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  新句(十九音) 作品集53(2011年11月分)



自分史を作ってみよう、老化予防に。


とくに、自分が偉大なことをしたわけでない。だから、伝記などの必要はないかもしれない。ここで、「自分史」などを書くというのは、単に自分がぼけてしまわないための工夫である。

つまり、ぼけてしまえば自分自身では何も書けない。逆に、いろいろと書いてみると記憶が新たになって、ぼけにくいのではないかと思う。

そこで、いろいろな方法がある。いちおう編年体で書いていくのが、自分自身でもわかりやすいのではないだろうか。また、自分が死んでから、もしかしたら子どもが読むかもしれない。あるいは、そのまま反故(ほご)になっちゃってもかまわない。そんな姿勢でやってみた。恥ずかしい内容のものであるが、……
http://www.geocities.jp/rikwhi/riko/sakusya_all.html


個人差もあるが、互いに意見を言おう。


健康について述べるときに、ふつう一般論を言う。個人差の考慮をしないと、逆効果になることなどを考えない。だから、長年にわたって健康について、国やNHKなどで喧(かまびす)しく言っているのに、一億総病人というような状態になってしまったようだ。

つまり、平均的なことから自分がどれくらい偏っているかを、誰もが認識しておく必要がある。しかし、そのような趣旨で云々されることは少ないようだ。

そこで、「理工式健康法」を考えてみた。誰もが気軽に意見を言える訪問者参加型のホームページにしてあるから、大いに参考になるのではないか。
http://www.facebook.com/kenkokai?v=app_112493455447504


意識とは、顕在意識・潜在意識。


「意識」には、「顕在意識」と「潜在意識」が存在する。特別に「顕在意識」などと言わないかもしれないが、「顕在」とは「はっきりと形にあらわれて存在すること」を言い、「潜在」に対する言葉である。つまり、私たちの意識である。

「潜在意識」は活動をしてはいるものの自覚されない意識のことで、いわゆる隠れた意識である。この意識が、非常に大切なのである。

なぜならば、「意識」と同時に「意思」を考えなければならないからである。もともと意識とは心が知覚を有しているときの状態で、対象の物事や状態に気づくことである。はっきり知る場合と、単に気にかけるだけのことがある。対象をはっきり知るためには、その物の意思を感じなければならない。


何となく、朧げ(おぼろげ)ながら死を考える。


朧げ(おぼろげ)は、はっきりしなくて、まだ不確かなことである。

(1) 人間が物質化をしていることのほうが、異常な状態ではないだろうか。
(2) 「自分が自分自身の肉体の外にいる」感覚は、一人の人間が肉体だけで構成されているのではないという可能性をもっているのではないだろうか。
(3) 臨死体験は脳が感じたり、意識したことであろうが、脳以外にも私たちをコントロールする何かがあるのではないだろうか。
(4) 死に関して、現代科学が無知であるような感じを受けるのはなぜか。
(5) オッカムの剃刀ではないが、仮説を少なくして、直感で考えるようなことができないのはなぜか。
(6) 何となく、脳に問題があるような気がする。
http://www.facebook.com/note.php?created&¬e_id=265845020100143


あいさつをする人、しない人、さまざまだ。


「人さまざま」という書物を読んだことがある。ギリシア時代の話ではあるが、現代の身近な人にも言えること。しかしここでは、テオフラストスが書いているような高度な癖などではなく、まったく基本的なことを言おう。

例えば、あいさつ。これは知っている者どうしの常識。しかし、最近は互いに顔見知りでもしない。そんな風潮である。マンションのロビーやエレベータの中、互いに黙っている。きっと少しでも、かかわりたくないのかもしれない。

しかし、ハイキングに行ったり、堤防を歩いていると、気軽にあいさつを交わす。おそらく、それはそのときだけの行動で、後になっても何ら関係しないと考えるからだろうか。書物に出てくるような諂いは不要だが、もう少し互いに礼儀が必要なのではないだろうか。


たらだらと続けるうちに、面倒になる。


何でもそうだと思うが、最初は張り切ってする。しかし、やがてだらだらとしてしまう。さらに、続くと面倒になってしまう。飽きてしまうためだろうか。

面倒になったら、やめればいいじゃないかと言う人がいる。しかし、なかなかやめられない。そして、マンネリのごとくだらだらと続ける。

考えてみれば、人生の問題は連続の場合であることが多い。一日の食事・睡眠・排便などもそう。また、心臓の動きや肺の呼吸なども単純な繰り返しだ。それらは、飽きたりしない。つまり、心臓が鼓動をするのがいやになったり、私たちが飯を食うのが面倒になったりしない。だから、日記などが面倒になるということは、かなり精神的な我が儘なのかもしれない。


宝くじ、当たった故に殺された人。


二億円が当たって、その後しばらくして行方不明になった女の人がいた。警察が調べたところ、○○の勧誘員に殺されていたという。いったい、その人の人生は何であったのか。

そんなことなら、宝くじなどに当たらなかったほうがよかった。おそらく、本人は考えてもいなかった結果であろう。

うれしくなって、多くの人に吹聴をしたらしい。その相手の中に悪い人がいたのだ。二億円を奪うために殺したほうも、愚かであったかもしれない。計画性もないままに、殺してしまい、死体を山林に捨てたという。そんなわけだから、すぐに逮捕されたらしい。後で考えると、二億円が二人の不幸な人間を作ったことになる。いったい、その女の人にとって宝くじは何だったのであろうか。


恥ずかしい思い出ばかり甦(よみがえ)り来る。


なぜだろうか? 楽しかったときの記憶や得意になったことがらを思い出すことは少なく、むしろ恥ずかしかったことや失敗をした事件などの記憶が次々と思い出として甦ってくる。そして、今考えてみてつくづくと自分自身の愚かさを思い知らされ、何となく苛(さいな)まれる感じである。

だから私にとって、思い出はあまり楽しいものではない。すなわち、すべての思い出が楽しくないのではなく、思い出される思い出が楽しくないのである。

もしかしたら、今後もそのような後悔の連続なのかもしれない。そんなことを考えると自分自身の記憶そのものに愛想がつきてしまう。大声で、「わっ」と叫びたくなるような衝動に突然かられることさえあるので、何とかしなければならない。


少しずつ仕上げていこう、プチさんの記事。


ここのところプチさん(プティ散策)を続けているのだが、いっぺんに多くのところには行けない。なぜならば途中で疲れてしまったり、足が痛くなったりする。そんなときは大事をとって、中止して後日に持ち越す。

そこで、改めて地図を見ながら調べ、少しずつ記述漏れや行っていない場所の追加をする。やがて少しずつではあるが、何とか自分自身でも満足できる内容になってくる。

何回か同じ場所に行くと、飽きてしまうという人もいる。しかし同じ対象でも、私は新しい観点や視野で見られるので、飽きるどころか改めて興味が湧く。そんな次第で、私は少しずつプチさんの記事を仕上げていく。そして、それが私にとって「生きている証明」にもなるのだ。そんなわけで、いっぺんに完成をしなくてもよい。


たどりつく妙なり、いまだ来ていない場所。


かつて一度も来ていない場所で、神社仏閣などをさがす。そのとき、何となくこちらのほうではないかという感じがすることがあって、そこを進んでいく。驚くことに、その突き当たりなどに、さがしていた場所があるではないか。

不思議なことではあるが、誰かに導かれていて、たどり着いたような感じだ。単に、勘がよいというような問題ではない。

そんなことは、日常の生活でもたまにある。「そうなるな」と思っていると、そうなったりする場合である。『正法眼蔵』に、「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」と書かれた異本もあるが、「思いが通じる」などということが現実の生活の中にあるのだろうか。


ことさらに何もなさずに日々過ぎていく。


『一言芳談』に、「何もしないで、寝ているのは悪いでしょうか?」というような質問があって、「何もしないのは、それなりによい」というような答えがあったと思う。

『一言芳談』(いちごんほうだん)は、鎌倉時代の法語集であるが作者未詳。法然など浄土宗高僧の格言・短文を集めたものである。さらに、そこからの孫引きが『徒然草』にもある。

私は、とくに何もしないで歳をとってしまった。むろん、会社に勤めていたころは、それなりの仕事をしていたわけではあるが、とくに言うほどのことをしてはいない。つまり、あまり社会的に有意義な業績を残さず、一生を終えてしまうパターンの人間なのである。そんなことが、最近になってわかった。


行動の範囲広がる、バスの利用で。


シルバーパスを取得してから、かなりバスを利用するようになった。そして、行動範囲が大幅に広がったことに気付いた。なぜならば、足の不調がカバーできるからである。

昨年から膝に問題があって、長距離を歩くと痛くなってしまう。そこで、バスに乗って目的地のそばまで行くことにした。帰りも最寄のバス停から戻ってくる。そんなことをすると歩く距離が少なくなって、足の負担を減らしてくれる。

バスを利用した小旅行と言ってもよいが、むしろプチさん(プティ散策)の延長と考えたほうがよいかもしれない。高齢者が足に負担をかけないで、気軽に移動することができるシルバーパスは、素晴らしいシステムである。


晴れた日はプチさん(プティ散策)、雨は持ち物整理。


「晴耕雨読」という言葉がある。晴れた日には畑を耕し、雨の日は読書をするというのである。私の場合、晴れた日にはたいがいプチさんをする。そして、雨の日はパソコンをしたり、持ち物の整理をする。つまり、持ち物と言ってもパソコンの中にある原稿もそれなのである。

年金生活者になってからは、とくに日々の仕事がない。原稿などの執筆依頼も、すべて断ってしまった。以前のことを考えると、いくらやってもキリがないからである。

そして、諦めもある。つまり、私が何かを書いても、社会のためにならないのではないかと思うようになったからである。そんな次第もあって、他人のためではなく自分自身のために書くようになった。書くというと大げさで、老化予防のためにメモっておくようなことを日々している。


スパイダー・ソリティアできて、こころ和みぬ。


Windowにおまけで付いているゲーム中に入っていたスパイダー・ソリティアである。一日に数回、気分転換や占いとして遊ぶ。実によくできているので、面白い。やってみると、半分ぐらいは上がれる。

私は、籤や賭などは嫌いであるから、本来ならばしない。しかし、気分転換や頭の体操、というか老化予防の一環としてはよいのではないか。

ハノイの塔なども、もともと僧院で修行のためにやったらしい。ゲーム中に、他にも面白そうなのがある。しかし、私は、このソリティアだけしかやらない。それでも、ヒントのときに意味のないカードの動きを教えてくれることがある。そのようなときは、自分自身の判断で進める。たいがい、そういうときは次の手でアウトになってしまっていることが多いが、……。


エスカルゴ好きな友だち、フランス帰り。


エスカルゴをご存知だろうか。蝸牛(かたつむり)である。日本では、あまり食べる習慣はないようであるが、ヨーロッパでは美味の類いに入るらしい。

近くの食堂で、エスカルゴが食べらえる店は少ないようだ。私は、サイぜリアというファミリーレストランで何回か食べたことがある。赤ワインとともに、いただくのであるが、最近になって何となく食べたくないと思うようになった。味もさることながら、あの香りがいやになったのである。

しかし、若いころにフランスで過ごした友だちは、エスカルゴが大好き。とうとう一つも食べられなくなった私の前で、たこ焼きのような鉄鍋から、おいしそうに全部を食べてしまう。さすが、食習慣に慣れた人はすごいと思う。友だちの食べるのを見て、何となく自分がモダンではないような気がしてしまう。


少しずつ身廻りのもの、整理していく。


古稀を過ぎたころから、あまり多くのことができなくなった。すぐに疲れてしまったり、飽きてしまうからである。そんなわけで、将来しようと思って保存しておいたものが、手つかずのまま終わってしまうことがわかってきた。

そこで、身の回りにあるそのような不要なものを少しずつ整理していくことに決めた。今考えると、自分が老け込んでしまうなどと、想像をしていなかった。そんなことはわかりきったことであるが、認識が甘かったのかもしれない。

とにかく、日々の生活を整理して、すっきりとしておく必要がありそうだ。いつ自分がひっくり返ってもよいように、身辺の整理をするのである。私もそんな齢(よわい)に、なってしまったのである。いつの間にか、……。


くちゃくちゃとガム噛むことで、唾液うながす。


貝原益軒の『養生訓』に、
<痰(たん)は吐き出しなさい。唾液は飲み込みなさい。>
というような記述があった。実際に、唾液は消化のほかにもさまざまな効果をもっているので、そのようにするのがよいでしょう。

よく噛むと、一日に1.5リットルも分泌するらしい。しかし、やわらかい食べ物が普及したので、それほど噛まなくなった。そこで、ガムを噛むことによって、唾液の分泌をうながす。くちゃくちゃと噛んでいると、唾液が出てくる。それを飲み込むのである。

唾液は、口腔内の乾燥を防ぎ、食物の咀嚼(そしゃく)や嚥下(えんげ)を円滑に行う。さらに、消化を若干行い、食物中の味質を溶解して味覚を味わう。そのような機能があるので、糖尿病の場合には一日に2リットルくらい欲しいので、私はガムによって実現をする。


コブラーの弾くスカルラッティ、美しくあり。


イレーナ=コブラー(Irena Koblar)は、女性ピアニスト。何年生まれか知らないが、ピアノを弾いている姿は若々しくて美しい。かなり以前の演奏であるかもしれないが、スカルラッティのピアノソナタを弾いてるのを見ていると、ほれぼれとしてしまう。

その容貌よりも、むしろ指の動きが美しいのである。むろん、曲によって違うだろうが「K.1 in Dminor」を聞くと、力強さと繊細さを感じる。

これは、スカルラッティの一番である。ドメニコ=スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685~1757)は、バッハ時代の鍵盤曲に新しい技法を取り入れた作曲家。マリア=マグダレーナ=バルバラ王女のために書いた555曲の練習曲が、そのテーマ性と展開によって後に「ソナタ」と呼ばれる。


老いてから、餓鬼のごとくに腹が減りけり。


なぜだろうか。最近になって、腹が減ってしかたがない。若いころならばともかく、すでに古稀を過ぎているから、そんなに働いたり運動をするわけではない。もしかしたら、病気のためかもしれない。

ふつう朝食を抜くが、湯治に行く日である。週に二・三回であるから、隔日のときもある。そんなときは、昼になると何とも腹が空くのである。

ふつう、まず吉野家に行って、ライスカレーとビール。ライスカレーには、まったく肉が入っていない。ビールは、サントリーの天然地下水を用いたモルツ。それで、終わればよいのであるが、まだ腹が減っている。そこで、もう一軒。ルパに寄って、焼きたてパンとアイスコーヒー。あるいは、マクドナルドでビックマックのセット。そのくらいで、何とか腹がいっぱいになって帰宅。お恥ずかしい次第。


熱演のオイストラフの頬(ほほ)がぷるぷる。


「David Oistrakh plays Tchaikovsky Violin Concerto」の一場面である。熱演のオイストラフの頬(ほほ)が、ぷるぷると揺れる。ちょっと太り気味のヴァイオリン奏者だからであろうか。

演奏は素晴らしいのであるが、聞いていて何とも愉快である。モノクロ画面に、気むずかしそうなオイストラフが写っている。熱演であるが、独奏ヴァイオリンが休符のところで、ハンカチを出してしきりに汗を拭く。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、かなり難しい曲であるらしい。その当時ロシアで最も偉大なヴァイオリニストであったペテルブルク音楽院の教授レオポルト=アウアーは楽譜を読むと、演奏不可能として初演の依頼を断ったという。


くたくたになって帰ると、写真の整理。


最近になって、右足の具合が悪いために、少し歩くと疲れてしまう。それでも数キロ歩き、聖蹟桜ヶ丘駅まで帰ると食事をして、さらにコーヒーをいただく。そして帰ってシャワーをすると、かなり疲れてくたくた。

しかし、その日のうちにプチさん(プティ散策)で歩いた場所の写真を整理してしまう。なぜならば日が経ってしまうと、どこの何かを忘れてしまうから。

まず、水平位置の確認・修正。場合によっては、遠近歪みを補正する。それからトリミング。最後に400×300サイズに加工する。撮った写真のうち、4分の1くらいを使用。それ以外のものは、原画エリアから削除をしてしまう。


バス自由自在に乗って、プチさんをする。


足が少し不自由になってから、ムリをして歩かないことにした。かつてのように強行軍をすると、膝の部分が痛くなってしまうからだ。そこで、バスを利用する。

バスに乗って目的地の近くまで行くと、プチさん(プティ散策)全体の歩く距離を少なくすることができる。私は、聖蹟桜ヶ丘駅や京王八王子駅などを基点とすることが多いが、始発ターミナルなのでほぼ時間通りに来る。また、屋根があるので雨模様の日でも平気。

都合のよいことに、たいがいのところは帰りのバスの路線がいくつか重複をしている。したがって、時間当たりの本数が多くなって、そこでの待ち時間は少なくてすむ。そんなわけで、目的地が複数あって離れていると、バスを乗り継ぐことが多くなった。やってみると、なかなか便利で楽しいものである。


この冬を越せるか否か、心配もあり。


毎年のことであるが、秋になると妻と話す話題。なぜならば、親しかった人はほとんどが冬の寒い時期に亡くなっている。死因の多くは、脳梗塞や心筋梗塞である。以外にも、ガンは少ない。

私も妻も、とくに血圧には注意をしている。140以下・90以下であることが多いが、ちょっと油断をすると境界値になることもしばしば。例えば、コーヒーをお変わりして飲んだりすると、……。

何とかして冬にも元気でありたいと思い、いろいろと注意をしている。銭湯に行って、水風呂を利用するなどグルミューの回復を図った。一年ほどかかったが、抹消血管抵抗が小さくなったせいか、血圧が10ほど下がった。また、食塩を調味料として使わなくなったことも、血圧を下げる原因になったと思う。


同じ句や、似たような句があってもOK。


この新句では、同じ句があってもよい。まったく、同じくでもよいのである。なぜならば、文学というよりも、日々記憶の断片であったり、生活の知恵であるから。

『論語』に、
<子の曰わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁。>
というのが二つある。一つは、最初の「学而第一」。そして、もう一つは私のテキストでは、
<子の曰わく、巧言令色、鮮(すく)なし仁。>
となっていて、巻第九の「陽貨第十七」である。

これは、もしかしたら編集者が気づかずに、二つを入れてしまったのかもしれない。しかし、さらに勘ぐれば、非常に大切な内容であるから、別のところに再掲したのではなかろうか。


何故に恥の思いが迫りて来るか?


なぜだろうか? 執拗に身に迫ってくる恥の思い。存在そのことが恥として、まとわり付いてしまったようだ。恥は、罪に似た概念であろうか? それとも、後悔の一種なのか?

スピノザが言うような二度ではなく、数十回、数百回も繰り返しながら、そして他の後悔も怒涛のように関連してくる。まったく不幸の連続である。いつの間にか恥という概念が一つ、身に付いてしまった。

「あなたは、いったい何が恥ずかしいのですか?」
「存在そのものが恥ずかしいのですよ」
「存在ですか?」
「そうかと言って、存在をなくすことも恥ずかしいのです」
「……」


何故に迫り来たるか、破滅願望?


どうしたことだろうか、最近になって「もう終わっても仕方がない!」などというような終末観が心に起こる。日々何とか真面目に生きているのだが、どうしてそんなことを感じるのだろうか。

確かに、現代の生活はコンフォタブル。細分化された学問・科学・政治・経済などのお陰である。食生活や交通など、昔には考えられなかったほど便利。しかし、一方では人類の愚かさなどが見えてくる。全体の見える人が少ないためか、いわゆる「群盲象を評す」ようなことが多い。

さらに上の次元で見たら、どうだろうか。例えば神の目で見ると「滅びの日」にふさわしいのではないか。そもそも地球自体が「大きな船が行き先もわからないままに、航海をしているようなもの」ではないか。もっとも、私もその中にいるのではあるが、……。


言い出せばキリなく続く、政治と宗教。


私は、政治と宗教に関しては意見を言ったことが、まったくないとは言わないまでも、非常に少ない。なぜならば、言い出すとキリがないからである。

ブログなどに意見を言い出して、「これでもか、これでもまだか?」というような案配で、いつまでも続けている人も見受ける。その方法が間違っているわけではないが、あまり効果のあることとは思えない。

つまり、自分自身が政治家であったり、国会議員などの代議士ではないので、非常に大きな社会に対して、自分自身の意見を公表しているのである。あたかもメガホンを持って、街角で演説をするようなもの。かつて日蓮がしたように、苦労や困難がさまざまな形でやってくる。私は、すでに高齢で体力ももはやないから、ムリだと思う。だから、政治と宗教に関しては、どうしても自信がないのである。


くちゃくちゃとラップリンとで、糖尿なおす。


糖尿病になってから久しい。そして、あまりにもその患者の多いことに驚いている。つまり、ふつうの方法では治らないと知った。いわゆる食事療法と運動療法である。その両方ともが無意味とは言わないが、あまり効果がないのではないか。

なぜならば、それを忠実に実行して完治した人が非常に少ないからである。そこで、自分自身の責任で自分が考えたことを初めてみた。それが、「くちゃくちゃ療法」と「ラップリン療法」なのである。いずれも自分が生成したものだからタダ。やってみるとフィードバック効果が、抜群であるらしい。

前者は、唾液を一日に2リットルほど飲むための方法。後者は、オシッコを一日に小さじ一杯ほど飲む方法である。いずれも、副作用もなく何となく安全みたい。やってみると日々の体調がよく、糖尿病の末期症状もまだ出てこない。もう少し、いや一生続けるとよいのかもしれない。


楽しみは、身近なものに新たな発見。


若いころは、エネルギッシュに動き回ったものである。しかし、加齢に伴って体力がなくなった。遠くへは、行けないのである。また、身体が疲れてしまうようなこともムリ。そんなわけで、身近なものやところに着目。

身の回りにも、楽しみは多くあるだろう。小さな喜びではあるが、探せばキリがない。バスを利用したり、電車で半日ぐらいのところにも、結構ある。

例えば、神社・仏閣巡りである。それらは、解放されていることが多いので、いつでも中に入れる。本殿や本堂はムリであっても、境内には参拝・散策できるからありがたい。そして、大仏・大観音がましましたり、魚籃観音があったりする。そんな楽しみがあるので、プチさんと言って、あちこちに行ってみる。また、行く前にグーグルの地図を見るのも楽しい。


Kuroda Kouta (2011.12.01/2011.12.01)