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  新句(十九音) 作品集27(2009年9月分)



シルバーになったら、あまり遠出をしない。


とうとう私も古希になって、東京都からシルバーパスが支給された。都内のバスや都電・都営地下鉄などが無料で乗れる。何ともうれしい限りである。

しかし、いきおい込んで次々と乗ったところで、せいぜいバス三回の乗換くらいまで。いくら運賃が無料であっても、やってみると乗り継ぎの時間もかなりかかる。また、五回も乗り換えると疲れてしまう。結局、回数を多く乗り継ぐのというのは実用的でないことがわかった。

そこで、まず最寄駅から終点駅まで行く。そして、そこの駅周辺を散策する。すんだら、ふたたび戻ってくる。そんな使い方を覚えた。また、終点の電車駅から、一駅間を歩くのもよいだろう。かなり目新しい発見があったりして、なかなか楽しいものだ。つまり、あまり遠出をしないことが、事故や疲れから逃れる一つの方法ではないか。


心地よさ、それを求めて日々生かされる。


「人生の目的は何か?」と問われたら、何と応えればよいだろうか。「子孫を残すこと」とか「生をまっとうすること」などという人がいるかもしれない。また、「目的などない」という人もいるだろう。

哲学的なことや宗教的なことについて、私はよくわからない。しかし直感的に「人生は心地よさを求め続ける」一連のものではないかなどとも思う。そして、健康で心地よいときは、その他に何をしても充実することが多い。

反対に病気であったり、身体に大きな支障のあるときは、結果が覚束ない。そればかりか、ひどいときには生きているのがいやになってしまう。つまり、心地よさを求めるには最初に健康でなければならない。そんなことが次第にわかってきた。


偶然が重なりて、日々現実となる。


ちょっとした偶然が重なって、日々の現実を構成する。したがって、よくよく考えると不思議な経緯(いきさつ)が多いことに気付く。何となく誰かが人為的に動かしている気配さえ感じることがあるから不思議。

もしかしたら神が存在して、人間を動かしているのかもしれない。人間自身の意思も大切であるが、成り行きについては如何(いかん)ともしがたいことがあまりにも多い。

そこで、運命論・宿命論などというものが出てくる。すべての事象は、あらかじめ決められていて、それが当事者にはわからないだけであるなどという。しかし、私は単に偶然が重なって、それが日々の現実となって現われるのではないかと思う。そして、偶然が重なること自体、それも偶然であるので、現実は思うようにいかないのであろう。


ドラマ見て、しばしの間(あいだ)我を忘れれる。


映画やテレビドラマを見たり、小説などを読んでいると、つい釣り込まれてしまうことがある。自分自身が、物語の登場人物になったような気がすることもしばしば。いったい、客観が主観になってしまうのは、なぜだろうか。

カタルシスは、浄化を意味するギリシャ語。アリストテレスは、劇の効果としてカタルシスがあるという。劇中の出来事や劇中の登場人物、さらに観客について述べている。「おそれやあわれみ」を抱くことによって、心が浄化されると考えたらしい。

いずれにしても、例えば市川雷蔵や片岡孝夫、そして田村正和の眠狂四郎のようなニヒルな性格の持ち主に対して、あまりなじみのない私がカタルシスするのが不思議である。


ガゴメ昆布とダッタンそばは、健康によい。


ガゴメコンブというのがあるそうだ。ぬめりが多くて、消化器系によいらしい。「ガゴメ」の意味はわからないが、もしかしたら昆布の取れる地方の名称かもしれない。生産量が少ないので、あまり市場には出ていないそうだ。

ダッタンソバには、ルチンが多く含まれている。「ダッタン」は「韃靼」と書いて、タタールのことである。ロシア映画「アンドレイ=ルブリョフ」という作品に、ヨーロッパ地方をタタールが侵略したときのことが詳しく出ていた。

いずれも渡邊師からご教示いただいた。渡邊師は仏家でありながら、健康や食べ物に関して細心の注意を払われているので、古希を過ぎてもお元気である。高幡不動尊で、護摩を焚く前に説教をされている。


身の回り、古希を迎えてぼつぼつ整理。


身の回りのものが、ごちゃごちゃとある。それらはガラクタであったり、仕掛かり中で中途半端の状態であったりする。いずれも、みっともないものだ。だいぶ前から、何とかしなければダメだと思っていた。

そんなわけで、思い切って整理をすることにした。やってみると、品物などは何とか整理ができた。しかし、問題は自分で作った文章や絵など。とくに、ホームページの中身は恥ずかしいほどの内容だ。このプログも、そうであろう。

しかし、そのときどきに感じたことや考えたことを記したもので、自分自身でも思い出がある。だから、そのまま全部を削除してしまうのが、何となく惜しい。そんなわけで、ダラダラと同じことを続けることに相成る。まったく、お恥ずかしい次第。


面白くないことばかり、身体の不調。


身体(からだ)の不調があると、それが関係して気分がすっきりとしない。そればかりか、気持ちまで暗くなってしまう。さらに、精神的に面白くないことが増えてくる。

昔から「病は気から」などと言う。もともと、自分自身の身体の調子などを忘れているのがふつう。それが気になると、身体のホメオスタシスが狂ってくるらしい。

いちばんいけないのは、慢性の高血圧や糖尿病にかかっていること。そのようなときは、身体の調子が正常に保てなくなって、他の病気を併発する。気持ちもすっきりとせずに、何となく不調が続く。そこで、何とかして身体の健康を保持して、気分的にもストレスなどを貯めないようにしなければならない。


血糖と尿糖との違いは何か?


私は、日ごろから尿糖の価を計っている。試験紙で計るのであるが、ふつう「−」(検出限界以下)である。炭水化物を多量に摂った後では、「+」(100:少し尿糖が検出)または「++」(500:多くの尿糖が検出)になっている。

本当は血糖値を計ればよいのだが、自分では採血がちょっと困難だし、面倒でもあるからオシッコで済ましてしまう。それでも、尿糖を出しにくい食べ物が何であるかが、食後しばらくして直ちに把握できる。

また、血液の代わりにオシッコで健康を確認する。つまり、色や臭(にお)い、味などである。それらは、自分自身の体調を示す貴重な情報をもっている。また、ラップリンをすると情報が喉にある受容体から脳にフィードバックされて、体調を正常に戻すために正しくホメオスタシスが働くようである。


老いたらば、できることなら一人で遊ぶ。


私の場合、親しかった人がほとんど鬼籍に入ってしまった。だから、気心を知った人がもはやいない。そこで、一人で遊ぶことを考える。新たに友を作っても、気心がなかなか知れないからである。自問自答をすることも、一つの方法。こんな話があった。

徳山の孫弟子である師彦(しげん)和尚は、いつも独り言をしていた。
「主人公」「はい」
「冷静であれ」「はい、はい」
「騙されるな」「はい、はい、はい」

自分で自分に問うたり、忠告をするのである。そして、自分が自分に答える。自分をきちんとコントロールするために、はっきりと自分を見つめることが大切なのであろう。


楽しみは散歩のあとで地図を見るとき。


晴れた日は、健康のために散歩をする。最近になって、シルバーパスを取得したので、バスを利用することも多くなった。しかし、すべてをバスで行くのではなく、バスに乗って散歩の起点まで行くのだ。

そして、その周辺を歩き、またそこから戻る。あるいは、散歩の終点まで行って他のバス停まで歩き、そこからバスで戻ってくる。いきおい私の行動範囲は広がって、楽しい散歩になった。帰ってから、その散歩の道のりをGoogleの地図で見るのが、また楽しい。

私の住んでいるところにはバスターミナルがあって、すべてのバスがそこから発着をしている。南口とか北口がなく一箇所であるから、とても便利。あらかじめ目的を決めなくても、たいがい数台のバスがいる。だから時間表を見なくても大丈夫だ。まったく、ありがたいことである。


道元の『正法眼蔵』に、ない言葉あり。


むろん、大内青らんの『修証義』にもない。異本の中にあるだけで、岩波版の水野弥穂子(やおこ)氏の『正法眼蔵』などにもなかった。懐奘の『正法眼蔵随聞記』などを調べたが、やはり同じ。

その言葉は、
<切に思うこと、必ず遂ぐるなり>
(原文は「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり」)だったと思う。

おそらく、写経をしている人が、そこに自分自身の考えを入れたのであろう。まさしく、その通りである。道元の『正法眼蔵』には、「歯の磨き方」から「お尻の拭き方」まで書かれていて、何となく細かいことまでこだわる道元の性格が出ているような気がする。そんな中に追加された言葉だけに、秀逸である。


認知症、なりたくないが心配もあり。


今のところ、私も妻もかろうじて健康。血圧も正常であるし、糖尿病でもない。ただ私は、ミスタードーナツでブレンドコーヒーのお代わりをすると、帰宅後に血圧が境界価になる。また、シェーキーズでピッチャーと食べ放題をすると、次の日まで尿糖がかなり出てしまう。おそらく、血糖値も上がっているだろう。

そんなわけで、飲み物や食べものに注意をすると、何とか健康を維持できるらしいということがわかった。そこで、飲み物は塩素などを濾過をした生水、食べものはなるべく化学薬品が含まれていないものを日々利用。いわゆる「体内における複合汚染」を注意して避けるためである。

自分が病気になって、「まさか自分がなると思わなかった」などと言わないようにしたい。若いころに心にいだいた病人に対する驕(おご)りなどは、いつの間にかすっかり消し飛んでしまった。


玄色(くろいろ)のダッタンソバは、糖尿病によい。


私がかなりの糖尿病であると言ったら、渡邊師はダッタンそばをくださった。ご好意に感謝をするとともに、ちょっと調べてみた。

韃靼(だったん・タタール)という言葉については、中学校のとき音楽のテキストに「だったん人の踊り」という曲があったのを覚えている。後で、ロシア映画「アンドレイ=ルブリョフ」で、タタールのことを詳しく知った。

それはともかく、だったんそばにはルチンが多く含まれているので、古くから腸内出血や脳梗塞の止血剤として使われてきたという。もろくなった毛細血管の弾力性を回復するらしい。さらに、糖尿病の治療効果やコレステロール値を正常化するのは、ふつうのソバの100倍以上のルチンを含んでいて「薬膳ソバ」などと呼ばれるゆえんである。渡邊師に感謝をするとともに、あなたにもお知らせしておこう。


幾たびか自問自答を繰り返したり。


わからないことがあると、自問自答をする。今までは、相談ができたり、回答を与えてくださる方がいたが、もはや亡くなってしまった。そこで、自分自身で解決をするほかはない。

むろん、インターネットで調べたり、図書館で文献調査をすることはできる。しかし、そうすることによって解決が得られることは、あまり期待ができない。なぜならば、あまりにも調査をする対象が膨大で多すぎるからだ。

そこで、今までの経験を生かして、直感的な解決を得ることを試みる。純粋に学問的な解決でなくても、自分自身が納得すればそれでよい。つまり、いくら理論的な論理でも、それが理解できなければ意味がないのである。やはり、自分自身がわからなければ、仕方がないことであろう。そんな意味で、自問自答を繰り返すのである。


楽しみは晴れた日にするバス小旅行。


シルバーパスが支給されたので、晴れた日にはバス小旅行をすることが多くなった。しかしそれは単なる楽しみで、いくら小さいからと言っても、小旅行などと呼べるものでないかもしれない。

例えば、こんな具合である。まず、聖蹟桜ヶ丘バスターミナルから南大沢駅行きに乗る。終点の南大沢駅から、野猿峠経由で八王子駅南口。その周辺で、しばらく休憩をして甲州街道を日野駅まで。さらに高幡不動駅行きに乗って、高幡橋で下車。そこから浅川の堤防左岸を下り、ふれあい橋を渡って高幡不動駅まで20分ほど歩く。そして、電車で聖蹟桜ヶ丘駅まで戻るんだ。

バスに乗っている時間は気にならないが、座る場所は最後部の左座席か、最前部にある運転手の左側。ふつうは、起点のストップから終点まで乗るので、ゆったりと窓の外の景色を眺めたいからである。


がごめ昆布、ねばりをもって胃腸を修復。


私が糖尿病であると言ったら、渡邊師は心配をして、がごめ刻み昆布を一袋くださった。ご好意に感謝をするとともに、あなたにもお知らせしよう。

「がごめ」という名称は、葉全体にある雲紋状の凹凸が「篭の目」に似ていることから付けられたようだ。また、根の部分を「がも根」と言ったり、葉の幅が広いものを「ふがも」(ふろしきがごめ)と呼んだりするのが、その原因かもしれない。北海道の道南地方で採れる粘りの強い昆布で、弱った胃腸を修復してくれるらしい。

袋詰めになった乾燥がごめは小さく切られているが、凹凸模様が目立つのは葉の先端部分。その違いを知るには、一かけらを口にするとすぐに判る。噛んでいると、独特のねばりがたくさん出てくる。ごはんに乗せて食べたり、お吸い物にして利用することができる。


人生はムダで無意味な一連の須臾(しゅゆ)。


須臾(しゅゆ)は、ほんの少しの時間という意味である。つまり、ごく短い時間のこと。須臾の命などとも言う。

その須臾が、連なって人生を作っている。一連の須臾というと、断片が続いていることを意味する。そして、その連続が全体として無意味であるということを喝破(かっぱ)できるようになったのは、古希を過ぎたころ。

立身出世を奨励したり、「末は博士か大臣か」などと言ってみたり、生存競争をあおるのはフィアフィルマアソン(フィアフィル魔亜尊)が脳に仕組んだ幻影のたくらみ。よくよく考えてみたら、右顧左眄する必要などない。ただ、人生に健康と老化予防、そして安心立命などをマスターしておけばよいのである。


いつまでも仲良きことは美しきかな。


高齢になっても、仲のよい夫婦がいる。私の団地には、いつも二人で散歩に行っていた夫婦がいる。しかし、奥さまが脳梗塞で倒れて、散歩には行けなくなってしまった。最近は、車椅子をご主人が押して買い物に行っている。

そんなことを見て、仲の良い夫婦は美しく微笑(ほほえ)ましいと思う。やはり同じ団地で、古希を過ぎたご夫婦が手をつないで歩いている。若々しく、うらやましい光景だと思った。しかし、後で聞いた話によると、ご主人のほうがアルツハイマー病で、手を離しているとどこかへ行ってしまう心配があるのだということがわかった。

いずれにしても、いつまでも仲の良いことは美しいことである。しかし、そのためには夫婦ともに健康で、長生きをしなければならない。


何となく先が短いような気もする。


とくに身体のどこかに悪い部分があるというわけではない。慢性の糖尿病にかかっていたが、尿糖を出さない食べ物を選ぶことによって、何とか失明や人口透析を避けられるのではないか。膵臓自体からインシュリンを出せるようになるためには、まだしばらくかかるらしい。

もしかしたら、いくらがんばってもインシュリンは出てこないのかもしれない。過去の食生活や生活習慣が悪かったので、今さら後悔をしても始まらないのである。

そんなわけで、何となく先が短いような気もするのである。さらに、親しかった知人が次々と他界しているので、そろそろ自分にも順番が回ってくるのではないかなどと考えてしまう。すべては、自分自身が愚かだったことに始まるので、グチってもしかたのないことではあるが、……。


楽しみは日々することが、なくなりしとき。


ちょっと不完全で、わかりにくい表現である。私に日々することがなくなったと言っても、まだ健康や老化予防などについての努力が必要。私の言うのは、年金生活者になってから、生活のための仕事が必要なくなったという意味。

残っている大仕事と言えば、いわずもがなのことを言うようであるが、自分が死ぬことであろう。それは、間もなくやってくる。なぜそのようなことがわかるかというと、あっけなく知人が次々と死んだからである。注意深い人でも死ぬのであるから、不注意な私などは例外でないと考えざるをえない。

そこで、ぼつぼつ死の研究を始めることにした。まだ、その体験を実際にしていないが何かと心配なので、いろいろと調べておいて、そのときに及んで慌てないようにしたいとつくづく思う。そんな楽しみもあるのです。


一生は恥の連続、いたたまれなし。


私の能力がなかったためかもしれない。今までの過ぎた人生には、あまりにも恥ずかしいことが多い。がんばってはみたものの失敗をしたり、満足できる結果を得られなかったことがほとんど。そんなことを考えると、いたたまれなくなってしまう。

おそらく、残り少ない今後の人生でも同じことであろう。考えてみれば、このような文章を書き残すということも、恥を書き足しているのかもしれない。いずれにしても、何となく自分に愛想がつきてしまう。

何かをしていても、突然に「わっ」と叫びたくなるような思いに苛(さいな)まれることがある。記憶の中の恥の光景がよみがえったときなどは、何となく後悔の念で満たされてしまったりもする。考えてみれば、今までに能力を超えたことをしようとした当然の結果かもしれない。


解脱云う、一年は無常、死のきざみなり。


学生時代に読んだ『一言放談』(いちごんほうだん)に、次のような条(くだり・件)がありました。

原文:<解脱上人云、一年三百六十日は、みな無常にしたがふべき也。しかれば、日夜十二時(とき)は、しかしながら、終焉のきざみと思ふべし。>
意味:「解脱房貞慶上人がおっしゃった。一年は三百六十日あるといっても、そのすべては無常の理(ことわり)にしたがっているのですよ。だから、その日その日が、そのまま死への刻(きざ)みと思わなくてはなりません。」

『一言放談』は、『徒然草』にも法然の言葉が引用されている。卜部兼好(うらべけんこう・誤って吉田兼好とも呼ばれている)も、大いに感銘を受けたに違いない死のエピグラムである。


欲しがるな、それに反して捨てることなり。


『一言放談』(いちごんほうだん)に、次のような条(件・くだり)がありました。

原文:<或上人同法を戒(いましめて)云、物なほしがり給ひそ。儲(たくわえ)はやすくて、捨(すてる)が大事なるにと云々。>
意味:「ある上人が念仏仲間を戒めて、『物を欲しがってはいけません。貯えることはいとも簡単ですが、むしろ捨てることが大事なのですよ。』と語られたのです。」

「同法」は単に仲間と訳しましたが、厳密には「同じ師について仏法の修行をした仲間」を言います。『一言放談』の抜粋文は、『徒然草』にも記述されている。卜部兼好(誤って吉田兼好とも)も、大いに感銘を受けたに違いない死のエピグラムである。


「死を知らず」、「死にかかわった存在」など。


死に関して、私には印象深い記述が二つあった。いずれも、なかなか優れた見解であると私は思う。まずは孔子、そしてもう一つはハイデッガー。

『論語』に孔子が季路(きろ)から「死」について問われるくだりがある。すると、素っ気なく「未だ生を知らず、焉んぞ(いずくんぞ)死を知らん」と。しかし、そうであろうか。つまり、生をきわめなければ、死がわからないのだろうか。生と死は、同じ次元で考えるものではないだろうか。

ハイデッガーは、実存主義者の哲学者。彼は考える。野生の動物は自分が生きていることの意味を問わない。しかし、人間だけが生きる目的、生き方、つまり自分の存在の意味を問い続ける。そして、死を積極的に受け止めて、「自分は死にかかわった存在である」と考えた。


確実に来る死を知って賢く生きよ。


マルクス=アウレリウスは、古代ローマの皇帝。終始辺境諸族と戦いながら、ストア学派の哲学者として『自省録』を遺した。その中にある死に関する言葉三つを神谷美恵子訳(岩波文庫)から引用してみよう。

<ヒッポクラテースは多数の病人を癒してから、自分自身もわずらって死んだ。……>
<死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。>
<死を軽蔑するな。……死にたいして無関心であるのでもなく、烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。>

マルクス=アウレリウスは、死に関して恐れていなかったことが明確であると私(Kuroda Kouta)は思う。


束の間の事がらなのか、人の一生。


マルクス=アウレリウスは、『自省録』の中に次のように書いている。

<人間に関することは、すべてかりそめであり、つまらぬものであるかを絶えず注目しなさい。身体と言っても、昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。だから、このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟(う)れたオリーヴの実が、自分を産んだ大地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝を捧げながら、地面に落ちて行くように。>

これは、すばらしい洞察だと私は思う。他に「死」に関する記述を見たが、この一生については「束の間の事柄」としてとらえている。また、「死後の名声」を望むことについても、記憶全体が消滅してしまう空しいことと言っている。


オシッコは、あまり美味しいものではないが……。


ウンコには、大腸菌などの腸内細菌がいっぱい。ウンコは触れるだけでも、不潔である。しかし、オシッコは排出された直後は無菌状態で清潔。尿道を患っていたり、腎臓に障害がない限り、水道水よりも安全な飲み物である。

遭難したときにオシッコを飲んで助かった事例も多く、またアラブなどの水が少ない砂漠地方では、ラクダの尿を洗顔に使ったりしているらしい。さらに、オランウータンなどの高等な類人猿は、喉が渇くと自分のオシッコを飲む。

オシッコには多くの情報が含まれている。病院で、検尿をするゆえんである。それをトイレに捨ててしまうのは惜しい。私は500mlの計量カップに摂って、分量・匂い・色などを確かめる。100ml以下のときは、前立腺や頻尿を疑う。そして、一日に一回ぐらいは勇気を出してラップリンをする。


グッドバイそろそろ近く、あとを濁さず。


「飛ぶ鳥跡を濁さず」とか「立つ鳥跡を濁さず」などと言う。それは「立ち去る者は、あとが見苦しくないようにすることが大切だ」ということ。つまり、「退きぎわがいさぎよい」ということのたとえである。

ここで私が「あとを濁さず」というのは、人生を立ち去るときのことである。考えてみれば、一生にはいろいろなことがあった。そして、その都度あまり深く思慮もせず、問題を解決してきた。中には、投げ出して中途半端になったことがかなりある。また、右顧左眄して見苦しい結果になったものも多い。

そこで、いろいろと反省をしてみる。済んでしまったことは仕方ないが、残した文章などは無責任なものが多い。「あとを濁さず」どころか、「あとは野となれ山となれ」で、目先のことさえなんとか済めば、あとはどうなってもかまわないという内容のものも多かった。まだ校正のできるものは、何とか直したい。


心から望めば、すべて可能になるか?


何となく精神論のようなテーマで、ちょっと問題でもある。心底そのことを渇望すれば、たいがいのことは実現するという意味。むろんただ望むだけでなく、考えなければならない。

道元『正法眼蔵』に、「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり。」と記述されている版もある。おそらく、書写をした人が思いついて書き足しをしたのではないかと、私(Kuroda Kouta)は思う。それでも、素晴らしい言葉ではないか。

スーザン=ポルナーというハンガリーのチェス名人は、「心から望み、考えれば何でもできる。」と言っている。望むことと考えるということが、非常に大切であるようだ。学校教育ではダメなので、家庭で父が教えたらしい。つまり、考えることではなく覚えることが主体になった現代の教育では、能力は伸びにくいのであろう。


考えることが大切、知ることよりも。


本を読んだり、テレビを見ると、今までに知らなかったことが、次々と知識になる。しかし、それらを知っても、あまり活用のできないことが多い。「あれも知りたい、これも興味がある」などといった知識に対する情熱も、何となく薄れてしまった。

そこで、今でに知ったことを利用して、よく考えて結論を出すようにする。そうすれば、何とかなることが多い。そして、その場合に新たに必要な知識があれば、そこで調べればよいだろう。

『徒然草』第七十五段に、<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>とある。


Kuroda Kouta (2009.10.01/2009.10.01)