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  新句(十九音) 作品集(2012年9月分)



死は捨てて無になることで、「気」のみが残る。


最近になって、何となく考えることがある。それは、「死」についてである。「死」という現象は、すべてを「捨てて」、「無」になることではないか。そのような教えを私は「システム教」と呼んでいるのだが、……

しかし、最近になって「気」が残るのではないかと考えるようになった。「気」というのは、思いのことである。昔から「霊魂」とか「魂」と言われてきたものであろう。さらに「魂魄」などと言われることもある。

いずれにしても、「死」がすべての終わりではない。むしろ、次の「生」の始まりではないかと思うようになったのである。


病気でも、何とか無事に過ごす方法。


いつごろからか、慢性の糖尿病になってしまった。しかし、まだ失明・壊疽・透析にはなっていない。何とかして、そのようにならないよう注意をしている。

主に水・食べ物、そして生活習慣である。水は、濾過してから飲む。食べ物は、化学薬品の入っていないもの。そして、生活習慣としてはこまめに動くことである。とくに、決まった運動などはしていない。

外出をするときは、氷を入れた水筒をもっていく。また、外食は化学薬品などの入っていない食材を使っていると思われるところでする。


現代のドン=キホーテ症候群、意外に多い。


ドン=キホーテ(Don Quijote)は、スペインの小説家セルバンテスの代表作で、正式には「才智あふるる郷士ドン=キホーテ=デ・ラ・マンチャ」。第一部が1605年、第二部が1615年に出版された。

物語はラ・マンチャに住む老いた郷士が、騎士道物語を日夜読みふけったために自分が騎士となった錯覚をして、世の中の不正を正そうと考え、風車を悪魔と勘違いして突撃をしたり、悲喜劇的な事件を引き起こしてしまう。

現代でも一般常識のある人が、「被害妄想」「ごみ屋敷」「引きこもり」などのように一箇所の常識がおかしくなってしまって、世を騒がせたり、驚かす事件を起こすことがある。


皆さまも、食べ物・水に注意されたい。


食べ物や水に注意をすることによって、いつまでも健やかに過ごすことができるでしょう。暴飲暴食などというのは、とんでもないことである。

外食のときは、むろんその素材に注意をする。さらに、食器を洗うときの洗剤やその水切りなども要注意。皿の置き方で、そのままスープと混ざってしまう店がある。

身体に化学薬品を多量に入れてしまうと、化学薬品症候群になる。したがって、細心の注意が必要である。


度忘れと勘違いすることが、しばしば。



最近になって、度忘れや勘違いをすることが多くなった。古稀を過ぎたころから、いわゆる加齢による耄碌なのかもしれない。

何とかして思い出そうとしても、なかなか出てこない。しかし、しばらくして何かの拍子に、ふっと出てきたりする。人名などに、そのようなことが多い。

とても困ったことである。高齢になって記憶が薄らいでいくのは、仕方のないことなのだろうか。


参禅に家財を捨てた龐居士の故事。

龐居士(ほうこじ ?‐815)は中国・唐代の仏教者。馬祖と石頭に参禅、印可を得るが出家をしなかった。禅僧との問答が多く、その偈頌(げじゆ)300首と合わせて語録になっている。

彼が参禅を始めるときに、家財道具一切を車に乗せて海まで運び、捨ててしまった。

周りのものが、捨てるのはもったいないので、何かの役に立てたらと彼に言った。しかし、「この自分が身のためにならないと言って捨てるので、誰もそうであろう」と言い、そのまま海に捨ててしまった。


病気でも、なるべく医者にかかりたくなし。


私は慢性の糖尿病と院内感染をした肝炎に似た血液中のパラサイト、大きな病気を二つかかえている。無病ではなく二病息災であって、一病息災よりも危ない状態。それでも、糖尿病昏睡・盲腸・前立腺肥大・交通事故・火傷(やけど)や骨折・怪我などの急性の病気の他には、病院に行かないつもり。

掛かり付けの医者について、奨めてくれる人がいる。医学の知識はもちろんのこと、社会的な知識ももっていて、かつ人間的に魅力のある人が望ましいが、そういう人はなかった。反面、金儲けばかりを考えている人や薬の使用を優先する人、そのような場合は、自分自身の責任で治療をしなければなりません。

私は糖尿病であっても、院内感染であっても、生活習慣や食事で何とか大きな発病をしないで、日々過ごしている。そんな方法を長年の研究で、何とか見出したからです。


食後には、消化のために横になること。


私は、できたら食後30分くらい横になる。むろん、外食のときはできないが、それでも食後は、なるべくじっとしている。胃の消化・吸収を妨げないためである。

できたら一時間くらい、じっとしているのがよいのかもしれない。しかし、個人差があるので、あまり長くてもダメらしい。

むろん、そのときは難しい問題などを考えない。リラックスして、楽しいことを考える。すると、少ない食べ物でも栄養を身体全体に何とか補えるらしい。


青汁をサプリメントとするはOKか?


現代の食生活では、有害な物質を摂取してしまったり、逆に摂らなくてはいけない栄養素が不足したりする。

有害な物質は、化学薬品である。それらを多く摂取すると化学薬品症候群になってしまう。

摂らなくてはいけない栄養素には、微少ビタミンやカルシウム類などがある。現代の農法が普及して、含まれている栄養素が少なくなってしまったからだ。トマトなどは、昔のものよりも栄養価が少なく、三倍くらい食べないと必要栄養素が補えないという。だから、青汁などを利用するのもよいのではないか?


一般に、乳製品は身体によいか?


私は、牛乳・ヨーグルトなどは、めったに摂らない。また、マーガリンなども食べない。なぜならば、身体に好ましくないと思っているからだ。

ユダヤ系の日本人ならば、乳製品の牛乳やヨーグルトを消化できる。しかし、私はそうでないから身体に好ましくない。

マーガリンは食べるプラスチックなどと言われて、消化器系に好ましくないのは事実らしい。それでは、ときどきシェーキーズで食べるピザはどうであろうか。実際はピザを食べたいというよりも、ピッチャーを飲みたいという誘惑が強いのである。


耄碌という言葉には、悲しみがあり。


耄碌(もうろく)という言葉には、何となく悲しみと滑稽さがある。加齢の症状の本格的な兆しを示す。つまり失念が増えて、認知症になりかかっている。昔は、ずばり痴呆症と言ったようだ。

最近になって、高齢者が増加したため、そのような人が急増した。部分的におかしな行動をするので、周りの人が不思議がる。

ドン=キホーテ症候群とでも言うのだろうか、思考の一部分だけが異常な働きをする。知的な紳士が、風車に突進をしたりする。引きこもりやゴミ屋敷などは、脳の一部が冒されてなる症状である。


「生きている」日々より、むしろ「生かされている」。


自分が生きているという実感よりも、日々何とか生かされているという感じ。そんなふうに、考えるようになった。古稀を過ぎたころからである。

私は、神や仏を信じないが、人知を超えた大自然の原理や支配があることには、うすうす感じていた。それは、なかなか計り知れない。

運命や宿命なども、とくに信じるわけではないが、それでも大自然の成り行きはあるかもしれない。そんな場の中で自分は生きている、つまり生かされているのであろう


最近になって、よろけることがよくある。


加齢のせいだろうか、最近になってよろけたり、つまづくことがしばしば。道路の段差があったり、床にちょっとの出っ張りがあったりすると、足が取られてしまう。その結果、よろけたり転んだりするのである。

友達の母上は、畳の縁(へり)にも足が取られると言っていたそうである。高齢になると、歩くときの足の上下幅が小さくなるためらしい。

そんなわけで、歩くときには歩幅を小さくして、その代わり足の上下を大きくするようにした。そうすると、少しくらいの出っ張りでも、つまづいて転んだりしないことがわかった。


悪夢など見るのは、何が原因なのか?


夢見が悪いのは、健康に問題があるのであろうか。とくに持病があると、夢でうなされることがあるらしい。そのまま苦しい状況が続くことと、思わず飛び起きてしまうことがある。

いずれにしても、悪夢にうなされるのは、困ったことである。何かの悪い予兆でなければよいが、‥‥

できたら、安らかで健やかな気分の眠りに、そして深い眠りにつきたいものである。


原因は、思ったよりも過去に存在。


思わしくない事象が起きると、その原因を考える。そして、その原因が結果の直前にあったと思いがち。しかし、そう単純なことではなく、かなり以前に存在していたことであると気づくことがしばしば。

例えば、地方に勤めていたある夫婦が一時的な意見の不一致から、妻が子供二人を連れて実家に帰ってしまう。そして、夫はしばらく会社に残って勤務をしたが、やがて退職をした。そして、夫が上京後に、妻が謝って家族の生活は戻った。その間、約一年。

さらに、その後数十年して長男が死ぬ。そして、長女も。しかし、よく考えてみると、妻のした愚かな考えが、子供の人生を変えたみたいである。夫のほうは、満足な会社に再就職できずに、子供を大学にも行かせられなかったのである。


今さらに姉の愚かさ、呆れるばかり。


先月に死んだ姉の愚かさを今さら説明しても仕方がない。ただ、その最後に重度の「引きこもり」と「ゴミ屋敷」症状が、あったことは事実。それらをまとめて、私は「ドン=キホーテ」症候群と呼んでいる。

一見して正常な知識のある人が、脳の異常なために一部の判断がおかしくなってしまい、風車を悪魔だと判断して向かって行ったりする。

実際に「引きこもり」や「ゴミ屋敷」は、高齢者に増えているということである。そして、ゴミ屋敷から放火などにつながることが心配である。私は、食べ物の脳に関する影響を憂慮している。話は異なるが、小学生のいじめなどの問題も、その一部であろう。


脈絡のない夢があり、なぜであろうか?


ときどき途方もない夢を見る。論理的には納得ができない。いったい、どこで夢を見ているのだろうか?

おそらく、脳が感じていることで、それを感覚として自分が感じるのであろう。だから、脈絡がなくてもストーリは進んでいく。

そうなると脳は、いったい何をしているのだろうか。日中に経験したことがらを睡眠中に整理しているのかもしれない。右脳とか左脳、レム睡眠・ノンレム睡眠などというような場所や機能についての知識はないが、睡眠中には何となく脳全体自体が、まとまった働きをしていないようである。


倒れたら、寝たきりになる場合が多い。


転んで倒れたら、怪我をすることがしばしば。そして、その怪我はたいがい治るでしょう。しかし、脳や循環器系の異常によって倒れたら、問題が大きい。

よいよいや寝たきり、恍惚の人やアルツハイマー病などによるリスクが大きい。それらの症状は、なかなか治らない。むしろ、時間とともに進んでいくのがふつう。

そこで、日ごろから注意をする必要がある。主に、血液に関してである。脳梗塞などを避ける注意がとくに大切。そのためには、水と食べ物に注意が必要。安全な水を多く飲んで、安全な食材を利用しなければならない。


日々作ることが大切、見られなくとも。


この新句(十九音)のことである。「日々記憶の断片 生活の知恵」となっていて、「固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしようとした日々のお便り。」とある。

つまり、自分自身が生きている証明とも言える。したがって、とくに優れた記述である必要はない。思いつきやメモでも、よいのである。

そんなことを日々続けるうちに、考え方や方針が定まってくることが多い。そんなために、私にとっては意義のあることで、誰からも見られなくともよいのである。


「眠り」と「死」、また「夢」と「気」の違いは何か?


似た概念ではあるが、かなり違っている。私なりの考え方を述べるが、もしかしたら違っているかもしれない。とくに「死」と「気」の経験を実感したことがないからである。

「眠り」はやがて目覚めるが、「死」は目覚めない。ふつう、そのように考える。だから、死は永遠の眠りなどと言ったりもする。

「夢」は、目覚めによって途中で終わる。生きた脳で、意識をすることなのかもしれない。しかし、「気」は脳の感覚ではなく、いわゆる死後の感覚で、ずっと続くらしい。


「脳操」という概念を模索しており。


イグナチオ=デ=ロヨラに、『霊操』というのがある。それは、彼によって始まったイエズス会の霊性の修業。「体操」が身体を鍛えるように、「霊操」は霊魂を鍛えることを目的。神と深い人格的交わりを持ち、神の意志を知ろうとする。

それ以前にも、祈りや読書などでは方法が整備されていなかった。そこで、ロヨラはそれまで修道会に伝わってきた修業の要素の体系化をした。

私は、脳のトレーニングと基本を正すために「脳操」を始めたい。右脳と左脳など部分的に捕らえるのではなく、一体として考える。単なる「頭の体操」ではない。また、レム睡眠やノンレム睡眠などを行う寄生体に似た無気味な脳に対して、基準を作っていきたい。


諦めは大切であり、脳のためにも。


ある程度のところで、諦めることも大切らしい。いつまでも、限りなく欲求に追われていくと、身を滅ぼしてしまうことがある。

かつてのモンゴル国やヒトラーの場合が、そうであるらしい。実際にはわからないが、おそらく欲求が際限なく大きすぎたためかもしれない。

私は、むしろ『方丈記』にある「程(ほど)狹しといへども、夜 臥(ふ)す床(ゆか)あり、晝(ひる)居(い)る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。」の程度である。


ゆらゆらと揺れる心地は脳震盪か?


ときどき、身体が揺れるような気がする。横になっているときも、そうである。もしかしたら脳震盪(脳振盪 のうしんとう)かもしれない。

しかし、脳震盪は頭部を打撲した直後に起こる一時的な意識障害のこと。数分で回復し、あとに異常を残すことはないという。頭を打ったわけではないのに、その結果の状態になっている。脳自体の一種の病気かもしれない。

脳は、ずいぶんと使っている器官である。だから、誤動作や誤判断が生じるようになってしまったのだろう。今後は、大切にしていきたい。


食って寝て、少しばかりの勉強をする。


私の今までの人生は、考えてみれば食ったり、寝たりすることがほとんどであった。そして、その間に少しばかりの勉強をした。勉強の合間に、食ったり寝たのではない。お恥ずかしい限りである。

むろん、身体の維持のための健康を考える。そして、生活習慣や水・食べ物の問題を一つずつ解決してきた。

したがって、食うことや寝ることが勉強のために、どうしても必要なのである。つまり、目的と手段が渾然一体となっている日々が、正直のところ私の今までの人生であった。


朝、ビール大瓶一本、水分の補給。


たいがいの日は、朝五時に目が覚める。そして、この「日々記憶の断片」を投稿。そのとき、軽いものを食べる。さらに、水分の補給としてビール大瓶一本を飲む。

水は多く飲めないので、ビールで済ます。ゆっくりと、つまみを取りながら633mlを空ける。「一升瓶健康法」などというのがあって、約1.8リットルの水を飲むらしい。しかし、とても私には朝一升の水は飲めない。

水よりも、ビールのほうがうまいと感じるのは事実。肝臓に対する影響もあるので、ゆっくりと飲む。また、肝臓がビールの解毒をするので、音楽を聞きながらリラックスに飲む。私にとって、楽しい633mlの時間である。


何故に襲い来たるか、不快と不安。


何で、突然に不快感や不安感が起こるのだろうか。もしかしたら、体調がよくないためかもしれない。おそらく、脳に何らかの異常をきたして、不快や不安になるのだろう。

ふつうは何も感じない状態で、むしろ快さに浸(ひた)っている。しかし、疲れてきたり問題をかかえたりすると、脳が混迷してしまう。その結果、一連の不快や不安に取り付かれる。

脳という器官は、とてもデリケートらしい。終始考えていて、他愛のないことでも問題にしたり、逆に重大なことを見逃してしまったりするらしい。


「生きている証明」をする、この作品で。


「生きている証明」というと大げさであるが、「日々の記録」を残していきたい。あまり重要でないことも、新句(十九音)の形式で簡単に残しておける。

私は、毎日一首ずつ、ここに記録をすることを日課としている。そのようにして、すでに2000以上になった。

元気でパソコンに向かえるときは、必ずアップする。手術のために、十日間ほど入院したときを除いて、休んだことがない。他人から見て、意味のないことであっても、自分自身の記録としては、何らかの意味があろう。そんな程度のことではあるが、……


何となく政治と宗教、近づきがたし。


いろいろな団体があるが、私は政治と宗教が苦手である。政治に関する意見や宗教に対する考え方もあるが、それは個人的なことである。

おそらく、誰もが自分自身の意見をもっているだろう。しかし、互いに言い合えば意見の食い違いが明確に出てくる。そして、それが果てしなく続き、意味のないことである。

したがって、私は政治と宗教に対して、あまり意見を言わない。言ってもキリのないことであるから。その代わり、政治はともかく、宗教に対しては自分自身の考え方や基準を作っておく。つまり、一人だけの信仰である。


エビアン(evian)は生水であり、リスクも若干。


エビアンというナチュラル・ミネラル・ウオーターがある。原産国はフランスで、原材料名は「水(鉱泉水)」となっている。

殺菌や除菌をしていないので、カビが生えることもある。そんなことが、今までに問題になったようだ。そんな飲料水であるが、何となくおいしい。

日本のペットボトルは、たいがい加熱殺菌をしてある。アルプスの水などと言っても、実際の水とは異なってしまう。私は、ときどき駅の売店でエビアンを買う。カルシウムやマグネシウムを若干含んでいるが、おそらく消化できないであろう。むしろ、多くを摂ると結石などの原因になるかもしれない。


デパートのロビーに居るも、待つとはなしに。


デパートのロビーに赤い椅子がある。私は、ときどき座って休む。誰を待っているわけでもない。涼しくて、コンフォタブルだからである。

しかし、よく見ると私以外にも、そんな感じの人が他にもいる。おそらく、年金生活者であろう。もしかしたら、他にすることがないのかもしれない。

私は、そこから五分で自分の部屋に帰れる。しかし、夏は冷房がしてあって、空気もすがすがしいので、つい休んでしまう。また、午後は三時ごろまで休むこともある。それは、郵便の配達が日一回で、三時だからである。

Kuroda Kouta (2012.10.31/2012.10.31)