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  新句(十九音) 作品集52(2011年10月分)



次々とガタがやってくる、老いたる身体(からだ)。


古希を過ぎたころから、身体(からだ)の不調が次々と襲ってくる。いつも、どこかの調子が悪いのである。歯は年間を通じて、週に一回は歯科医に通っている。そうしないと歯石がたまって、歯周病になってしまうからだ。

それに目。目もダメらしい。パソコンの作業を長くすると、目がかすんだり、キラキラとすることがある。ときには、二・三時間でなってしまう。

ハメマラ(はめまら)とは、よく言ったものだ。魔羅。つまりオチンチンはすでに以前から勢いがなくなった。そして、歯。目ときていたが、ここのところ耳や鼻も悪くなってきた。今までに実感がなかった横井也有の『嘆老辞』を、改めて認識する次第である。


キリのないことを次々するは愚かか?


何かを目指してがんばると、チャレンジとか可能性の追求などと言う。蒐集や趣味の場合でも、本格的になると大変だ。それが、あまり社会的に有意義でないことであっても、世間はそれなりに注目をする。

やっている本人は、単に自己満足にすぎないこともあるだろう。そして、ほどほどにするということを忘れてしまった場合も見受けられる。だから、次々とそれに向かう情熱が湧いてくるのである。

『荘子』にあるように「有限の身であって、無限の対象を追うのは危ない」などとは考えないのだろうか。たかが蒐集や趣味などに対して、一時的な情熱や成り行きで馬車馬のように突き進むのは、あまり賢くない方法でなかろうか。まず最初に、自分がやっているのが「キリのないことである」と認識することも大切であろう。


『円空』というドラマ見て、すごいと思う。


テレビで『円空』というドラマを見た。円空(1632?〜1695)は、江戸初期の僧で、生涯に十二万体の像を作ることを発願。諸国を経巡って布教しながら、円空仏とよばれる仏像を制作。円空仏は木彫りの仏像で、鉈(なた)で彫った素朴で大胆な作風。現在、二千数百体が発見されている。

私が見た映画は、丹波哲郎が円空、樹木希林が女弟子のような形で語り、他に倍賞美津子なども出ていた。ものすごく迫力のある映画だった。とくに、円空が最後に即身成仏になるくだりは素晴らしい。

その入定(にゅうじょう)であるが、自然の成り行きで、演技もぎこちないところがなく、何だか現実を見ているような感じだから、不思議である。そこで丹波さんが亡くなったわけでないが、希林さんの語りによって、ものすごい効果を出していた。


現代は、ルール違反が社会に多い。


何故だかわからないが、現代社会にはルール違反が多い。多いどころか、蔓延をしているのである。商社が生産地を偽ったり、農薬の使用などを隠蔽することは、日常茶飯事。誰も気がつかないままに、行われているようだ。

いったい良識などは、どこへいってしまったのだろうか。儲かれば何をしてもよいと言った経済構造であるから、仕方がないのかもしれない。

それをプロレスの試合に例えてみよう。試合ごとに救急車が来て、レスラーを病院に担ぎ込む。そして、死者が次々と出る。そんな試合が、あるだろうか。レスラーは、それなりに決してルール違反をしていないから、そうならないのである。ショーとしての違反はあっても、根本的な違反をしないから、死者が出ないのであろう。


心地よさ追求しても、なかなか難(かた)し。


「生きがい」というか、「生きる目的」の一つは、「心地よさ」の追求ではないでしょうか。単に「心地よさ」と言っても、肉体的なことばかりではなく、精神的な充足までを含んでいることでしょう。

その「心地よさ」が、なかなか現実になりにくいのです。少しの間、その状態にあっても体調が崩れたり、身体のどこかが悪くなると、すぐに失われてしまいます。また、人間関係の問題などから「心地よさ」が崩れ去ることがあるかもしれません。

そんなわけで、あたかも山の頂上にいるみたいなもの、そこは不安定な場所なのです。ちょっと風が強く吹いたりすると、吹き飛ばされ落ちてしまいます。だから、その「心地よさ」の状態にいるためには、それなりの努力をしなくてはなりません。


面倒なことは、いまさらやりたくもなし。


もしかしたら、「老い」と「衰え」がかなり進んだのかもしれない。かつて、仲間への警告として「面倒くさい」とか「疲れた」などとうっかり言ったら、ダメだと話したことを覚えている。かれこれ十数年前のことである。

そのような言葉を使うと自己暗示をともなって、本当にそうなってしまうということを心配したからだ。そのころは、まだ客観的な配慮ができたのである。

しかし、最近になって自分自身が本当にそうなってしまったみたい。やはり、少しずつ「老い」が進んで、急速に「衰え」がやってきたようにも思う。どうしたもんだろうか。どうしたら、よいのであろうか。


むずかしい短歌・俳句は、新句にしよう!


短歌や俳句は、それなりの決まりがあって、なかなか難しい。また、芭蕉の句や万葉集の短歌を見ると、自分自身の作品が何となく幼稚に見えて仕方がない。もっとも、大いに勉強して多くを学べば、自ずと優れた作品もできよう。

しかし、この新句(十九音)のように簡単な短詩形はないだろう。単に音数を合わせればよいだけ、その他に決まりらしいものはない。つまり、五・七・七を基本形として、十九音にまとめればよいのだ。

だから、私は日々の「覚え」や「記憶の断片」、さらには「生活の知恵」などに用いる。それは、ふと思いついたことや単なるメモである場合も多い。でも、そんな短詩形であっても後で約に立つこともある。なぜならば、作品であれば忘れてしまわないからである。


つるつるという温泉のバスに乗りたい。


これでは、いったい何のことかわからないでしょう。東京都日の出町に、「つるつる温泉」があって、そこへは武蔵五日市駅からバスがあります。そのバスなんです。それは、「青春号」という機関車バス。

トレーラーバスを蒸気機関車の外形に改装をしたもので、かなり大型のバスです。エンジンの付いている運転席の部分に客車が連結されている構造で、運転には大型牽引車の免許が必要です。まだ私は乗っていませんが、先日見たら運転手も客車に乗る車掌も若い女性でした。

かつて、武蔵境から東京駅までの路線にトレーラーバスが走った時代がありました。昭和二十年代でしたが、進駐軍の関係だったのでしょう。武蔵境の北口から獣医大学の正門の前に曲がる踏み切りで、ずいぶんと大きく回って向きを変えたことを覚えています。


限りなく透明に澄む秋の青空。


私は、秋の青空が好きだ。まだ、風が冷たくならない前に、デジカメをもって郊外を散策する。空は青く、空気が澄んでいる。白い雲が、ゆっくりと漂っていることもある。

限りなく透明に近いブルーというのがあったが、それがどんな感じかはわからない。私が言うのは、突き抜けるような感じの青空のこと。むろん上空では、風が流れているのだろう。雲が少しずつ動いているのでもわかる。

青空があると、デジカメの写りがよい。デジカメ自体は正直なのであろうが、曇っていると建物や背景の色と空の色が馴染んでしまい、コントラストが悪いのである。宇宙飛行士が地球の青さをみたときに感じたことが、私も何となくわかるような気がする。


のろのろと画像読み出す、もどかしさあり。


ホームページで一回に読み出すページ中に画像が多く含まれると、いきおい読み出す時間がかかってしまう。ページあたり百枚を越すと、もどかしいほど時間がかかる。

サーバーの処理速度や、写真の大きさにも関係があるだろう。ヤフーの賃借サーバーは、かなり高速。しかし、同じ1ギガバイトでも無料サーバーはアクセスが遅い。それは、アップロードをするときにも言える。

プロトコルが同じでも応答速度が速いほうが、当然のことながら、表示も速くなる。ホームページも1万枚以上の写真になって、1ページに200枚くらいを入れることがある。サイズを大きくすると表示が遅くなってしまうので、ふつう400×300ピクセルくらいにする。もっと大きくしたいところだが。


あまりにも不要なものが数多くあり。


私の小さい部屋を見渡すと、多くのものが乱雑に置いてある。そして、その一つずつは何のためにあるのかわからないものが多い。日常に必要なものは数少なく、むしろ死ぬまで使わないようなものがある。

つまり、あまりにも不要なものが多いのである。考えてみれば、不要なものに取り巻かれて日々何とか生きているといった状態。もっと、身の回りを整理しなければいけないのだろう。

いつか使うだろうなどという考えは、あまり意味がない。むしろ、品物で持っているのではなく、金銭で貯えておくほうがよいのではないか。その代わり、どこに行けば必要なものが入手できるかを知っておく必要がある。現代は、アートマンや百円ショップなどへ行けば、たいがいのものは手に入る。したがって、手に入らないようなものだけを持っていればよいことになる。


紐 を付けてくびにかけるパス・カードなど。


PASMOやシルバーパス、そして証明書などのカードは、小さいので落としやすい。そこで私は透明ケースに入れて紐を付け、首にかけるようにしました。

ここで「紐を付けてくびにかける」というのは、紛らわしい表現である。文章の場合には、「くび」を「首」と書けば何とかわかるだろうが、読んでみると具合がわるい。「首にかける」のか「手首にかける」のかがわかりにくいからだ。

実際には、「紐を付けて首にかける」とか「紐を付けて、首にかける」のようにしなければならない。「結構です」のように、どちらにも取れる曖昧な言葉は、なるべく使わないようにしたほうがよい。そうじゃありませんか。


次の日に、もち越すことも楽しみであり。


いっぺんに全部をしないで、次の日に続きをするのも、楽しみが残ってよいだろう。若いころは、がんばりが効いて多くをできたが、高齢になるとそうもいかない。そこで、残りをもち越すことになる。

例えば、プチさん(プティ散策)で回る場所を盛り沢山に計画をする。すると、途中で疲れてしまって、全部を回りきれない。そこで、次の日に次の場所から続ければよい。そのように、少しずつ完成させていくのも、楽しみの一つ。

つまり、そのような方法で自分の記録を補って仕上げていく。それは、作品を育てていくことで、それなりの楽しみがある。盆栽の手入れをしたり、模型を作ったりするのと同じような、いわゆる趣味としての面白さや楽しみが自分のパソコンの中でもあると私は思う。


うすうすとわかりてきたり、この世の仕組み。


最近になって、世の中の仕組みについて、何となくわかってきた。垣間見たと言ったほうがよい程度であるが。私の今までの考え方は、根本的に間違っていたようだ。つまり、自分自身の無知と不勉強から気が付かなかったことに、うすうす気付き始めたのである。

物的証拠がなかったり、論理の数学的証明などができないために、私が考えたことは説得力がないであろう。誰も信じてくれないし、また対策などを考える人もいないであろう。

あたかも家畜が大きな牧場で飼われているような状態であるなどとは、あまり自分自身でも認識したくない。天網恢恢ではないが、すべてがすでに支配をされているのである。それでは誰によってかというと、神ではないのである。そんなことが、何となくわかってきた。


突然に叫びたくなることもあり、なぜ?


電車に乗っていると、ブツブツと言っている人がいる。また、大声でわめいている人も見かける。わめくだけで、人に危害を加えないので不気味でもある。

実を言うと、私も突然に大声で叫びたくなることがあるのだ。なぜだろうか。そんな衝動が、最近になってよくある。しかし実際には、声を出したことはない。むろん、叫んだこともない。おそらくストレスがたまると、発散の意味で叫ぶのであろう。ちょうど、安全弁が高圧になると鳴り出すように。

そう考えると、「突然に叫びたくなる」ことがないように、早急に何とかする必要があろう。あまり、多くのことをあれこれと考えないのが解決の一つかもしれない。


バスによるプチさん始めて、楽しみが増す。


今までは、ちょっと遠いところへ行くのがしんどかった。しかし、バスの路線を利用すると、簡単に行けることがわかる。とくに、一時間当たりの本数が多い路線では有効。目的地で降りてデジカメ写真を撮り、そこのバス停に戻って、ちょっと待てば次のバスが来るからである。

バス停の名称がどういう基準で付けられるかは知らないが、例えば「神社前」とか「薬師前」などというところは、とにかく下車をしてみるとよい。また名称が直接に、「○○寺」とか「○○神社」などとなっているところもある。

バスの窓から、身近なことを発見できるときもある。「キッコーゴ」醤油というのがあった。私の家では、そこの丸大豆醤油を定期的に買っている。マークを覚えていた商品交換会社もあった。妻が毎年誕生祝をもらう会社である。そんな楽しみもある。


マンネリのごとく、日に日に繰り返すこと。


考えてみると、日々同じことを繰り返している。心臓の鼓動や肺の呼吸など、正しく反復をする。そして、食事や睡眠をすることによって、ホメオスタシスのバランスを保ち、血圧や尿糖をコントロールする。だから、繰返しを下らないなどとは、決して思わない。

それでも、この日々のメールは下らないと思う人がいるだろう。でも、本人にとっては下るどころか、「生きている証明」でさえあるのだ。また、私の日々のプチさん(プティ散策)を愚かな老人の気晴らしという人もいる。

しかし、そんなことを言ってしまえば、アレキサンダー大王(アレクサンドロス三世)の東方遠征やナポレオンのロシア遠征(ロシアでは、祖国戦争と呼ぶ)なども、大いに下らなかったのではないか、と私は思う。


見てくれる人少なくて、それでもアップ。


このブログやホームページ、YouTube、そしてFacebookなどである。あまり見てくれる人はない。それでも、私は自分が「生きている照明」としてアップを続ける。意味のないことかもしれないが、自分自身の記録ともなるのだから、いいんじゃないか。

グイグイと次から次へとアップする人がいる。いっぽうでは、ほとんどアップしない人もいる。面倒くさくなって、見なくなってしまう人もいるようだ。その人のページに行くと、だいぶ前から見ていないことがわかる。私は、もう歳だからグイグイはできないので、偉そうなことは言えない。

あるいは、病気になってアップをできないのかもしれない。また、もしかしたら亡くなってしまったのかもしれない。そんなために、「生きている照明」なのである。もしも、私のこの記事がなくなったら、病気になってしまったか、死んでしまったと思ってほしい。


デカローグ、信条として守るは難し。


シナイ山で、神がモーセに与えたという十誡。旧約聖書「脱出の書」第二十章によると、
一、私以外の何ものも神としてはいけない。
二、偶像を作って、礼拝してはいけない。
三、ヤーウェの名を偽って唱えてはいけない。
四、安息日に仕事をしてはいけない。
五、父母を敬いなさい。
六、殺してはいけない。
七、姦淫してはいけない。
八、盗んではいけない。
九、偽証をしてはいけない。
十、他家に対して欲を出してはいけない。
である。当然のことではあるが、完璧に守るのは至難の技と私は思う。


やり過ぎは、嫌(いや)がられたり嫌(きら)われもする。


何事も、ほどほどがよいのかもしれない。私は熱中するあまり、ついやり過ぎになることが多い。そして、周りの人に辟易(へきえき)されてしまう。

まず、妻である。いつものことであるから何も言わないが、顔付きでわかる。「また、例の徹底癖が出ましたね」というようなうんざりした様子。そこで、私は他の人の態度も見る。そして、「いやがる」と「きらう」が同じ文字を用いていることをなるほどと改めて認識する。

回りの人は、何事も意外にルーズなことが多い。また、自分の意見ばかりを言って、他人のいうことを聞かない。私は、さいわい師に恵まれたので、その意見をすべて聞いた。しかし、いま私が正しいことを言っても、賛同者がいないと、いきおい敵を作ってしまう。人間は論理ではなく、感情で動くことが多いからであろう。


いつエラー、発生するかわからぬ不安!


パソコンをしているときの不安である。メールやホームページなどを見ているときには、あまり問題が発生しない。しかし、ホームページビルダーでホームページを作成・追加・修正などをしているとき、その作成した内容をFFFTPでプロバイダのサイトに転送するとき、ときどきエラーが生じてしまう。

うまくいかないだけではない。転送などは、パソコンの再起動をしないと何回やってもダメなときが多い。更新済みかどうかをチェックするファイルが8000くらいあるので、仕方ないことかもしれないと思う。

ホームページを作成している途中にエラーが生じると、それまでに編集をした内容が失われてしまう。まったく、困ったことである。何とかならないものであろうか。それでも、DELLのDIMENSIONをstudio XPS に交換してからは、エラーが少なくなった。


愚かさと、独り相撲のバカバカしさと。


この右上のクマさんが、そうであろう。あまり見てくれる人もいないが、いつも独り相撲をしている。つまり、いつも一人で黙って四股(しこ)を踏んでいるのである。

「独り相撲」(ひとりずもう)は「一人相撲」とも書いて、「相手がないのに自分だけが気負い込む」ことを言う。さらに、実りがないと思われる物事に対して、必死で取り組む姿勢のこと。何となく、愚かさを冷ややかな態度で見るときに言うことが多い。

しかし、私は誰も見てくれる人がいなくとも、また相手にしてくれなくてもよい。なぜならば、自分自身の問題だからである。そして、自分で作って自分で見れば、つまり独り相撲ができれば、バカバカしくてもそれでよいと思っている。決して諦めてしまったのではない。


後継者ない仕事など放棄すべきか?


一代限りで後継者がいない仕事などは、やめて放棄してしまったほうがよいかもしれない。なぜならば、人間が一代でできることなどは知れているからである。歌舞伎や活け花の世界なども、数代で完成をさせているようだ。代々引き継ぐことによって、完成を目指すことができるようである。

個人の趣味なども、そうであるかもしれない。本人でないと、よくわからないということでは、社会的には無意味に近いのではないだろうか。

後輩の指導や育成は、とても大切なことであろう。パガニーニや南方熊楠は弟子がいなかったので、後継者がない。しかし、ビオッティや柳田国男には多くの弟子がいて、その人たちの中から師をしのぐ人たちが、次々と輩出した。どちらがよいか私にはわからないが、いずれにしても独りよがりの仕事ならば、放棄をしてしまうほうがよいのかもしれない。


似たような作品、多く過去に作りぬ。


このプログの過去に作った文を見ると、似たようなものが多くて恥ずかしい。思いついた都度、記事にしているので同じようなテーマやパターンがしばしば反復するのであろう。

例えば、文の意味として
「人生は、ムダと無意味があまりに多し。」
「キリがないことを続けて、今日に至れる。」
「恥ずかしい思い出ばかり、蘇(よみが)えり来る。」
など。まったく、いやになってしまう。

全文が同じであるかどうかは、検索で調べればわかる。しかし、細かい部分が違うとわからない。それでも、『伝道の書』や『百万陀羅』のことを考えると、何回同じことが繰り返されてもよいのではないか。また、朝飯を食って、昼飯を食い、そして夜飯を食うように……。


何となく支配をされている気配あり。


最近になって、身にひしひしと感じることがある。それは、すでにFMによって支配をされているということだ。そして私ばかりではなく、ほとんどの人が同じ状態に置かれているのではないだろうか。

あたかも、広い牧場で牛が放牧されているのと同じである。すでに、いつ屠殺場(とさつば)に送られて、食肉にされてしまうか決まっているのに、自分ではわからないような状態である。

近代社会の現状を考えると、そうあって当然だろう。多くの人間を繁殖させたFMは、その結果に満足しなかっただろう。そこで、次にできそこなった個体を排除するのではないか。蠱毒(こどく)のような試練はパスしたものの、すでに現代人は彼らの期待に副(そ)えなくなっているのである。


人生は、ほどほどにすることが肝要。


何事も、徹底的にするのはいけないようだ。完ぺき主義などもダメ。むしろ、ちゃらんぽらんのほうが好ましい。そんなことが最近になって、私にも何となくわかってきた。

なぜかというと、そもそもそんなやりかたでは、すぐ疲れてしまうからである。そして、疲れはやがて失敗を招く。その失敗が、取り返しがつかない場合も多い。

また、相手がある場合には、あまりやり過ぎると辟易されてしまう。相手から見ると、やり過ぎは偏執症に見えるのかもしれない。ある程度の緊張は必要であろうが、そうかと言って絶えず気を張っているのも、大いに考えもののようである。


次々と思いつきたり、必要なこと。


最近になって、次々と思いつくことがある。残り少なくなってしまった人生の日々に、いったい何が必要であるか? それは私にとって、おそらく安心立命だろう。もはや物質や金を求めても、満足できないことを感じる。なぜならば、体力や精神力が衰えてしまったからだ。

そこで、必要なことは心の平安である。そして、それが単なる充足ではないことに気付く。つまり、安心立命。

安心立命とは、「あんじんりゅうみょう」「あんしんりつめい」などと読み、どんなことにも動じない境地になること。もともと仏教の言葉だったらしい。安心は、安らぎを得て穏やかな境地に達する涅槃(ねはん)を言ったようだ。そして、立命は天命によって与えられた人生をまっとうすること。


世の中は儲かる人と、その他大勢。


世の中には、金儲けのうまい人がいる。そんな人は、いつでも儲かるようだ。しかし、その他大勢は金儲けが下手。だから、いつも損をする。驚くことは、金儲けが下手なのに「自分は金儲けがうまい」と思っていることだ。

そんなわけで、大金が懐に入る少数の人々がいて、かなりの額の金を失ってしまう大勢がいるのである。競馬などの構図を考えていただきたい。社会の貧しい人たちから、少しずつ金を集めて、比較的豊かな人に大金を配当することが多い。

私は、そのような構造の楽しみをしないことにしている。だから競馬も競輪もしたことがない。宝くじも、むろんのことである。しかし、神社や仏閣に行って、お賽銭を入れる。その仕組みや構図は何となく似ていて、後ろめたい気がするのだが、……


ゆるぎなき確信も、また崩れてゆきぬ。


最近になって、かつて学んだ基本的なことに、疑問をもつようになった。科学で証明されたことなどが、ゆるぎない確信であったのだが、何となくそれらも怪しげであることに気付き始めた。もっとも、その科学を科学的証明によって反駁をしたわけではない。

理性というか、本能というか、直感で疑い始めたのである。そもそも、人間の判断などというもの自体が、仮のものでしたないとわかった次第。いろいろなことを知ると、今までの知識が相互間で矛盾をしてくることに気付く。

自分自身が非常に小さい場所に置かれているにすぎないというようなことを知ると、今までのゆるぎなかった確信も、すっかり崩れてしまった。すなわち、何もわかっていないということがわかった次第である。


振舞いをこれ見よがしにするは愚かか?


何でも人目につこうと、振舞いをこれ見よがしにする人がいる。金持ちの風をよそおって、大盤振る舞いをする。学者や知識人を真似て、インテリジェンス風の発言をする。

そんな世の中のようである。そして、世間の人は、そんな人に追随していく。いわゆる付和雷同のやからが、多い世の中の様相を呈する。

しかし、私はいつも「目立たないほうがよいのではないか」と思っている。人は他人から注目されると、絶えずそのことを意識していなければならなくなる。そして、自分自身を自由に振舞えなくなってしまう。そんな意味で、「振舞いをこれ見よがしにする」ことは、愚かであるばかりでなく、それ以前にも滑稽で、哀れであるような気がする。いかがであろうか。


次々と新しいこと、するのもよいが……


目新しさに釣られて、次々と新しいことを始める。それはそれで、よいだろう。しかし、「温故知新」などとも言うではないか?

今までにやった中途半端のもの、つまり仕掛かり中のものも、何とか完成をしたい。また、日にちを経過してみると別の見方になったり、そのもの自体に価値がないのではないかと思ったりする。あのときはどうして夢中になったのだろうかなどと考える。そんなことは、やめてしまえばよい。

キリがないことが、やがてわかる。しかし、観客やユーザのある場合、求めに応じて次々とすればよい。「注文の多い料理店」ならばまだしも、顧客が無いばかりではなく、したがって注文がまったく無いのであれば、もはや閉店してしまったほうがよさそうである。


Kuroda Kouta (2011.11.02/2011.11.02)