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  新句(十九音) 作品集57(2012年3月分)



「考える」ということを「考える」謎。


「考える」ということは、いったいどういうことであろうか? 脳が思いを巡らすことであろうが、それはジレンマや葛藤なども含んでいる。あまり考えすぎると気が違ったり、愚かしい結論になったりすることもある。

高等動物の脳、とくにヒトの脳は異常に発達をしているらしい。考えてみると、その脳のために世界が滅びてしまうかもしれない。脳の考えが際限なく恐ろしいことを考えていながら、愚かにも実行をするからである。

クラゲには脳がないという。それでも、エチゼンクラゲは多くの個体が艦隊のような整然とした形で移動をする。いったい、何をどこで考えるのであろうか。
「付:脳の無気味さ」として、改めてまとめてみたい。


ふと思う「こにしかめやも」、遊ぶ子を見て。


多摩川の交通公園で遊ぶ子どもを見ていて、なぜかこの言葉を思い出した。『万葉集』巻五にある山上憶良の「子等を思ふ歌一首並びに序」である。

<釈迦如来、金口(こんく)に正に説き給はく、等しく衆生を思ふこと羅ご羅の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぐるは無しと。至極の大聖すら尚子を愛(うつく)しむ心あり。況して世間の蒼生(あおいぐさ)、誰か子を愛(お)しまざらめや。
 瓜食(は)めば子等(こども)思ほゆ くり食めば ましてしぬばゆ 何処より来たりしものぞ まなかひに もとな懸りて安寝(やすい)しなさぬ
 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる寶 子にしかめやも>
   
(釈迦如来がみずから言ったことには、「平等に人間をかわいいと思うことは、我が子のラゴラと同じである。」 そしてまたおっしゃった。「愛は、子供に対するもの以上のものはない。」 極めて優れた大聖人ですら、やはり子供を愛する心がある。まして、世間一般の人々で、誰が子供を愛さないものがあろうか。
 瓜を食べると、子供のことを思う。栗を食べると、なおさら思い偲ばれる。子供の面影は、いったいどこから来たものであろうか。眼前に、その姿がちらついて夜も安らかに眠れない。
 (反歌)銀も黄金も宝玉も何になるであろうか。それらの宝は、子供に及ぶことがあろうか。)


私(わたくし)は、かなりしつこい性格なのか?


何でも自分が納得するまで続けてする。他人から見たら、うんざりすることであろう。また、一種の偏執狂ともとられかねない。当たり前のことをしていると考えるのだが、回りから見たら辟易するようなことしているらしい。

人生において何かをするときは、生きている限りは中途半端ではいけないと私(わたし)は思う。死ぬまで続ける覚悟で、途中でやめるようなことは最初からしなければよいのである。

コヘレットの書(伝道の書)第六章には、
<03 百人の子をつくり、また命長く、その齢(よわい)の日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、私は言う、流産の子はその人に勝る(まさる)と。>
また、続く第七章には、
<01 死ぬ日は、生まれる日に勝る。>
とある。


クープランの『葦』を聞けば、なぜかなつかし。


クープラン(François Couperin 1668~1733)は、フランスの作曲家。クープラン家は、ドイツのバッハ家と似た音楽家の家系。大クープランと呼ばれる。

『葦』(あし Les Roseaux)は、クラヴサン曲集第13組曲第2番。しかし、私はクラヴサンでなくラローチャ(Alica de Larrocha)が、ピアノで演奏したものを聞く。別の人で、アコーデオンのものもあった。

そして、なぜかなつかしい気持ちになる。葦というタイトルのせいであろうか。パスカルの『パンセ』にある記述などにも、思いが馳せていく。
Alica de Larrocha plays Couperin Les Roseaux


ドデカミン、飲めば少しは元気になるか?


ドデカミンという清涼飲料水がある。私は最近になって疲労感が激しいので、ときどき飲んでいる。元気になるんじゃないかと思ったからだ。

その容器(ペットボトル)には、次のように書いてある。「12種類の元気成分! ビタミンC ビタミンB6 ナイアシン アラニン グリシン ロイシン イソロイシン バリン シトルリン マカ ガラナ ローヤルゼリー」 ただし、マカ以後の三つについては含有量が書かれていない。だから微少なためか、不定であるためなのかもわからない。

本来ならば食べ物や飲み物などから、摂らなければならない栄養素が取れなくなっているという。つまり、現代の科学的栽培方法では栄養分が失われてしまったらしい。そんなために、どうしても微少ミネラルなどが不足して、身体が失調するらしい。


だらだらと続ける悪い癖を治そう!


何かをすると、ついだらだらといつまでも続ける。悪い癖だと思う。飽きっぽい一方では、かなり執着をすることもある。

パソコンなどは、いったん始めたら電源スイッチを切りたくない。つまり、起動の回数を減らしたい。そんなために、思い付いたことをすべてしてしまう。

しかし、最初はいいにしても時間が経過すると、かなり疲れてくる。そんなときには、あまり注意力が集中できない。そして、だらだらとしがちである。BGMを流しているので、それを聞くことのほうがメインになってしまうこともあって、作業がはかどらなくなってしまう。まったく、困ったことである。


毎日の食生活を見直してゆく。


私も妻も、古稀を過ぎてから久しい。若かったときのように、たくさんの量を食べられなくなった。また、好みも大きく変わってきた。脂っこいものが、嫌いになったのである。

そこで、注文する食材を少し変えてベジタリアン風にしてみよう。今まで神農から宅配で取っていたのだが、それはそのままでOK。注文する品物を少し変えればよいのである。

主食だった玄米を七分搗き米に変える。今までは肉と魚を取らなかったが、さらに卵もやめる。牛乳はしばらく取るが、ヨーグルトはやめる。そんなところだろうか。


可能性、老いるとともに失いていく。


あれもしたい、これもしたいと考えたのは、つい数年前まで。その後、病んで入院をして手術をしたり、経過がよくなく通院をしているうちに、すっかり病人になってしまった。

そんなわけで、体力がなく細かい仕事を続けることができない。また、以前のような根気がなくなってしまった。視力が悪くなったことも、その原因かもしれない。

パソコンの画像処理に関するプログラムを作ることは、かなりの根気がいる。そして、目も疲れる。とうとう、そのような仕事を自分が続けることを諦めざるをえない。つまり、古稀を過ぎたころから、自分自身の可能性を次々と失ってしまったようである。


少しずつ直していこう、フォーラムの中。


「理工式健康法フォーラム」というのを作った。フォーラムという名称だから、当初は多くの人の意見が集まるのではないかと考えた。しかし、実際に投稿などは少なく、ほとんどが読まれていないようだ。

仕方がないので、自問自答方式にすることにした。つまり、まず自分で設問をして、それに対して自分で答える方式である。やってみると、勉強にもなるし、なかなか面白い。

そんなことを続けている間に、Facebookページで作成をしたずいぶん大きなホームページとなってきた。「塵も積もれば山となる」である。


友が死に、次は自分が、そうなる不安。


友達が次々と死ぬ。年格好が同じくらいだから、当然のことかもしれない。私は、とっくに古稀を過ぎた。したがって、親しい人たちもそうである。そして、むしろ私よりも年長の友達が多いから、当然の成り行き。

そんなことはわかっているのだが、自分の番はまだまだと考えてしまう。友達の順番は、ほぼ私の考えたとおりである。しかし、その順番の中に自分自身が入っていない。入れていないのではなく、入れられないのである。

つまり、自分自身の死に関しては、よくわからない。自分では、そろそろお迎えではないかと思う。しかし、友達は私のことを百歳まで生きるなどという。その友達がくれた「長寿の心得」という手ぬぐいには「白寿(九十九歳)でお迎えの来たときは、頃を見てこちらからボツボツ行くと云へ」と書いてある。


病気など、きょうは人の身、あすは我が身か?


友達や親しい人が病気になって、入院などする。救急車で運ばれることも、かなり多い。そんなときに、そうですかと思い、口に出して言う。中には死んでしまうこともある。それでも、「ごしゅうしょうさま」(御愁傷様)と言うだけ。

しかし、考えてみれば話題の事態に自分も、いつなるかわからない。つまり、自分自身にも可能性というか、起こりうる問題なのである。

したがって、それを平気でいるということは、かなり無神経なことでもあろう。もっとも自分が愚かで、そこまで気が回らないのかもしれない。したがって、あらかじめ明日は自分自身がそうなっていることも考えておく必要があろう。


捨てること、大切になる齢(よわい)となりぬ。


若いときは多くのものを収集して、後で利用することを考えた。しかし還暦を過ぎ、さらに古稀を迎えるころから整理ができない。したがって、捨てることが大切になってくる。

つまり、すでに持っているものの整理をするのである。まして、新しいものを求めるなどということは、逆方向になってしまうだろう。

そんなことで、今までに集めた資料なども、少しずつ整理をしていかなければならない。たいがいの資料は、探せばインターネット上にあるからである。自分自身で固有のものは、それでいいと思う。新しいことをするときは、よほど考えなければならない。


最近になって腹減る、どうしたことか?


最近になって、どうしたことであろうか? 無性に腹が減って、しかたがない。もしかしたら、呆ける(ぼける)前兆なのかもしれない。恍惚の人が、いみじくも冒頭に言っていることを考えると、心配である。

私も、そのような兆候があるのではないかと考えると恐ろしい。呆ける前には、餓鬼のように腹が減ることがあるという。

その通りで、いくら食べても、満腹をしない。また、そうかと言って、体重が大幅に増えたりもしない。あたかも、餓鬼になったようだ。


知らぬ間に、いいねしすぎて、機能停止に。


知らない間に、つい「いいね!」をたくさんして、一時的に機能停止になったりするらしい。「いいね!」の使用回数にも細かい規約があるらしいが、知らないのでそうなってしまう。

細かい規約がたくさんあるので、利用者の側から見ると、いつアカウント停止になっても不思議ではないくらいである。かなり以前だが、Facebookの中にローマ法王が500人ほどいたが、一人になったことがある。

そんなわけで、なるべく安全な利用法を考えておきたい。万一、アカウントが停止になっても、なんとか被害を最小限でとどめたい。Facebookではないが、YouTubeでアカウント停止になった友達がいた。今まで見ることのできた動画がすべてダメになってしまったので、とても不便である。


SNS、必要以外アップをしない。


SNSは、「social networking service」の略。個人どうしのコミュニケーションを促進し、社会的なネットワークの構築を支援するインターネット・サービス。趣味や仕事、そして居住地などが同じ人たちのコミュニティーを容易に構築できる。

やってみると、結構楽しい。しかし、おしゃべりが楽しいからと言って、いつまでもしている人がいる。「これでもか、これでもまだか?」というように、次々と意見をアップする。

しかし、私はあまり多くをアップしない。Facebook・Facebookページの場合、「いいね!」で済ますこともある。また、意見を求められたり、回答が必要なときは別だが、あまり必要以外のことはアップしない。そのようにすると、キリがないからである。


『アマデウス』見れば何とも、いたたまれなし。


モーツアルトの生涯をサリエリの側から見た『アマデウス』という映画がある。サリエリは、同時代の作曲家であり真面目で、几帳面な人であったと思う。「ピアノ協奏曲ハ長調」「レクイエム」を聞くと、そのことが私にはわかる。

つまり、見ている自分もサリエリの側の立場。もともと、映画自体もサリエリの追憶として語られていくので、そうなっても不思議ではない。

その真面目な人が、一世の風靡をした秀才に対する心の葛藤であるから、何とも痛ましく、いたしかたがないのである。


Rojinという動画で、老いをつくづく思う。


『Rojin Z-001』という動画を見た。5巻1時間15分ほどであるが、何となく近い未来を考えさせられて、笑い事ではない。荒唐無稽ではなく、まったく恐ろしい内容である。

担当の役人は、「これからの社会に対峙する」ためにZ-001号機が作られ、それのテストを開始したという。しかし、機械であって人間性の扱いに配慮が欠けている。

いっぽうボランティア活動で、その老人を担当していた看護学生は、あくまで人間として扱おうとしている。そしてその未来のコンピュータが、半分は脳の形をデザインしているのも何となく無気味である。


久々に大豆を炒って、食べてみようか?


豆類は、健康によいという。そんな案配で、大豆や小豆を買って置いて、ご飯を炊(た)くときに入れたりする。

小豆は、月に三回くらい。そして、大豆は十回くらい。それなりに、おいしいご飯がいただける。

しかし、大豆の場合は炒(い)って食べてもよい。あたかも、豆まきのときの大豆に似ていて、とてもおいしい。豆まきのような乾燥をした状態にならないが、それでも香りがあって、よい味がする。炒る(いる)のは、小型のフライパンで弱火の状態、かなりの時間をかける。待つ時間も、楽しみである。


「もうダメだ」などと言っては、決していけない。


なぜならば、そのようなことを言うと、それが自己暗示になってしまうからだ。したがって、本当はそれを考えるだけでもダメ。

不思議なもので、私たちは非常に危ない日々を平気で過ごしている。考えてみれば、千尋(せんじん)の谷に架かっている吊り橋の上を平気で歩いているようなもの。もっとも、その状態を自分が知らないだけ。

もしも、自分自身のしていることを認識したら、足がすくんで歩けなくなってしまうだろう。運動場に白線で書いた幅30センチメートルくらいだと何でもない。つまり、実際の幅ではなく精神的に感じる幅なのである。そのように意識するかしないかで、次の事態が異なってくることが多い。


結局は、知りたいことも分からずじまい。


パソコンをやっていると、わからないことが多い。例えば、Facebookページの中で動画を動かす方法。GIF画像を貼り付ければ、それでよいようにも考えられる。しかし、今までに見たことがない。

YouTubeなどを利用して、動画を見ることは簡単にできる。しかし、ちょっとしたスライドショーを自作したい。いずれにしても、その作品を読み込んで実行するのであるから簡単ではないかと思う。しかし、それがTabSiteの範囲で可能かどうかを知りたいのである。

なぜならば、もしかしたら本体までダメにしてしまう危険性が大きい。そこで、いろいろなところに質問をするのであるが、めったに回答が帰ってこない。そして、そのままになってしまうことが多い。


FBのホームは市街、ページは自室。


Facebookでは、友達すべての記事が流れてくる。しかし、友達になっても互いに情報の交換をしない人もいる。だから、ホームを見ていても関係のないことが次々とアップされている。

そんなわけだからホームへ行くと知らない人もいて、何となく市街地を歩いているみたい。しかし、プロフィールさらにはFacebookページにすると、他人から見た場合、部屋を訪問した感じになる。つまり、こちら側から見たら自分の部屋になるのだ。

我が家というか、わが部屋というか、いずれにしても一つの空間である。だから、ホームにアップするよりか、具体的な内容をメモとして記述できるわけである。


こんなこと、していていいのかという不安!


私も、とうとう古稀を過ぎてしまった。そして、今まで通り日々だらだらと生きている。あまり先が長くないことは、実感としてわかる。なぜならば、親しい友達が次々とグッドバイをしているから。

そうかと言っても、それでは何をすればよいのだろうか。才能があれば、それを伸ばしていけばよい。しかし、残念なことに何の才能があるかわからない。わからないと言うよりも、何もないんじゃないかと思う。

そんなわけで、人生の終盤になっても、落ち着かない。気持ちが休まらないのである。そして、何となく自分の人生は失敗であったような気がしてきた。何となくというのは、ちょっと残念ではあるが、……。


ガクガクと身体(からだ)衰え、イルヘルスなり。


どうやら、イルヘルスになってしまったらしい。まだ寝たきりではないが、軽い半病人である。体調の衰えが激しく、あまり無理ができない。外出なども、遠くへ行けなくなってしまった。

それでは病院に通って、完治すればよいと思うかもしれない。しかし、通ってみても治らないばかりか、ますます悪化をしてしまった。そこで、自分の責任でイルヘルス状態のまま日々を過ごすのである。

つまり、何とか病気のままに健康に生きるのである。五年前まで診ていただいたいわゆる掛かり付け医の先生は、二年後に失明して、さらに三年後には透析か足の切断をしているとおっしゃった。しかし、私はいまだに両足も付いているし、毎日吉野家に行って、旨辛ライスとサントリーモルツを飲んでいる。イルヘルスの生き方があるんじゃないかと思う。


孤独死にならないために、日々注意する。


孤独死というのがある。誰にも看取られないままに、死んでしまうらしい。何とも哀れな話ではあるが、最近になって結構多いという。

身体(からだ)が弱って、起き上がれなくなり、そのままアウトになることがある。つまり、身近な人を呼べないままに、しばらくして息を引き取るのである。

もっと悪いのは、頭がおかしくなってしまうこと。糖尿病と闘っている人や、血液が悪くなっている人。何としてでも、脳への直撃を避けなければならない。脳は脂肪でできているらしい。食べるプラスチックと言われるマーガリンなども、控えたほうがよい。また、ブルガリアヨーグルトとかカスピ海ヨーグルトなども、品質を確かめてから食べる方がよいでしょう。製品名が同じで、内容や成分がまったく異なる場合があるからです。


健康に関する意見、まとめていこう。


最近になって、病気の人が急増した。現代生活が複雑になったために、なかなか治らないのである。

今までは個人差があまりなかった病気であるが、ここのところ各人各様である。極端に言えば、患者の数だけ病気があるのではないかと言ってもよいほどであろう。

そんなために、自分はどのような問題があるのかを知って、その問題に対峙しなければならない。いきおい他の人のパターンを知る必要がでてくる。そんな場として、日本健康会を利用したいと思った次第。


キリがなく、意味がないこと続けてきたり。


いったい人生とは何であろうか? いままでの自分の生き方を考えると、何となくムダなことをしてきたようである。つまり、次々とキリがないムダなことを追い続けてきたみたい。

最近になってわかったことがある。決してサワーグレープではない。

それは人生の意味などは、そもそもないのではないかということ。脳の作る幻想を追いかけているのである。金持ちになることや有名になることなど、何となく愚かしいことかもしれない。『黒い革袋』にあるように。


突然に叫びたくなることがしばしば。


最近になって、突然に叫びたくなるようなことが、しばしばある。それは、なぜだろうか。実際に、「わっ」と言ってしまうこともあるほどだ。

しかし、よく考えてみると、そのときに過去のいたたまれないような思い出を邂逅していた場合が多い。それは、そのとき以来ずっと心を痛めてきたことである。

恥や後悔がともなう思い出は、何かの拍子に出てきて、心を苛(さいな)む。そして、大声を出したいような衝動にかられることがあるのだろう。


生き方の一つをシーラカンスで納得。


「野生の王国 シーラカンス」というYouTube動画三巻20分弱を見た。とても、有効で参考になる内容であった。

我々現生人類の3万年をはるかに超える4億年という歴史を、ほとんど変化をせずに生き延びてきたということは、ものすごいことである。

その一つに、日中は深海に逆立ちのような形で過ごして、脳や心臓に負担をかけていないであろうということが、私には何となく納得できた。


吉野家とドトールに行き、今日の至福。


たいがいまず吉野家に行く。そこで、旨辛(うまから)カレーとビール。旨辛には、肉が一片も入っていない。ビールは、サントリーモルツの瓶入り。府中の工場で造った100パーセント地下水の仕込み。いずれも薄味だが、サッパリしている。

私は大食いなので、それでは物足りない。そこで、次にドトールに行く。ふつうエスプレッソとミラノサンドAを注文。とても、おいしい。

そんな二店のわずかな時間で、至福の時を過ごせる。吉野家が730円、ドトールが510円、千円と少しで楽しいひととき。何とも安いものである。


外食で、注意をすべき食べ物もある。


部屋で、ぼそぼそと食べるのと比べて、外食は楽しい。とくに独りの場合は、簡単である。支度をする必要もないし、後で皿を洗う面倒もない。

吉野家は百年も続いていると言うから、まず大丈夫であろう。また、ミスドなども大規模にやっているから、安全かもしれない。

しかし、吉野家のカレーはアルミパックに入っている。また、グルタミン酸ナトリウムを入れて、味に親しませることをしているかもしれない。ミスドのコーヒーに入れるミルクカップは、界面活性剤や安定剤・防腐剤の入ったものらしい。なるべく化学薬品症候群にはなりたくない。

Kuroda Kouta (2012.04.06/2012.04.06)