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  新句(十九音) 作品集23(2009年5月分)



ガンジーは、「病気は無知の結果」ともいう。


『ガンジーの健康論』という本がある。
ガンジー(1869〜1948)は、インドの独立運動指導者。ロンドンで学んだが、帰国後は民族解放・独立のため活躍。ヒンズー教とイスラム教の融和に献身したが、狂信的ヒンズー教徒に暗殺された。

そのガンジーが著した本に、次のようなことが書いてある。
<人間の束縛感や自由は、心の状態である。だから、病気は行為・思考の結果。>
<医療がなければ病気は治らないという致命的な妄想がある。薬は害になることもあるのだ。>
<人体の構造を考えると、人間は菜食をするようにできている。>

確かに、そのとおりかもしれない。私(rik)が、大いに学んだ本である。


痰(たん)と唾(つば)、便と尿とは似て非なるもの。


いったい何が言いたいかというと、尿はきれいだということ。

確か貝原益軒の『養生訓』に「痰は吐き捨てなさい。しかし、唾は飲み込みなさい」というような記述があったと思う。つまり、痰は不潔なものであるが、唾は清潔だということらしい。また、『ガンジーの健康論』には「ところかまわず唾をペッペと吐くのはいけません」とある。

唾も尿も空中に放置すると、腐敗をするので不潔になる。
便は大腸にいる菌などが多量に含まれているので、触れたら不潔である。いっぽう、尿は血液が腎臓で濾過されたものだから、出た直後は無菌で清潔。腎臓に疾患があったり、尿道に炎症などがなければ、そのまま飲んでもかまわない。それどころか、尿は身体の状態を保持しているので、再び適当な形で体内に入れると、フィードバックができるという。


生きている実感なくて、生かされている。


自分が生きているという感じではなく、何となく生かされているというような気持ち。つまり、日々の方便(たつき)なども能動的でなく、受動的な観念になってしまった。いったい、どうしてであろうか。

身体の調子が悪かったり、持病が長引いたり悪化すると、とくに生かされていると感じる。そして、もしかしてひょっとするとアウトになるんじゃないかという心配をする。

あたかも、水槽に飼われている金魚が弱ってきて、ふらふらと泳いでいるような感じである。その金魚を見ているのであるが、自分自身が金魚になって、誰かに見られている気配を感じるのである。もしかしたら、私たち人類の何人かは、すでに神か宇宙人に支配されてしまっているのかもしれない。


生きていることが、すなわち死の準備なり。


若いころはともかく還暦や古希を過ぎたら、死がいつくるかわからない。健康だから、いつまでも生きられるなどと思ったら、大間違い。まして、病気がちのときは、まったく覚束ない状態である。

そんなわけで、いつ死んでもよいような心構えが必要になる。つまり、いつお迎えがきても慌てない覚悟だ。身の回りの品物の整理や仕掛かりになっている仕事の完成など、考えてみればキリがない。

そんな中で、自分自身の安心立命に関する心がけが大切。生老病死は避けられないのだから、せめて四苦八苦を少なくして死に臨みたい。そのためには、信仰に入るのがよいかもしれない。しかし、それでは疑問がますます増してしまうだろう。結局は、自分自身の安心立命を自分自身で構築しなければならないからである。


取りとめのないことばかり、次々綴る。


思いついたことを「記憶の断片」などと言って、次々とメモしておく。おそらく、後で見たら自分自身でも恥ずかしいものだろう。しかし、そんなことはどうでもよい。とも、思う。なぜならば、生き様そのものも、あまりみっともいいものでないからだ。

古希になって、つくづくと考えてみたら、あまり自慢のできるようなことを今までにしていなかったことに気付く。だからと言って、自分自身の能力や努力が不足であったなどとは考えない。くよくよ考えても仕方のないことであると、諦めてしまう。

そして、アレキサンダー大王やナポレオン、さらにヒトラーや東条英機たちのしたことが、偉大ではあったけれども、安らかである理想的な生き様ではないなどと、開き直るのである。いかがなものであろうか。


ウイルスにかかったらしく、気分優れぬ。


ここのところ、体調のよくない日々が続く。おそらく、インフルエンザなどのウイルスが体内に入ったためであろう。気分が優れない。考えてみれば、それは当然なこと。ウイルスだって生き物である。とうぜん、生きるためには栄養分が必要。それを宿主である我々から摂っているのだから、取られたほうには大きな負担がかかる。

おそらく今後は、もっと得体の知れないウイルスが流行するであろう。そして、そのウイルスは強力であって、かかったら我々は三日くらいでやられてしまうのではないか。

何とかして、抵抗力のある身体にしておきたい。


「疲れた」と「面倒くさい」は、老いの現われ。


「疲れた」とか「面倒くさい」などを連発するようになったら、老いが現われ始めたといったよい。若いころには、それこそ「疲れ知らず」。何事も、精力的にしたものだ。

しかし、ここのところ物事をする前に、「面倒くさい」と考えることが多くなった。したがって、しないのであるから疲れないはず。それが不思議なことに、いつも疲憊(ひはい)の状態だ。そして、疲労困憊の一歩手前。何もしないのに、である。

気持ちが萎えてしまったためであろうか。あるいは、ウルマンの詩のような「青春」をすっかり失ってしまったせいであろうか。
何とかしなければならない。


人生の記憶を綴る、日々の断片。


この「日々記憶の断片」は、ちょっと大げさなタイトルかもしれない。いわゆる固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしようとした日々の便り。親しい人たち、そして未知の人たち、さらには自分自身への記録なのである。

簡単に言えば、日記帳とも似ている。なぜそんなことをするかというと、認知症になってしまわないための用心でもある。まだ、記憶力がしっかりしているうちに、思いついたことを何でもメモっておこうという次第。

このごろ、私(rik)は何となく物覚えが悪くなったり、度忘れをしたりするようになった。高齢になったためかもしれない。なぜならば若いころには、そんなことがなかった。そんな意味で、「日々記憶の断片」なのである。


一遍は、いばりのことを何故に知る?


一遍上人は、「オシッコを飲むと健康になる」「尿で病気が治る」などということをどうして知ったのであろうか。高僧の直観力であったかもしれない。

しかし、私は次のようにも考える。
逗留をした寺の蔵書や経を読んでいたときに、たまたま『傷寒論』があったのではないか。『傷寒論』(しょうかんろん)は中国の有名な医学書。漢方医学の原典とされる書である。後漢(25〜220)の長沙(ちょうさ)の太守、張仲景によって著された。そこには、尿に関する医学的記述があるという。

この『傷寒論』は、久しく医学のバイブル的存在で、「宮廷女官チャングムの誓い」などでも、それを調べる場面があった。さらに、政木和三博士は尿を飲むことに関して近代的・科学的な見解を講演会で述べておられる。


人間の身体(からだ)の不思議、尿療法で知る。


尿は、不思議な液体である。便とは異なって、老廃物であっても清潔・無菌。だから、飲んでも問題はない。それどころか、尿を舐(な)めることによって、健康を維持できるという。

誰もが赤ちゃんの時代、母親の胎内では羊水の中にいる。その羊水には、赤ちゃんから出た尿が混じる。つまり、自分の尿の中にいて、その尿を飲んでいるのである。

尿の中の成分には、身体の中の信号が含まれているという。その情報を喉(のど)の奥にある器官で検出し、フィードバックをしてホメオスタシスを保っているらしい。つまり、負帰還をすることによって、スタビライザのような平衡が保たれるのではないか。オシッコ自体の成分が栄養や効果を与えるのではなく、その情報が健康に役立つのである。


表現は、短いほうが好ましくあり。


「お仙鳴かすな、馬肥やせ」ではないが、タイトルや本文も短いほうがよいのかもしれない。あれもこれも、ことごとく述べようとすると長くなってしまう。いきおい、焦点もぼける。

短くても内容がわかるようにするためには、どうすればよいのだろうか。あらゆる言葉に熟知している必要があるのだろうか。また、暗喩などを知っている必要があるのだろうか。

「桜散る」というメッセージを「試験に落ちた」という意味に用いるのは、暗号としてはどうだろうか。戦争末期の「お父さん」とか「花子さん」とか言われた人は誰だったのでしょうか。ルーズベルトは、おそらく笑っていたことでしょう。


人体の四分の三、水分という。


私たちの体重の四分の三、つまり75パーセントが水分という。水分は身体の維持に必要であるが、一日に1リットルほどの汗をかく。当然のことながら、その分を補充しなければならない。

人間も原始の時代には、海水の中にいたらしい。したがって、陸上に出ても体内に水分を保持している必要があるのだろう。細胞や血液などには、水分が必要なことは明白。

さらに、神経なども水分を必要とするらしい。痛みを脳に伝えるのは神経であるが、体内に含まれる水分の量によって痛みの感じ方が異なるようだ。性格などによっても異なるが、場合によっては痛みを感じないこともある。水分を補充摂取するときは、良質の天然水が望ましい。


マロニエの花、満開で小雨がしぶく。


聖蹟桜ヶ丘駅前の川崎街道。小降りではあるが、雨まじりの風が吹きつける中に、ひときわ桃色の花が目立つ。つい二ヶ月ほど前は、葉もなく枝がつくつくしていたが、今では鮮やかな新緑の中に、ピンクの花が満開。まったく、季節の移り変わりの速いのに驚く。

マロニエは、フランス語の「marronnier」。トチノキ科の落葉樹。ここのマロニエの和名は、ベニバナトキノキという。樹皮は灰褐色、葉は大きくて、数枚の倒卵形の小葉で、手のひら状の複葉。バルカン半島の原産で、街路樹などにする。

雨にぬれたマロニエは、葉も花も何とも鮮やかだ。葉の中に赤みがかった白色の花が円錐状についている姿を見るのが、毎年の楽しみである。


聞きとれる音の範囲は限られている。


ヒトの聴覚は、ある範囲の周波数だけを聞きとることができる。音波情報は外耳で集められて、中耳の鼓膜を振動させる。その振動は、耳小骨という三個の小さな骨を伝わって、蝸牛穀に送られる。そこで、振動は神経刺激に変わり、神経繊維を通って大脳に送られ、音として感じる。

そのような精巧な耳ではあるが、周波数20ヘルツから20キロヘルツくらいの範囲しか聞けない。人間以外の動物、例えばコウモリは、さらに高い周波数の音を発信して、それを聞いたりしているらしい。洞窟の暗い中でも、互いに高い音による情報交換ができるので、ぶつからずに飛べる。

それはともかく、ヒトが互いの情報交換に聴覚を用いることは素晴らしいことだ。なぜならば、話し言葉は書き言葉に比べると、約10倍の情報量を伝達できるからである。


目に見える光のほかに不可視光線。


ヒトが感じる光は、太陽光線のごく一部分である。それを可視光線といって、波長が700ナノメートルから380ナノメートルの範囲。電界と磁界との変化が互いに作用して、波となって伝わるものを電磁波といい、電波・光・X線などがある。

つまり、電磁波は波長の長いほうから
(1) 電波
(2) 赤外線
(3) 可視光線(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)
(4) 紫外線
(5) X線
となっている。
そして、上記の(1)と(5)以外、つまり赤外線・可視光線・紫外線を光という。


いやしくも始めてみたり、ビールの研究。


ビールの研究といっても、科学的なことではない。つまり、ここでは価格のことである。私(rik)は飲兵衛だから、ほとんど毎日ビールを飲む。しかしすでに年金生活者なので、なるべく安く飲みたい。そこで、外食をするときのことを考えてみた。

(1) サントリービール工場……グラス三杯という制約。30分ほどの工場見学という条件があるが無料。分倍河原から無料送迎バスがある。

(2) 吉野家で中瓶……500ml=400円。しかし、ビールだけ注文というわけにはいかない。ふつう、豚丼370円とともに注文。合計770円。

(3) サイゼリアで中ジョッキー……435ml=390円。これは、半熟卵のミラノ風ドリア368円とともに注文。合計758円。


何気なく鼻毛を抜くと、化膿の危険!


何となく、鼻がムズムズとすることがある。そこで、指でそこを弄(まさぐ)り、きゅっと掴(つか)んで鼻毛を抜く。ちょっと痛いが、瞬間のことである。抜いた後は、すっきりして気持ちがよい。

しかし、そのようなことを何回もすると、抜いた後に細菌が入ってしまって化膿することがあるのではないか。したがって、抜くのではなくて鋏で切ったほうが安全だ。それ専用で、先の丸くなった小型の鋏がある。

平賀源内の『風流志道軒伝』巻之一に「不偏不易の理を知らず、鼻毛を抜かないことから起こった大たわけなのじゃ。」というようなくだりがあるが、それはそれ、昔は昔、今は今。ついでながら、鼻毛ではないが耳の毛の話で、インドだったか、棒の先に付けた綿花を燃やして、その炎で毛を焼き切るというのがあったが、鼻には応用できないと思う。


大腸にいる細菌は百兆くらい。


私たち一人の大腸に寄生している細菌の数は、何と100種類で百兆もいるという。まったく、ものすごい数である。大腸は、小腸に続く消化管の最後の部分。上から盲腸・結腸・直腸と続き、長さは成人で1.5メートルくらい。そこでは消化酵素を作らないが、水分と電解質を吸収して糞便を作る。

大腸には、さまざまな細菌がいて、腸内で消化・吸収されなかったものの大部分を発酵・腐敗させてガスを発生する。そのようなものは人体に不要化とも思われるが、光岡知足氏は『腸内細菌の話』で、「有用な菌もあって栄養や感染防御に役立っている」と述べている。

さらに、「このヒトと細菌の関係は、生物の長い歴史のなかで互いに共存を前提として獲得しえた生存様式といえましょう」とも書いておられる。


膀胱は加齢とともに小さくなるか?


歳をとると、オシッコが近くなる。個人差があるので一概には言えないが、ふつう膀胱の容量は成人で500ミリリットル。そして、250ミリリットルを超えるあたりから、膀胱の内圧が高くなって尿意をもよおす。

膀胱壁の筋肉は三層で、よく伸び縮みをする。しかし、歳をとってくるとオシッコを貯める容量が次第に少なくなってくるらしい。オシッコが近くなったり、ひどいときにはおもらしをしてしまう。

そうかといって、ちょっと尿意をもよおすごとにトイレに行くと、ますます近くなってしまうという。ある程度、我慢をして膀胱に貯める努力も必要であろう。いっぽうでは、ユダヤのラビによる教訓に「オシッコを我慢してはいけない。したくなったときは、すぐするように」というのがあったと思う。いったい、どちらがいいのだろうか。


河川浴、行く水を見て心和みぬ。


河川浴といっても、裸になって水に入るわけでない。また、宗教とも関係がなく、むろん洗礼でもない。ただ、山奥の上流から流れ出た川の畔(ほとり)にいて、川面の清冽な空気を深呼吸する。おそらくオゾンも含まれていて、あたかも森林浴などと同じ効果があると思う。

『方丈記』の冒頭にある
<行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかも もと(本)の水にあらず。淀(よど)みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。>
などという文章を思い出したりもする。

河川浴は、健康や老化予防にも大いに効果があるだろう。


友もなく、金なく、地位もなくて安らか。


負け惜しみではない。親しかった友たちは、最近になって次々と死んでしまった。また、金や地位がないのは、満足な仕事を日々しなかったためであろう。そんなわけで、私はいわゆる三無斉である。

江戸中期の経世家、林子平(はやししへい 1738〜1793)は、
<親も無し妻無し子無し板木無し金も無けれど死にたくも無し>
と歌って、六無斎(ろくむさい)と称した。

板木は印刷に使うものと思われるが、それがないと出版できないという意味らしい。むろん、金がないので板木を買うこともできない。そして、最後の「死にたくもなし」は彼自身の本音とも思われる。つまり、生きていれば「まだ、チャンスが来るんじゃないか」と、考えているのではないか。


ただ一人、宇宙に置かれたような心地。


なぜだろうか? 最近になって、何となく孤独感が増してきたみたいで、心細い。大げさにいうと、宇宙の中に自分がただよっているような感じ。決してそんなわけではないだろうが、何となく孤独感は否めない。

もしかしたら、もうじき自分自身が宇宙の中に還っていくのだろうか。つまり、死んで焼かれて、灰になってしまうことを暗示しているのかもしれない。

人間は死んだら脳も焼かれてしまうので、もはや思考することはできないという。そう言われてみると、そうかもしれない。しかし、私たちの考えている脳のほかにも知覚をする部分があったとしたら、どうであろうか。脳の機能が心臓にあると信じていた時代もあったのだから、さらに科学が進むと驚くことがわかるかもしれない。と、私(rik)は思う。


生水と生玄米と生野菜など。


高齢になると、自分自身の身体の健康に留意しなければならない。そこで、今までの食べものと生活習慣が少々問題になるので、決心して改める。

飲み物については、ペットボトルやコーヒー・お茶などを控えめにして、今後は生水にする。生水は、天然の地下水から農薬や化学薬品などをハーレーで濾過したものを用いる。外食のときは、天然水が95パーセント含まれているサントリーモルツの中瓶をなるべく利用してみよう。
食べものについては、腸内細菌に好ましい玄米、それもなるべく生で食べる。農薬の少ない玄米を仕入れ、コーヒーミルで一回ごとに挽く。それをゆっくりと味わって食べると、とてもおいしいし健康にも抜群。それに生野菜は、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』ように少々。

生活習慣については、晴れた日になるべく歩くようにする。私は、近場の多摩川沿いの散歩が大好きだ。


老いたらば、生玄米を食べて健康!


若いころは少々のムリをしても、何とかなった。しかし、老いてくるとムリが効かない。そこで、身体の調子に気をつけることが大切。とくに、食べものと生活習慣などには、細かい配慮をしなければならないと思う。

腸内の活性化のためには、玄米、それも生玄米がいいらしい。農薬の少ない玄米をコーヒーミルで挽いて、ゴマよりも小さい粒状にする。そして、それをそのまま食べる。すると、驚くほど大量の便が出て、身体の調子がよい。

私は牛乳を飲まないが、プレーンヨーグルトは食べる。なぜならば、菌が腸を活性化するから。蜂蜜やオリゴ糖などを混ぜて甘くしてもよいが、なるべく何も付けないで食べたほうがよい。カルシウムの補給には、小女子などもよいだろう。そして、夏みかんやレモン、キウイフルーツなどもデザートとしてとる。


ほんとうにあるのだろうか、平行宇宙。


いくつかの宇宙があって、私たちはそのすべてと繋がっているという考え方。日系アメリカ人の理論物理学者であるカク=ミチオ(加來紀雄)氏が言っているから、実際にあるのかもしれない。

そもそも、宇宙は『淮南子』(えなんじ)によれば、「宇」は天地四方を指し、「宙」は古往今来のこと。つまり、空間と時間の広がりを意味する。その意味では、いわゆる時空のことらしい。

ただ、凡人には平行宇宙のうちの一つだけしか意識できないというのでは、何ともわかりにくい。自分自身の意思があって、常に実際の身体という存在と関係している。その身体は、いくつもある次元の中の地球上のこの身体なのである。他の平行宇宙にもいくつかの身体があるのだが、それに関しては、ふつう意識をしていないという。私(rik)には、何ともわかりにくい論理である。


存在に気付かぬものやこともあり得る。


私たちが、その存在にまったく気付かないものや事がらも実際にはあり得るようだ。いわゆる常識とかけ離れた学問の分野などに多い。スティーブン=ホーキングの理論などは、そうかもしれない。

宇宙が11次元から構成されているとか、超ひも理論などもなかなか理解できないし、また天文学的な空間や時間のことは、考えても理解できない。つまり、自分自身が置かれている場所をかろうじて知っているに止まる。もっとも、それさえも危なげであるが、……

そして、生きている間のことをあれこれと詮索したり、思いわずらう。時間に対しては自分の一生の範囲でしか、考える対象にならない。死んだらどうなるのかなどは、まったく気にしていないのが普通。実際には、「気付かぬものやことがありうる」ということにも気付かぬ有様である。


「もうダメだ」などと思わず「まだまだいける」。


高齢になると、つい自信がなくなって「もうダメだ」などと諦めてしまいがち。しかし、それではいけない。自分自身で可能性を投げ出したことになるからだ。そんなときは、「まだまだいける」と考えたらよい。

意外にも、自己暗示は大切。自分で「ダメだ」と思ったらダメであるが、「まだまだ」と考えたら相当なことができる。前向きな姿勢と積極性が、大きく働くのであろう。

思いついたことを私(rik)は、何でもやってみる。とくに、それを指向するわけではないが、自分自身の可能性を調べてみたいからだ。そんなわけで、小説を書いたり、絵や動画を作ったり、作曲を試みたりした。プロの作品に比べると、恥ずかしい内容のものではあるが、自分自身にとってはそれなりの意味や価値があるのではないだろうか。


後継者、ない生業は空しいかぎり。


最初は、何人かのグループで始めた「健康・老化予防・安心立命」に関する研究会。しかし不幸が続いて、すでに私一人になってしまった。そんなわけで、ホームページも未完のまま。

そもそも「生業」(なりわい)とは「家業」とも書いて、生活を営むための仕事のこと。テレビなどで、古くからの職人が後継者がいなくて、廃業をする報道がしばしば。つまり、誰も引き継ぐ人がいないのである。

私の場合は、「なりわい」といっても「生業」や「家業」のことではない。「健康・老化予防・安心立命」に関する調査・研究である。最初は、マハトマ=ガンジーや西勝蔵氏のように健康法を現代社会に合わせて確立しようと考えたのであるが、やはりちょっと大きなテーマでありすぎたようだ。したがって、自分の力だけでは完成しないのではないか。仕方のないことである。


雨の日は、ひねもすYouTube(ようつべ)楽しみており。


雨が降ると、散歩に行けない。しかたがないので、部屋で何かをする。最近はパソコンを動かして、YouTube(ようつべ)を見る。そこは、宝庫と言ってよいほど、素晴らしい作品がある。

私(rik)も動画を投稿するが、むしろ他の人の作ったものを見て楽しむことが多い。もともと、「健康」「老化予防」「安心立命」などに関する動画を作成したり、すでにある動画を収集するためのシステムだった。つまり、ボケないためやアルツハイマー病防止のために、自分で小説を書いたり、絵を描いたり、音楽を 作曲したりして、脳を活性化して可能性を確かめる場所なのです。

そんな中で、皆さんの作品から新しい知識などを学ばせていただきましょう。そして、お互いに脳のフル回転を図ることによって、いつまでもしっかりと若々しくありたいのです。


おそらくは、アルミニウムが脳にダメージ?


ここのところ知人やその奥さんが、次々とアルツハイマー病になっている。高校のときに途中で退学した有名な俳優の奥さんも、もはやアウトみたいだ。

黒田洋一郎氏の書籍によると、アルミニウムが脳にダメージを与えるらしい。そんなわけで、私はアルミニウムには注意をしている。黒田氏も書いておられるが、「君子危うきに」の例えのように事前から心がけないと、医療行政に遅い日本の場合、自分や妻がなってしまってからでは何ともしがたい。

脳に損傷を与えて、破局をむかえるような重大な心配事に対しては、細心の注意が必要だと思う。そこで、アルミ鍋などを使わないようにしてきた。また、アルミ缶の飲み物も避けるようにしている。さらに、テフロン加工などがしてあるフライパンも、中がアルミでない鉄製のものに変えてしまった。杞憂であればよいのだが、……。


「理工式健康法」のあらましを知る。


私たちが健康であるためには「理工式健康法」のあらましを知って、日々実行することが必要です。その基本的な内容は、

(1) 深呼吸……朝夜に深呼吸をして、肺を清浄にする。
(2) 水と食べもの……原則として、水は地下水を濾過したもの。加熱・滅菌をしたペットボトルよりも生水が身体によい。食べものは、農薬・ポストハーベイなどが含まれていないもの。なるべく肉は食べず、ベジタリアンに近い食事。砂糖・ソース・マヨネーズ・トマトケチャップなどは使わないほうが無難。
(3) 川辺の散歩……上流から流れてきた水に冷やされた空気を吸う。
(4) 温熱療法……風呂やサウナで身体を温め、冷水と交互に用いる。これを何回か繰り返して、皮膚を日ごろから鍛える。
(5) ラップリン……身体の情報を脳に戻して、ホメオスタシスを効果的に行う。

などである。


Kuroda Kouta (2009.06.10/2009.06.10)