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  新句(十九音) 作品集56(2012年2月分)



「生きている証明」とする私の新句。


この五七七の短詩形を「新句(十九音)」という。私が好んで用いる短詩形。短歌では長すぎるし、俳句では短い。そこで「五・七・七」の計十九音とした。つまり、全部をひらがなで書けば、十九文字になる。

新句(十九音)の作品は、あまりない。したがって、それが比較をされる相手がないので、甲乙がつけられない。種田山頭火や尾崎放哉の作品はある。種田山頭火(1882〜1940)は、遍歴しながら自由律による句を作った。いっぽう尾崎放哉(1885〜1926)も、波乱に富んだ生活の中で、独自の自由律の句境を確立した。

しかし、私は彼らの自由律よりも「新句(十九音)」形式のほうが作りやすい。そこで、それを自分が「生きている証明」として作り続けている。


お互いに、自分のものを発表しよう!


ホームページやブログなど、さらにYouTubeやFacebook・Facebookページなどは、素晴らしいメディアである。私は、そのような場を有効に活用したい。

そこからは、多くの情報が入手できる。一方的に、受け入れることができる。そこには名作や名画、そして名曲が数え切れないほどあるからである。しかし、私は下手でもよいから、なるべく自分の作品を用いようと思う。

つまり、私はそのような場を自分自身の知的空間と考える。そのような最に、適した媒体であることがわかった。知的空間を広げることはインプットばかりではなく、アウトプットをすることのほうが大切である。


ラップリン、何と一遍、薬に用いた。


一遍上人は、時宗の開祖。鎌倉時代(1239年)に伊予国(愛媛県)道後で生まれた。当時は、平治の乱・源平の合戦・承久の乱が続き、さらに天変地異・飢饉など、まさにこの世の末で、死が巷にあふれていた時代。

そんな時代に、それまでは皇族や貴族などを中心に広まった仏教を、民衆の救済に生かそうとした法然・栄西・道元・親鸞・日蓮・一遍と鎌倉新仏教の開祖が現れた。そして、一遍は<六道輪廻の間には、ともなふ人もなかりけり、独り生まれて、独り死す、生死の道こそかなしけれ>と言った。

「捨ててこそ」が特徴。<念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨、貴賤高下の道理も捨、地獄をおそるる心をも捨、極楽を願う心をも捨、又諸宗の悟をも捨、一切の事を捨、念仏こそ弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、……> その一遍が竹筒に入れて配布し、民衆が競って求めた「よろず病の薬」とは。


このページ、誰も来ずして自分でいいね!


Facebookページに作った日本健康会である。当初、健康に関するフォーラムなので多くの人が集まると考えた。なぜならば、健康は誰にとっても重要な問題だからである。そして、医学書や家庭用のハンドブックなどが氾濫をしている。

しかし、一方では病人が増えるばかりだ。どの病院も、満員のところが多い。また、救急車もひっきりなしに走っている。

そんなときに個人差を考えて、互いに意見を言えるフォーラムを作った。一律の処方では、病気は治らないと考えたからです。と、まぁ、そんな次第だったのですが、なぜかフォーラムに人が集まらない。仕方ないので自分でそこに書いて、自分で読む。そして「いいね!」を付けるのである。


ひっそりと生きる楽しみ、老いたるゆえに。


いつの間にか、私も老いてしまった。老いたからって、とくに変わったわけではないが、何となく疲れやすくなったことは事実。

そんなわけで、ひっそりと生きているのが、自分に合っているということがわかった。つまり、多くのことをしたり、たくさんの友達と付き合ったりできない。そんなわけで、現在のホームページやFacebookページの程度が、自分にはちょうどよい。

『黒い革袋』にもあるように正直のところ、私は「金持ち」にも「有名」にもなりたくない。それは、決して諦めたのではなく、また「負け惜しみ」や「サワーグレープス」でないことも事実。あまり目立たないことが、よいことだと思う。


気が違いそうになるほど、強い印象。


ともすると気が違いそうになるような印象がある。それは強烈で、脳裏に焼き付けられている。具体的に説明をすればよいのではあるが、特定の個人が出てくる思い出なので、ここには書かない。

いたたまれなくなるのであるが、一方ではなつかしい気持ち。そして、思わず嘆息をついてしまう。

そんなことが、最近になって多くなった。嘆息ならよいが、突然に大声で叫びたくなることもある。もしかしたら、精神的にどこか異常が起こったのかもしれない。


YouTube、次々と見ていると飽きない。


YouTube動画を見ていると、有益なものや面白いものがある。次々と見ていっても、なかなか飽きない。時間が、あっという間に過ぎてしまう。

画面に関連する動画がズラーッと並ぶと、つい見たくなってしまう。そんなことが、しばらく続く。

興味にまかせて次々と続けていくのは、あまり意味のないことかもしれない。つまり、それをするとキリがないからである。人生の持ち時間は、限られているから仕方ない。趣味や研究などでも、同じことが言えるのではないか。


何となく、やる気がしない冬の寒い日。



冬の寒い日には、何となくやる気がしない。血圧のせいであろうか、また糖尿病が末期になっているためであろうか。いずれにしても、何となく億劫である。

三年前に内科の先生から、「一年くらいすると失明するかもしれない」「もしかしたら、人工透析をする必要があるかもしれない」などと脅かされた。しかし、パソコンを八時間ほどすると、ちょっと疲れるが未だに目も大丈夫。自分の方法と責任で、いわゆる医療のお世話になることをやめてしまった。

寒い日に気力がなくなってしまうということは、つい最近のこと。もしかしたら、何らかの病気かもしれない。あるいは、加齢による症候なのかもしれない。


何故か? ぜんぜん趣味の違う友あり。


TwitterやFacebookで、友達ができる。私は、積極的に友達を求めないが、相手側からリクエストがくる。そんな場合、たいがいOKする。そのようにして、友達が次第に増えていく。

しかし、自分とはまったく違ったことに関心があったり、趣味のある人もいる。また、政治や宗教に熱心な人もいる。私は、政治や宗教に関心がないわけではないが、あまり意見を言わないことにしている。なぜならば、互いに言い合ってもキリがないからである。

その代わり、自分自身で納得のできるテキストを作ったりする。新約聖書なども、自分なりに作ってみた。『Qの福音書』である。言い合いをするよりも、自分の考えを文書などにまとめてしまうほうがよいでしょう。


何もかも自分で作り、確かめてみる。



何でも自分自身で作ってみるのが、よいのかもしれない。私は、還暦を過ぎたころから自分でやって確かめるようになった。

市のシルバーサークルで話題になったことを次々と確かめてみた。最初に、広報のためのホームページである。作成するというメンバーがいなかったので、私にお鉢が回ってきた。

それから、しばらくして短編小説を書いた。さらに、イラストなどの絵、そして、作曲。私は、現役時代にエンジニアとして働いていた。なぜ芸術に近いようなことを始めたかというと、誰かができないというからである。つまり、できるかできないかを確かめたかった。確かに超一流品はできないかもしれないが、それなりのものは簡単にできるということがわかった。


無関心、他人のことはどうでもよいか?


自分のことばかり、話す人がいる。あまり他人のしたことや考えていることには関係がないという感じ。ただし、その他人が有名人だった場合は異なる。

その自分のことと言っても、どうであろう。「これは、私が書いた短編小説です。」とか「これは、私が作った彫刻です。」とか「これは、私が作曲したピアノソナタです。」とかいうのは、あまりない。

いっぽう、施無畏の人もいる。宮沢賢治のような人が、そうであったらしい。現実には、渡邊五郎先生がそうである。もともと他人のことに関心がないなどというのは、人格的に劣った人なのであろう。そんなことを最近になって、つくづくと考える。


つくづくと、大人げないと思うことあり。


何かをしていて、ふと自分が大人げないと思うことがある。例えば、誰かの書いた記事などに、憤慨をするのである。自分のことなどを理解ができる人は、あまり多くないであろう。そんなことがわかっていながら、無理解に対して憤るのである。

見ず知らずの人であれば、何と言っても気にしない。そんなつもりではあるが、やはり気にしてしまうのである。

そんなわけで、何故か相手がわからないままに、不愉快になることがある。そのようなときは、相手の気持ちがどうあるのかを考える必要があろう。こちらのほうが勘違いをしていることが、ないとは言えないからである。


各々のブログの記事を何に使うか?


いずれも無料だったので、いくつかのブログを作成した。

使ってみたい内容は、
(1) 日々の思いつき=日記的な内容
(2) 日々の一枚の絵
(3) 日々の音楽=作業中のBGMにも利用
(4) 名画のコレクション
などである。

しかし、どのブログをどの内容に使うかというと、アップのときの手数と実際に利用するときの手軽さなどが、なかなかマッチしない。そこで、いろいろと組み合わせを変えてみたりする。


何故か? 誰も言わない本当のこと。


ちょっと考えれば解りそうなことでもテレビなどで放映されないと、誰も話題にしない。例えば、人類の歴史やFMの存在など。

何も知らないのが、幸福なのかもしれない。真実を知ってしまうと、不幸になることが多い。例えば、「自分は父親の妾(めかけ)の子であった」などということは、知らないままに一生を過ごしたほうがよいのかもしれない。

私は、本来ならば自分のことであるのに、知ろうとしないことについて不思議に思う。そこで、自分自身で考えてみた。そして意外にも、忘れられていたような記憶が、多くあることを知って愕然とした。


ここのところ、うつらうつらとすること多し。


眠気に誘われるというのだろうか、最近になって急に眠気に襲われることがある。以前には、そんなことがなかったので、もしかしたら病気かもしれない。

部屋でパソコンをやっているとき、バスの中、風呂に入っているときなどである。ただし、風呂はスーパー銭湯や温泉であるから安心。もしも、寝てしまっても誰かが助けてくれるだろう。また、仮に倒れたとしても店員が救急車を呼んでくれる。

バスの中でも、そんな意味では安心。したがって、部屋にいて一人でパソコンをしているときが危ない。はっと気付いたときには、キーボードの上に置いた手が何かの操作をしたらしく、画面が変わっている。慌てて直そうとするのだが、何をどうしたかがわからないので、復帰できないことが多い。困った問題である。


何事も、やる気がしない、困ったもんだ。


最近になって何事も面倒くさく、やる気がしないことがある。かろうじて、この日々記憶の断片を書くだけ。

気分が優れないためであろうか、加齢によるものであろうか、そんな次第で食べること、眠ること、そしてトイレなどの基本的なことだけになる。実際には、トイレなども面倒なのであるが、それをしないと状態がますます悪くなる。

いったい今まで何のために何をしてきたのだろうか。元の木阿弥、タブララサである。


簡単な日記の代わり、新句をしよう!


「新句(十九音)」というのがある。俳句などより、ずっと簡単で誰でもできる。それを日々作ることによって、日記の代わりになる。また、「生きている証明」にもなる。

そして、Facebookページにアップする。そうすると、必ずグーグルやヤフーに拾われる。それも、トップに近い場所にである。その作品が、優れているかいないかには関係がない。

そんなわけで、自分自身としても後で見るのに便利である。だから、日々何とか続けられる簡単なメモをこのようにして残しておくのである。


探しても、もうないものか、魚籃観音?


ほとほと困ってしまった。魚籃観音のある場所を探すのだが、なかなか見つからない。グーグルやヤフーで調べるのだが、最近ではかなり多くの自分で書いた記事が出てくる。

また、見覚えのない記事も少なくなってしまった。もっとも、私は東京都だけが対象であったから、全国的にはまだまだたくさんあるでしょう。

全国的に回れないことはわかっているので、同じタイトルで研究・発表をしてくれる人がいたらいいと考える。それは、魚籃観音だけのことではなく、「駅周辺シリーズ」でも同じ。私が全国的に鉄道の駅を回ることは不可能。そこで、そんな企画をしている人と互いにリンクをすると、大きなネットワークの構築が可能になることがわかるのではあるが、……。


「たら・よう」に、なってしまった日々の生活。


いつごろからだろうか、何となく体調がよくない。歩行や外出も、思うようにはいかなくなった。だから、「もしも今日、体調がよければバスに乗って、温泉に行ってみよう」などと、考えるようになってしまった次第。

つまり、体調がよくないとバスに乗れないのである。「たら」の他に「れば」まで入ってしまうこともある。

尾籠な話だが、日常的に便秘にもなっている。そんなわけで、そのままバスに乗って揺られたら、もよおしたくなることもあるからである。身体全体がコントロールできない状態で、そんなことはかつてなかったことである。


気が違いそうになるほど、なつかしいこと。


そのことを思い出すと、気が違いそうになるほど、なつかしい思い出がある。ふつう、過去の思い出は苦(にが)いことが多い。ゲーテほどの人でも、「あまり楽しいことはなかった」と、エッカーマンに言っている。かつて読んだ本に、そんなことが書いてあった記憶がある。

思い出す度に、気が違いそうになるほどなつかしい記憶がある。おそらく、誰にでもあるであろう。

私の場合、それは些細なこと。過去の思い出ではあるが、見た光景や誰かとした会話など。あまり決定的なことはなかったけれども、自分にとっては思い出すだけでも、興奮をするほどのなつかしさなのである。なぜ、そんなことがあるのだろうか。


誰からも相手にされず、独自の世界。


私のやっていることは、どうやら少し偏っているのかもしれない。あまり、興味をもってくれる人が少ないからである。そんなわけで、いきおい一人のみで行かざるをえない。

ブログやFacebookなどに、次から次へと投稿をする人がいる。過去の偉人の言葉などを紹介したり、世界のニュース、YouTubeからの音楽、いろいろなソースがある。ありがたいことではあるが、独自の世界にはならない。

むしろ、私はその人が作った作品を見たい。それが幼稚なできばえでも、かまわない。その人が、その中にいるということを見たいのである。過去の聖人が言ったことも、素晴らしいかもしれない。しかし、知人が自分自身で作った作品などには独特の味がある。


すぐ疲れちゃうのはなぜか、老いたるゆえか?



ここのところ、すぐ疲れちゃうようになった。考えたら、私も古稀をとっくに過ぎたのだから、仕方のないことかもしれない。老いると、体力が減少するからであろう。

肉体的には、無理のないことだ。以前は部屋まで12階の階段を昇った。少し疲れたが、大丈夫だった。運動になると考えて、日々実行していた。しかし、10年くらい前に風邪をひいて苦しかったのでエレベータを利用した。そして、その後は昇らなくなってしまった。

精神的にも、疲れやすくなった。例えば、読書。読んでいると飽きてしまって、眠くなる。そんなことも、かつてはなかった。パソコンの作業も同じ。いまインプットをしているが、途中で面倒になってしまう。ひどいときは眠くなって、うつらうつらとしてしまう。加齢による現象なのだろうか。


「愚かさの研究」というエッセーを書こう!


歴史的に見ると、人間は愚かなことを繰り返しているようだ。とくに、戦争では馬鹿丸出しである。後になって考えてみると、あまり配慮がなされていなかったことに気づく。

そこで、自分自身が馬鹿の中に入らないために、その研究を行ってみようと思う。研究と言っても、Facebookページにまとめるだけで、過去のパターンを整理するだけのものだ。そして、将来の動向を見定める。そのようにすれば、その中に巻き込まれてもダメージが少ないからである。

ひとりよがりにならないために、多くの人から意見を求めるのがよいでしょう。そこで、理工式健康法フォーラムとして互いに自由な意見をアップする。前後の脈絡などは、あまり考慮しなくてもよい。同じ意見があっても、互いに矛盾をした考えがあってもかまいません。お互いに、参考になるからです。


私には、使い切れない優れたソフト。


最初から、メールとホームページは何とか続けている。しかし、その後にセットアップしたブログなどのソフトは、正直言って使い切れない。

この忍者ブログも、その機能の一部を利用しているだけで、私の手には負えない。さらに次々と入れた「goo」「Yahoo!」「Ameba」「Hatena」などは、よくわからないままに使っている。

ブログ以外でも、「YouTube」をはじめとして「Facebook・Facebookページ」「Google・Google+」などは使い切れていない。わからないままに日々過ごすのは、自分自身の身体がそうであるのと似ている。


腸相を変える必要ある人多し。


腸相というのは、人相というのに似ている。千差万別なのである。人相は顔で外面に現れているが、腸相はお腹(おなか)の中のことで、外からではわからない。

その腸相であるが、悪い人が多いらしい。腸相が悪いと、病気がちになったり、すでに病気の人もいる。

日本人の腸相は、食事の不適切で荒れている人が多いと言う。腸相をよくして、健康を保持するためには、肉食を減らして、玄米・野菜・果物を摂るのがよいらしい。しかし、個人差があって日本人であっても、ユダヤ系の人たちは肉食や牛乳・チーズなどはOK。一律に処置をすると、病人が増えてしまう。


思い付くままに始めて、百舌(もず)の速贄(はやにえ)。


「百舌(もず)の速贄(はやにえ)」という言葉がある。百舌という鳥が、虫やカエルなどを捕(つか)まえて、木の小枝などに突き刺しておく。後で食べるためである。しかし、それを忘れてしまって、そのままになっていることが多い。百舌の生贄(いけにえ)とも言う。

その百舌の速贄ではないが、私にもそのような経験が多い。思い付くままに何かを始めて、そのこと自体を忘れてしまうのである。

後でその資料を見て、思い出すことがある。しかし、すでに情熱が冷(さ)めてしまって、そのまま中途半端になってしまう。まったく困ったことではあるが、仕方ない。


蛾の仲間、ヨナクニサンには口がない。


ヨナクニサン(与那国蚕)はヤママユガ科の大形のガ。日本では石垣島・西表島(いりおもてじま)・与那国島に生息。東南アジアの熱帯・亜熱帯には広く分布。前羽の長さは、約12センチメートル。羽は褐色で、前ばねの先端はヘビの頭のような形をしている。

そのヨナクニサンには、口がないのである。つまり、何も食べない。その幼虫はオガタマノキの葉を食べるが、成虫になると何も食べずに死んでいく。

何とも哀れな話とも考えるが、何も食べずに死んでいくというのが、彼らには自然の摂理であるのだろうか。人間の口とは、違うのである。


次々とアップをすれば、「いいね!」次々。


Facebookのことである。「いいね!」ボタンがあって、気に入った記事に押せる。気に入らなくてもできるので、私は記事を見たときに用いることが多い。

何か記事を書くと、100人以上の人々が次々と「いいね!」をするときもある。また、いつまで経っても「いいね!」が付かない場合もある。

そうなると、もはや記事内容ではなく、その人への関心が関係してくるらしい。私の場合、あまり人間的な魅力がないので、数人しか「いいね!」をしてくれない。しかし、それでもいいのである。もっとも、記事を書かなければ、誰も「いいね!」をしないので、というよりかできないので、あまり意味のない記事を次々とアップする人もいるようだ。


大食いの癖直らずに、酒量も増える。


2012年(平成24年)2月28日(火曜日)。朝9時ごろに、吉野家に行って朝食。ハム納豆定食400円に、瓶ビール400円。今までは、これで終わりだ。でも、何となく飲み足りなかったんで追加。冷酒330円と、キムチ90円。そのすべて合計で1220円。

金額は、たいしたことはない。しかし、このパターンになってしまうことを心配する。朝からビール一本と酒一合である。あまりたいした分量ではないが、それでもそれが日常になってしまうことを考えると、好ましくはないだろう。

酒を身体に入れてしまうことは、何となく思考や活動に影響があるんじゃないか。また、アルコホリックの状態で、作業や思考に影響があるのではないかと心配。吉野家は100年続いた店なので、食べ物の健康には問題ないかもしれない。しかし、酒を飲むと言うことはどうであろうか。自分の分別が弱くなってしまったことも、大きな問題であろう。


ささいなる記憶の部分が、我を苛む(さいなむ)。


ちょっとした思い出や記憶の一部分が、いつまでも残っていて、自分自身を苛んでくることがある。ふだんは、まったく忘れてしまっているようなことが、妙に印象的になっている。

そもそも記憶とは何であろうか。ふつう、自分が過去に体験したことや覚えたことを後になっても忘れないでいることやその内容。しかし、心理学では生物に過去の影響が残ることを言う。つまり、過去の経験を保持して、再生したり認識する機能のこと。

情報処理でも、コンピューターに必要なデータを蓄えておくことを言う。そしてこのブログの名称は「日々記憶の断片」となっているが、それが自分を苛むのである。

Kuroda Kouta (2012.04.06/2012.04.06)