言いにくいからです。

面倒くさいことや、宣伝などは不要です。


何かするときに、忘れず記憶に残す。


老いてくると、記憶が曖昧(あいまい)になりがちです。
そこで、何かをするときには、ちょっとした心の確認をして、記憶に残すようにしましょう。

呼称確認などが、実際の企業内で行われているようにです。
自分自身を一つの有機体だと考えれば、何かをしたときに、それが元になって結果を生じるからです。

「こんなはずじゃなかった」などと、後で思うことがあります。
しかし、冷静になって思い出すと、自分がその原因を作っていながら、そのことを忘れてしまっていることがあるのです。

そんなことのないようにしたいものです。


いつの日か、記憶ばかりの日々になるらし。


これは、意味深長な句です。
なぜならば、作者が言葉をもて遊んでいるのではないからです。
おそらく「いつの日」というのは、「死後の状態」を言っているのではないでしょうか。

そして、ふつうに考えるように焼かれてしまったら「脳がないから、思考などできない」と安直に考えるのに対して、疑問をもっているのです。

つまり、肉体は物質ですが、心はエネルギーと考えているのです。
そして、エネルギーはなくなってしまわないで、別の形になって意識を継続するという心配をしているのです。

まぁ、取り越し苦労かもしれませんが、……


五七七、日本の調べ、自分の証(あかし)。


この五七七という短詞形は、連句の発句と結句を一緒にしたいわゆる「日本の調べ」のルーツと考えることができるでしょう。

そして、その雄大な歴史的背景のもとに、非常に小さいことであるかもしれないが、自分自身の存在の証(あかし)つまり「生きている証明」を行おうというのです。

そんな心構えで、この短詞形に当たることも、ときには必要かもしれません。
なぜならば、駄作に次ぐ駄作を行っていることがあるからです。

まぁ、ときには大いに反省をする必要がありそうですね。


身の回り、整理してから、死んでゆきたし。


人生には、思いがけないときに、向こうから死が来るようです。
知人たちを見ていますと、私自身も「そうなる可能性が大」だということを思わざるをえません。

そこで、高齢になってもはや先行きが短くなると、日々の整理が肝要になってきます。整理と言っても、物品やお金のことではありません。

たいがいの人は、考え方やノウハウが不完全のまま朽ち果ててしまいます。つまり、後になってみると、多くの人のその考え方やノウハウは、何一つ残りません。

したがって、「生きている証明」とともに「生きていた証明」が必要なのです。


これからも作っていこう! 知的空間。


知的空間などと言っても、大したことではありません。

知的空間

知的空間(その奥義)

を参照してください。

そんなことを五七七で、まとめていこうというのです。
あなたも、いかがでしょうか。


ニモニック、五七七なら忘れられない。


古来、古事記のひえだのあれいのように、歌うようにして覚えたと言います。また、ギルガメッシュなどを初めとして、盲目のホメロスなどもそうじゃないでしょうか。
もしかしたら、平家物語の作者も?

そこで、短い五七七を記憶のニモニックとするのです。
ニモニックは、記憶のよりどころになる簡単な語句の場合が多いようです。

落語で、買い物に行くときに言葉を唱えているのですが、途中で変わってしまうという話があります。買う物の名前を口ずさんでいるのですが、橋を渡るときに「どっこいしょ」と言ったので、店に着いてから「どっこいしょ」をくださいというんです。

五七七では、そうなってもよろしい。
それが、「生きている証明」だからです。


カロリーの高すぎるもの、身体(からだ)に危険?


高齢になってくると、カロリーの高い食事をするのは考えものです。
なぜならば、運動量が減ってきているので、消化しきれないからです。
その結果、肥満になったり、糖尿病、さらには高脂血症など重い生活習慣病になるでしょう。

むろん、若くてスポーツ選手などは肉食や高カロリー食でも問題がありません。また、軍や自衛隊の人たちはカロリーの高い食事をしているようです。

それについても、すでに明治時代に森林太郎(森鴎外)という人が、医学的な立場から軍に指摘をしているのですが、幹部が西欧の列強国に負けない強い兵隊にしたいなどと考えて、愚かな決定をしたのがそのそも嚆矢(こうし)のようです。

とにかく、私は高カロリーを忌諱(きい)したいものです。


クリングス、すぐ壊れるは眼鏡屋の術(すべ)?


私は、今までに眼鏡(めがね)をいくつか作りました。
還暦の少し前から、目がどんどん悪くなってきたからです。
そしてすべて、眼科医で検眼をしてもらい、その指定眼鏡点で作ったのです。

そのうちの一つ。
鼻に当たって、下にずり落ちないような二つの小さな部品、クリングスという部分です。

そこのところの支え片方が、すぐにダメになってしまうのです。
そこで、作った眼鏡屋に持って行くと新しいのに無料で交換をしてくれます。

しかし、何となく眼鏡屋に足を運ばせるための方策ではないかと、疑ってみたくなるのは、私だけでしょうか?


整理することも必要? 晩年のころ。


何でもしたい放題、いろいろなことをやってきました。
しかし、すべてが中途半端だったようです。そこで、ぼつぼつ整理をしていかないといけません。

何となく、雑駁(ざっぱく)な自分の人生だからです。
私は、他人に対してみっともないなどと言っているのではありません。自分自身に対して、恥ずかしいことだからなのです。

やはり、身の回りはすっきりとしておきたいと思うのです。
そして、やがて死んだときには、妻や子どもたちが、「何も残さなかった」と言うのが、本当は理想的だと考えているのですが、……

あなたは、ご自身に対して、いかがでしょうか。


必要のない物をもつ愚かさを知る。


何が必要か、また必要でないかは、個人の問題でしょう。
また、後に残った者たちの思惑も大きく影響します。
一般的に価値観や考え方によって、大いに異なる結果が残ります。

しかし、私は今までの人生で、何となく間違った判断をしていたみたい。

お金や土地、そんなものはたくさん持っても仕方がないのです。
少しも、安心立命の役には立ちません。

それこそ「人はどれだけの土地を必要とするか」と考えると、何となく空しいものです。でっかいことをした人が、ばかでかい墓を残すとは限りません。

エジプトのファラオの場合と、蒙古のチンギスカンの場合とを彼らが入った墓で、考えてみてください。


蒐集をするより、知的空間作る。


いろいろなものを集めることを生き甲斐や趣味にする人がいます。
中には、骨董品や宝石など、さらにはお金を集めるのに一生を捧げるというような人もあるので、驚いてしまいます。

人間の情熱は、あらゆる方面に向かうようですね。
しかし、私は「物を集めてもキリがない」と考えました。まして、土地などは個人で所有しても、まったく意味がありません。
私は、共産主義者ではないのですが、そう考えています。

そこで、自分自身の知的空間を広げることを思いついたのです。
そして、その

 「知的空間の構築」と「知的空間の奥義を見極める」

ことなどの実現に励んでいます。
あなたは、いかがでしょうか。


「知空」(ちくう)とは「時空」(じくう)のように略であれかし。


「時空」という言葉があります。
それは、「時間」と「空間」の両方を同時に指す言葉でしょう。
しかし、私にはそれらより、そこに構築される「知的空間」が大切なのです。

しかし、その「知的空間」という言葉を言う「時空」のような略語は、まだないようです。
そこで仕方がないので、私は「知空」という言葉を使います。

おそらく、数十年後には、そのような言葉も広辞苑などの辞書に載るのではないかと思うんですが、……

どうでしょうか。


五七七、まず十九文字のお付き合い。


下記に投稿欄を始めました。
気楽に投稿をしてください。

青空の五七七投書箱(仮称)

また、作品の他にコメントを入れたり、さらに画像を載せることもできます。どうぞ、気軽にご参加ください。

添削などというと大げさですが、管理人が意見を言わせていただくこともあります。

よろしく、願います。


よい悪い、それは個人の価値観にあり。


「よい」とか「悪い」というのは、社会的な規範でしょう。
現在の常識は、幼いころに親に躾(しつけ)られたり、学校で教えられます。かならずしも、それが正しいとは限りません。

かつて、スパルタという国では、子どもたちに泥棒をすることを奨励しました。なぜならば、それが戦争に勝つための模擬訓練になるからです。

私は、現在の学校教育などを考えると、「よい悪い」の価値観に疑問を抱くことがあります。

国は、もう少し、抜本的なことを考えられないのでしょうか。
そして、素晴らしい国にしようという気構えはないのでしょうか。


出来不出来(できふでき)、云々しても解決しない。


最初から、失敗をしようとする人はいないでしょう。
何事も、全力で当たりたいものです。

しかし、目的に向かってアプローチをする方法には、出来不出来があるようです。そして、その出来不出来そのものについて言っても始まりません。

日常の生活は複雑ですから、ここでは将棋で考えてみます。
相手と対戦をすると、ふつう結果は勝つか負けるかになるでしょう。
むろん、千日手などで、引き分けになることもあります。

自分が計画を立てて進んでも、相手のあることです。
相手の計画がわかれば、万全(ばんぜん)の構えができます。
しかし、現実としてはそれがなかなかわかりません。したがって、棋譜(きふ)の再現をしてみると、出来不出来も含めて反省ができるでしょう。


大食いをすると、なかなか尿糖減らぬ。


ピザの大食いなどをすることがあります。
すると、その後は尿に含まれる糖が長く残ってしまいます。高齢になって、インシュリンの分泌が少なくなっているので、仕方のないことです。

そこで、私は水を多量に飲むことにしています。
つまり、水で身体を浄化しようというのです。

その水は、地下水をくみ上げて化学薬品などを除いたものを使います。むろん、塩素などの含まれていないものです。

すると、比較的早い時間で元に戻るのです。
身体のホメオスタシスは、原始時代から水によっていたことを垣間見る(かいまみる)次第です。


血糖値、戻す方法、水にこそあり。


食後に出てしまう尿糖は、なるべく早くなくす必要があります。
失明をしたり、脳梗塞・心筋梗塞などの原因になってしまうからです。

そこで、一度に多量を食べない注意が必要です。
しかし、食べてしまったときは、良質な水を多量に飲むことがよいでしょう。

なぜならば、水はいったん血液に入って、腎臓で濾過されるからです。
むろん、血液の量が増えると血圧はあがります。

しかし、不要な水分はすぐに尿となるので、そのときに不純物とともに、体外に排出されるようです。
水は、健康に重要な役割を果たすので、水道水をそのままがぶ飲みをしてはいけません。


何故か? 記憶の一部、我を苛む(さいなむ)。


なぜだろうか?
過去の記憶の一部が、自分自身を苛んでくることがある。
後悔とか反省といったものであろうか。むしろ、罪の意識とでも言うほうが当たっているのかもしれない。

いろいろと考えてみると、私の人生は失敗と恥の連続だったようにも思う。何となく、後ろめたい今までであった。

そして、人生の持ち時間も少なくなってしまったようだ。
しかし、やはりなかなかうまくいかない。ここのところ、満足のできる仕事が一つもできないのである。

もしかしたら、慢性の病気になったためかもしれない。
しかし、あるいはやはり、力不足であったのだろう。


本来は楽しかるべき記憶に悩む。


そのときは何となく楽しかったことでも、後になってみるとペーソスに満ちあふれていることに気づく。そんなことが、ときどきある。

おそらく、有頂天になったときなどには、自分の置かれている立場などを見失っているためだろう。

いろいろなことが、人生にはある。
細いスリットから、外の世界を見ているようなものかもしれない。
白馬が疾走して、チラッと見えたりするのではあるが、走り続ける物体を見る側のほうから考えると、瞬く(またたく)間、つまり瞬間の出来事である。

そんなことが、遅蒔きながら解ってきたんだが、すでに私は病膏肓に入ってしまったみたい。


五七七、老化予防の効果もあるか?


どうやらこの五七七には、老化予防の効果もばっちり。
なぜならば、言葉を工夫することによって、老化予防の効果があることがわかっているからです。

また、パソコンを使ってインプットをすろと、効果倍増。
なぜならば、十本の指を巧みに使わなければなりません。いきおい、指を使うことによっても「脳をリフレッシュ」ができるのです。

カントは、

    <手は外部の脳である>

と言ったそうです。
まったく、その通りだと私も思います。


ほどほどにすれば、心も穏やかなるか?


あまり物事に熱中しすぎてはいけないそうです。
とくに、この五七七などは「それ自体が目的」ではないからです。

つまり、自分自身の「生きている証明」にするための一つの表現だからです。それは、自分自身の生き様を写す鏡のようなものかもしれません。

それ自体が目的ではなくとも、真面目に日々を過ごしていれば、それなりに真面目な五七七ができるでしょう。

あまり、文学的なことを考えるよりも、むしろ各自で「知的空間」と「その奥義」を求めていくのが、よいのではないでしょうか。

と、まぁ、私は思うんですが、……


迂闊(うかつ)にも始めて見たり、この五七七。


俳句が和歌などの発句(ほっく)から独立したものと考えて、発句だけで終わるのは初心者には困難であろうと考えた。とくに、エンジニアである私の場合には。

そこで、むしろ結句(けっく)に近い形で、言い足りなくなることなしに終わりやすくしてみようと考えた次第。

そんな軽率な観点で、始まったこの五七七。
やってみると、いろいろな問題があることもわかった。

ちょっとばかり、迂闊であったかもしれない。
もともと、私はおっちょこちょいで、そんな事が会社で働いていた時代にもよくあったもんだ。


マストドン・アケボノゾウは不思議であるか?


川崎市生田公園の青少年科学館にあるアケボノゾウの化石、そしてすでに廃館になってしまったが高尾の自然科学館にあったマストドンの化石、実はそれらを自分の目で見るまで、正直なところ、私はそのような動物が関東平野にいたということをちょっと信じられなかった。

化石を見て、初めて実際にいたことを納得した。
しかし、化石を見ても信じない人もいるという。
例えば、恐竜の化石である。

「恐竜などはいなかった」という人たちがいるそうだ。
「だって、化石があるじゃないか?」と言うと、「それは最初から化石として、神様が作ったもので、生きていた動物が化石に変化をしたのではない」などと言うそうだ。


オシッコを我慢するのは、身体に悪い。


『タルムード』だったでしょうか、ユダヤの有名なラビが書き残している言葉です。日本でも、「出物腫れ物(でものはれもの)所(ところ)嫌わず」などと言います。

オシッコを貯めた状態で転んだりすると、膀胱が破裂することもあります。そうすると、大変危険なことになってしまうでしょう。

また、乗り物に乗るときは、乗る前に時間があったら必ずトイレに行くようにします。もしかしたら、途中で事故にあって長時間、車内に閉じこめられたりすることがあるからです。

また、自宅でオシッコをするときは、毎回カップに取って目視検査をしたり、週に二・三回くらいは、市販の試験紙を用いて尿糖や尿淡白の検査をするとよいでしょう。


生きている実感などを失いたるか?


若いころは、日々元気がみなぎって、「生きている」という実感が強かったものです。しかし、老いてくるとどうでしょう。

何となく感覚が鈍くなってしまって、生きているという実感自体も薄らいでしまいます。

そこで、日々「生きている証明」が必要になる所以(ゆえん)です。
その「生きている証明」の方法として、この五七七があります。

簡単な記述で、実際の日々のことを書き連ねてもよいでしょう。
また、心に浮かんだことを思いつくままに文章にしてもかまいません。
そして、とにかく「生きている実感」を失わないようにしましょう。


生き様は、それぞれ違い、癖などもある。


人間には、個性があります。
また、個々に癖などをもっているのがふつうです。

しかし、個性と言っても考え方や癖などは、ある程度パターン化しているのではないでしょうか。

ギリシアのデオプラトスが書いた『人さまざま』という本が、残っています。もはや、断片のような形になってしまってはいるのですが、それでもそれを読むと実に不思議な気がします。

それは、ギリシア時代にいた人と同じタイプの人が、私たちの回りにも多くいるということがわかるからです。
科学技術は大いに発展をしたものの、もしかしたら精神的な内容は、あまり進歩をしていないのではないかと疑ってしまいます。


駄作でもかまいませんが、日に一つずつ。


佳作でなくて、駄作でもかまいません。
できたら、日に一つずつ書き残すようにしましょう。
もっと多くても、かまいません。

少なくとも、日に一つは残してください。
それが、「生きている証明」になるからです。

佳作や秀作などというものは、めったにできないようです。
それは、その人の素質にもよるからです。
私の場合、努力をした割には下手な作品ばかりができあがります。

しかし、作ることに意味があるのですから、秀作だとか駄作だとかということに、気をかける必要はないでしょう。


飴色(あめいろ)に輝く鰻(うなぎ)、食べると至福。


今日は、「土用の丑の日」らしい。
そんなわけでもないが、吉野家で鰻丼(うなどん)を食べた。調理場で焼くのではなく、すでに焼いてあるのをレンジで暖めるらしいが、それでも飴色に輝いている。

焼くときにするような香りはないが、それでもなかなかおいしい。
490円の丼(どんぶり)であるから、鰻は三切れでも非常に小さい。それがまた、好ましいのである。
脂肪やカロリーを取りすぎないためである。

いつの、中瓶のビール(500ml)とともにいただく。
とても、幸福な気持に浸(ひた)る。
それこそ、私の至福でもある。


五七七、身近な生の証(あかし)でもある。


言葉は、「生きている証明」をするときに便利である。
例えば、

「生きているか?」

と尋ねたときに、

「はい」

と応えたならば、たいていは生きている。
当然のことではあるが、対話ができたからである。そして、自己対話ができるということも、五七七の優れた機能であろう。


人生は、冗句(じょうく)でもあり、それぞれ茶番。


よく考えてみると、人生そのものに意味はありません。
ないものに意味づけをするのですから、大きな次元の知的空間では矛盾が生じてしまいます。

「joke」(ジョーク)とは「冗談」や「取るに足らないこと」などを言いますが、「話す」という言葉が語源です。
また、「冗句」とは「不必要な言葉」や「無駄な話」を意味します。

それぞれにできた言葉でしょうが、よく似た内容をもっているので、驚きます。
それもそのはず、人生そのものが、考えてみると茶番のように底の見え透いたものなのかもしれません。ただ、フィアフィル魔亜尊ではない本人が、そのことに気づかないだけなのではないでしょうか。

あたかも、養鶏場に飼われている鶏たちの多くがサンダーさんの考えを理解できないように、……


Kuroda Kouta (2007.01.01/2007.08.05)