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  新句(十九音) 作品集29(2009年11月分)



楽しみは地図見て歩き、バスに乗ること。


学生のころから、地図を見るのが好きだった。それが古希を過ぎ、サンデー毎日になってから、なおいっそう昂じて(高じて)きた。さらに、シルバーパスを取得してからは、バス停を基点とすることができるようになって、ますます。

地図は、市役所などでもらう。しかし、紙面のものは縮尺が一定で、ちょっと不便。また、航空写真に切り替えることもできない。そこでパソコンの画面で見るグーグルやヤフーのものを利用。でも、グーグルやヤフーを切り替えて使う。

グーグルには、鳥居のマークや寺のマーク(卍)などがない。ただ家屋に「○○寺」などとあるだけで見難い。世界的な配慮か。また、行政区分境界などの色別がない。そこで、下調べのときは今までに馴染んだゼンリン方式の地図であるヤフーのものを用いる。しかし、確定した場所の指定は緯度と経度でグーグルを利用する。そんなことも、また楽しい。


楽しみはバスで見知らぬ場所へ行くとき。


見知らぬと言っても、まったく知らない外国などとは異なる。実際には、まだ行ったことがないところ。でも、場所の名前は聞いたことがあったり、その周辺を車で通ったりしたことがある。

さらに、誰かに話で聞いたり、写真を見たりしたこともある。そんな場所だが、とくに今までには行く機会がなかった。それが、シルバーパスを持ってから、気軽に行ってみることができる。ありがたい話である。

また、実際に行ってみる前に、地図で調べたりするのが楽しい。そんなことをしていると、時間が過ぎるのを忘れてしまう。今までは駅の周辺を歩いていたが、バスを利用することによって、行動範囲が大幅に広がった。また、足の故障をカバーできるので、遠くまで行ける。つまり、大きな楽しみが安全に体験できるのである。


できるだけ少なく食べて、よく考えよ。


ソクラテスの言葉に似ているかもしれないが、私は常に「少なく食べて、よく考え」ることができたら、素晴らしいと思っている。しかし、その反対にいつも「無考えに物事をなし、腹いっぱい多く食べ」ているのが事実。

金持ちになりたいとか、有名になりたいなどというのは、脳のもたらす愚かしい幻影や思考の断片であるが、腹いっぱい食べたいというのは、もっと次元の低い生理的な現象らしい。だから、学者でも博学者でも陥ってしまう。

何とかして、少なく食べたいと思っても腹がすくと、つい食べてしまう。また、「生きるために食べている」のではなく、日々「食べるために生きている」ような現象になってしまう。まったく、お恥ずかしい次第である。


揺れ動く感じがしたり、脳震盪か?


最近になって、何となく身体がグラグラと揺れているような感じがする。以前は、かなり敏感で地震なども感じた。テレビを見ているときなどは速報をするので、妻が改めて驚いたりした。

それが、病院で感染をしてから体調がすっかり変わってしまった。地震にも、いっこうに気付かなくなった。その代わり、何かの機会に身体がグラグラと揺れる感じがする。グラグラとまでいかなくても、軽くフラフラとする場合もある。

いずれにしても、身体が異常を感じているのであろう。もしかしたら脳震盪の軽い状態であるから、脳梗塞やくも膜出血の前兆かもしれない。入院をして体調が変ってしまったので、ここのところ身体が自分自身ではなく、違和感を感じることが多くなった。困ったことである。


血圧を上げぬ一つの工夫は水か?


個人差もあるだろうが、私の場合はコーヒーや紅茶などはダメ。また、塩分、脂っこいものなども具合が悪い。体内にある血液の分量が増えたり、高脂血症になるからだろう。

さらに、ペットボトルの甘い飲み物は好ましくない。おいしくても、私の身体に馴染まないのようだ。ペットボトルなどの甘味つき清涼飲料水が現われたのは、せいぜいここ五十年。そもそも、砂糖でさえ貴重品だった時代があった。未開地の人たちは、角砂糖一個で一日働いたという話を読んだことがある。

結局は、何万年も人間が飲み続けた生水がいいみたい。私の場合は、塩素や枯葉剤などの化学薬品をハーレーで浄化をした地下水を飲んでいる。しかし、ときには沸かした緑茶、麦茶、ウーロン茶などもいただく。


自分とは、いったい何か? 空(くう)とは何か?


自分とは、いったい何だろうか? ふつう、皮膚に囲まれている一つの物体、つまり自分自身の身体を考える。しかし、実際は身体の外にも自分の部分があるのではないか。

それでは、空(くう)とは何か? 空の中には、すべてが含まれる。つまり、自分のすべてがである。部分がどこにあるかというような問題とともに、生きているとか死んでいるというような時間の問題までもが含まれている。

人間は、ふつう「内管」と「外管」から成り立つ。内管は、毛穴のような片方が閉じた空間である。いっぽう、外管はその両端が開いている筒だ。例えば、口から肛門までは外管で、構造的には単なるパイプ。しかし、空には内管と外管との区別はない。


空(くう)という無為概念にとらわれており。


「空」(くう)というのは「何もない」ことではない、と思う。私が考えているのは、現象のすべてである。したがって、人間は死んでしまうと何もなくなるのではなく、その空に溶け込むのだと思う。

「死」は単に「空」に含まれる一つの状態で、それをふつう別の次元の概念と考える。ものごとを知らなかったり、包括される概念を認識しなかったために生じる無意味な錯覚なのである。

楊貴妃だったか、誰だったか忘れたが、宮廷に来るときに大いに嘆き悲しんだということだ。しかし、おいしいものを食べたり、楽しかったりしたので、自分が悲しんだことを後悔したという。スエーデンボルグやパスカル、そして源信などを読むと、「死」についても同じことが言えるのではないか。


飽きちゃって面倒くさくなったら終わり。


何事も情熱をもって続けている間が、素晴らしい日々である。しかし、やがてマンネリ化して飽きてしまう。すると、つい面倒くさくなって考えることや作業を中止しがち。人生において、そんなことではダメだ。

テンポが遅くなるのは仕方がないが、停止をしたり、放棄してしまうのはいけない。面倒くさくなることもあるだろうが、それでも何とか続けていこう。

旧約聖書の『伝道の書』に「日の下に新しいものはない」というようなくだりがあるが、それは考え方や見かたの問題。私は、日々新しいことの多い現実に驚いている。自分自身が変化をしているからか、相対的には世の中が新しくなっていくようだ。そんな中で飽きちゃうのは、人生に対して不真面目な証拠ではないだろうか。


衰えた足をいたわりプチさんをする。


ここのところ、めっきり足が弱ったみたい。それどころか、ときどき歩いていて膝のあたりが痛くなる。おそらく、関節がすり減ってしまったのだろう。大好きなプチさん(プティ散策)にも、変化をもたらした。

そんなわけで、あまり長距離を歩くわけにはいかない。かつてのように10キロメートルくらい何でもなかったことが不思議である。

そこで、無理をしないことにした。バスを大いに利用するのだ。神社や仏閣を回るときにも件数を減らして、歩く距離を少なくする。また、階段はなるべく避ける。高いところにある神社は、下で参拝をする。本殿が見えなくても、かまわない。駅の階段なども、できたら下りはエレベータやエスカレータを利用。最近は、駅にも設備が増えたので順番を待つ気長さがあれば、何とかなるのである。


神社仏閣、歩けるうちに参拝したい。


足がじょうぶなうちに、少しでも多くのところへ行ってみたいと思う。やがて歩けなくなるのは、日を見るよりも明らか。いたしかたないことだ。身体が、まだしっかりしているうちに、できることはしておきたい。

そんなわけで、神社仏閣を回っている。しかし、正直言うとご利益(りやく)を願っているわけではない。むろん私は参拝のときに、お賽銭を差し上げる。それは、かねてよりの習慣だからです。

本当のことを言うと、神社仏閣を参拝して人生が変るなどとは思っていない。ただ、あちこちを歩くことによって身体の健康が保てることと、何となく心が落ち着くのである。考えてみると、神社や仏閣が現在でも多く存在するということ自体に、驚きとともに何らかの理由があるのではないかと思うからだ。


晴れた日はプチさん、雨は部屋にて整理。


晴れた日は、たいがいプチさん(プティ散策)をする。あらかじめ行く場所を決めておいて、デジカメをもって出かける。あちこちを写してきて、帰ってから整理をする。その日のうちに整理をしないと、後で何をどこで写したかがわからなくなってしまうことがあるからだ。

しかし、雨が降ったら出かけられない。むろん、冬の雪の日なども部屋に閉じ込められる。そんなときは、地図を見たり、いままでのプチさん(プティ散策)ページをパソコンで見たりする。

そのようなことをしていると、行き忘れたところがあることに気がつく。それはそのときに気がつかなかった場所と、疲れちゃったりして計画をやめたところなど。それをメモしておいて、次回に改めて行ってみたりする。そんなことも、整理をするメリットであろう。


少しずつ書き足してゆく、プチさんの記事。


あちこちに行って、デジカメ写真を撮ったりする。そして、それをホームページの記事にまとめる。そんなことも、ここのところ楽しみの一つである。

しかし、最近になってプチさん(プティ散策)の範囲が狭くなってきた。以前は10キロメートルくらい歩いたが、足を痛めてからは3キロメートルくらいがいいところ。

そんなわけで、いっぺんに計画として考えていたすべてを回れない。そこで、何回かに分けて歩く。それを前回に行ったところに追加をする。すると、前に気付かなかったことがわかったり、間違いがあったことを知る。そんな小さな発見でも、プチさん(プティ散策)の大きな楽しみとなる。


雨の日は、ファイルスキャンを確かめてみる。


だいぶ以前に「雨の日は、メンテナンスを終日(ひねもす)したり。」という新句(十九音)を作った。そのときは、「ハードディスク内の整理とバックアップ」をすると書いた。

しかし、最近になって悪質なウイルスが急速に増えたので、ときどきハードディスクの全域検査をしなければならない。それには、かなりの時間がかかる。全域をシーケンシャルにするのだから、仕方がないのかもしれない。

先日のスキャンでは、Cドライブに約77000のファイル、Dドライブに約60000のファイルがあった。したがって、かなりの時間がかかる。この作業は、何となく泥縄(どろなわ)式で生産性が低い。まったく問題がない場合が多いのであるが、身体の健康と同じくときには精密検査をすることも必要だと考えて、行っている次第。


老人はモタモタ動き、うんざりした日。


老人を見ていると、何となくのろのろしている。ふつう老いてくると動作が鈍くなって、全体の動きがモタモタする。そんなことを見ていると、横でうんざりしてしまう。料金を払うときや何かを決めるときに、何となく長い時間がかかる。

そんな問題が、とうとう自分自身に起こってしまった。考えてみれば、自分も古希を過ぎたわけだから、仕方がないのかもしれない。判断に時間がかかり、何かをするのもマンマンデーである。若かったころのようには、なかなかいかない。

自分では焦(あせ)ってしまって急いでいるのだが、他人から見るとモタモタと見えるのです。まったく、困ったことである。他人を見て、うんざりした日々が、つい先日のような気がする。


プチさんは、老化予防とメタボの防止。


私がプチさん(プティ散策)をする目的は、主に老化予防とメタボの防止だ。老化予防としての効果は、足が衰えにくいことである。

メタボとは、メタボリックシンドローム(metabolic syndrome)の略。運動不足などによって、内臓の周囲に脂肪がたまってしまうこと。その結果、高血糖・高血圧・高脂血・高コレステロールなどの症状を引き起こす。そしてそのまま放置をすると、糖尿病・動脈硬化・心筋梗塞などに陥ってしまう。

内臓に脂肪がたまるのは、個人差もあって一概には言えないだろうが、食べ物のほかに運動不足が大きな原因。いずれにしても、高齢になると足がダメになってくる。そして、寝たきりになったり、衰えてしまう。だから、プチさん(プティ散策)の効果は、大いに期待できるのである。あなたも、いかが?


若いころ、あんなに元気だったと嘆く。


駅のホームや神社の長い階段を上がるときなどに、途中で疲れてしまって、いつも思うこと。若いころは、あんなに元気だったのにとグチって、つい嘆いてしまう。

階段は、膝の痛みもともなう。とくに、降りるときにはズキンズキンとくることがある。おそらく、膝の関節がすり減ってしまったためではないか。

若いころは、膝の痛みなどはなかった。しかし、還暦を過ぎるころから問題が生じた。そして、古希になって歩くのに不自由な身体になってしまった。私はグルコサミンやコンドロイチン、そしてコラーゲンなどの入ったサプリメントを用いているのだが、あまり効果がない。個人差のためだろうか、テレビコマーシャルのようには治らないのだ。


キリのないことと知りつつチャレンジをする。


今していることがキリのないことと知りながら、チャレンジをしてみる。そんな情熱が欲しいものである。私のやっている「駅周辺シリーズ」が、そうである。いわゆる趣味や蒐集の類いでもあるが、プチさん(プティ散策)の中には知的興味が含まれている。

そんなわけで、ついずるずると続けてしまう。それをしたから、世の中がどういうことになるわけでもないが、それなりに興味深い問題を含んでいる。

つまり、自分の知的空間を広げてくれる効果があるのだ。物を貯めるのではなく、知識を増やすのである。物欲や名誉欲ではなく、知的興味に引かれるのではないか。知りたいという本能が働くようだ。考えてみれば人生そのものが、そんなものであろう。そう思いませんか。


世の中の仕組みの中で、トラブル避ける。


私たちの生きている世の中には、いろいろな仕組みがある。それらは、何とも煩わしいほどだ。権利があるからには、義務があるのは当然。それでも、何かの折に問題が生じる。

その多くは、人間関係から生じるようだ。人と人とは、なかなかうまくいかないらしい。夫婦や友人の間でも、トラブルが生じる。まして、外国人とは常識や考え方が異なるので難しい。

佐々木邦の「トム君・サム君」ではないが外人と親しくするためには、それなりの勉強と知識が必要である。そのような努力をしないまま男女が付き合うと、トラブルが生じて相手を殺したりする破目になる。そして、整形手術を何回もして、逃走をした男がいる。いったい人生において、彼は何のために何をしたことだろうか。トラブルは、避けたいものだ。


弱くなった足をいたわりプチさんをする。


ここのところ、めっきり足が弱ってしまった。もしかしたら、身体全体が萎(な)え始めてきたのかもしれない。そんなわけで、歩く距離を短くせざるをえない。かつて10キロメートルくらい平気だったのに、最近は2キロメートル前後。

また、階段の下りは要注意。駅では、あればエレベータやエスカレータを利用する。神社などはスロープがあったら、そこから下る。ない場合は、本殿には最初から登らずに、下から参拝をしてしまう。

若いころは、リーガルの靴に裏金を打っていた。しかし、最近はダンロップのやわらかくて甲が幅広の靴に、厚手の靴下を二枚履く。下は軍足といわれる五本指のもの、その上に厚手の木綿靴下。そんなふうにして、なるべく足に対する衝撃をゆるめる工夫などもしているのだが、……。


世に説いてゆきたくもあり、簡単なメモ。


簡単なメモの形で、自分の考えていることを説いていきたいと思う。つまり、わかりやすく述べることによって、それを何らかの参考にしていただきたい。そんなこと自体を世に問いてゆこうと考えた。

しかし、世に説いて内容を問う以前に、自分自身に対しても説いて問うていることを忘れてはいけない。簡単にできる五七七、そんな軽快なリズムでメモをする。短歌や俳句のように形式が難しくては、ちょっと気軽ではない。しかし、この新句(十九音)は簡単で、それなりの記録性がある。

最初に五七七を置く。そして次に数行で内容を補足する。いわゆる枕詞(まくらことば)に当たるような感じのものを下に付けるのだ。むろん、それはなくてもよい。しかし、私はいつも数行ずつ三つに分けて記しておく。後になっても、書いたときの趣旨がわかりやすいように。


自殺では解決しない生きる苦しみ。


ここのところ自殺者が急激に増えている。人生に疲れてしまったり、借金に首が回らなくなって、自分自身で命を絶ってしまう。そのことによって、苦しさを逃れようとするらしい。

しかし、死んでしまえば苦しさがなくなるのだろうか。死ねば脳が機能をしなくなってしまうから、何も感じないと言う意見が多い。それでは喜怒哀楽などの感情は、すべて脳で作られるものだろうか。

私は、自殺をしても苦しさ自体からは逃れられないような気がしてならない。なぜならば、確かに脳が感じるのだけれども、それ以外に絶対的な受容体があって、生死にかかわらず感じ続けるのではないかと思うからだ。脳のほかに、感覚や意思などをコントロールする仕組みが人体の外にあるのではないだろうか。何となく、そう思うのだが……


膝痛を何とかだまして、プチさんをする。


膝痛は、「しつつう」とでも読むのだろうか。私は、いつも「ひざいた」でよいと思っている。それはともかく、最近になってから私にも大きな問題になった。やはり、関節の軟骨が磨り減ってしまったのかもしれない。

しかし、それでもプチさん(プティ散策)をする。歩いていて痛くなったら、ムリをしないで最寄のバス停で待って、バスに乗る。したがって、そのようなことができる場所を選ぶようになった。

そして、ちょっと疲れて聖蹟桜ヶ丘に戻ってくる。腹も大いに減っているので、吉野家で豚丼と中瓶ビールを注文して平らげ、ミスドであまり甘くない種類のドーナット二つとブレンドコーヒーをプレーンで二杯飲む。そんな単純な毎日ではあるが、私にとっては至福のきわみである。


雨の日はなすべくもなく、部屋で地図見る。


雨が降ったり、冬の雪の日などはプチさん(プティ散策)ができない。そこで、部屋にこもって地図などを見ている。それも、楽しみの一つ。

地図は市役所や観光協会などでもらった行政地図や案内書など。いずれも折りたたんだ紙面になっている。むろん、その範囲しか見ることができない。縮尺も決まっている。

そこで、パソコンを起動してからグーグルやヤフーの地図を見ることになる。また、バス協会の案内用路線図なども見る。地図上に、バス停が記述されていて、バスを利用するときには必携。また、パソコンでは航空写真も見れる。縮尺も調節できる。さらによいことは、ドラッグをすることによって、どこまでも見ていける。そんなことをしていると、いつまでも飽きない。


健康であれば幸福、言うことはなし。


還暦を過ぎたころから、何となく身体の調子が悪いことが多い。気分のよい日が、めっきり少なくなった。仕方のないことかもしれないが、それでも何とかプチさん(プティ散策)に行く。

すると、やがて気分が晴れてくる。現在どうにか歩けるのも、ありがたいことである。そのうちに、寝たきりになったり、歩けなくなってしまうかもしれない。他人を見ていると、そういうケースが多いからである。

とにかく外出ができるのは、かろうじて健康だからであろう。そんな状態ではあるが、まずまず幸福である。行けるうちに、あちこちを歩いておきたいと思う。あまり遠くへ行きたいなどとは考えないが、近くでもまだ知らないところや再発見できる場所がある。そんなところを歩いているときは、幸福で何も言うことはない。


次々と巡ってみたい、歩けるうちは。


ここのところ、神社仏閣巡りをしている。とくに信心をしているというわけではない。そんなことをして何になるのかと言う人がいるが、私は何となく健康によいと考えるし、心が和むからである。趣味や習慣は人生観の問題で、自分自身が納得すればそれでよいだろう。

シルバーパスが利用できるようになってからは、バスを利用することが多い。今まではバスは不便だと思っていたが、乗ってみるとなかなか便利である。小銭を用意する煩(わずら)わしさもないし、歩くときの基点をバス停にもっていけるからである。

ほとんど行ったことのない土地に行くと、見知らぬ場所でありながら、何となくなつかしく感じることがある。デジャビュったり、不思議に初々(ういうい)しい気持ちになったりするから不思議でもある。そんな楽しみがあるから、歩けるうちは次々とプチさん(プティ散策)の巡り歩きをしてみたい。


いつまでも健康であるなどとは無意味。


私は、いつまでも健康でありたいと考える。しかし、そんなことは無意味であろう。加齢とともに身体の機能が失われていくから、どだいムリなことだ。自動車などが古くなった場合の状態と、似たようなことが人体にも言えるのではないか。

若いうちは疾病に対しても回復力があるが、老いてくると慢性になったり、悪化をしていく。それは、仕方のないことである。

だから、なるべく悪化をしないようにする努力や注意が必要。少なくとも現状を維持する方法を心がけることである。そのためには、食生活と生活習慣を常に見直すのがよい。食い改めるのに遅いことはないし、生活習慣を改めるのは今日からでもできる。つまり、考え方を今までと変える必要があるのかもしれない。


楽しみはバスを乗り継ぎ散歩するとき。


今までは、バスをあまり利用しなかった。それが、この夏からシルバーパスを持ったことと、長らく足の膝を痛めてから、大いに考えが変った。歩く距離を少なくして遠くまで行くには、バスが手軽で便利だからである。

費用がかからないことと、そのために小銭を持つ必要がなかったり、運賃を払う際の煩わしさがなくなったことが大きなメリット。だから、気軽にバスを利用できるようになった。

その範囲は、いちおう東京都内ということになっている。したがって、他県に行くときには都合が悪い。その区間の運賃を清算すればよいのだが、それも面倒である。そこで、あきる野市の五日市方面とか、町田市などをプチさん(プティ散策)の範囲とする。いきおい、今までに行かなかったところの訪問をする楽しみが実現できる。ありがたいことである。


草花と小川と野辺と雨間(あめま)と秋留(あきる)。


いずれも、東秋留駅(ひがしあきるえき)の周辺にある地名だ。東秋留駅は、東京都あきる野市の東端にある。拝島から五日市線で、熊川の次である。

まだ市にならず、私が東秋留に住んでいたころ気付いたことであるが、何とも素敵な地名ではないか。少なくとも、そのころからそのまま。まだ、秋川駅が西秋留駅と言った時代である。三十年くらい前のことであろうか。

最近になって、駅周辺のプチさん(プティ散策)シリーズを行っている関係で、五日市線が多摩川を渡った東秋留駅、秋川駅、武蔵引田駅、武蔵増戸駅(むさしますこえき)、そして武蔵五日市駅の周辺を数回に分けて、それぞれ歩いてみた。三十年前と比べると、だいぶ人口が増えて賑やかになっているが、かつての面影は残っている。そして、その辺りを歩いててみると、何ともなつかしい感じがする。


千社札作りてみたり、散華と名付く。


渡邊師からご教示をいただき、千社札(せんしゃふだ)をUさんにプリントしてもらった。散華(さんげ)に用いる蓮弁(れんべん)の形にしたので千社札とは言わずに、私はそれを散華札(さんげふだ)と呼ぶことにする。

デザインは、魚籃観音(ぎょらんかんのん)を現代版にしたストーリ「陜右の人たち」とした。それは、華筥(けこ、花籠とも書く)から僧が取り出して撒(ま)くのと同様に、花かごから健康を人々に分散したかったから。魚籃観音の魚篭(びく)には鯉が入っているというが、何となく生臭いので私は花にした。

渡邊師の言われるように、世の中には豺狼のような人が多い。人の不幸や弱点につけこむのである。迦陵頻伽(かりょうびんが)のように聞いていても飽きることのない美声によって、あまねく法を説く人は少ないようである。


プラトンが「ソクラテス言う」と書いたことは?


いつも思うことであるが、歴史上の問題にあいまいなことが多いということ。事実が誇張されていたり、歪曲されている場合もあるからだ。

ソクラテスは、著作を残していない。実在をした人物で、かなりの人柄だったとは思うが、プラトンの記述やクセノフォーンの『ソクラテスの思い出』などから知るほかはない。しかし、クセノフォーンはプラトンとは異なる立場から師の言行を見たり聞いたりしたままに書き残している。

今となってはどうすることもできないが、そういうことは他にもあると思う。『新約聖書』などは、どうであろうか。また、『正法眼蔵』の「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」などは、コピー機がなかった時代の書写をするときに、思いついて書き足したのであろう。著作権などという概念のなかった時代に自分自身の意見を原文に加えたり、誰かに言わすのは効果的であったかもしれない。


Kuroda Kouta (2009.11.30/2009.11.30)