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  新句(十九音) 作品集30(2009年12月分)



自分とは皮膚で囲まれ、閉じた構造?


自分を考えるときに、ふつうは皮膚で囲まれている閉じた一体構造の空間を思うだろう。しかし、そう単純なことであろうか。

ドーナットや浮き輪を考えると、わかりやすいかもしれない。なぜならば、真ん中にある空間が意味をもってくるからである。そして、口から肛門までがその部分と一体構造になった生物がいる。蛇などもトポロジー的には筒状のパイプと考えることができるし、ヒトの場合は口から肛門までが内側にありながら体外となる。

ヒドラという生物がいる。ヒドロ虫綱・ヒドラ科・ヒドラ属に属する腔腸動物で、体長は約1センチメートル。先端にある口の周囲に糸状の触手が数本生えているだけ。それでも雌雄異体で、再生力が強い。そんな動物でも、構造的には閉じたり開いたりして、外部から餌を取り込んでいる。


チマローザ、ピアノソナタの軽やかな音。


チマローザのピアノソナタは古典派のものとは異なって、単一楽章のものが多い。そして、数分程度の短いもので、軽やかなものがほとんでである。

聞いていると、気分がさわやかになる。関孝弘の弾いた全八十八曲のアルバムをもっているが、何回聞いても飽きない。すばらしい演奏だからである。

スカルラッティのピアノソナタとも類似しているが、もっとシンプルで素朴な美しさがあるように感じる。いずれにしても、あまり演奏を聞く機会のない曲であるが、CDを持っているのでいつでも鑑賞できる。次々と可憐な素晴らしい曲が聞けるので、幸福である。フンメルのピアノソナタなどもよいが、やはり曲の素朴さからいえば、チマローザが秀逸である。


何となく寺や社(やしろ)は心のルーツ。


寺院や神社を訪ねると、何となく心が和む。もしかしたら、私ばかりではなく、日本人の一般的な心象かもしれない。あなたは、どうでしょうか。

かつて、地域に問題が起こると、そこに集まったり、そこを拠点とした時代があったと思う。また、駆け込み寺などというのも、実際に存在した。

施療院、施薬院などという言葉が残っていることから、往時の想像ができる。鉄眼のような僧は飢饉のときに、そこを根拠として活躍をした。施無畏者が多くいた時代には、彼らの根拠地になった。実際に施無畏寺(せむいじ)というのが、和歌山県有田郡湯浅町にある。真言宗御室派の寺で、山号は補陀落山。明恵が創建した。私は、そんなことをおぼろげに知っているので、心が何となく和むのかもしれない。


この記事は、言葉をメモし、忘れないため。


「日々記憶の断片」というタイトルに、「生活の知恵」というサブタイトルが付いている。さらに「独り言」とあって、「固定概念にはとらわれず、現時点で『生きている証明』をしようとした日々のお便り」などと。

しかし、正直なところ言葉をメモすることによって、忘れないようにするという老化予防の目的が含まれている。つまり、アルツハイマー病や認知症などに自分がならないための老化を予防する一方法でもあるのだ。

したがって、新句(十九音)は文学作品というよりも、むしろ個人的な記録の意味合いが強い。だから俳句のように下句を五音で言い切る技巧を避けて、七音にしてある。そのほうが言葉に融通性があって、作りやすいからである。ぜひ自分自身が『生きている証明』として、あなたも利用していただきたい。


冬になる前に回ろう、プチさんの場所。


雪が積もったり、木枯らしが吹いたりすると、プチさん(プティ散策)がしにくくなってしまう。私は、バス停で待っていると身体が冷えてしまって、神経痛が出てくる。

そこで寒くなる前に、計画しているところを一巡してしまいたい。バス利用は便利だが、道路の事情によって運行時間が遅れてしまい、待たされることが多いことも理由の一つ。

また、デジカメの写りは、どんよりとした陽射しの日よりも、くっきりとした青空のほうがよい。冬の曇った日は、何となくピンボケやアクセントのない画像になってしまう。そんなわけで、冬になる前の秋晴れの日にはデジカメを持ってプチさんをする。むろん、出かけるときは自分自身の体調がよくなければならない。


もういやだ、つくづく思う、老いと病(やまい)、死。


生老病死(しょうろうびょうし)という言葉がある。「せいろうびょうし」ではなく、正しくは「しょうろうびょうし」。仏教の言葉で、人間が避けられない四種類の苦悩。つまり、生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦八苦ある最初の四苦(しく)である。

生まれることはともかく、老いるのはいやだし、病むのもいや、そして死も何となく恐ろしい。生老病死は、自分自身の問題としても忘れていたい。避けられないことならば、忘れているのも一計であろう。

しかし、日に日に衰えていく身体の現実はそれを思い出させる。また、身体の不調を伴う体調の変化も、それを忘れさせない。少しずつ老い、確実に病を得て、死につながっていく。まったく、忘れていたいことが現実になって、もういやになってしまう今日この頃。


体温のコントロールが、うまくいかない。


冬になると体温のコントロールが、何となくうまくできない。かつては、薄着であっても寒いとは感じなかった。長らく、グルミューを正常化してあるはずなのに、最近になってダメになってしまった。

いきおい、厚着をする必要が生じる。股引きなどというものは、あまりはいたことがなかったのであるが、この冬からは常用になった。膝の神経を冷やさないためにも、保温が必要なのである。

いずれにしても、加齢とともにホメオスタシスが完全でなくなる。また、皮膚も弱くなるのだろう。まだ、私は懐炉(かいろ)や湯たんぽなどを使用しないが、いずれ使うようになるかもしれない。とにかく、身体の保温に注意する必要が生じてきたのは事実。何とかしなければならない。


まだ知らぬ土地を歩くと、新たな知識。


今までに行ったことのない場所を歩いていると、思わぬ発見があったり、興味深い知識が得られる。初めての土地でも、何となくなつかしかったり、過去に来たことがあるような感覚に襲われたりもする。

既視感やデジャビュといわれる現象だろうか。過去に来たことがないのに、初めてではないような気がするのである。

神社や仏閣を尋ねたり、市の公開堂などに寄る。そこには、初めて会う人がいるのであるが場所を尋ねたりすると、やはり何となく以前に話をしたような気がすることがある。知らない土地を歩いていると、珍しいことや今までに知らなかったことなどを発見できる。そして、それらは新しい知識になる。そんなことが、大きな楽しみである。


めっきりと足おとろえて、バスが楽しみ。


最近になって、めっきりと足が弱くなった。膝の部分が、磨耗してしまったのである。かつては十キロメートル以上でも平気だったのだが、今は違ってせいぜい二キロメートル。なぜかというと、膝のあたりが痛くなるからだ。

おそらく、関節がすり減ってしまってぶつかるためであろう。しかたないので、歩く距離を減らさざるをえない。そこで、考えたのがバスを利用するプチさん(プティ散策)である。とくに、シルバーパスになってからは効果的である。

以前のように、計画をしたところ全部を回る必要はない。疲れてしまったら、次の日に持ち越せばよいのである。途中で乗り継いでも、費用がかからないからありがたい。バスに乗って、きょろきょろと景色を見ているのも、なかなか楽しいものである。


ひらひらと光りて舞いし散華をひろう。


八王子市戸吹町の桂福寺で、たまたま観音さまのご開帳に出くわした。僧が十人ぐらい、信者が六十人くらい集まっていた。私も勧められるままに後部の席についた。屋外の折りたたみ椅子である。

檀家衆による観音和賛の後で、散華が撒かれた。快晴の日和だったので、空中で光って、はらはらと舞い散ってきた。後ろのほうにいたが、私は六枚も拾った。

裏表ともに金銀を含めた美しいカラーで、寺院や蓮花そして天女などが印刷されている。何とも素敵なデザインであった。私は、後日その散華の大きさと形で千社札を作った。図のデザインは、魚籃観音(ぎょらんかんのん)を現代版にした。そして、「陜右(せんゆう)の人たち」というコメントを付け加えた。


束の間も忘れていたい老いと死のこと。


束(つか)の間は、ごく短い時間のこと。ちょっとの間でも、そのことを忘れていたい。つまり、老いていくことと、やがて死ぬことを。

なぜならば、老いれば死に近づくことは否めない。そして、現実に死がやってくる。心配なのは、死んだ後である。死ねば何もかもなくなるので、下らない心配をする必要がないなどと言う。

死後の状態では、本当に意識がないのだろうか。プラトンほどの学者でも、明快な回答を出せなかった死後の世界。スエーデンボルグやシュタイナーを読むとおちおち油断ができない。「銀河鉄道の夜」や「星の王子さま」なども、何かしら死後の世界を垣間見た感じである。理論で考えなくても、私は直感でわかる。だから心配なのである。


オッカムの剃刀なのか、死後の命は?


「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉がある。それは「ある事柄を説明するために、あまり多くのことを仮定してはいけない」ということ。つまり、仮定が多すぎて「ああでもない、こうでもない」はダメなのである。

ある存在は、必然性なしに増加されてはならない。より広範囲の事象を説明するためには、より単純な理論のほうがよい。それでは直感的に納得できることは、どうであろうかと私は思う。

オッカムは、十四世紀スコラ哲学の神学者。フランシスコ会で会則の解釈をめぐり、やがてローマ教皇ヨハネス二十二世と対立、異端審問のため教皇庁へ召還された。私は、死後の命について、仮説が多すぎるように思う。


紙とペン、そしてパソコンあれば幸せ。


不要になった裏紙に、まずボールペンでメモをする。そして、それをもとにしてパソコンにインプット。そのときの形式は、五七七だ。つまり、私なりに考えた新句(十九音)形式にする。

ざっとインプットしておいてから、推敲や校正というほどではないが、少しずつ文を育てる。そのこと自体も、また楽しみである。なぜならば、考えがまとまるから。

なぜ新句(十九音)かという理由。長編小説などは、完成させるために大変な努力が必要。また短歌や俳句なども、それなりの基礎がないとなかなかできない。しかし、五七七ならば何とかなる。細かい規約がほとんどないからだ。そんなわけで、後で「記憶の断片」とするような内容のメモや記録を残すのに適しているのではないだろうか。そして、思い出を残す幸せがある。


生きている証(あかし)としての五七七。


この五七七は、新句(十九音)という形式で綴る「生きている証明」でもある。したがって、短詩形としての技巧などは必要ない。俳句や短歌などよりも作りやすいし、内容が舌足らずや下手でもかまわない。

できたら一日に少なくとも一作品、つまり十九音の記録を残して欲しい。文学作品ではないから、多少の意味不明があっても、自分自身でわかればよいのである。

そんなわけで、メモや覚えとしても利用できる。むろん日記の代わりにもなるであろう。日々何らかの記録を残すことで、自分自身の生きている証明にもなる。もしも日々生きがいを感じられるほどに、その作品がなったら、とても素晴らしいことだと思う。


老いてゆく、その寂しさに耐える術なし。


古希を過ぎたころから、何となく「老いてゆく」ことが心細く、寂しいことに感じ始めた。そして、それを忘れようとしても、なかなかムリである。なぜそのような気持ちになったかを考えてみると、おそらく病(やまい)と死が、後に残ってしまった人生だからであろう。

まったく生老病死(しょうろうびょうし)の「老」の先には「病」があって、さらに「死」が残っている。そんな状態で実際には何もできないことが、寂しいのかもしれない。

つまり、もはや対策がないのである。だからその寂しさに耐える術や方法も見つからない。ただ、対策のない傾向に、じっと我慢をするしかない。そんなことを考えるようになったのである。老いてゆくのは、実につらいことではないだろうか。


話には三つのタイプ、いずれがよいか?


二人で話をする場合、ふつう三つのタイプが考えられる。つまり、
(1) 自分が話し、相手が聞く。
(2) 互いに同程度、話をする。
(3) 相手が話し、自分が聞く。

(1)の場合は、キリがなくなってしまう。相手がうんざりしてしまうことも、かなりあるでしょう。むしろ、(3)のように聞き側に回ったほうがよいかもしれません。ただし、ときどき質問をするのがよい。

長続きするのは、(2)が好ましいようです。一方的に口数が多いのは、ともすると「病は口から入り、災いは口から出る」の後段のようになってしまうので、注意が必要。そうではありませんか。


デジカメの写真は、サイズ小さく保存。


私のデジカメは、ふつう2272×1704ピクセルのJPGファイルで、一枚が保存される。ほんとうは大きいままのほうがよいのだが、容量の関係で加工・縮小してホームページに移す。大きいままだと、多くの枚数が保存できないのだ。

加工は周囲の不要な部分を取り除くトリミング、それに縦横の変換や斜めになったものを水平ラインに戻したりする。場合によっては、遠近補正ツールで縦横の角度を修正することもある。

そして、400×300(横長)または300×400(縦長)の写真にする。説明文などは、文字や図形がわかる範囲で縮小をする。読めなければ、意味がないからである。そのようにすると、かなりの枚数がホームページエリアに入る。


地図にあり、現地にないと、探し求める。


まず、地図を見る。そして、次に回るコースのスケジュールを作る。地図は、市役所や観光協会などで入手したもの。しかし、スケールが小さいために、記載されていない場所も多い。

そこで、グーグルやヤフーの地図で調べる。倍率を変更したり、航空写真を見ることもできるから便利。また画面をドラッグすることによって、見る場所を移動させながら続けていくこともできる。

地図に書いてあっても、現地ではなかなか見つからないことがある。例えば、ない寺などだ。吉祥寺や多摩市の連光寺のように、名称だけで存在しない。また、存在しても仮小屋のようなところもあった。八王子で言えば、金蔵寺である。さらに、その場所にないこともある。真照寺の場合は、1キロメートルも北に引っ越していて、なかなか場所がわからなかった。


歩く距離、少なくできるバスの乗継ぎ。


あまり長い時間の歩行をすると、足に負担がかかり痛くなる。そこで、ムリのない範囲で、少しずつ歩くことを検討した。それには、バスの乗継ぎがよい。乗り継ぐことによって、しばらく足を休めることができるからだ。

そんな方法で、下記を行った。
(1) 拝島と熊川を除く五日市線
(2) 滝山街道の一部分
(3) 秋川街道の一部分
(4) 陣馬街道とダイヤする部分

五日市線と言っても、東秋留、秋川、武蔵引田、武蔵増戸、武蔵五日市のJR各駅を基点にしたのではなく、平衡するバス路線を利用した。


路線バス、乗り継いでするプチさんもOK。


足を痛めたので、路線バスを乗り継いで、プチさん(プティ散策)をするようになった。そんな方法で、手始めに下記を行った。
(1) 拝島と熊川を除く五日市線
(2) 滝山街道の一部分
(3) 秋川街道の一部分
(4) 陣馬街道とダイヤする部分

五日市線と言っても、東秋留、秋川、武蔵引田、武蔵増戸、武蔵五日市のJR各駅を基点にしたのではなく、平衡するバス路線を利用した。

滝山街道は、純心女子学園から戸吹町まで。秋川街道は、楢原町から田守神社前まで。陣馬街道ダイヤは、四谷・切通し・川原宿(川原大橋)・宮の前(城山大橋)で囲まれた範囲とその各バス停周辺。


もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


前に行ったところで、もう一度そこに行ってみたいなぁと思うことがよくある。それは、いったいどういう心理なのだろうか。単になつかしいとか、思い出ということではないようだ。

よく犯罪者が後日になって、犯行現場に現われるという。そんな小説や映画を見たことがある。なぜだろうか。自分が関係をした場所に行くということは、逮捕される機会を増やすのだから、なるべくやめたほうがよいのに。

その場所のイメージが記憶にあるものの、いったいそれはどこであったかを忘れてしまった場合もある。そして、自分自身の行動さえも、なぜそのようなことをするのかが理解できない。そこで犯罪を犯したのではないから、行ける範囲で私は確かめてみたい。


何のため、何をしてるか、問うてもみたり。


いったい自分は何のために、何をしているのだろうか。そんなことを意識して考えることがある。そして、自問自答をする。

すると、なかなか結論が出ない。価値観の問題や個人差の程度もあるので、いちがいには言えないが、そんなことをまったく考えていない人が多いのではないか。

人生の意義、死んだらどうなるのか、そんなことを考えると、生きているのが煩わしくなってしまう。だから、何も考えないで日々を過ごしている人が多いのだろう。それは、そんなことを考えても、何の益にもならないと思い込んだり、また解決がつく問題ではないと決めてかかっている場合が多いようだ。


支配され、生かされている認識はない。


私たちは、「自分が生きている」と思っている。しかし、そうであろうか。農場で育てられる苗や牧場で飼育されている家畜などと、まったく同じ立場にあるのではないか。

世界中で増加し続けた人間、全体が豊かになるためには、かなり増えすぎてしまったのである。戦争や紛争が絶えないのも、人口の増加に原因があるのかもしれない。

野菜の苗などは間引いて、良いものだけを残す。キャベツなどができすぎたときは、ブルトーザでひき潰してしまう。ムダな育成を省いて、生産量を下げないためである。また、一個当たりの市場価格を下げない処置もする。もしも人間が実験場にいるとしたら、FMなどの支配者はぼつぼつ対策を考えて、人口を大幅に減らす処置をするかもしれない。


やがて来る滅びの日々に生き延びれるか?


人類の浄化をするとしたら、どうであろうか。つまり、不要な人間の一掃をしてしまうのである。例えば、無用な老人・自分のことだけしか考えないで生きている人・利益を求めて、あくどいことをする人・他人を殺したり、傷つけたりする人など。

「最後の審判」ではないが、一人ひとりの評価を行って、今後も残しておいたほうが全体のためいよいか悪いかを判定する。そして、悪い場合は滅ぼしてしまう。

そのようなことは、「聖書」などにも書かれている。それらの記述は、まったくのフィクションではなく、かつてそのようなことがあった記録の残骸であろう。ただ、事件そのものが私たちの記録に残されていないために、信じないのである。直感ではあるが、滅びの日々が来ることを知った。


これもまた至福の至り、エクレール・ラテ。


ミスタードーナツでドーナットをほうばり、カフェオーレを飲む。何とも幸せだ。しかし、ミスドがいっぱいで入れないときがある。そんなときは、いじきたない私は、スターバックへ行く。

そして、キャラメル・エクレール・ラテを二番目の大きさのカップで注文。冬はホットで。少し待つとできる。それが、またおいしい。

名前の由来は、よくわからない。おそらく、「エクレール」は洋菓子を意味するエクレア(Eclair)のフランス語読みだろう。そして「ラテ」(Latte)はイタリア語で、牛乳の意味。そんなことを考えながら、幸福の須臾を過ごす。冬は店内、春から秋は外の席。甘さに弱いのは仕方のないことだが、何とも単純明快な至福の一時である。


同じこと繰り返す日々、楽しからずや。


私は鈍く、しつこいせいか同じことを何回も繰り返す。まったく、それに飽きてしまわないのが不思議。それどころか、同じことの中にも新しい発見が次々とあって、とても楽しい。

そんなわけで、気に入った書物なども繰り返して何度も読む。読んでいると、ふと新たな考えが浮かんだりする。また、プチさん(プティ散策)なども改めて同じ場所に行ってみる。季節が変わったり、環境が変わっていたり、新たな発見があったりして、何とも楽しくなってしまう。

繰り返すと、くどいという人もいる。しかし、そう私は思わない。人間の心臓や肺の機能、そして社会の機構などを考えると、反復していることがほとんど。むろん、その中に進歩はあるだろう。しかし、それも同じことを続けていると、必然的に見出されたことに違いない。


誰からも習うことなし、無学の人は。


渡邊師は、私と比べると仏教や健康について非常に詳しい。だから、お話をうかがっていると短時間で、かなり多くのことが学べる。今までに、そのような先生は、あまりおられなかった。

逆に、いろいろと説明をしなければならなかったり、相手の疑問に答えないと話が進まないことが多い。いきおい、私は会話が面倒になってしまうのだ。

仏教に関しては、ずいぶんと教えられた。私から見たら、渡邊師はほとんど無学である。私も仏教については勉強をしたので、まんざらではないつもりである。しかし、まだまだ無学の状態にはなっていないであろう。つまり、自分が学ぶということは、他人に教えられる状態になるということではないだろうか。そんな意味で、渡邊師のお話は素晴らしい。


「けんそんのしおり」を読んで、おごり失う。


「おごり」は「奢り」と書いて、「ぜいたく」や「奢侈」(しゃし)のことである。また「驕り」は「傲り」とも書き、「思い上がり」。しかし、読むたびに私は、気持ちが引き締まる感じであった。

「けんそんのしおり」は、レオ十三世の書いたものをデランジェラが訳した小冊子。ドン・ボスコ社から出ている。私は、この本を読んで自分自身を反省し、生活の奢りや気持ちの驕りまで失ってしまった。

十九世紀のカトリック教会は、近代科学の思想を否定することによってアイデンティティーを保持しようとした。そして、近代社会とカトリック教会は相容れないという印象を世界に与えたが、レオ十三世はこの状況を憂慮して、「理性と信仰の調和」という思想に解決を見出そうとした。そして、信仰と科学思想が共存しうることを訴えたのである。


少しだけ注意をすれば、病気は治る?


最近になって、わかったこと。日々少しだけ注意をしていれば、病気は治ってしまう。例えば、長い期間をかけて患った成人病だ。私の場合は、糖尿病と高血圧であった。それらが最近になって、ほぼ全快をしたようだ。

それで病院にかかったことはなく、自分の工夫と責任で何とか治ったみたい。ただ、食生活と生活習慣に配慮をしただけである。生活習慣にはバスを利用した散歩を始めたことなども、大きな効果があったようだ。

食生活は五年来の努力が実を結んだのかもしれない。簡単に言うと、台所に塩と砂糖を置かない。むろん、味噌・ソース・マヨネーズ・トマトケチャップも。そのような生活をしていると、尿糖がほとんど出なくなったし、血圧も大幅に下がった。外食をするので、あえて家で塩と砂糖を摂取する必要はないのであろう。美味を求める以外には、……。


パタパタをすると細菌、落とせるのでは?


私は帰ってくると、十二階のフロアでパタパタをします。タオルを二つにして、曲げたほうを持ってパタパタと衣服を叩(はた)くのである。まず、左手。次に持ち替えて右手。そして、同様にズボンの右足と左足。

そのようにしてから、玄関のドアを開けて、部屋に入る。かなり強く叩くので、ちょっと痛いくらい。パタパタをすると、外で拾ってきた細菌を衣服から落とせるのではないかと考えたからだ。

そんなことをしても、安全とは言えないだろう。しかし、しないよりもしたほうがよいと思う。最近はバスに乗るので、細菌を拾う確立がかなり増えているかもしれない。そんなことを考え、ここのところパタパタを必ず実行している。単に気休めにすぎないかもしれません。いかがなものでしょうか。


思いつくままにメモして、日々の断片。


そのときどきに思いついたことをメモして、日々の「記憶の断片」とする。そのようにすると、後でそのときに考えたことを思い出したり、まとめたりすることができる。いわば日記帳や備忘録のようなもの。

それでも、中には小説の素材ともなるようなモチーフが含まれているかもしれない。いずれも自分自身の「生きている証明」でもあり、それ自体が自分自身を見つめなおす「鏡」のようなものだと思う。そして、それがさらに発展できるのであれば、それ以上のことはない。

そんな意味で、この五七七で作られた新句(十九音)も、意味があるのではないか。簡単なので、あなたも利用していただきたい。やってみると、ふつうの日記や備忘などよりも、ずっと軽い気持ちでどんどん作れるでしょう。


Kuroda Kouta (2009.12.31/2009.12.31)