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  新句(十九音) 作品集28(2009年10月分)



現実に死後の世界は存在するか?


柳瀬芳意氏の訳された『天界と地獄』を読んだ。中表紙には、「イマヌエル・スエデンボルグ著 天界とその驚異及び地獄 静思社刊行」となっている。柳瀬氏は、スエーデンボルグの書物を多く訳している。また、この『天界と地獄』は鈴木大拙氏も翻訳して、その全集に納められた。だからスエーデンボルグの原本は、かなり信頼のおける内容だと私(Kuroda Kouta)は思う。

スエーデンボルグは実際に死後の世界に行って、学者の立場で体験したことを記録として書き綴っている。それが、ルドルフ=シュタイナーの講演内容などとも補完しているので驚いてしまう。

わが国にも源信の『往生要集』がある。当時の偉大な学者が、仏典から引用したもので、それなりに信頼できる。しかし、芥川龍之介は途中でふっ切れてしまう小説の中ではあるが、あまり源信を高くは評価していなかったように、私には何となく思われた。


ド=ロ神父、哀れみ給い、そうめん造る。


カソリックの義姉から「ド・ロさま そうめん」をいただいた。香りがあって、とてもおいしかった。フランス貴族の家に生まれたマルコ=マリ=ド=ロ神父は、宣教のために来日。当時の貧しい村民の暮らしに驚いて、私財を惜しみなく投じて、身につけた農業・医療・土木・建築などの技術を広く人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ、尊敬され親しまれた。

長崎県出津に派遣されてから、生涯その地域の産業など広範な分野に指導的な立場から貢献をした。 また多くの教会を建築したが、日本の伝統文化を重んじた建築様式を特徴とする。そして、地域の貧困者や海難事故で未亡人となった女性をすすんで雇い、西洋式の機織や日本初のマカロニ製造工場も造った。その中には、そうめん工場もあって地域の経済的発展に貢献した。

そのそうめんをいただいた。ありがたいことである。


キンショウバイ、母ありし日の懐かしき味。


キンショウバイは「錦松梅」と書く。鰹節・白胡麻(しろごま)・椎茸・木耳(きくらげ)・松の実などが入ってる一種のふりかけである。

私の母は、栄養学などをあまり知らなかったのかもしれない。私がまだ幼少で食べ盛りのころに、よくおかか(鰹節を削ったもの)や昆布煮などをごはんにかけてくれた。ときには、キンショウバイもあった。松の実の味のなつかしさでわかる。つまり、母ありし日の懐かしい味がするのだ。

そのキンショウバイを知人がやはり母上のご要望で、聖蹟桜ヶ丘のデパートで求めた。そして、そのおすそ分けとして200グラム入りの袋をいただいた。さっそく夕ご飯のときに食べて、自分が幼かったころの母のなつかしい味を思い出したのである。むろん大人になってからも、いただいた佃煮の詰め合わせなどにあったが、そのときは母のことを思い出したりはしなかった。


「おいしい」と言ったら、別の蕎麦(そば)もいただく。


七階の風(ふう)で、渡邊師にお目にかかる。前にいただいたダッタン蕎麦がおいしかったと言ったら、また別なメーカーのものをくださった。緑色の袋には、「韃靼蕎麦(ダッタンソバ) 岩手の穀物【だったんそば】 すべての原材料を【国産】で製造しております。岩手県・軽米町 古館製麺」とある。

裏面に「韃靼そばは、ロシア・タタール地方で生産されてたことからその名が付いた。豊富なルチンを含むのが特徴。岩手大学の教授が持ち帰った16粒の種から栽培し、古舘製麺が自然乾燥で作り上げた」などと書いてあった。そして、100グラム当たりにルチンが480ミリグラムもあるという旨が記されている。

また、健康に関する新たな知識が得られた。ありがたいことである。


病には、なってしまってからでは遅い。


予防や日々の生活習慣が大切なことはわかっている。しかし、不注意で病気になってしまう。どうしても、気付かぬうちに身体が侵されてしまうことが多い。

そこで、とくに体調に関しては日々注意する必要がある。ちょっと具合が悪くても、その原因を究明しておいたほうがよい。なぜならば、体調が悪いのは、もしかしたら死んだり、大きな病気の前兆かもしれないからである。

ちょうど刑務所にいて、こんなところで日々過ごしたくないと思うのと似ているのではないか。自分の不注意か一時的な感情で、それだけの犯罪を犯しているからである。また、ビルの上から飛び降りるのとも似ている。落下をする途中で、自殺することをやめたいと思っても遅い。少なくとも、飛び降りる前に決行を中止すべきであったのだ。


血糖を上げない工夫、食事に注意!


糖尿が出てしまう原因は生活習慣もあるが、食事の摂りかたに問題がある。個人差もあると思うが、私の場合は炭水化物・糖質を忌諱して蛋白質や野菜などを中心とした食事にすると、血糖値が上がらないみたい。

試しに、朝食として玄米にコウナゴをかけて、一カップ分(約一合)ほど食べてみた。他には何も食べない。すると、急速に血糖値が上がるらしい。何となく身体がだるくなって、何かをしていてもうつらうつらと眠い。仕方なく、ベッドで横になる。そんな半日が続いてしまう。

やはり朝は、タマネギ・ニンジン・ピーマン・ニラ・生シイタケなどをタマゴ一個とフライパンで炒めたものがよいらしい。かつて私は、タマゴやあぶら類など食べなかった。しかし、現在は赤タマゴと胡麻油少量を使っている。塩や胡椒などの調味料は、いっさい使わない。


楽しみは地図を見ながら次々と行く。


子どものころから、地図を見るのが大好きだった。パソコンを始めてからも、いろいろな地図にお世話になった。ほとんどが、有料のものである。

最近では、Googleの地図がほとんど。無料であるが縮尺ができたり、距離の測定ができる。ドラッグすることによって、どこまでも続いて見ることもできる。その上、航空写真や地形も見られる。その他ストリート ビューなどもあって、いたれりつくせりである。

そこで、まず行きたい場所にセットする。そして、その周辺を詳しく見る。場合によっては、航空写真にして眺めたりする。すると、風景が一目瞭然である。鳥瞰図なので、歩こうとしているところがあらかじめわかる。そんなことをしていると、いつまでも飽きない。


まだ行ったことないところ、なつかしくあり。


晴れた日にはプチさん(プティ散策)をする。シルバーパスの利用ができるようになってから、行動範囲が大きく広がった。バスに乗って、歩く起点まで簡単に行けるようになったからである。

多摩ニュータウンから南に外れて、町田市の真光寺町・小野路町・上小山田町・下小山田町・小山町などには、いわゆる旧多摩地区の原風景がいまだに残っている。

そのようなところを歩いていると『徒然草』ではないが何となく、ふとデジャビュるのだ。既視感というのであろうか。かつて、こんなところを歩いたなつかしい記憶がよみがえってくる。しかし、初めての場所であるから再体験ではない。おそらく、そのようなことが遺伝子の中に組み込まれているのであろう。


荘子言う、「恵施は物を多く知るのみ」。


荘子(そうし)は、『荘子』(そうじ)を遺した中国の思想家。その中で、恵施の悪口を言っている。つまり、恵施はバラバラな知識で、系統や世界観がないということらしい。

恵施(けいし)は、やはり中国の思想家。宋の出身で、魏の恵王の大臣となり、そのときに荘子と面会したらしい。後に魏を追われたときに、車五台分の蔵書があった。しかし、彼自身の著述は残っていない。彼は、おそらく時間・空間の無限大と無限小とを考えて、最終的にはそれらが同じであると考えたようだ。当時は、そのような論証が大きな説得力をもっていて、その意味では論理学派に数えられる。

私(Kuroda Kouta)は、反省する。いろいろとやってみたが、何一つ満足にできなかった。もしかしたら、荘子の言う恵施のパターンであったかもしれない。


読み書きは、効率の悪い意思の伝達。


書く。そして、それを読む。何とも効率の悪い意思の伝達ではないだろうか。

『パパラギ』という本には、文明をはじめて見た南海の島の酋長が近代社会の新聞や本について、何となく批判をする演説があった。いっぽうでは、本を読まない学者もいるらしい。ロチという名前に似ている学者は、アカデミーの席上で「本を読まないことにしている」と述べて、聴衆を驚かせた。その理由は、「恐れをいだくし、読むのが面倒」だったと私(Kuroda Kouta)思う。また、皇帝で哲学者だったマルクス=アウレリウスは、その著作の中に「本をあきらめよ」と書いている。時間が足りなくなるからであろう。

本を書くのは、キリのないこと。そのような意味が旧約聖書の『伝道の書』や新約聖書の『ヨハネの福音書』にもあった。


システム(死捨無)という概念を思いつきたり。


私(Kuroda Kouta)は、三十歳代のはじめに「システム」という概念を思いついた。システムは「死捨無」を当てつけた言葉で、いわゆる英語の「System」ではない。ローマ字で書くときは、「sisutemu」となるだろう。

つまり、死捨無は「死・捨・無」の三つの内容を含む言葉だ。むろん、ここで死はいわゆる「死ぬ」こと、捨は「捨てる」こと、無はいわゆる「無」を意味する。修行する心の深さの度合いが、その順序のようになるというのだ。

なお、捨は「捨てる」ではあるが、「すて」と読まずに「しゃ」と読んでもよい。いつも思うのであるが、アッシジの聖フランチェスコや捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍のような生き方を少しでも模倣したいものである。


競いあうことをやめれば心やすらか。


現代社会は、一種の競争社会である。幼いころから、競争を強いられる。それに反すると、いわゆる社会の落伍者になってしまう。学歴や派閥がものを言うし、生存競争に強いものだけが得をする。

しかし、そんなことが何になるのだろうか。競争はキリがなく、ひとときの油断もできない。いっそムダなことはやめて、心が安らかなほうがよいと思う。

例えば、国家予算などもそうであろうか。思い切って、軍事費などをゼロにしてしまう。すると、ミサイルが飛んできたり、占領をされてしまうかもしれない。しかし、そんなことが国際間でそのままになってしまう国であるならば、もはや憲法や国民は無意味であろう。そのようなことを考えて、慎重に行動の決断をくださなければならないが、……。


「割礼」や「オシッコ」などの再生多い。


「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などについてホームページを補完するために、このプログを利用している。そして、ことさら重要と思われる内容の記事については、タイトルとサマリをYouTubeにもアップする。私が、忘れないためだ。

すると、不思議なことがわかった。このプログでは、カウンタが全体の訪問者しか数えていないが、YouTubeでは記事ごとの訪問・再生記録がわかるからである。

そんなわけで、わかったことはタイトルの中に「割礼」とか「オシッコ」などのように「オチンチン」に関係ある記事が、他のものよりも何となく多く見られていること。「割礼をするほうがよいか?」とか「オシッコを飲んだら……?」などという話題である。


何にでも興味をもつと、衰えにくい。


身の回りのことなど、何にでも興味をもつことは、老化予防としての大きな効果が期待できる。興味がなくなったり、無関心になると脳は軟化をしてしまう。したがって、いつまでもフレッシュでありたいならば、身の回りのことに興味をもつことである。

なぜならば物事に興味をもつことは、心のリフレッシュになるからだ。無関心でマンネリになってしまうと、もはや生活が単調化してしまう。そして、乏しい変化の中で心身ともに衰えてしまう。

些細なことにでも、興味をもって当たるのがよいだろう。常に新しい観点で、対象を観察する。そうすると、今までにわからなかった面白いことが、次々と現われる。そのようなことに興味をもって感動をすれば、いつまでも衰えないだろう。


甘くない汁粉、おいしくいただきぬ。


砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。

砂糖がないから、小豆(アズキ・あずき)などを煮ても甘い味付けができない。そのまま食べるのである。最初はおいしくなかったが、慣れてくると小豆その物の味がわかって、なかなか素晴らしい食べ物だ。ほのかな香りがあって、硬めに煮ると歯ごたえのある上品な味である。

コーヒー・紅茶などにも砂糖を入れない。そのようにしていたら、外でいただく喫茶店やミスドなどでも砂糖を入れなくなった。水で割って飲むと、カフォレもなかなかである。私(Kuroda Kouta)は、いつも『ヴィーグル号』(ダーウイン)だったろうか、「南海の現地人が、一日分の労働の対価として角砂糖一個で満足をした」という記述を思い出す。


ことさらに塩は食べない、健康のため。


砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。

それでも塩は、「海の精」というのを歯を磨いたり、風呂に入れたりするために買っている。そして、台所ではなく洗面場に置いてある。塩には滅菌作用もあるので、歯周病の予防にもよいらしい。

むろん、タマゴの目玉焼きや炒め物などにも、塩は使わない。マヨネーズやケチャップなど、そしてペッパーやタバスコなども一切ない。野菜などは上質の胡麻油で炒め、そのまま味わって食べる。煮物の場合も、原則として塩は不要。もっとも、塩蔵生ワカメなどは洗わずにスープとして使うので、塩分の不足にはならない。また、外食で多目の塩を摂らされているので大丈夫。


興味あり、地図上にあるまだ見ぬところ。


地図を見ていると、まだ行ったことのないところに、興味を覚える。古寺巡礼ではないが、寺院などの訪問は自分なりの想像をともなうので楽しみだ。また神社参りも、なかなか面白い。

ただ行き当たりばったりに行くのではなく、あらかじめ地図で調べておくのだ。そして、いろいろと想像をしながら訪問する。すると、まったく考えていたイメージと異なる場合もある。本堂が鉄筋コンクリートでできていたり、寺とはいうものの個人のお宅だったりすることもある。突然に行くのであるから、本尊の仏さまを拝顔できなくても仕方ない。

神社仏閣のほかにも、公園や遊園地など、その他さまざまなところがある。地図にマークされているところなら、いちおう安全であろう。市などの支所や設備であれば、休息をしたり、手洗いなども利用できる。


「バス途中下車プチさん」の楽しみ増える。


シルバーパスを取得してから、バスの利用が多くなった。これまでは、バスの利用回数が少なかったが、無料になったので増えた。途中下車などをして、行動範囲が広がったのである。

気軽に、バスストップのある付近をプチさん(プティ散策)できるようになった。いきおいバス停などに、「……公園」「……寺」「……神社」などとある場所に途中下車して、歩いてみることが多くなった次第。

むろん「……寺」などとあっても、もはや寺のないところもある。日野市の万願寺などもそうである。それでも、それなりのいわれがあって付近を歩いてみると、何かしらの発見があったりする。そんなことも、バス途中下車のプチさん(プティ散策)がもたらしてくれる楽しみである。


薬品を身体(からだ)に入れることを避けたい。


私(Kuroda Kouta)は、健康維持のために化学薬品を食べないように注意をしている。

大量の化学薬品を摂取すると、どうしてもガンの誘発を避けられないのではないだろうか。また少量でも、ホメオスタシスの失調をきたしてしまうようだ。個人差もあるがグルミューの欠損なども、化学薬品と関係があるのかもしれない。また、複合汚染ではないが個々の薬品間の相互作用などについては、その結果がわかっていない場合が多いのではないか。

そこで、安全のために台所には化学調味料を置かない。また、外食のときは味付けのシンプルなものにする。なお、砂糖と塩をともに大量に使って、単に舌触りをよくしてあるようなもの、例えば上品な味の羊羹や焼き鳥の香ばしいたれなどは多量に食べないほうが無難だと思っている。


繰り返し、それが人生、飽きたら終わり。


旧約聖書の『伝道の書』ではないが、日々あまり新しいことはないようだ。次々と刺激を求めて新しいことをするが、いわゆる自己満足の衝動でしかない場合が多い。

旅行などをして、見知らぬ土地に行ったりもした。見聞を広めるのも、よいかもしれない。しかし私(Kuroda Kouta)は、なぜか孫悟空のことを思い出す。それは、きんと雲を飛ばして地の果てまで行くのだ。そして、そこにある五つの山のまん中に「孫悟空、ここに来たれり」と書いて、帰ってくる。お釈迦さまは、手を開いて指を見せる。すると、中指に……

そもそもヒトが肺で呼吸をしたり、心臓で血液循環をすることも、反復である。また、人の一生も一つの世代の反復であろう。そんな意味で、日の下には新しいことがないのかもしれない。


先生になりたがる人、多くいる場所。


「先生と呼ばれることを願ったり、師が着る長い衣をまといたがる人が多い」ということが、聖書に書いてあったと思う。また、川柳みたいな言葉で「先生と呼ばれるほどのバカはなし」とも言われる。

親鸞は、自分自身を先生とは考えなかった。また、吉田松陰だったか「軽々しく師となるな」と言ったと記憶している。私は、実際に専門学校の時間講師をしていたが同僚の先生から「先生」と呼ばれたときに、何となくバカにされているような気持ちになった。

碁会所(ごかいじょ)や福祉センターなどに行くと、何となく暇な一般の先生がいる。しかし、そのような雰囲気が好きでないので私は行かない。「天は人の上に人を作らず」というではないか。


死を思い、死を考えて、安心立命。


古希を過ぎると、何となく先行きが心細い。そこで、間もなくやってくる自分の死について安心立命を考えるために、スエーデンボルグやシュタイナー、そして宣保愛子などを研究してみた。

スエーデンボルグは、死後の世界を詳細に書き残している。鈴木大拙が翻訳したくらいだから、かなり学問的にも信頼できる内容ではないだろうか。また、シュタイナーはシュタイナー学校もあるほどの教育者。その講演には死後の生が詳細に述べられていた。

宣保愛子のテレビ番組を何回か見た。とても、有意義な内容であった。局のやらせ方針なのだろうか、ワセダの先生が出てきて茶番をしていた。ふつう、人間の目や耳が捕らえられる周波数は、存在のごく一部。新約聖書の疑い深いトマスを思い出したり、私も早大の理工学部なので、少なからず恥ずかしく思った。


健康に生きるしか他に方法はなし。


お恥ずかしい話だけれど、正直な話。年金生活者になってから、私たちの生活はあまり楽ではない。私の支給年金額は、ほとんどが家賃となる。公団の賃貸住宅ではあるが、管理費や光熱費を含めると一ヶ月に20万円近くかかってしまう。

そんな按配で、妻の年金が私たちの食費になっている。何とかやっていけるが、いきおい質素な生活にならざるをえない。住宅費を除くと、エンゲル係数100パーセントだ。

片方が欠けると、現在の生活が維持できなくなる。つまり、私が死ぬか、妻が死ぬとアウトになる。また、離婚をしても同じ。私が死ねば、妻は家賃が支払えない。反対に妻が死ねば、私は食べ物を買えなくなって、飢えて孤独死をしてしまう。そんなわけで、二人とも何とか健康でありたいと切実に思っている。薄氷を踏んでいるような日々の現実。


ことごとく、自分が知るか、わかるしかない。


ことごとくのことを自分が知るという意味ではない。すべてのことは、自分なりに知るか、わかるしかないということである。近代科学は専門化をして、非常に細かいことまでわかるようになった。また、芸術なども高度な技術をともなって素晴らしい域に達している。

しかし、そんな中で自分自身は最先端の知識を理解するための基礎もないし、芸術を鑑賞する才能などもない。実際は、自分にとって専門的な知識がほとんど理解できないし、高度の芸術もわからないことが多い。

とどのつまり、自分なりにわかっていれば、それで仕方ないということになる。わかろうとしても、技術力の基礎がないので限界がある。まして、芸術的なセンスなどは努力をしても得ることができないだろう。『方丈記』の「寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。」である。


引き続き「韃靼そば茶」を賜いてうれし。


渡辺師から、一ヶ月前に「韃靼そば」(だったん蕎麦)をいただいた。そして、今回は「韃靼そば茶」。私が、重度の糖尿病であるので、心配をしてくださったのだろう。うれしい限りである。

この茶は、北海道土別市と上川郡鷹栖町で栽培された「韃靼そば」が原料である。着色料や香料などの添加物は、いっさい使用していないと書いてある。なお、鷹栖町(たかすちょう)は、かつてトンビやタカが多く、アイヌ語で「チカップニ」(大鳥が棲む場所)と呼ばれ、それを意訳して「鷹栖」となった。

渡辺師がおっしゃるように、油断をすると糖尿病は命取りである。早く何とかしなければならない。そうは言っても、長期間をかけて次第に患ったので、医師の処方による薬物で治療するのは副作用や問題が多いので、自分自身が食べ物で治さなければならない。


人生は夢幻泡影、まさしくにょろでん。


夢幻泡影(むげんほうよう)は、夢と幻と泡と影。金剛般若経から取った言葉で、人生のはかないことをたとえている。

私の好きな作家に、清純な私小説を多く残した外村繁(とのむらしげる)がいる。その中に、『夢幻泡影』という作品がある。その外村は滝井孝作の長編小説『無限抱擁』からヒントを得たという。

奥さんが、ガンで死ぬまでの経過を切々と書いている。非常に苦しんだあげく、あっけなく死んでしまう。読んでいて、やりきれない気持になる。外村自身も、その後ガンで亡くなっている。少し古い作品であるが、やはり実際のガンに対する闘病生活を垣間見て、私は恐ろしくなってしまう。

金剛般若経は、夢幻泡影の後に「にょろでん」と続いていたと思う。まったく、その通りだと思う。


飽きちゃダメ、趣味・ゲームなど考えること。


つい、何かをしていて面倒くさくなってしまう。しかし、趣味やゲームなどでは問題がなくても、そのような癖は人生において問題だと思う。なぜならば、思考をするのが億劫になると、身体も衰えてしまうからだ。

細かいことでも、面倒くさがらずにする習慣が必要なのである。パソコンでするゲームなども脳の訓練になるかもしれない。ソリティアや将棋、そして麻雀などある。非常に優れた仕様なので、実際の相手がいるように思ってしまう。だから、飽きてはいられない。

相手があるときと同様に、ゲームでも礼儀が必要だと思う。また、勝つことだけを考えるのは大間違い。そもそも、勝負としてするのではなく、自分自身の思考力を訓練する場と思えばよい。将棋はともかく、麻雀は早打ちをすることによって、脳に活発な刺激を与える訓練になると思うのだが、……。


ラップリンしてみてわかる身体(からだ)の異常。


身体(からだ)の調子は、日に日に異なる。少しでも異常があれば、注意をしなければならない。体温計で図ったり、血圧を測定したり、尿糖を調べたりするが、他に有効なのはラップリン。

なぜならば毎回のオシッコには、身体に関する貴重なデータが含まれているからである。だから、そのままトイレに流してしまうのは、もったいない。少なくとも、量・色・臭(にお)いなどは調べるとよいだろう。

そして、味を調べるのも有効である。甘ければ尿糖が出ている場合が多い。また、鹹(から)ければ塩分の摂りすぎかもしれない。ただし、味を調べるためには小匙(こさじ)一杯分くらいを飲まなければわからない。そのくらいのことは、自分自身の健康を知るバロメータと考えれば仕方のないこと。その上、体調を知る以外にも、ホメオスタシスに関してフィードバックもできるのであるから、……。


ラップリンすれば、体調すこやかになる。


個人差も関係するだろうが、ふつうラップリンをすれば身体(からだ)のホメオスタシスが正常に機能して、体調がよくなったり、気分が爽快になるようだ。胎児が母の胎内にいたとき、つまり羊水の中で過ごしたときのことなどを考えれば、何となく納得できる。

病気の予防などにも、大いに効果のあることもわかる。もしかしたら、単に風邪(かぜ)などの軽い病気ばかりではなく、ガンの予防にもなるかもしれない。森重久弥氏が逸見さんにラップリンを真剣に薦めたことも、なるほどと理解ができる。おそらく、自分自身に大きな効果があったからであろう。

フィードバックをすることは、何事においても大切だ。つまり、行き過ぎてしまわないこと。ともすると、悪い結果に陥ってしまう傾向を正しい位置まで戻してくれるのがラップリンではないだろうか。


ラップリン、してみてわかるホメオスタシス。


人間の身体(からだ)は、実によくできていることがわかる。ホメオスタシスがその一つ。ホメオスタシス(homeostasis)とは、生物の体内器官が、外部の気温や湿度などの変化に対して、ある範囲の均衡状態を保つこと。それは、巧妙なフィードバックが関係していると思う。

フィードバック(feedback)は、結果を原因に戻すことで、システムを調節すること。もともと、電気回路では出力による入力の自動調整機能を言ったが、生物ではホメオスタシスなどの代謝・内分泌の自己調節機能を指す。

アンプなどを組み立ててみると、たかが抵抗一本で驚くほどの結果が出る。発振とか収斂などの問題を避けると、システムには有効である。胎児が母の胎内にいるときにも、その巧妙な仕組みを利用していたに違いない。そして、もしも甘ければ糖尿を疑い、辛ければ塩分の過剰摂取を検討する。


渡邊師、仏教のほか健康を説く。


渡邊師は、高幡不動尊で護摩を焚く前に説教をされる。仏家でありながら、健康や食べ物に関しても、細心の注意を払われているようだ。したがって、古希を過ぎてからもお元気である。

お目にかかったときは、いろいろと教示してくださる。むろん、仏道に関する質問や疑問を話すと、素晴らしい解決が戻ってくる。しかし、健康に関しても有意義なお話が多い。

食を大切にするのは、仏家の常識かもしれない。道元の『正法眼蔵』などを紐解くと、食べ物や食事に関する記述が少なからずある。また、椎茸を干す和尚の話など、食事に携わる人のことも書いてある。しかし、それまで昼・夜二回の日本人の食事が三食になったのは、道元が朝に軽い点心を摂ったことが始まりとも言う。点心は、もともと昼食の前に、一時の空腹をいやすためにとる軽い食事のことだが、転じて禅家では昼食のことになった。


Kuroda Kouta (2009.10.31/2009.10.31)