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  新句(十九音) 作品集22(2009年4月分)



ムダなこと、ムダな情報、あまりに多い。


自分自身のことはさておいて、インターネット上には、ムダなことが非常に多い。なぜならば、ムダな情報が氾濫しているからだ。もっとも、そのムダにたよってメールなどでいかがわしいビジネスをしている業者も多いみたい。そんなわけで、メールのウイルス・テーブルなどもどんどん大きくなっていく。

また、貴重なインターネット上に一般の人には不要な情報がはびこる。つまり、有毒ガスを社会に撒き散らすのと同じ。やがて、撒いた自分自身もアウトになって滅びてしまう。

少しずつムダな情報の被害をこうむって、私はつくづく思う。時間のロス、そしてシステムのロスなど何とかならないものであろうか。顔の互いに見えにくい情報化社会でも、モラルが必要なのではないか。


いろいろと工夫をしても、ムリとムダあり。


人生には、いろいろと工夫をしてみても、後で振り返ると多くのムリとムダがあるようだ。そのときは、何となくうまくやったつもりでも、かなり後悔をすることがあるからだ。

そもそも、それが人生なのかもしれない。
そして、恥や悔恨が残ってしまう。それならば、いっそ工夫などをせずに、なるがまま、なすがままに生きたほうがよいのかもしれない。

ホームページについても、同じことが言える。
一所懸命になって作ったホームページではあるが、いま考えるとムリとムダが、かなりあったみたい。そして、それどころか意味のないことが、あまりにも多すぎるので愕然。
何とかならないものか。


深入りをしてはいけない齢(よわい)になりぬ。


あれもやりたい、これもしたい、などと若いころは考えた。そして思いどおりに、何とか全部をやったもんだ。しかし、最近になって体力が続かない。すぐに、飽きてしまうのだ。だから、やってみると最初に考えたほどには、どうしても仕上がらない。つまり、思ったように完成しないのである。

しかし、考えてみると最初の「思い」がムリな要求であったことが多い。完成度や仕上がりに関して、欲が深いのかもしれない。思いと結果が異なると、かなりジレンマが残ってしまう。

古希に近くなると、もしかしたらすでに「深入りをしてはいけない齢」なのかもしれない。それは何となく、おのれの限界を知ってしまう年代だからかもしれないが、……。


ほどほどにすることがよく、こころ安(やす)らか。


若いころは「何事も完璧にしよう」などと考えて、努力をしたものだ。そして、そうならないときにはいつも葛藤を生じた。

考えてみれば、人間が万事を支配できるわけがないのである。したがって、思うようにはいかない。むしろ、そう思うとよいものができないのである。前にペルシャの絨毯(じゅうたん)には、一箇所の織りミスを残しておくという話を聞いたことがある。

人生も終盤戦になって、つくづく思うに完全な終末などできっこない。一箇所どころか、結果的にはミスのほうが多いみたいだ。そんな簡単なことが、若いころにはわかっていなかった。ほどほどにして、人生の終わりを向かえるほうが、こころが安らかであろう。


いろいろと問題もあり、病気の病気?


私(rik)がここで言う「病気の病気?」とは、「合併症」と「イルヘルス」のことである。医学的なことは知らないが、イルヘルスとは病気でも、そうかといって病気でもない状態。つまり、半病人である。最近になって、そんな状態の人が多いらしい。

また、最近になって気付いたことだが、「病気自体」も「別な病気」を次々と呼ぶらしい。つまり、悪い症状が増していく。単純な症状であったら誰でも同じであるが、合併症やイルヘルスの状態では、各人各様の複雑な病状になってしまう。いきおい、治りにくくなる。

骨折などの怪我や盲腸炎などの部分的な問題は、手術をすると問題なく治ることが多い。しかし、複雑化した合併症やイルヘルスの状態は、なかなか治りにくいので注意が必要。


ガン予防、認知症などならない方法。


ふとしたきっかけから、ガン、認知症、アルツハイマー、高血圧、糖尿病などにならない方法を知って、すこし前から始めた。その結果、高血圧はすでに快癒し、糖尿病が改善しかかっている。

ただし、ガンだけは他の病状と異なって、この方法では治療ができなく、予防だけのようである。日々行っているとガンにはならないが、いったんガンになってしまうと、人体の不思議で対抗性がなくなってしまう。つまり、ガンをその病人の体の定常状態とみなして、抗体ができないらしい。

だからガンに対しては、あくまでなる前に予防として行わなければならない。その他の認知症、アルツハイマー、高血圧、糖尿病などは、かなり症状が進んだ後でも、何とか快癒するみたいである。安全・衛生的で、あまり費用もかからず確実な方法だから、改めてレポートをする予定です。


人体のフィードバックは効果抜群。


まだ学生だったころ、音楽をハイヒディリティ(HiFi)で聞くために作った真空管アンプ。回路に、ネガティヴ フィードバック(NFB)というのがあった。それは、出力から入力に戻す回路。何のことはない、スピーカの前部から初段のグリッドに数メガバイト程度の抵抗を用いて、電流の一部を帰還するだけの単純な理論だ。

そんな方法で、アンプ自体の性能や安定性が大いに増加することがわかった。つまり、出力の一部を入力に戻すことによって、いろいろなメリットが生じるのである。何となくホメオスタシスと似ている。

どうやら人体にも、そのような機能があるらしい。
いまテスト中で、まだ詳しいことはわからないが、確実に効果がある。いずれも人体が健康になったり、病気の予防をしたりするのである。


はからいを捨て、恥を捨て、こころ安らか。


夏目漱石の『草枕』冒頭。
<山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。>

まったく、その通りだと私(rik)も考える。


政木氏の言う現象を垣間見て知る。


たまたま健康関係のホームページから入手をした政木和三氏の講演CDを繰り返し、何回も聞いた。前に三橋伝三郎さんから紹介いただいた政木氏の『この世に不可能はない』という本を読んで、まったく素晴らしい人と思っていたので、そのCDの内容についても大いに感激をした。

実は、私も政木氏の講演に述べられた経験をしたことがある。私には、あまり学問がないので、そのとき実際に自分がシータ波の状態にあったかどうかはわからない。それでも、何となく政木氏が言う脳波になって「一秒が300年くらいに相当する」という理論を脳に感じて体験をしたのであろう。

それは、入院をしていたときに時計の分針が実際に動いているように見えたこと。そして、ふと空間や時間などは絶対的なことではなく、概念や意識でしかないと、生まれて初めて感じたことである。


恍惚の人に、なりたくなくて対策。


何としてでも、恍惚の人には、なりたくない。ここのところ、度忘れやボケが始まったみたいなので、要注意。もっとも、自分がなったら、自分では症状がわからにらしい。つまり、回りの者から見ると行動が異常なのであって、本人はいたって真面目。だから、憤慨をしたり、怒ったりする。それが、また哀れなことである。

そこで、まだ正常なうちに、予防をしなければならない。かつての受験雑誌「傾向と対策」ではないが、傾向が見られたら、対策が必要なのである。そこで、対策をいろいろと考える。

すると、脳の活性化が予防対策としてよいことがわかる。
つまり、文章を書いたり、絵を描く、音楽を作ったりすることがよい。いずれも、優れたものを作らなくてもいい。それなら、私(rik)にもできる。


同じこと、異なる箇所に何回も書く?


まったく仕方のないことである。ふつう、一冊の本であれば、それは恥ずかしいこと。くどくどと煩わしいし、第一紙幅のムダ遣い。著者の能力を疑われてしまう。

しかし、ホームページではどうであろうか。大きくなると、どこに何が書いてあるかを作者自身が忘れてしまう。とくに、私のように記憶力があまりよくない場合には。

そこで、つい同じことを書く。もしも、読んでくださる人がいたら、書いている人の能力をさげすむであろう。でも、老化予防という目的を考えると、あながちムダとは思えない。なぜならば、度忘れやボケを防止する最適な方法でもあるから。もっとも、朝飯を食べたのを忘れて、もう一度食べようとする愚かさを考えると、それと似た心配なことでもある。


何ゆえにおそい来たるか? 身体(からだ)の不安。


ここのところ、あまり体調がよくない。そのためだろうか、身体(からだ)のあちこちに不具合と不安が生じる。

目が見えなくなっちゃうんじゃないだろうか?
歩けなくなるんじゃないだろうか?
痴呆症になりそうな気配があるんだが、……
などなど、心配すればキリがない。
若かったときには、そんなことを考えたことがなかった。
一昨年の入院・手術、その後かなり長期間の通院、そんなために自信がなくなってしまった。また、還暦をとっくに過ぎ、ぼつぼつ古希。

そんなことも含めて、加齢のためかとも考えざるをえない。
あなたは、いかがであろうか。


ふらふらとすることもあり、息苦しくて。


「ふらふらする」ということは、ふつう脳震盪の初期症状らしい。また、自律神経が失調しているときなども、そうなることが多いようだ。
「息苦しい」のは、おそらく心臓が弱っているためであろう。とくに、呼吸器系が故障したわけではないらしい。

そして、上の二つの症状が同時に起こるのは、珍しいのではないか。いずれにしても、身体が失調していることには変わりない。

もしかしたら、「息苦しさ」などは大いに精神的な症状かもしれない。何となく、健康に自信がなくなり始めたころから、歩いていて何かの拍子にふらふらとしたり、また息苦しくなるようなことが起こるようになった。
あるいは、加齢が原因かもしれないが、……。


身の回り、ぼつぼつ整理して、安らかに。


身の回りにゴタゴタと多くの物があると、気持ちが落ち着かない。物に支配をされてしまうからであろう。いろいろなものをため込んでも、いざというときに利用ができないことが多いようだ。

つまり、どちらかというと身の回りをすっきりとしておいたほうが、心が安らかなのではないか。あまりにも、たくさんものを持っていると、気が散ってしまうかもしれない。

そんな意味で、「吾ただ足るを知る」という振り出しに戻る。
それは、老子やマルクス=アウレリウスなどが、すでに言っていることではあるが、なぜか現代社会では実行する人が少ないようだ。
その結果、際限なく不安が増していくのである。
あなたは、いかがであろうか。


残された掩蔽壕と高射砲後。


関東村、つまり調布飛行場の中に今でも掩蔽壕(えんぺいごう)が残されている。戦時中にゼロ戦を隠して待機させたという。半円形のセメントで固めた臨時格納庫のような粗末なものだ。
また、三鷹市の大沢には高射砲を据えた小高い場所が残っている。もっとも、そこからでは上空を行くB29まで弾が届かなかったらしい。しかし、当時はそれなりに応急対策されたらしい。

三鷹や調布には、中島飛行機の工場があったので、とくに防備には重点が置かれた。しかし、いま思うと、当時のアメリカの戦力と比べて、まったく小規模なものであった。

そんな時期に、三鷹市深大寺から武蔵野市グリーンパークの工場まで、地下トンネルなども掘られたのではないか。また、そのころアメリカの本土上陸にそなえて、国民が竹槍を削っていたことなどを考えると、まったく哀れで滑稽でもあり、愚かでもあったのではないか。


作られたものに入るか、独存するか?


組織や制度などの作られたものの中に、どっぷりと漬かるか。あるいは、なるべく束縛を避けて個人として存在するか。唯我独尊などとは言えないが、自分自身を孤立化するのも一つの生き方。つまり、できるだけ社会性のない日々を送る。

むろん、電車に乗ったり、デパートで買い物をする。しかし、できるかぎり煩わしい人間関係を避ける。つまり、それが現代の出家的生活である。山奥にこもったりしなくてもよい。なぜならば現代社会は山奥でも、やはりわずらわしい問題があるからである。

そうすると、ホームレスの人たちの生活はどうであろうか。かなり昔の仙人や出家者と似た心境にある生活が行われているようだ。そんな意味で、私も気楽な生活がしたい。


何事も、飽きる結果にならないように!


最初は、何事も情熱をもって始める。習い事をはじめとして、ホームページやプログなどもそうだ。

しかし、現実の問題として、訪問者がほとんどいない。だから、つい面倒くさくなる。自分の頭の中にあることをわざわざ文章としてまとめるのが、……。見る人がいないのであれば、自分自身の記録であるから面倒な文章にしなくてもよいのではないか?

そんなことを、つい考えてしまう。
でも、「見てくれなくてもよい」「自分自身のために整理をする場」、そして「考える場」、それがホームページだと思えばよい。そんな意味で私の場合は、絶対に飽きてしまってはいけないのである。つまり、自分自身の生きている証明だからである。


ラップリンしてみて、尿の不思議さを知る。


もしかしたらラップリンは、私(rik)の造語かもしれない。
rapは、「舐める」。urineは、オシッコ。つまり、小匙三杯くらいのオシッコを舐めて味わうこと。しかし、舐めるのではなく、大量にdrink(飲む)してもかまわない。飲尿でなく、尿糖が出ている場合は、実際は甜尿(てんにょう)になる。「舐」は「シ」または「ジ」、「甜」は「テン」である。

ラップリンをすると、喉の奥にある器官が直ちにオシッコの成分を検知するそうだ。4000種類もの化学成分の識別をして、何が不足しているか、また何が過剰かなどを調べて、脳が即座に必要なフィードバックをするらしい。

そんなわけで、ラップリンをしている人は重病になったりすることもなく健康で一生を過ごせる。むろん、事故や怪我は避けられないが、ガンになったりすることはないという。


グーグルのアースひもとき、ひねもす過ごす。


世界的に、ここのところ大流行のグーグルである。
今までは検索などに利用していたが、きょうグーグルのアースを始めてみた。しかし、その操作法がなかなか理解できない。チョロメというバーが、アースのインストールとともに出たが、それも使い方がわからないという有様。

また、先日からグーグルのソフト「YouTube」を始めたが、それもまだ全体がつかめないままである。どうも、全体の仕組みが複雑で、使いこなすためには、私の理解の範囲をかなり超えている知識が必要なようだ。

グーグルは話題になるように、非常に高度な技術をもっている。
しかし、その利用者には私のような魯鈍な人間や経験の少ない人もずいぶん多いだろう。もうすこし、わかりやすい使い方にして欲しいものだ。


新しいものは不要の齢(よわい)となりぬ。


若いころは、欲しいものばかり。何にでも興味があって、欲望がとても強かったみたい。しかし、古希にもなろうという時期になると、だいぶ違ってくる。たいがいのことは、手に負えないのである。

それは、気力が減少したかもしれないが、新しいものに対する興味が失われたためかもしれない。つまり、自分自身にとって新しいものとは何か?

いつしか、そんなことを考えるようになったためであろう。新しいと言っても、天下がひっくり返るようなことは少ない。多少の目移りの程度では、動じなくなったのである。
そんなわけで、あまり新しいものを欲しいとは思わない。それよりも、心の平安が強く望まれるのである。


ようつべの動画は、すべて玉石混交。


通称ようつべ、つまり「YouTube」を見る。すると、何万ヒットとうような動画がある。タイトルから興味をもって見ると、私(rik)にとっては、まったくつまらないものであったりする。

つまり、その内容は動画のヒット数には関係がなく、したがってヒット数が目安にならないときもある。そんなことが、最近になってわかってきた。

すばらしい動画もある中で、あまり意味のないものを見ないようにするには、どうしたらよいか。私は、最初の部分を見て、全体を判断するようにしている。30秒ほど見ると、全体を見るかどうかが何となくわかる。玉でなく石の場合は、停止をして次の動画を見る。そんなためにクイックリストを用いると便利である。しかし、途中でやめてもヒット数は上がるようだ。


老いたらば、一人で遊ぶことが大切。


元来、ヒトの遺伝子は利己的に作られいるらしい。生存競争するためには、当然のことかもしれない。そんなわけで、ちょっと利害関係が異なると、もうダメ。情けない次第。よほど人間的に修養をした人でも、うまくいかないらしい。例えば、宗教の教祖や指導者でも、敵対した相手を皆殺しにしようとする。

旧約聖書の神が、同じ神であるのに「バールの神」を目の敵にするのを考えたらわかる。その下では、ユダヤ人が「ペリシテ人」に敵対した。また、新約聖書でも神の子が「パリサイ人」を嫌ったのは福音書の記述通り。さらに近年にまで引き続き、イスラエルが「パレスチナ」に敵対している。まさしく、サムソンとデリラの構図。

宗教の中でさえ、そのような次第。日本でも、似たような様子。自分自身で一つの宗教空間、つまり知的空間をもつほうが早いかも。


「タンブラン」を探しながら、ラモーの曲聞く。


何となく老人の懐古趣味みたいだけど、繰言でないだけまし。それは、私が中学校のときに聞いたラモーの「タンブラン」という曲。最初の四小節ほど楽譜が音楽の教科書に載っていて、それを保田先生が弾いてくれた。何となく「黄金虫は金持ちだ」に似ていると思ったことをふと思い出したのである。

そんなことで、さっそく「YouTube」で調べてみた。すると、「タンブラン」という動画はない。仕方がないので、下にある「Googleで「タンブラン」を検索する」というところを見る。すると、該当する本があった。そして、「クラブサン名曲集第二組曲」というところに試聴があって、最初から30秒だけ聞けた。

結局、ラモーの再生リストなどもあったが、「タンブラン」という曲は「YouTube」にはなかった。どうも「YouTube」の仕組みが、まだわからない。


老いてきて、いつしか病膏肓に入る。


いつの間にか、重度の糖尿病になってしまった。そして、いかにしても血糖値が下がらない。もしかしたら、すでにインシュリンが出なくなってしまったのではないか。

病膏肓(やまいこうこう)とは、病が膏肓(こうこう)にまで進んでしまったこと。膏肓は、間違って「こうもう」とも読まれ、横隔膜の後ろあたりらしい。そして、病気がそこまで進むと、もはや治療が不可能で、アウト寸前という。

いずれにしても病膏肓と言えば、末期症状とも言えるだろう。身体のホメオスタシスが効かなくなって、なかなか治らない。それどころか、ますます症状が悪化していく。つまり、死ぬのを待っているような状態ともいえる。まったく、困ったことである。


わからないことだからこそ、死は不安なり。


私(rik)は、まだ死んだことがないから、死んだらどうなるかわからない。したがって、不安である。しかし、何となく知らない土地に行くようなものと考えてもよいのではないか。そんな経験は、何回かある。最初は不安だったが、すぐ新しい土地に慣れてしまう。

ソクラテスの場合、体験をしたことがないと断って、もしかしたら素晴らしいところかもしれないとプラトンの言葉で書かれている。また、荘子の中には、髑髏に生き返らせてやると言ったら、死んで安らかに眠っているのに起こさないでくれと言って怒った話がある。

いったい、どうなんであろうか。
生きている間に、死んだ状態を考えても致し方ない。しかし、そうは言っても安心立命のためには、覚悟をしておく必要がありそうである。


一遍はいばりを配り、病を治す。


鎌倉時代の時宗の開祖、一遍上人はオシッコ、つまり尿(いばり)を万病に効くと言って、竹筒に入れて民衆に配ったという。飢饉などの多かった時代であったから、それ相応の効果があったのであろう。その竹筒を押し頂いている人たちの絵が残っている。

オシッコには身体の情報が含まれていて、それを喉の奥にあるセンサー器官が検知するらしい。そして身体にフィードバックすることによって、ホメオスタシスがはたらく。つまり、発病を未然に防ぐわけである。

府中に、時宗の称名寺という寺がある。そして、そこの境内に一遍上人の立像が祀られている。私は、いつもその横で休むのであるが、痩せて背の高い像を仰ぎ見る。等身大に作られたのであろうが、高い場所に立っていて、さらに背が高いので大きく見える。親しみやすいが、厳かな感じのする僧だ。


願わくばコロリ往生、涼しい季節。


何とも、しまりのない句である。意味は「できたらコロリ往生がしたい、涼しい季節に」というのだ。西行の桜花の短歌などと比べると、だいぶお粗末なことがわかる。作品として、劣っているのである。

しかし、気持ちとしては明らかではないか。よいよいになって、長い間の病人生活などはしないで、涼しい季節にポッコリ死にたい。なぜならば、暑い時期だと一人暮らしのときは、発見をされないままに腐ってしまうからである。

現代社会は化学薬品症候群などが原因で、コロリ往生ができにくい。ひどいのは食べた薬品によって、自分自身の身体が腐敗することなくミイラ化をして発見されたりする。私は、なるべく食べものに薬品が入っていないものを利用するが、それでもコロリ往生ができるかどうか心配である。


晴れた日は、森林浴に行くこと多し。


森林浴は、健康によいという。薬(くすり)の多くは、植物から合成されていることや、酸素の濃度などもその理由かもしれない。そんなわけで、木々の多いところへ行く。

また、森林の他にも川の流れなども健康によいらしい。私は、木々の間や川の畔(ほとり)で、いつも深呼吸をする。とても気持ちがよく、何となく身体が浄化される感じだ。

しかし、森林といっても多摩地区の範囲。多摩市内やせいぜい高尾まで。多摩にも、桜ヶ丘公園に隣接して、林野庁の試験林がある。野草なども生えていて、まったくのどかな場所である。河川は多摩川の流れを眺める。河川敷で石を拾うこともあるが、つげ義春氏が書いているように、あまり形のよいものはない。それでも、気持ちの和む場所である。


あまりにも複雑なこと、理解できない。


考えれば考えるほど、わからなくなることが多い。例えば、技術的に複雑な関係にあることは、考えても理解できないことがある。自分の知識の範囲を超えているからだ。

周知の事実であっても、疑いだすとキリのないこともある。かつての大本営発表なども、いま考えてみると、かなり曖昧な情報だったことがわかる。しかし、当時はそれが国民の間で、事実として受け入れられた。それに反駁することができなかったという事情もあるだろう。

世界的に報道された内容なども、疑いだせばキリのないことがある。地動説のように長い間、常識として信じられていたこともある。最先端の技術である月面着陸なども、いかがなものであろうか。そうなると、ちょっと信仰にも似ているのではないか。


何となく、「無意味の意味」を考えており。


『一言放談』(いちごんほうだん)に、

<明禅法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどの事は、大抵(おおむね)せぬがよきなり。>

<又云、いたづらにねぶりゐたるは、させる徳はなけれども、失がなきなり。>

とあった。
前の文は、「するかしないかを迷って考えていることは、たいがいするのをやめたほうがよいのです」。また後の文は、「何も考えないで眠っているのは、これといった徳もつんでいないが、そうかといって悪いところもありません」。なるほど、そのように私(rik)も思う。


Kuroda Kouta (2009.05.01/2009.05.01)