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  新句(十九音) 作品集51(2011年9月分)



老いてから、独りよがりの意味のなき日々。


古希を過ぎたころから、自分自身の考え方が大きく変わった。あまり他人の意見を考えずに、自分だけがそれでよいのだと思い込むことが多くなった。諦めでもないが、畢竟(ひっきょう)独り善がりである。

なぜそのようなことになったかを考えると、まず自分の考えがわかってもらえないことである。妻に話しても、親しい知人に言っても、私の考えていることがわかってもらえない。「そうだ、そうだ」などと言って聞いてもらいたいわけではない。意見を言ってもらいたいのだ。

つまり、老いてから自分の考えが何となく間違っているように思えてならない。むしろ自分というよりか、社会全体の常識や通念がすでにおかしくなってきているように感じてならない。そうなると、自分の意味自体がなくなってしまう。


雨の日は腰痛が出て、体調悪い。


湿度が高いと身体によくないのかもしれない。雨が降ると、何となく腰痛が出てくる。そして、その腰痛が身体全体に作用して、調子がよくないのである。

むろん、雨の日は散歩に行けない。部屋にじっとしているのは、ますます体調を悪化させるので、隣にある市の支所や商店街が入っているビルに行く。そして、その中を歩いてみる。ワンフロアずつ移動するには、エスカレータに乗らずに階段を利用しても良い。

いずれにしても、一日中じっと座りっきりでパソコンをやったり、読書をするのは、身体のためによくないらしい。人間の身体は、本来ひっきりなしに動かしているように設計されているのではないか。私の場合、じっとして瞑想にふけるとか、座禅をするような精神的に高度な身体ではないらしい。


地図を見て、想像をする楽しさもあり。


雨の日は、外を歩くのが億劫である。とくに冬の寒い日は、散歩ができない。そこで、自室で市役所などでもらった地図を見たり、グーグルなどのパソコン地図を見たりする。

パソコンの地図では、航空写真も見ることができる。上空から見た景色は、実際に歩いたところを彷彿とさせる。しかし、まだ行ったことのない場所でも、何となく親しみを感じる。

つまり、まだ実際に歩かない場所でも何かと想像ができるのである。むろん、縮尺を変化したり、ドラッグして地図の範囲を広げたりできる。また、距離の測定などもプロットしていくだけで簡単。部屋でそんなことをしていると、いつまでも飽きない。


何故か「病の器」? 古希過ぎてから。


自分自身では、もともと健康なほうであったつもり。それが、還暦を過ぎ、さらに古希を迎えたころから、次々と病気になる。そして、なかなか治らない。初めての軽い病気もあるが、過去にお馴染みのものもある。

とくに、高血圧や糖尿病には困ったものだ。いままでに、何回か経験をしたがその都度、何とか治してしまった。それが、今回は手強(てごわ)い。高血圧は何とか食事と生活習慣で治したが、糖尿病がしつこいのである。

そこで、原点に返って本格的に始めた。インシュリンの出なくなった腎臓も、自分自身で入れ替えてしまおうと考えた次第である。おそらく、一年がかりであろう。あまり長くない自分の余生を考えると、ちょっとムダのような気がしないでもないが、人生の目的の一部としてやってみようと決心をした。


何となく疲れた感じ、老いがなせるか?


若いころ、私は少しぐらいのことでは疲れなかった。それが、最近になって、ちょっと何かをするとすぐに疲れてしまう。たった一時間くらい、歩いただけである。もしかしたら、太田事件の関係かもしれない。

精力絶倫という言葉がある。そんなにすごくなくてもいいから、少々ねばりがなくてはいけない。それが、すぐに飽きちゃったり、面倒になるのである。その結果、疲れが出てきてしまう。

そもそも、「疲れ」とは何であろうか。五十年くらい前に学んだ衛生管理者のテキストには、「疲労素が、体内に蓄積をした状態」と書いてあった。つまり、身体の新陳代謝機能が衰えてしまって、リカバリーができない状態なのではないか。それは「老い」に現われる現象であり、何となくすぐ放電してしまう古くなったバッテリーのことを考えてしまう。いかがなものだろうか。


プチさんを見直してみる、記憶とともに。


プチさん(プティ散策)を始めてから、すでに五年になる。最初のころは、行き当たりばったりで、写真も思いついたままに撮って貼り付けた。公衆の設備、神社・仏閣など、行ったところは写したつもりである。

しかし、後になってみると、何となくバラバラな感じがする。むろん、思い出や印象など、いまだに残っている場合もある。また、そこを探し当てるまでの苦労や最初に見たときの感動なども、鮮やかな記憶であることが多い。

前に回ったところの写真や記事を見るのは、何とも楽しいものだ。私は最近になって、右足を痛めたのでムリができない。そこで、すでに回ったところの修正や追加をしていこうと考えている。かつて見た風景や建物に再会をするのも、何となく楽しみである。


雨の日はバスを乗り継ぎプチさんをする。(一)


雨の日は、あまり戸外を歩くことができない。風邪を引いたり、ことによってはインフルエンザにかかってしまうからだ。そこで考えたのが、バスに乗って窓から景色を見たり、未経験の路線を確認したりすること。

いきおい始点から終点までの乗車が多い。バス側から見たら、シルバーパス利用者はあまり歓迎される客でないかもしれない。たいがい私は、最後部の左窓側の椅子に座る。運転手からいちばん離れたところである。

終点では、その付近をうろうろする。そして、一台後のバスで戻るか、次の行き先に向かう。そんなことをして、いったい何になるかと問う人が多い。私は仕方なく、アレキサンダー大王やナポレオンの遠征が何になったのかと聞き返す。相手はたいがい呆れて、以後は何も言わなくなるようだ。


雨の日はバスを乗り継ぎプチさんをする。(二)


以前にも同じ作品があったことを覚えている場合には、かっこの中に数字を入れて区別をする。また、記述が継続するような場合も、かっこを利用するとよいでしょう。

それはともかく、雨が降ると行動範囲が狭くなる。肺炎になることを恐れて、濡れないようにするからです。いきおい、歩かずにバスを利用したプチさん(プティ散策)を買い物にすることもあってよい。

例えば、酒の種類が多くあって、価格が安い店へ買い物に行くことにしよう。傘は不要だ。まず、聖蹟桜ヶ丘駅のバスターミナル。そして、多摩センター駅へ。四路線あるので、便利。聖蹟桜ヶ丘も多摩センターもバスターミナルには屋根がある。その続いているスーパーに入って買い物。そして、戻ってくる。雨に濡れないですむから、風邪も引きにくくありがたいことである


「今日どこに行くか」を決めるときは楽しい。


晴れた日は、たいがいプチさん(プティ散策)をする。各駅周辺の小さい散歩だが、駅を経巡(へめぐ)ることで毎回フレッシュな気持ちになれる。まったく行ったことのない場所もあるが、そんなところでも何となく懐かしく感じる。

行く前には、行くところを決める。それが、また楽しい。その日の天候などを考えるとともに、自分自身のコンディッションも考慮する。つまり、体調のよい悪いによっても行き先が変わる。

道を歩いているときはまず問題ないが、ふつう敷地や建物の中に入れない。公共施設や寺などは大丈夫だが、それでも注意をする必要がある。寺院の場合は「参拝をさせてください」とことわったほうがよい。とにかく、どの方面へ行くかスケジュールを決めるときは、楽しい時間である。


息まずに、ぬるりと出るを待つ心がけ。


尾篭(びろう)な話で恐縮ですが、ウンコをするときのことである。あまり、うんうんと息むのはダメ。なぜならば、息むと血圧が上がって、そのままトイレで倒れてしまうことがあるから。

出そうで、出ないことがある。とくに外出の前などでは、困ったことだ。電車やバスの中で、トイレに行きたくなる可能性が大きいから心配である。そこで、なるべくならば家で全部を出してから出かけたい。

あまり力(りき)んでも逆効果。出ないときは、何か他のことを考えたり、行うのがよいらしい。トイレで、本などを読むのもよいでしょう。また、何か歌ってみたり、朗読をするのもよいようだ。それでも出ないときは諦めて、後ですることを考えればよい。朝一番にするなど、生理的に排便の時間をあらかじめ決めておくと、何となく出やすいのかもしれない。


できるなら人とかかわり、もちたくもなし。


煩わしいことが嫌いな私は、できることなら人とかかわってトラブルなどになることを避けたい。

『徒然草』第七十五段に、次のようなくだりがあった。
「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。」

まったく、その通りだと私も思う。


いつ来るかわからぬガンに、なすべくもなし。


この頃、知人が次々とガンで死んだ。中には、ベテランの医者もいる。どうやら、避けられなかったらしい。つまり、なった原因がよくわからないのである。

それでも私は、ガンになりにくいライフスタイルとして、
(1) よい水を飲む
(2) よい食べ物を食べる
(3) 生活習慣に注意をする
などを考えて、実行している。

水道水に含まれる塩素・フッ素は人体に好ましくない。私は、飲む前にハーレーで取り除くようにしている。ダイオキシンは人体に蓄積するとガン(癌)を誘発するので注意。そして、食べ物は肉食よりも、野菜・根野菜食。生野菜や果物も有効。さらに、生活習慣にとしては、あまり激しい運動はダメ。こまめに身体を動かす程度でよい。


ただ単に、生かされてきた事実あるのみ。


古希を過ぎたところで、今までの過去を振り返ってみた。すると、あまり輝かしい過去はなく、自分が生きてきたというよりも、何となく生かされてきたという事実があるだけである。

あまり能力がなかったので、仕方のないことかもしれない。あたかも飼われている家畜などのように、日々それなりに過ごしたのである。

いろいろと考えたことは、それなりにあった。しかし、できなかったのである。むしろ、しなかった怠慢を反省しなければいけないのかもしれない。そんなことに気付いたときは、もはや体力と気力が衰えてしまって、何事も億劫に考える老人になっていることが、自分でもわかった。


今までにしたことすべて、あまり意味なし。


決して怠惰や不真面目ではなかったと思うが、それでも今までにしたことが、あまり意味のないことだったような気がする。意味があるのかないかなどは、主観的なことであるが、まったくムダな人生を過ごしてきたように思う。

やり直せるものなら、やり直してみたい。しかし、やり直したところで同じような結果になるだろう。地獄に下って、しょこう王か閻魔大王に、「お前は、前のときも同じような失敗をして、言い訳をしたぞ。いったい何度目だ」と追求される場面が『往生要集』にあったと思うが、人間の愚かさは、そんなものらしい。

脳のもたらす幻影か、記憶の過ちか、いずれにしてもムダなことが多い人生である。そのようなことに気付いたときは、何とも空しい気がする。


大食いの癖、治らずに古希を過ぎたり。


学生のころから、大食いだったことは事実。そして、還暦・古希となって、その癖は直らない。つまり、胃腸が丈夫なためであろう。腹が空いて仕方がないのである。

そんなわけで、つい大食いをしてしまう。もっとも、古希を過ぎたころから、あまり脂っこいものダメになっった。また、甘いものも何となく避けるようになってしまった。糖尿病を併発しているからである。

とにかく、大食いは治らない。ときには、吉野家で軽い定食を食べた後で、松屋へ行ってウマトマハンバーグなどを食べてしまう。そこまではいかなくても、ふらふらとルパに寄ってアイスコーヒーでチーズコッペなどを食べることは、日常茶飯事。どうも恥ずかしいことではあるが、今後も治りそうない。どうしたものであろうか。


楽しみは朝の吉野家、ルパへの梯子。


妻が働くようになってからは、朝は一人で食事。最初は、部屋で作った食事ではあったが、面倒になって外食をするようになった。支度や皿洗いなどが、何となく億劫であるからだ。

吉野家での朝食は、季節によって変わる。うな丼があるときは、うな丼。ライスカレーがあるときは、飽きないかぎりライスカレー。また、朝の定食も注文するが、不思議なことに牛丼は食べることが少ない。しかし、年間を通じて決まってサントリーモルツ中瓶を必ず飲むことにしている。健康のためである。

吉野家は軽い食事なので、何となく物足りない。そこで、帰りにルパに寄る。そこで、アイスコーヒーと焼きたてパンを一つ。チーズ入りコッペのときが多いが、ときにはフレンチトーストなど。また、時間によっては博多辛子フレンチを食べる。いずれにしても、それで大満足して部屋に戻るのである。


考えていると、疑問が次々と増す。


いろいろなことを考えていると、困ったことに疑問が次々と増してくる。わからないことが多く、例えば人間関係。

『徒然草』 第七十五段に、
<つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。……>
とある。

さらに、驚くべき記述。
<……「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>


結局は、何もわからぬままに死ぬのか?


今までに、七十年ほど生きてきた。それでも、未だにわからないことが多い。つまり、考えもなく行き続けてきたことになる。何とも、みっともない話。

そして、やがて死ぬだろう。おそらく、その時点でも何一つわかってはいないだろう。非常に残念ではあるが、私の人生はそんなものであった。すなわち、目的もなく生き続けて、何もわからないままに死んでいくのである。

そんなことを考えると、まったくやり切れない。自分自身が愚かであったから、そんなことになってしまった。それを仕方がないと、諦めるのも残念である。そうかと言って、残った人生で解決できる問題ではなさそうである。いったい、どうしたらよいのだろうか。


何となく危険が多い風の強い日。


風の強い日は、危険が多い。物が飛んだり、看板が落ちたりする。また、目には埃(ちり)や埃(ほこり)が入る。注意をしていても、災害に遭う可能性は大きい。

そこで、なるべく部屋にいるようにする。どうしても、出かけなければならないときは、なるべく建物の中を通って行く。幸い、私の部屋は駅まで傘なしで行ける。つまり、屋根が続いているのである。

したがって、デパートや食堂などは屋根続きで行けるから、あまり被害に遭うことはないでしょう。ただ、屋根があって傘が必要でない場所でも、吹き抜けのような箇所もあるので、注意が必要。駅の改札までは五分ほどで行けて、とても便利。でも、雨の日や風の強い日は、はなるべく出かけないようにしている。


他人(ひと)ごとは無関心なり、自己本位ゆえ。


現代社会において他人(たにん)のことを慮(おもんばか)るほど余裕のある人は少ない。自分の利益をまず考えてから、動く人が多い。つまり、ギスギスした社会のようだ。

自分の利益をベースとすることが当然であるので、価値観もそれに基づいている。そんな社会であるから、ギクシャクしてうまくいかない。ふつう、一方が利益を得れば、他方が損をする。結果的には、騙されたようなケースが生じてしまう。だから、破局をまぬかれないことも多い。

現代社会において、施無畏者のような人もいることはいる。社会に奉仕することを日々の仕事として、それに喜びを感じている。しかし、鉄眼(てつげん)のような人は、めったにいないであろう。


仕掛かりのページ見直し、完成したい。


私のホームページには、仕掛かり中のものが多い。途中まで作りかかって、そのままになっている。中には「百舌の速贄」のように、忘れてしまったものもあるだろう。

作業としては、「まとめる」「分ける」「整理する」などが必要だ。「まとめる」は、二つ以上のものを一つにすることである。「分ける」は、大きくなりすぎた一つを二つ以上にすること。「整理する」は、不要なものや重複しているものを取り去ったり、不足しているものを補(おぎな)って付け加えること。

いずれにしても現在の状態は、かなり見っともないものであろう。無知蒙昧を赤裸々に見せて、恥を晒(さら)しているのと変わりがない。もっとも、それが現実であるから仕方ないことではあるけれど、……。


文庫本、読めなくなって、もどかしさ増す。


いつごろからだろうか。視力が衰えて文庫本の活字が見にくくなった。以前はカバンの中に、古典などを入れておいて、電車の中や待ち合わせなどでも、ちょっとした暇ができると取り出して読んだものだ。

それがダメになってからは、読みたい本も読めなくなってしまった。また、前に読んだ本の再読も思うようにならない。むろん大型本ならば、何とかなるのであるが、四六時中の携帯にはムリであろう。

文庫本は価格が安いので、書き込みなどが自由にできる。それが手がかりとなって、次々と考えがまとまっていく。次第に理解を深めることが可能である。最近は、再読をして確認することができなくなったので、ついつい自分自身の記憶を怪しんで、その引用を控えてしまう。単に眼鏡を使用すれば、それで解決する問題であろうか。


吸い物の中に、自分の顔が揺れおり。


吸い物を飲もうとして、ふと見ると、自分自身の顔が映っていることがある。味噌汁などでも、光線の具合で写る。何となく不思議なことである。

鏡が像をはっきり写すようになったのは、近代になってからであろう。かつては、表面を仕上げる技術が進んでいなかったために、ぼんやりと写ったようである。したがって、鏡で写した像が明確ではないというように考えられた。

だから、『新約聖書』第二コリント書だったろうか、「鏡に写したように、おぼろげである」というような例えがあった。いずれにしても、吸い物や味噌汁の中で浮かぶ自分の顔は、揺れてもいるから、何となく不気味でもある。


極端に言えば、誰とも話したくない。


話をしていると、楽しいという人がいる。実際に、お互いに気心を知った人と話をしていると心が和むことが多い。しかし、私はそうでない。何となく、自分自身が誤解をされて、いやになってしまうからだ。

饒舌な人や、無口の人がいる。言葉を巧みに使った演説や書物に出会うと驚いてしまう。『荘子』なども、そうであろう。とても、自分にはできないことだと思う。言えば言うほど、誤解をされてしまうような気もする。

首相だった犬養毅が殺されるときに「話せば分かる」と言ったそうだ。すると、犯人の青年将校らは「問答無用」と答えて、撃ったという。おそらく問答などをしていたら殺害できないと判断をしたためであろう。考えてみると、もっと早い時期に問答をすべきであったのかもしれない。そんなことが、一人の人間の中でも、起こりえるのではないか。


「これはこれ」「それはそれ」だと区別が必要。


いろいろなことを興味にまかせてやっていると、だんだん複雑になってきて、終(しま)いには何が何だかわからなくなってくる。そこで、あらかじめ体系を考えた区分を用意しておくことが必要である。

とくに「青空のホームページ」の中なども、今考えてみるとひどいものである。必要に迫られたり、単なる興味にまかせて、次々とページを増やしていった。いきおい中が雑然として、体系や分類がなっていない。

むろん、少しずつ直していこうとは考えている。しかし、やってみると意外にも面倒で、他の多くの箇所にも影響が出てくる。仕方がないので、そのままの形を残して、小さい手直しにならざるをえない。それは何となく「しこめ(醜女)がお化粧をする」ようなものであろうか。そして、そのこと自体があまり意味のないということを知りながら、……。


古希過ぎて、焼きたてパンを選ぶしあわせ。


ときどきルパの焼きたてパンに行く。そこには、焼きたてのパンがぎっしり。私は、どれを選んでいいかわからない。つまり、一つぐらいしか食べられないのに、おいしそうなのがいっぱい。

決心をしてチーズパンを選ぶことが多い。ときには、博多明太子が挟んである小型のフランスパンにすることもある。ちょっと生臭い感じもしないことはないが、それを渡邊五郎師がおいしそうに召し上がっていたので、私もそうすることが多い。

妻に選択をまかしたときは、甘くて黄色いフランスパンやメロンパンのことなどもある。それはそれで、とてもおいしい。飲み物は、夏場はアイスコーヒー。そして、しばらくの至福のときを過ごす。「いつまで、ここに来られるのであろうか」などと考えながら。……


なぜなのか、心の空虚、満たされぬ日々。


古希を過ぎたころから、何となく心にぽっかりと穴が空いたように感じることが多くなった。心の空虚と言ってよいかもしれない。そして、そこが満たされない日々が多い。

若いころには、そんなことを感じたことはなかった。もしかしたら、私も加齢によって脳まで衰え始めているのかもしれない。つまり、同じ物事をしていても、それが自分自身を納得させないのではないか。所詮、人間のすることなどという概念に苛まれてしまうのだ。

しかし、投げやりになったり、諦めてしまったりしたのではない。加齢によって衰えていく過程にある自分は、おそらく心の中を充足するバイタリティーさをすでに失ってしまったのかもしれない。何とかならないものであろうか。


誰と会い、何を話せば、心和むか?


古希を過ぎたころから、何となく心が空洞になったみたい。どうしてそうなったかは、自分自身でもわからない。今までに信じていたことが、間違っているという事実にぼんやりと気付き始めたことは事実だ。でも、そのことに関しては未だに確証がないままになっている。

妻や義姉と話をしても、埒(らち)が明かない。つまり、事態が進展しないのである。話の決着がつかないばかりか、挙句の果てにバカにされてしまうことが多い。

しかたなく自分自身と話す。自問自答である。とどのつまり、問うほうも答えるほうも確証がないので、あいまいな話になってしまう。誰と会って、何について話せば、いったい心が満ちるのであろうか。


よろめいて転ぶことあり、注意が必要!


最近になって、足がひっかかって転ぶことがある。さいわい、まだ転倒や怪我をしたことはないが、それでも床や地面に手をつくことがある。若いころには、そんなことはなかったのだが、やはり加齢による症状だろう。

それでも気を付ければ、まだ歩けるだけありがたい。そこで、なるべく足を持ち上げて歩くようにする。決して引きずったような歩き方をしてはダメ。

気を付けなければならないのは、デパートのロンリウムの床。なぜかわからないが、靴の裏が床にくっついてしまうことがある。そうすると、歩こうとしても、足が前に出ない。その結果、前に進まないので身体の重心が崩れてしまって、前のめりに転ぶ。何をしているかということで格好悪いので、注意をしなければならない。


スパイダー・ソリティアやって、運勢をみる。


それほど大げさなことではないが、ちょっと時間が空いたときや、気分転換にスパイダー・ソリティアをやってみる。ふつうは簡単にできるのだが、なかなかできないときもある。それでも、三回くらいすると何とか完成する。

このゲームは簡単に起動できて、ルールもやさしい。そこで、老化予防に利用できる。考えが及ばないときは、ヒントを押して次の札の場所を知ることができる。したがって、自分が気付いていない手があったら、注意力が足りなかったことになる。

前に将棋や麻雀をやったが、かなり一局に時間がかかった。そんなわけで、現在のDELLにはインストールしていない。それで、ゲームは最初からインストールしてあるものだけ、しかもその中でスパイダー・ソリティアだけを私は愛用している。


Kuroda Kouta (2011.10.02/2011.10.02)