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  新句(十九音) 作品集21(2009年3月分)



目と足が悪くなるかと、いつも心配。


ここのところ、目と足の具合がよくない。
目は、読書やパソコンの作業が長引くと、視界にキラキラと光が入ってしまうことがある。おそらく、網膜を酷使して目が疲れているのだろう。単なる眼精疲労ならよいが、もしかしたら網膜剥離の前兆かもしれない。

足は、膝痛である。歩いているときは、問題がない。しかし、階段を下るときに膝に痛みが走る。体重が重いので、膝の関節にムリが生じるようである。膝の水を抜けば治るかもしれないが、整形外科に行くのが恐ろしいので、何もしないまま。

目が見えなくなって、さらに歩けなくなったら、不自由極まりないだろう。何とかして、そうならないようにしたいものだ。


ヒッチコック、ペリーメイソン、いずれもデブだ!


デブは、性格がおおらかで繊細なことはできないなどと言う。しかし、実際にそうだろうか。ヒッチコックは、決して痩せているとは言えないだろう。また、ペリーメイソンは実在した人かどうか知らないが、デブというか大柄な男だ。

創作中の人物か実在した人かを考えないとして、チャーチルやニール=ドルフ(ネロ=ウルフ)なども、決して痩せているとは言えないのではないか。

私は、むしろ太った大男のような人物のほうが、戦略や推理・思考が優れているのではないかと思う。なぜならば、巨人伝説の流れを汲む系統にあるからである。
そして、かつては大きな男が世界を支配していたのではないかと思う。その思想の片鱗が残っているので、それを忌むためにデブはダメだと言うようになったような気がしないでもない。


吉野家で豚丼食べて、ミスドでカフェオレ。


ここのところ、あまり外食をしなくなった。
それでも作るのが面倒くさく、妻と一緒に外で食べることもしばしば。
例えば、吉野家では各々豚丼とビール中瓶。それでは、ちょっと物足りない。そこで、ミスタードーナツに行ってドーナット二つ、それにカフェオレ二杯。妻も、同じく。

すると、それでもう満腹。至福の至りである。
まったく安いものだ。

考えてみれば肉が食べれて、さらに甘いものが食べれるのは、現代の流通のお陰。しかし、結果的には何となく「化学薬品」や「毒物」などが体内に蓄積していくような心配もある。
もしかしたら、その「至福の至り」の中にも何かがひそんでいるのかもしれない。「化学薬品症候群」も、要注意!


何となく自信もないが、それでも作る。


あまり創作に関して欲があるほうではないが、それでも日々の「生きている証明」として、自分自身のために作る。
実際に、この新句(十九音)もそうだ。

意味がないと言ってしまえば、それまで。
意味があるとかないというのは、相対的なこと。誰かが誰かに対して、言うべきことではないだろう。
また、自信があるとかないというのも自分自身のこと。
それを「自信がある」などというのは、不遜の至りだとも思う。

私は、ここのところ「自信満々の人」を見ても、何となく愚かさを感じるようになった。なぜだろうか。


キリのないことは、なるべくやめたくもあり。


人生の持ち時間が、かなり少なくなってきた。
若いころには、考えてもいなかった古希。まったく、老いさらばえたものだと我ながら思う。何とか日々過ごしてはいるが、気力が薄らいでしまったみたい。そんなわけで、ねばりが効かない。

いきおい、ホームページなども中途半端のまま。かつて図書の執筆のときにやったように、校正の作業をしなければならないことはわかる。しかし、担当の編集者がいないので、つい作業を億劫と考えて先延ばし。

そんなわけで、途中で放り投げてしまったページが多い。
また、訪問者が少なく、あまり見られていないホームページなので、自分でわかればそれでよいと考えて、内容を細かにアップデートしない。つまりキリがないことは、なるべくやめたくなってしまったんだ。


度忘れとボケが始まり、薬を試す。


還暦を過ぎたころから、何となく度忘れとボケが始まったようだ。
人名や場所の名前などを失念する。誰かと話をしていても、出てこない。したがって、話題が進まない。
思い出そうとすると、頭が痛くなってくる。
しかし後になって、ふと思い出す。もっとも、そのこと自体を忘れてしまうこともあるが、……

加齢によって生じる現象だから、仕方のないことかもしれない。
しかし、高齢でも細かいことまでしっかりと覚えている人もいる。そのような人と忘れっぽい人は、どう違うのだろうか。

恍惚の人や認知症になってはいけないので、この辺でARA(アラキドン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)を含んでいる薬なども確かめてみたいと思う。


もしかしてボケるか狂う? そんな気もする。


ここのところ、度忘れや失念が多い。だから、認知症になるのじゃないかという心配があることは事実。
また、過去のことや将来のことを考えると、なぜか大声を出したくなるときがある。いたたまれなくなってくるからだ。そして、そんなことが続くと、もしかしたらバカになったり、発狂をしてしまうんじゃないか。

恐ろしいのはボケても狂っても、もはや自分自身でコントロールができないこと。「恍惚の人」は、その状態が本人にはわからないらしい。
また、最近はブツブツひとり言をしていて、突然に大声を出す人がいる。回りのものは、びっくりしてしまう。しかし、本人は一向に平気な顔。

そんなボケたり狂ったりするケースには、何としてでもなりたくないものだ。


複雑なことに、対応できないらしい。


体調がよくないので、どこへ行ったらよいかを尋ねるために、保健所へ行ってみた。つまり、どこの病院の何科に行けばよいかである。大きな病院に行って、受付のところにいる婦長さんのような人に相談をすると、その病院の患者になってしまうので、もっと広い視野で教えてくれる人が必要であるからだ。

私(rik)の場合は、体内に常駐をしてしまったパラサイトの問題である。つまり、クリプトコッカスとか緑膿菌とか歯周菌などが血液に入っているかどうかの検査をする機関を知りたいのである。

保健所では、前にエイズと肝炎の検査をしてもらったことがある。だから、その他の菌についても検査ができる機関を知りたいのであるが、回答が返ってこない。つまり、症状が出て完全な病人になるまで待てといった按配である。


体調のよくない日には、まどろみており。


最近になって、何となく体調が優れない日々がある。とくに病気ではないが、気力がない。そんなときは仕方がないので、布団を敷いて横になっている。体力を取り戻すためだ。すると少しの間、うとうととする。そして、いろいろな想念が脳裏をよぎる。支離滅裂なことや、奇想天外の内容がある。

体調がよくないときは、もしかしたら理屈の通らない不条理なことを考えるのかもしれない。不愉快な思い出や失敗の記憶が、次々と思い出される。

まどろんでいるというよりも、そのまま深い眠りに落ち込むこともある。そのようなときは、目覚めると体調が元に戻っていることが多い。もしかしたら、日常の睡眠不足が体調に影響していたのかもしれない。日々、コンフォタブルでありたいものだ。


コマーシャル、その都度チャネル切り替えて見る。


有料の放送にも、コマーシャルが入る。新番組の案内が多いが、商品のPRなどもしばしば。番組が一区切りして、次の番組との空き時間に入るものが多いが、途中にあつかましくも入ってくるドラマなどもある。

3分くらいではあるが、そこでストーリや思考が途絶えてしまう。仕方がないので、私は別の番組に切り替える。ふつう「CATV」を見ているので、「前選局」ボタンを使って切り替える方法と「地上」「BS」スイッチを用いる方法がある。いずれもワンタッチでできるようにセットしておく。私の2チャンネルである。

つまり、いま見ている番組と次に見たい番組を決めておいて交互に見るわけである。しかし、いったん別の番組に行ったら、それを見ることにして前の番組にはふたたび戻らないことも多い。
そんな見方をするのも、やってみるとなかなか面白い。


ことさらに、なすべきことをしないも一理。


あれもしなければならない、これもする必要がある。そんな脅迫概念は、健康にもよろしくない。いっそ思い切って、そのようなことをしないのも一つの理屈。なぜならば、エスカレートしてキリがないからである。
『徒然草』に、

<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>(第七十五段)

<改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。>(第百二十七段)

というくだりがある。
私も、「なるほど」とか「さもありなん」と思う。


あきらめる他(ほか)にないのか? 機能の失調。


ここのところ、身体のいろいろな機能が、かなり失調してきたようだ。
例えば、目が悪くなった。また、歯も悪い。むろん、魔羅(まら)はとっくの昔。

目は、やがて失明するかもしれないという。
歯は、隔週に歯医者に行かねばならない。
魔羅は、さんざんの状態。今現在ですでに、rikの「クラミジアなどを排除する血液浄化法」のような苦肉の次第。

なお、魔羅は摩羅とも書いて、梵語の「mra」の音写という。障害・破壊・殺し屋の意味。仏語では、「人の善事を妨げる悪神・魔王・欲界第六天の王」を言う。さらに転じて、「悟りの妨げとなる煩悩」や単に「魔」の意味。
さらにさらに、排泄する意の「まる」の交替形でオチンコ(陰茎)を言うようになったらしい。為念。


後悔の思い出ばかり、蘇(よみが)えり来る。


なぜであろうか。ここのところ、恥ずかしい思い出や後悔の記憶ばかりが、次々とあらわれて苛(さいな)んでくる。ときには、怒涛のように次々と思い出されて、何とも苦しい。おそらく、人生をムダに過ごした自責の念とでもいうのだろうか。
そもそも、人生には楽しいことが少ないのではないか。人によって、かなり違っているかもしれないが、……

晩年のゲーテが、エッケルマンに語った言葉。(ではなかったと、私は思う。間違っていたらご免なさい。)

<人生で楽しかったことは、時間にすれば二・三日もない>

ゲーテほどの秀才がである。二十三日ではない。二日か三日ほどだ。


慢性の疲労感あり、風の強き日。


風が強いと身体が飛ばされそうな感じがする。今までは、そんなことはなかったが、ふらふらするのである。おそらく、体重が軽くなったことなどが、関係するのかもしれない。少々の風で飛ばされることなどないはずであるが、感覚がそのように働く。

おそらく、慢性の疲労感があったりして、身体が不調になっているのであろう。それでは、なぜ慢性の疲労感などがあるのか。

疲労困憊(ひろうこんぱい)からきたのだと思うが、疲憊(ひばい)という状態がある。いろいろなことが原因するが、私の場合は睡眠不足が原因ではないだろうか。つまり、熟睡ができないために疲れが出る。そしてそれが、次第に蓄積していくのだろう。
日中でも、うつらうつらしてしまうのである。


飲んだ水、どのようにして身体を出るか?


私たちが「水を飲む」という大切なことについて、ここに確認しておこう。
むろん、身体によい水を飲まなければならない。私は、地下水から塩素や化学物質を濾過したものを日常的に飲用する。濾過は、ハーレーを利用。

身体には、すでに多量の水が存在しているが、今飲んだ水は1分以内に「脳組織」と「生殖器」に到達。水を運ぶ「血液」には30秒後。それから「皮膚組織」には10分後、「肝臓などの臓器」には10〜20分後に到達するという。

その反面、飲んだ水が身体から排泄されるまでの時間はどうだろうか?
何と消失するのに約1ヵ月もかかる。つまり、細胞組織に入り込んだ水が、完全に新しい水と入れ替わるのに 1ヶ月も要する。したがって、良い水を飲み始めても、1ヶ月くらい過ぎないと体調が良くならない。
吸収は1〜20分で速いが、オシッコとして排泄されるのは1ヶ月後であることを認識しておかなければならない。


間違った「水に関する世間の常識」?


人類が過去に飲用した水は、おそらく湧水や地下水、清潔な川の水など自然水だった。清涼飲料水などのペットボトル、つまり科学飲料などは、せいぜいここ五十年。数万年も飲み続けた自然水と比べると、あまり期待はできない。古くから飲用した質のよい水を飲むほうが、むろん健康に望ましいだろう。

水道水自体についても、注意が必要。
例えば、国が発表した統計データには、水質の良い長野県と水質の悪い大阪府の平均寿命の差が、男性で4年。東京も、あまり水質がよくないらしい。

健康に良い水であれば、体内脂肪を分解代謝するので、皮下脂肪が少なくなる。そして、老化がゆるやかになるので、いつまでも若い状態でいれる。
とくに妊娠をした母親は、胎児のために水については注意をしなければならない。


「年寄りの冷や水」などと、昔から言う。


「年寄りの冷や水」という言葉がある。
実際には、老人が冷たい水を飲むのではなく、体に冷水を浴びるのである。そして、そのような年寄りに不相応な行為を戒めた言葉。つまり、老人が無茶な振る舞いをするのを、警告したり冷やかしたりしていう。しかし、大量の冷たい水を飲むことと考えてもよいだろう。

個人差はあるが、水を大量に飲むのは健康によい場合が多い。砂糖・塩・炭酸などを含むペットボトルではなく、酸素やミネラルを含んだ自然水がよい。お茶・コーヒー・湯冷ましなどは、滅菌にはよいが生水ではない。水の温度は、あまり冷たくなく、室温くらいがよいだろう。氷を入れるとおいしいが、体温で飲むのが健康にはよいらしい。

自分自身の「水飲み健康法」を確立していきたい。


右顧左眄することなしに、すでに数年。


仕事を辞めてから、しばらくは健康のサークルを主催した。しかし、そのサークルも計画をしたような効果がなかったので、休眠をしてしまった。そんなわけで、あまり人付き合いがなくなってから、すでに数年が経つ。

会社にいたころは、実に大変だった。意見が分かれるので、互いにストレスが大きく、一つのことを進めるのにも細心の注意が必要。右顧左眄をしなければ、喧嘩や争いになってしまう。

しかし、このごろは人付き合いが少ない。したがって、意見を言い合って調整することなどは少ない。せいぜい物を買うときに、自分自身で価格について考えるくらいである。そんなわけで、ストレスの生じない日々が続いているのであるが、ちょっと不思議なこともある。
気のせいか、誰かに見られているような気配を感じるのだが、……


かろうじて指の三日月、現われており。


手の指の爪に、白い三日月があると健康であるという。おそらく、爪の成長が形になって現われているのかもしれない。しかし個人差もあるから、三日月がなくても健康な人もいるでしょう。

とにかく、カルシウムを取らなければいけないんじゃないかと思う。それも、かなり大量に。なぜならば、カルシウムは体内に摂取しにくい成分だから。とくに高齢になると、食べてもなかなか消化されないらしい。

そこで、私は月に二・三回ピザの大食いをする。妻と一緒のときは、ピッチャー1800cc(生ビール1700円分)も平らげる。そんな習慣を続けているうちにカルシウムの補給よりも、ピッチャーの誘惑に引かれるようになってしまったみたい。
いずれにしても、指の三日月は何とか残っている。


メラメラと闘志のごとく、闘病心湧く。


闘志というと大げさかもしれない。とにかく、自分自身の病気を治してみようという心がけ。長期間でなった病気には、やはり長い時間をかけないと治らないと思うからだ。

その病気は、糖尿病とガン。
糖尿病は、インスリンが少なくなったために尿に糖が残ってしまう。食後二時間を過ぎても、500mg/dlもある。まず、これを六ヶ月くらいで治してしまおう。そして、その次はガン。まだ発病はしていないが、今までの生活を考えると、いずれ遅かれ早かれくるに違いない。

そんなわけで、いずれの病気も食事と運動によって治療・予防をしよう。なるべく化学薬品を摂取しないようにして菜食中心、よい水を多量に飲む。糖尿は「尿に糖が出るほど」、ガンは「癌」と書いて「品物が山ほどある病」だから、ともに生活習慣を改善すれば、今からでも何とかなると思う。


プチさんのコースは、いつもほぼ同じ道。


最近になって、プチさん(プティ散策)はあまり遠くへ行かず、近場のコースを歩くようになった。だいたい次のとおり。

(1) 鯉のマンホールを二つ見る
(2) 灌漑用水だった小さい川
(3) 関戸四丁目町界町名地番整理記念碑(昭和六十二年四月一日)
(4) 清水堀緑地
(5) 都市開発記念碑
(6) 九頭龍神社を参拝
(7) 九頭龍公園の小山へ登る

九頭龍公園から川崎街道を超えて多摩川まで出るのがふつうだが、古茂川公園の横の道を斜めに通って駅デパートに行き、買い物をして多摩川堤防をやめてしまうことも多くなった。


ごちゃごちゃと書いたページは読むのしんどい。


このプログもそうであるが、何となく意味のないページが見受けられる。いつも、いくつかのプログを次々と見ているが、小さい文字でびっしりと書いてあるものもある。

このプロバイダだけでも、1分間に100くらいアップロードされる。おそらく全国で書かれるページは、膨大な量であろう。

中には、まったく自分自身しかわからないような記事もある。最初から、読まれることを考えてないようだ。
どちらかと言うと、私もそうであるが、それでもせめて文字を大きくして10行くらいで済ましたいものだ。


何故か? 最初のころの気力なくなる。


最近になって、どうしたことだろうか。
ホームページの作成やプログの記述に関して、ちょっと気力がなくなってしまったみたい。何となく情熱が薄れて、億劫なのである。つまり、面倒くさくなってしまったのだ。もしかしたら、歳や健康のせいかもしれない。

「生前の空間」と「死後の世界」についても、タイトルだけをインプットしたところで、ちょっと挫折。原稿やメモは、テキスト形式ですでにあるのだか、それらをまとめる気力がない。

なぜだろうか。
もしかしたら、あまり意味のないことと考えたかもしれない。
それでも、自分自身が死ぬときに必要なのであるから、少しずつでも何とかして仕上げていきたいと思う。


ほどほどにすること覚え、こころ和みぬ。


若いころは、何事も徹底してやったもんだ。そのために、面倒な反復や努力を惜しまなかった。しかし、老いてくると体力や気力がない。そして、集中力を長続きさせることができなくなる。

そんなわけで、ほどほどにすることを覚える。全力投球ができない、情けのない状態である。しかし、そうすることによってこころが安らかになり、気持ちが和むことは事実。
つまり、自分の限界を見極めたいいかげんな妥協をしたことになる。そうすることは、すでに可能性にチャレンジするファイトがなくなってしまったので、いたしかたないことかもしれない。

いつまでも、若々しくありたいものだ。


どのような人もよいこと、一つは残す。


どんな悪人であっても、生涯にいくつか善行をしているらしい。
芥川龍之介のかんだたやペテロの母親でさえ、生前によいことをしたという。むろん、ヒトラーや東条英機も、多くの善行を残しているだろう。フォルクスワーゲンなどが、いまだに走っているところを見ると、何とも素晴らしいではないか。また、大東亜共栄圏の発想自体は、いかがなものであろうか。

しかし、十王たちは人間のやったことの善行と悪事をプラスマイナス清算をして評価をするという。したがって、あまりよいこともせず、そうかと言って悪いこともしなかった人は、相殺されても目立たない。

そして、そんな結果になる人生が「可もなく不可もなし」というのであろう。それなりに、やはり素晴らしいことではないか。


ことごとく中途半端で終える怠慢。


若いときのような情熱が、すでになくなってしまったのだろうか。
やってみて何となく傾向がわかると、ついそれで終えてしまう。怠慢というか、不真面目のそしりを免れないであろう。

本当は、もっとがんばって完成度の高いものにしなければならない。しかし、持ち時間がもはや多くないので、つい手抜きの状態になる。
つまり、傾向がわかっても対策がないのである。

かつて、受験のための雑誌に『傾向と対策』というのがあった。
本来は、「傾向」がわかれば「対策」が容易になって、万全である。まず、傾向を知るということが、万事に大切な所以(ゆえん)。

そんなことがわかっていても、傾向がわかってしまうと興味が薄れてしまうのは、もしかしたら加齢によるものなのだろうか。


現実は夢か幻(まぼろし)、欺かれおり。


私たちの日々は、「喜怒哀楽」、「四苦八苦」などの連続。
しかし、『般若心経』ではないが、すべてが実際は「空」なのである。つまり、日々の現実と考えている現象は、脳のもたらす幻影という。とっぴであるが、そのように考える理論があるらしい。

私たちは、自分自身がいわゆる平均と思っていることに誤謬があるのではないか。まず、その大きさである。

むろん、細菌に比べると大きい。しかし、宇宙の大きさと比べると微塵以下。したがって、現実と言っても空間と時間の中で意識をする瞬間なのであって、『般若心経』の考えから言ってしまえば、すべて「空」であって、仮の姿でしかない。言ってしまえば、脳が欺かれているのである。そんなふに、ふと考え始めたのである。


書き足していく楽しみも、プチさん(プティ散策)にあり。


計画をしても、いっぺんには回れない。途中で疲れてしまったり、空模様がおかしくなったり、そんなことがかなりある。もっとも、逆に調子がよくて考えたよりも多くの場所に行くことも、あることはあるが。

あまりムリをしないために途中でやめても、残したところは次の楽しみにするとよいだろう。若いころならともかく、老いてくるとムリをしないほうがよい。強行軍をすると、後で体調がおかしくなってしまうことが多いからだ。

そんなことで、レポートは行ったところだけでいったん終える。しかし、次回に行ったときに、そこに書き足していけばよいのである。そんなことにも、いわば文章を成長させるというような楽しみがある。それはあたかも、盆栽を育てるようなものであろう。


のろのろとしか、動けない老いたる身体(からだ)。


若いときは身体が軽く、いつも軽快、そして颯爽としていた。
しかし、還暦を過ぎてから次第に身が重くなった感じ。私は、むろん妊娠の経験などないが、何だか自分の中に何かが入っているみたい。

なぜならば、何となく身体が重く感じて、何かをするとすぐに疲れてしまう。疲れやすくなったばかりでなく、飽きやすくもなったみたい。おそらく、新陳代謝が悪くなったのだろう。もしかしたら、身体の中に老廃物が蓄積しているのかもしれない。

そこで、身体のクリーンアップをするための若返る方法を模索している。
ローマ法王の一人は、70歳の誕生日に若い信者数人が血液を差し上げた。しかし、輸血をして数時間後に法王は天国に召されてしまった。
と、いうような話を読んだことがある。


オシッコを飲むか、飲まぬか悩み続ける。


「飲尿療法」というのがあるそうです。
つまり、オシッコの中にある成分を自分自身の身体にフィードバックすることによって、ホメオスタシスを改善して、本来の健康になるのです。しかし、そうは言ってもオシッコを飲むのには躊躇します。なぜならば、オシッコは一種の老廃物だからです。

ウンコと違ってオシッコは、腎臓で濾過された液体ですから、出たときはふつう無菌状態で清潔です。砂漠の地域では、日常的にラクダのオシッコで顔を洗ったりするそうです。また、遭難者が水がないためにオシッコを飲んで生き延びたというケースも、今までに多く報告されました。

本当は、酒やワイン、さらに糠味噌(ぬかみそ)など微生物のウンコ部分まで食べることを考えたら、自分自身のオシッコなどは何でもないことかもしれません。あくまで、習慣的なことだからです。


本能のままに、いきおい意味のないこと!


旧約の『伝道の書』ではないが、人の一生にはムダとムリとムラの多いもののようだ。そこにはソロモンが人生を後悔したような形式で書かれているが、むろん誰が書いたものでもよろしい。何回読んでも、よく言い当てていると、私は思う。

例えば、最後のほうに「本を書いてもキリがない」というような警告がある。本ではないが、金を貯めても、名誉・賞賛を求めても、また趣味で何かを集めても、『伝道の書』の論理で言うと意味がない。だって、栄華を極めたソロモン王でさえそうだったからだ。

ホームページなども、同じことだろう。いくら大きくしても、訪問者があっても、仕方のないことである。もしかしたら、本能のままに意味のないことを繰り返しているのかもしれない。


Kuroda Kouta (2009.04.16/2009.04.16)