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  新句(十九音) 作品集54(2011年12月分)



簡単なことを求める齢(よわい)となりぬ。


歳のせいか、あまり複雑なことは苦手になった。どうしても、できることは簡単なものやことに限られてくる。あまり複雑なものは、使い切れない。

家電製品でも、そうだ。しかし、以前とは違って機能が多くなり、仕様もかなり複雑である。だから、使いこなすことができない。例えば、洗濯機なども途中で止めると、蓋を開けられない。チャイルドロックという装置が付いているからである。仕方がないので、いつも洗濯機内が冷えるのを待つ。

自動車なども、使いこなせない。そんなわけで、運転免許証を更新するのもやめてしまった。大型と自動二輪をもっていたのだが、教習所で実習レッスンを受けて来いとの案内があった。しかし、自信がないので更新手続きをしないで運転をやめることにした。このパソコンも、かなり複雑である。さらに、WindowやFacebookも四苦八苦。でも、老化予防の一環としてのパソコンは、まだやめたくない。


老人の眠りは浅く、目覚めが早い。


若いころは、寝ぼうをよくした。つまり、朝になっても起きられないのである。それが、いつごろからであろうか、めっきり朝が早くなってしまった。午前三時ごろには起きてしまうのである。

そうかと言って、熟睡をしたわけではない。眠りも浅いほうかもしれない。水分を多く摂るために、オシッコに数回起きる。したがって、眠りの分断化もあるのだろう。日中に、うつらうつらして眠くなるときもある。

とどのつまり、私も老人になったのである。横井也有の言うような嘆きが次々と生じる。すなわち、単に眠りだけでなく身体全体が、
<耳もとおくなり、眼はかすみ、四肢のふしぶしは痛むようになってしまいました。老人と話をして、まどろかしく感じたり、また老人をうとましく思ったのは、つい先日のような気がする>
のです。


意味のないことの連続、私の人生。


少なくとも今までは、日々があまり意味のないことの連続であったような気がする。確かに、そのときはがんばったり、熱心になったりする。しかし、やはり後になってみると、そのことが大きな意味もなかったとつくづくとわかる。何のために、何をしてきたかがいまひとつはっきりしない。

おそらく、残りの人生でもそうだろう。今までが、とりたてて言うこともない日々であって、その一日一日の積み重ねが現在である。過去の実績とか今日の成果などと言っても、そんなものではないだろうか。

そんなことを考えると、いったい人生の目的は何であろうかと、つくづく疑問に思う。金儲けや立身出世などに励む人が多いが、どうもそんな次元で私には納得ができない。いっそ、「人生には子孫を残すこと以外には、とくに目的がない」のだと考えてしまうことのほうが理解しやすい。


面白くないこと多く、老いたる日々に。


体調がよくないので、あまり気分が優れない。したがって、こころが晴れないのである。何となく、憂鬱な日が続く。

どこがどう悪いということではないのかもしれない。しかし、いっぽうでは尿に2000(+++)もの糖が出ているので、末期状態かもしれない。医者の意見では、いつ糖尿病昏睡に陥っても不思議ではない身体なのである。

それでも、都内に行って写真を撮ってきたりする。大江戸線の各駅周辺シリーズを作るためである。通院もしていないし、いわゆる食事療法や運動療法などはしていない。ただ、くちゃくちゃ(療法)とラップリン(療法)と湯治(療法)をしているだけである。したがって、面白くなくても仕方がないのである。


「どっこいしょ」、「めんどくさい」と「疲れた」はダメ。


何かをするときに「どっこいしょ」と言う人がいる。老いてくると、単に立ち上がるときにも「どっこいしょ」が出てくる。「どっこいしょ」とまではいかなくて、「よいしょ」と言う人もいる。

さらに、何かをしようとするときに、「めんどくさい」と考えたり、言ったりする。これも、何となく老化現象のようである。精力的にやる気を失ってしまったのかもしれない。

「疲れた」もダメである。「疲れた」「疲れた」と連発をする人がいる。慢性疲労や疲憊(ひばい=疲労困憊)の状態になっているのかもしれない。いずれにしても、老いの始まりであって、困った状態である。


だらだらとする悪い癖、治していこう。


私には、いつまでもだらだらとする悪い癖がある。読書やパソコンなどの場合である。さっとやめればいいのであるが、いつまでもキリなく続けている。そんなために、最後のほうの作業は、何となく効率が悪い。

でも、最後のほうで今までにわからなかったことが、ひらめいてわかることもある。同じことの繰り返しの中から、思わず本質が見えるのである。

いずれにしても、反復は意味がないようではあるが、その中から何かを悟ることもある。そして、そこに真理が含まれていることも多い。わかりきったことでも、あまり知られていないこともある。ふだんの作業では、見逃されているからであろう。そんなことも、だらだらの最後のほうで、わかることもある。


目が悪くなってから、日々プログを見ない。


ここのところ、がっくりと目が悪くなってしまった。白内障とか緑内障ではないようだが、とにかく目が疲れる。また、飛蚊症どころではなく目キラキラになることがある。まるで、滝の内側にいるような状態になってしまう。むろん、作業はできない。

そんなわけで、目を大事にするようになった。とくに目に負担をかけないことが大切である。小さい文字を長く読むとアウト。だから、ぎっしりと小さい文字が詰まった長文のブログなどは見ないようにしている。どうしても必要ならば、文字を大きくして見る。

そんなために、いきおい自分自身の閉じた世界にいるようになる。横井也有の『嘆老辞』にある孤独感を感じるように私もなってしまった。やはり、加齢による問題なのかもしれない。


誰か呼ぶ「君を待ってる」、どういう意味か?


重度の糖尿が出ちゃったので、うつらうつらすることがある。とくに、昼のご飯を食べた後である。そんなときに、大きな声で「君を待っているよ!」と呼ばれたような気がした。誰からかもわからない。もしかしたら、神経のせいかもしれないが、その声は神の啓示のようなオゴソカな響きでもあった。

まさか、神の啓示はないだろうが、何をどう呼んでいるかは、一切言われないので自分自身で考えてみた。白昼夢であるかもしれない。しかし、そのようなことが生じるほど日々真剣には生きていない。

結局は、もしかしたら「もうじき死ぬ」のかもしれない。そして、地獄の死者が「君を待っているよ!」と言ったのではないかと考えるようになった。おそらく、それが妥当な見解ではないかと思う。


人生は恥の連続、いたたまれなし。


何となく恥をかきながら、生きていると言ってよい。自分が愚かであったために、そうなるのかもしれない。何とかしなければならないと思いつつ、いつの間にか老いてしまったのである。

横井也有の言うように、いったん老いてしまうと、若い人たちの中に入っていくことが難しい。そんなことが、『嘆老辞』に書かれている。また、兼好はその引用もしている。

『徒然草』第七段に、
<命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。>
とある。現在は寿命が延びたので、古稀(七十歳)くらいを考えたらよいのだろうか。


一つずつ失いてゆく、人生空し。


一つずつ確実に失っていくようだ。それは、物質的なことではなく精神的なことである。例えば、健康。若いころは丈夫だったが、老いてくると病気がちになってくる。また、慢性化してなかなか治らない。

そんなことを考えると、自分の人生は空しいことばかり残っている。

聖書に「ベン=シラの知恵」というのがある。そこには、
<人の寿命は、せいぜい百歳。
 ……
 病を得る前に、養生せよ。
 肉体の健康にまさる富はなく、……>
というようなことが記されていた。


撤退は格好悪く、転進とする。


撤退という言葉は、何となく消極的なイメージである。旧陸軍ではないが、私も転進という言葉を使ってみよう。つまり、撤退という言葉は何となく格好が悪いけれど、転進ならば同じことでも何とか我慢ができるらしい。

そこで、私も転進をすることにした。何をかというとパソコン関係の仕事である。つまり、大きく広がりすぎた自分のシステムを整理するのである。

そのためには、
(1) ドメインをやめる。
(2) ホームページ・ブログを減らす。
(3) サークルとグループの数を減らす。
などを少しずつ進めていこうと考えている。


われわれの先祖の猿(サル)は、いかなるものか?


ここに書くことは、私の仮説。
聖書に書かれている「創造説」は、最初から人間は作られていたと考えているようだ。そして、ダーウインたちが唱えた「進化論」は例えばサルから次第に人間へいわゆる進化をしてきたと言う。

いったい人間は、どのようにして発生をしたのであろうか。ちょっと、ニワトリとタマゴの問題とも似ている。

しかし、私は次のように考える。「かつて高度に発達をした生命体(FM)が、クロマニヨンなどの原始人類に遺伝子操作をして作った」。歴史の中で、急速に文化が発達した時期がある。例えば、メソポタミア文明である。頭の非常に長い人物が描かれているが、それは異星人だったのではないだろうか。つまり、労働力を求めるために原始人を人間化したのであると考えれば、納得がいくのである。


最近は、いつもビクビク、心配多し。


最近になって、心配が多くなった。親しい友達が倒れたり、亡くなっているからだ。昨日まで元気であった人が、突然に死んでしまう。嘘みたいで信じられない話である。

また、救急車で運ばれて救急処置室に入れられ、しばらくして出てきたときはすでに恍惚の人。何とも哀れな話。

いずれにしても、次は自分の番ではないかという考えが非常に強い。なぜならば、その人たちと比べて、私はさらに不注意な日々を過ごしていたし、軽率であるから。だから、朝に目が覚めると、やれやれとほっとする。そして、今日一日は大丈夫かなぁなどと、真剣に考えるのである。


いつガンになるんじゃないか、心配な日々。


友達のうち、数人がガンで亡くなった。とても元気だった人が、短期間のうちにガクガクと逝ってしまうみたい。どこに、その原因があったのかわからないが、内蔵のいずれかの器官がアウトになっていたらしい。

ガンの恐ろしさは、かなり以前の原因が発病に関係するらしい。したがって、今から注意をしても間に合わないことが多い。

あまり痛かったり、苦しいことはないらしい。ただ、死ぬ前の数週間が耐えられないほどであると言う。そんなわけで、気付いたときは末期症状になっていることが多いという。少しでも早く治療ができるように、日々注意を怠ってはいけないと思う。


十界と十戒の意味、どう違うのか?


十界と十戒を説明すると、仏教とユダヤ教について触れなければならない。
仏教では、十界という十個の空間があるという。それは、悟りと迷いの視点から10種の境界で、悟界は仏界・菩薩界・縁覚界・声聞(しょうもん)界、迷界は天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界である。

旧約聖書に「神が告げた十戒」というのがある。なお、以下の行頭にある番号は「節番号」であって、単に覚えであるから十戒の番号ではない。
01 神は、こう言った。
02 〈私は主、あなたの神、あなたをエジプト国、奴隷の家から導き出した神である。
03 私の他に、神があってはならない。
04 いかなる像も、造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある形も、造ってはならない。
05 あなたは、それらに向かってひれ伏したり、仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は、熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う。
06 私を愛し、私の戒めを守る者には、千代までも慈しみを与える。
07 あなたの神、主の名を偽って唱えてはならない。偽ってその名を唱える者を、神は罰せずにはおかない。
08 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
09 六日間働いて、何であれあなたの仕事をする。
10 そして七日目は、あなたの神の安息日である。いかなる仕事も、してはならない。あなたも、息子・娘・男女の奴隷・家畜も、町の中に寄留する人々も同様である。
11 六日間に、神は天・地・海・そこにあるすべてのものを造り、七日目に休んだから、神は安息日を祝福して聖別した。
12 あなたの父母を敬え。そうすれば、あなたの神、主が与える土地に、長く生きることができる。
13 殺してはならない。
14 姦淫してはならない。
15 盗んではならない。
16 隣人に関して、偽証してはならない。
17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻・男女の奴隷・牛・ろばなど隣人のものをいっさい欲してはならない〉


突然に大声を出し、叫びたくなる。


だいぶ以前から、そんな衝動にかられることがある。突然に大声を出して、叫びたくなるのである。いったい、何のためだろうか。

最近になって、街やデパートで、ぶつぶつと言っている人を見かける。電車の中にも、ときどきいる。何となく気が違っているように見えるが、暴れるわけではなく、ちゃんと目的の駅で降りてしまう。

それが、まったくふつうの人の格好をしている。もしかしたら、独り言かもしれない。しかし、聞いていると意味のわからないことが多い。言葉は意思を伝える手段と言うが、いったい誰に何を伝えようというのだろうか。何となく、自分で自分に言っているように思う。おそらく、私の叫びたくなる症状も、そうなる前兆かもしれない。心配である。


パソコンは、私の知的空間である。


私のパソコンには、
(1) ホームページ
(2) Facebook・Facebookページ
(3) Twitter
(4) YouTube
(5) Google・Google+
(6) ブログ
などが入っている。

ブログは、ホームページからジャンプして
(1) 忍者(日々記憶の断片)
(2) goo(名曲ライブラリ)
(3) Ameba(青空ライブラリ名作コレクション)
(4) yahoo(健康21シリーズ)
などがある。

そして、私はすべてを「知的空間」として利用している。そして、それらを「人生を豊かにする」ことに使いたい。


もう一度、見直す気力、すでに失う。


だいぶ前に作った文章である。中には、中途半端のままになっている箇所が多い。忙しかったり、他のページの作成をしたりして、手がかけられなかった結果である。

そんな箇所は、もう一度じっくりと見直して、改めていく必要があろう。しかし、時間はあっても何となく見直す気力がないのである。もっと内容を検討して、よいものにしたいことは事実なのだが。

小説家の誰かが、志賀直哉を訪ねたら、引出しの中から短編を取り出して、推敲していたと書いていた。その引出しには、未発表の作品がたくさん入っていたらしい。私のは、すでにホームページにアップしたものであるが、それを見直していく気力がないのである。つまり、簡単に言うと、自分で自分自身の過去を覗きたくないのかもしれない。


どうしても、さるぼぼを見た場所、思い出せぬ。


京王線沿線のどこかの駅から歩いていたとき、小さい祠の中にさるぼぼがたくさん糸で吊してあった。それが、どこか思い出せないのである。Windowキーで「人形」「糸で吊した」「祠」などとしても出てこない。「さるぼぼ」という言葉は、まだ知らなかったときだから、むろんダメ。

飛騨弁では、赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言う。だから「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」という意味。災いが去る(猿)ということで、お守りなどとされる。基本的な形は、赤い体に赤くて丸い顔。目と鼻と口は省かれている。そして、赤い手足。黒い頭巾と黒い腹掛け。

それが糸に吊されて数多くあったのが印象的。そして、この「さるぼぼ」という言葉を添えようとして探したのだが、まだ見つからない。どこかの野辺にあった小さい祠の中であったことは、はっきり覚えているのだが、……。


結局は人生の意味、解らずじまい。


古希を迎えて、いろいろと考えてみた。このままでは、人生の意味も、とどのつまり解らずじまいで、終わってしまうらしい。何とも情けないことである。

そこで、間違っていてもいいから、自分が納得する内容で考えることにした。それも、科学的な証明をすることなしに、直感で決めてよい。すると、意外なことがわかった次第。

結局は、人生のもつ意味など最初からないのではないか。立身出世をする、金儲けをする、社会に貢献をする、……。しかし、人生があって考えるので、考えたから人生があるのではない。ただ、その瞬間をまさに生きているということが大切。そして死んだらどうなるかということも、まさしく一大事である。


楽しみは、久々に来る友からのメール。


お互いに事情がいろいろあって、連絡が久しく途絶えていた友がいる。病気になったり、仕事の都合でそうなってしまったのかもしれない。

そんな友から、久々にメールが来る。何ともなつかしい気持ちがする。私は、あまり友達が多くない。そんなために、その感激がひとしお。

『論語』に、<朋(とも)あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。>とある。冒頭の二つ目の文である。おそらく、私もそのような気持ちになっている。しかし、その後にある<人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。>の境地には、なかなかなれない。


グーグルで、魚籃観音探す雨の日。


私は、魚籃観音が大好きである。あまり遠くへは行けないが、見に行ったところについては、『魚籃観音の研究』というレポートを作っている。範囲は、東京都内とせいぜい近県。

しかし、雨の日には外出ができない。そこで、ひねもすグーグルで魚籃観音のまします場所を探す。しかし、最近では自分自身の記事が多くなってしまって、なかなか新しい場所が見つからない。いきおい、だらだらと効率の悪い作業になる。

それでも、こつこつと調べていく。他人のホームページやブログを見ることも、いろいろと勉強になって面白い。また、ひょっとして新しい出会いのあることがある。そんなことで、雨の日も楽しい一日が過ぎる。


恥ずかしい人間ゆえに、人前に出ぬ。


この歳になって考えてみるに、あまり輝かしい実績もないし、誇れるような仕事もしていない。そんなわけで、かつて親しかった人たちと会ったりするのは億劫になる。同窓会なども連絡が来るが、すべて欠席。正直に「今のところ、人前に出られる状態でない」と書くと、心配して問い合わせが来たりする。

実際に言葉通りの意味であるが、旧友は私が病気になっていると心配をしてくれるらしい。かつて、あれほど元気だったのに、いったいどこが悪いかなどと聞いてくる。

そんなわけで、いつも閉口をするのであるが、とにかく人とは会わなくなった。そして、新たな知人を作ったりすることなどは、よほどのことでない限り、なくなってしまった。


もう何も面倒くさい、衰えたのか?


最近になって何をするのも面倒くさく感じることがある。そもそも「面倒くさい」などということは、今までにはあまりなかった。

つまり、億劫なのである。身体が追いついていかないのかもしれない。身体と言うよりも、気持ちの問題。「やる気を失った」という感じ。

人生も古稀を過ぎると、身体が衰えてしまう。そして、精神的にも気力を失ってしまいがち。ウルマンの詩のように、いつまでも若々しい人はいるのだが、……。(ウルマンの詩には、BGMが付いています。)


ハコテンになったみたいな私の生きざま。


麻雀のハコテンです。つまり、最初の持ち点がなくなってしまい、さらにマイナスになった場合。破産をした状態に似ています。そうなると、この半チャンを終えて、次回で取り返そうとするのです。

ちょうど勝負に負け越して、やけになって「もう一丁」「もう一丁」と続けるのと同じです。いままでの回に負けたので、新たな次回を期待するわけですが、なかなかそうなりません。ますます借金が増えてしまうこともあるのです。

自分の無能力と努力不足のために、正直言って今までの生きざまは大きな負け越しです。大声で叫びたくなるような衝動にかられますが、人の一生は次の半チャンというようにはいきません。現時点での負け越しを次の勝負で取り返すなどということが不可能なのです。やはり自分の力量が、不足をしていたことは否めません。仕方のないことです。


何となく、すべてがムダであったような気。


私も古稀を過ぎ、ぼつぼつ人生を振り返ってもよい時期なのであろうか。すると、何となく今までにしてきたことが、すべてムダであったような気がしてならない。もっとも、その中にはわずかであるが、自分自身で納得をするようなことも、ないことはないが。

いったい人生とは、何であろうか。そんなことを考えると、いたたまれない気持ちになってしまう。

さらに、死んだらどうなるであろうかなどと考える。そして、考えると言うことは何かなどと、とりとめのないことを考える。『パパラギ』にあったツイアビの演説に「考えるという重い病気」というのがあったと思う。


私には、使い切れないパソコンソフト。


いろいろなソフトがあるが、私にはなかなか使い切れない。

例えば、
(1) Facebook・Facebookページ
(2) Google+
(3) YouTube
(4) Skydive
などである。

もっとも、それなりに必要なソフトをインストールしたり、セットアップをして使ってはいるが、まだまだ「使い切れていない」とう感じ。つまり、細かい仕様がわかって、自由自在に用いることができないまま。


ほどほどにするのがベスト、何事も。


何事にも、つい熱中してしまう。特に、最初のころはそうである。「これでもか、これでもまだか」というように続ける。

しかし、やがて疲れちゃう。そして、勢いが衰えてくる。飽きたわけではないが、最初のような情熱が湧かなくなってしまうのである。

やはり何事も、ほどほどにするのがよい。そして、やっているうちにその奥義を発見できることが好ましい。それは、あたかも『コヘレットの書』に述べられているように。最初は、少しずつ慎重に進めていくのがよいでしょう


音楽は心を癒やす、私の薬。


音楽が薬というのは、おかしいかもしれない。私はパソコンをするとき、BGMとして音楽を鳴らす。真夜中でもそうであるが、音が迷惑なので耳がすっぽりかぶるレシーバーで聞く。そうすると、音質がよく臨場感も増す。

聞く曲は、たいがいYouTubeからピックアップしたもので、演奏の実演が付いているものが多い。しかし、BGMなので単に画像だけでもかまわない。

いずれにしても、心が癒やされる。日々のメニューとして、あらかじめ前もって『名曲ライブラリ』に登録をしておく。わかればよいので、かなり略語を用いて短くする。つまり、その日に用いる自分の薬を用意しておくように。……


一つずつ治してもダメ、つながっている。


すべてがそうとは言わないが、たいがいは個別的でなく総合的に関連している欠陥である。つまり、複雑な関係があって、それが結果として出てくる。

私たちの身体は、非常に複雑な構造をしている。したがって、群盲象索ではないが部分的に見てもダメ。例えば、腹がチクチクするときに、胃や腸のこともあろう。しかし、外部から針が刺さったようなこともあるかもしれない。

そのようなことを考えて、症状があったときに全体的なことを考えなければ、原因を見逃してしまう。つまり、気付かないのである。一つずつ治すのでなく、全体的に見て、その原因となり箇所を最初に、そして関連する箇所を次々と治していく。そうすると、原因の箇所だけで全体が治ることもあるでしょう。


「もうダメだ」などと思って、今年も過ぎた。


いろいろなことがあった一年である。長男の死、群馬県太田市だった。何度も往復して、後の整理が大変であった。

私自身は、あまり体調の優れない一年。おそらく、糖尿病が進行をしたためだろう。何とか日々過ごしているが、いつも何となく気分がよくない。

『コヘレットの書』(伝道の書)に、
<17: 人は一生、暗闇(くらやみ)と、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。>
とあった。まったく、その通りだと思う。

Kuroda Kouta (2012.01.01/2012.01.01)