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  新句(十九音) 作品集47(2011年5月分)



齟齬という状態と似た膝の関節。


齟齬(そご)という言葉がある。物事がうまくかみ合わないことで、つまり「食い違い」や「ゆきちがい」。「互いの意見に齟齬をきたす」とか「計画が齟齬する」などと使う。

しかし、最近になって私は「膝が齟齬した」と考えるようになった。すなわち、膝の関節が食い違いになったらしく、どうかすると傷みを生じる。その言葉の使い方は正しくないかもしれないが、まさしく関節の齟齬なのである。

その齟齬になると、膝の痛みが激しく、身動きが取れないときがある。意見が食い違うのではなく、骨と骨とが正しく当たらないで、食い違ってしまうらしい。そして、そのような状態になると、何故か私は必ず「齟齬」という言葉を思い出すのである。


騒ぐほど大事ではないテレビのニュース。


私は、あまりテレビを見ない。しかし、妻が見ているのを見ることはある。いつもチラッと見る程度ではあるが、よくもまぁ報道することが次々とあるものだと思う。

ふつう毎日、決まった時間で報道をする。したがって、特番でもないかぎりはニュースの大小は問題にならない。何となく、時間を使えばよいというような内容もある。

必ず毎日するので、とくに事件などのない日のニュースは大事(だいじ)ではないことが多い。「今日は、とくにお伝えすることがないので、音楽をお聞きください」などと言うことをしないので、いきおい番組の内容が玉石混交になってしまう。つまり、見なくてもよいニュースを見せられていることになるのではないだろうか。


老いたらば、何がどこかを熟知しておく。


古希を過ぎたころから、ぼつぼつ身の回りを整理しておく必要があるのではないだろうか。身の回りの物品が、どこにあるかを熟知しておく必要がある。しかし、多くの物について覚えることはまず無理だ。したがって、持物を少なくしてしまうほうが手っ取り早いかもしれない。

私は、不要なものをなるべく買わないようにしている。あれば便利なものでも、なければなくて済む場合が多いからだ。電化製品なども、そうであろう。他の理由もあるが、私は電子レンジと携帯電話をまだ持っていない。使った経験がないから、持たない不自由さをあまり切実には感じない。

つまり、持物が少なければ、管理も確実にできる。ただ、私の場合は文献や写真が多いので、それらの整理には特別な工夫が必要になってくる。資料をシソーラスにして、それぞれの位置を覚えておくのである。


新しい「歴史・価値観」、手塚作品。


かつて見た手塚作品を思い出して、何となく見たくなった。印象に残っている「ブッダ」のナラダッタとアッサジなどである。YouTubeで探してみたら、「火の鳥・ヤマト編」「火の鳥・異形編」「火の鳥・鳳凰編」「火の鳥・宇宙編(ダイジェスト)」「三つ目がとおる」「アトム」などがあった。

その「三つ目がとおる」は、10分程度のものが三つで一巻。それが、48本。つまり、144本から構成されている。そして、それらを見るついでに、すべて再生リストにした。著作権で問題になって削除をされない限り、反復して見ることもできるでしょう。

それらは、かなり古い作品であるにもかかわらず新しい考え方が出てきて、大いに感動をする箇所がある。作品の中に、新しい歴史観や価値観が含まれているからである。そして、手塚治虫の偉大さを改めて知る。


ちょっとした注意で保つ、日々の健康。


ちょっとした注意をすることによって、日々の健康が保持できる。食べ物や生活習慣に関して、注意を払うことによって健康な毎日が過ごせることは事実であろう。

反対に、ちょっとした不注意で病気になってしまう。自分自身が気がつかない間に、つまり知らぬ間に、健康を大きく害してしまう場合がある。予防や治療の知識を知らないと、取り返しのつかないことになることがある。とくに、予防は大切である。

食べ物に関しては、衛生の知識が必要である。例えば、生玉子。割った状態で数時間も放置しておいてはいけない。菌が繁殖してしまうからである。したがって、そのまま食べては危ない。捨ててしまうか、改めて加熱をする必要がある。腐敗をしたことを示す臭(にお)いを発生しない菌なので、見た目にはわからないからである。


食べ物のバランスをよく、日々の分量。


食べ物や水が、自分自身の身体を作ることがわかっている。そこで、栄養のバランスを考えて、まんべんなく食べることが大切である。

また、水や飲み物についても考えなければならない。水は安全な自然の生水(なまみず)がよいことは人類の歴史から考えて、何となくわかる。煮沸をした水やペットボトルは衛生的に安全でも、人体には好ましくないであろう。

さらに、日々食べる分量についても注意が必要。あまり多くを食べると、肥満になってしまう。しかし、逆に分量が少なすぎると胃腸に悪いのではないか。つまり、かさが少ないと便の量が少なくなってしまって、便秘からガンになるだろう。したがって、植物繊維などの栄養価があまりない食べのもを多く食べることも、日常的に必要になるのではないだろうか。


あれこれと探し求めることの愚かさ。


現状に満足できないために、あれこれと探し求める。しかし、もう一度じっくりと考えて、すでに身の回りにあるものを工夫することも必要である。

「吾唯足知」という言葉がある。蹲(つくばい)の中央にある「口」の回りに「五」「隹」「止」「矢」という四文字が配してある。

便利ではあっても私には考えがあって、まだ使っていない物がある。例えば、電子レンジと携帯電話。電子によって物質の原子構造まで加熱する方式は、いままでの調理法になかった方式。安全性や健康に関する疑問があるからである。また、携帯電話は利便性があっても、耳つまり脳の近くで、電磁波を強力に作用させるので何となく安全に関して問題が残るからである。「触らぬ神に祟りなし」ではないが、探し求める愚かさが何となく分かった次第。


寝たきりとボケ・ヨイヨイは、いちばん恐い。


元気なうちは、そんなことを考えることがなかった。しかし、ここのところ私は糖尿病になって、さらにかなりの高血圧症。やがて、脳がやられてしまうのではないかと、ぼつぼつ心配である。つまり、寝たきりやボケ・ヨイヨイになるのではないかという恐(おそ)れがやってきた。

いずれも知人において、多くのパターンを見てきている。頭脳明晰であった人が、廃人のようになったケース、現役のころ才媛と言われた女性がアルツハイマー病のために寝たきりになって、しばらくして亡くなったこと。

医学では解決できないことも、まだ多く残っていると思う。それらの病状は、回復をすることなく進んでいって、やがて死をもたらす。そして、死ぬときには本人もわかっていないほど、脳が機能していないようだ。何とも恐(こわ)い。まったく恐(おそろ)ろしい話である。


ビクビクとする日々、過ごす齢(よわい)となりぬ。


老いたからだろうか? 最近になって、何となく日々の心配が大きくなった。それは、自分のことと妻のこと。

「いつ自分が死ぬか?」「いつ妻が死ぬか?」「いつ自分がボケてしまうか?」「いつ妻がボケてしまうか?」「いつ自分がヨイヨイ・寝たきりになるんじゃないか?」「いつ妻がヨイヨイ・寝たきりになるんじゃないか?」

つまり、心配が二人分だから二倍である。友達のパターンを聞くところによると「便所で、妻が倒れていた」「何を言っても、妻が返事をしなくなった」など、いろいろなことが予期せずに起こるという。そのままお別れになってしまった場合もあるが、生き残ったときは大変なことになる。車椅子ならまだよいが、寝たきりになってしまうことが多いようだ。そんな心配が続く、今日このごろである。


要注意? 電子レンジと携帯電話。


安全性が確立されていないものには、やはり注意が必要であろう。私の取り越し苦労かもしれないが、その中に電子レンジと携帯電話がある。

電子レンジは、人類の過去になかった方式で食べ物を加熱する。その方式が合理的・科学的であっても、人体に対する影響は未知だと思う。もしかしたら、発ガン物質を体内に作るかもしれない。また、携帯電話は便利でもあるが耳、つまり脳の近くで、かなり強力な電波を用いる。もしかしたら、人体に何らかの影響があるかもしれない。

しかし、今のところは問題がないようだ。私の杞憂かもしれないが、数十年のサイクルで影響が出てくるのではないだろうか。行政が認めていることでも、後になって問題が生じたこともある。結局は個人が注意をして、それぞれの価値観で利用するかしないかを決めるしかないであろう。


ほどほどの嵩(かさ)が必要、食事の都度に。


最近の食材は、噛まなくてよい食べ物が多くなった。しかし、健康のためには噛むことが必要のようである。また、いくら栄養価が高いからといって、その分量が少ないのもよくないと思う。

なぜならば、満腹感を得られないだけでなく、腸内を通過するときに不都合を生じるからである。そこで、肉でなく野菜を中心とした嵩(かさ)の多い食材を用いることを考えた。もやし・キャベツ・ニンジン・大根などを多く食べる。

そのようにすると、満腹感が得られるのはむろんのことで、腸内細菌のためにも好ましいらしい。いわゆる善玉菌が、増えるからだ。腸内に残滓(ざんし)が残らないので、ガンにもなりにくいと言う。そんな目的のために、栄養価があまりない、嵩(かさ)の多い野菜を食べる。むろん、主食は農薬の含まれていない玄米を用いている。


楽しみは、まず地図を見て行く場所を知る。


まったく楽しいことだ。次々と行く場所を探して、見つけることは。そこには、小さな発見もあって、驚くようなこともしばしば。

数日後に行ってみて、またびっくり。地図上で受けた印象と、実際の場所でのインパクトした内容が大きく異なることがある。そんな発見も、大きな楽しみ。

地図は、最初に自治体で発行をした大きな紙になったものを見る。次にパソコン内の地図、例えばグーグルやヤフーのもの。それぞれに特徴があって、互いに参照をしながら確認ができる。いずれにしてもパソコン上の地図は、行政の区切りがなくドラッグして次々と見て行くことが可能。また、縮尺も切り替えられる。さらに、航空写真も見ることができるので、とても楽しい時間が過ごせる。


楽しみはバスで経巡るプチさんの場所。


バスで経巡(へめぐ)ると、行動範囲が大幅に増える。足に大きな負担をかけないために、遠くまで行けるのも特徴の一つ。少しずつ範囲を広げていけるのも、バスによるプチさんのメリット。

今まではプチさんの範囲を広げようとして、かなりの強行軍になった。そして、そのために後になって、足の調子が悪くなる。どうしても加齢とともに、足は弱るらしい。

プチさんの場所は、最寄駅でなく最寄バス停に変わった。すると、目的地のすぐ近くまで行ける場合が多い。バスの本数が少ない地域では、乗り継ぎの工夫が必要であるが、たいがいの場合はバスを利用すると、楽しみが大幅に増える。また、シルバーパスを利用することによって、費用をかけずに効果的な移動ができるようになった。ありがたいことである。


楽しみはバスの窓から、あちこちを見る。


バスに乗って、窓から景色を眺める。走っているので、一瞬の場合が多い。私は、かつて車を利用していたので、バス路線になっているような大通りは、たいがい以前に走ったことがある。

チラッと見ただけで、何ともなつかしい場所がある。さらに見たければ、次の停留所で降りて戻ればよい。そんなことが簡単にできるので、バスは便利である。もっとも、時間当たりの本数が少ない路線では、行ってみたいところをメモしておき、次回に降りて計画的にその周辺を歩いてみるとよい。

とにかく、バスの窓からきょろきょろと眺めているのは楽しい。足が悪くなったために、長距離を歩けない。そんなために、バスの窓から眺めるのは、私にとって都合がよい次第である。


楽しみは自分自身の知的空間。


小さくてもよいから、それなりに自分自身の知的空間をもちたい。それを構築することが、一種の楽しみではないだろうか。例えば、ホームページやプログなどである。現実の世の中では、人間関係にトラブルが生じる。なぜならば、利害関係が対立するからである。金儲けをするとか、有名になろうとしたら、すぐに煩わしい問題が生じる。

しかし、知的空間には無限の可能性があって、その中で活動すれば問題は生じにくい。心が落ち着くし、考えたことを実現できる。むろん、公開をすると著作権の問題や筆禍などが生じる。

何のことはない、子どもが積木で遊ぶようなものである。組み立てたり、分解したり、追加をしたり、そんな中に何となく楽しみがあるのではないだろうか。たとえ逃避と言われても、……。


生きている証明として、一日一句。


私は、自分自身が生きている証明として、新句(十九音)を一日に一句発表する。それらは、いずれも秀作とは言いがたいけれども、その都度かなりの真実を吐露している。なぜならば、思ったことを正直に内容としているから。

もはや、私の日課のようになってしまった新句(十九音)であるが、それなりに効果がある。とくに、日記は付けていないので、自分の気持ちなどが後になっても、何となく垣間見られる。そして、そのときのことを思い出し、反省などもできるのである。

新句(十九音)は、作のが簡単。だから、ちょっと時間を割(さ)けば、誰にでもできる。俳句や短歌になると、それなりの作法があるが、この新句(十九音)には約束事がほとんどない。とくに、忙しい人々や若い人たちにも効果的な形式ではないだろうか。むろん、老人にも好ましい短詩形である。


老いてなる大病人は、もう治らない。


高齢になってから、たいがい病持ちになる。多くの病気を併(あわ)せ持つのである。そして、無料の「特定健康診査・後期高齢者健康診査」などで引っかかり、投薬の対象になる。例えば、高血圧と糖尿病の二つ併病の場合。

しかし、その二つの病気は長い間の食生活や生活習慣によって併発したのであるからクスリによって短期間に治療することは、もはやまず不可能です。やはり、ある程度の時間をかけ、根本的に治していくのが基本。ローマ法王で、古希の誕生日に若い信者の献血で血液を交換した人がいたが、翌日に死んでしまった。

治らないから、悪い結果が出ないようにする。例えば、中古車が燃費が悪く、ボウズタイヤになってしまったような場合に、それぞれの部品を治していくと、新車に変えたほうが早い。むしろ、わるいままで大事に利用するのがよい。あまり走らないようにするとか、滑りやすい雨の日は動かさない。その具体的一方法として「血液や腸内細菌、グルミューの改善」、そのためには一時的に砂糖・塩・醤油・味噌などの忌諱(きい)ががある。


塩・砂糖、入れぬ食事に何とか慣れる。


調味料として、塩や砂糖を用いない食事を始めて久しい。さらに、最近になって醤油さえも使わなくなった。むろん、味噌・ソース・マヨネーズ・ドレッシング・トマトケチャップなどは用いない。そもそも、台所に置いていない。

しかし、塩は「海の精」というのがあって、歯を磨いたり、風呂に入れたりして用いる。甘味料としては「オリゴ糖」がある。小豆を煮たときに、妻が使うのである。善玉菌に、よいという。しかし、私は小豆を煮ても甘くしないで食べる。

塩分の取りすぎが、話題になっている。保存や味付けのために、ほとんどの食べ物に入っているからだ。例えば、パンなどにもかなり多量に含まれている。そんなことで、私は身体のホメオスタシスがダメになって、何とか発病を避けたい一心で、自宅では醤油などもやめた。最初は薄味が気になったが、慣れてしまうと食材自体の自然の味がわかるようになって、ニンジンや大根などの野菜はむろん、何でもおいしく食べられるようになった。


耐えがたき痛みや痺れ、精密検査。


「特定健康診査」や「後期高齢者健康診査」から始まり、再検査や精密検査が大流行(おおはやり)。次々と紹介状を書いて、高価な器具で改めて身体を調べる。何億円という装置は大きな病院にしかないので、紹介状をもってそこへ行くことになる。

何となく患者が高額精密機械を必要としているのではなく、高額精密機械が償却のために患者を必要としている構図である。なぜ、町の開業医が自分の診断に加えて、大病院へ行かせるかというも理由も、それとなくわかる。

私は、耐えがたき痛みや痺れなどがないかぎり、なるべく精密検査をしない。現代の食生活や生活習慣からすると、数億人の人が病気であることも事実であろう。検査を次々とするより、検査をしなくてよい身体にするほうが簡単。戦前はともかく、昭和30年代から国やNHKなどが健康について大いにPR。それが間違っていなければ、今ごろは日本国中に健康な人が満ちあふれていたことでしょう。そして、保険の料率も下がっているはずです。そうならないのは、根本的な問題がある。……


症状は、今日は他人(ひと)の身、明日は我が身か?


ここのところ、知人が次々と病気になっている。血圧が高いとか、糖尿が出るなどである。いずれも、病院に通って大量の飲み薬を処方され、飲んでいるようだ。

実は、私も血圧が高く、尿糖が出るようになってしまった。去年までは、食生活と生活習慣に注意をしたら何とか治ったのだが、今回はそうはいかない。身体のホメオスタシスが、大幅に狂ってしまったためらしい。

回りの多くの人を見ていると、やがて倒れる場合が多い。そして、救急車だ。そのままアウトになってしまう場合もある。また、帰ってもヨイヨイや車椅子になってしまうことも多い。そんなために、いつ自分がそうなるかと、ビクビクしている今日この頃である。しかし、何としても治りたいし、自分の責任で治してみようと思う。


口腔(こうこう)は体外と似て、不潔でもあり。


口腔(こうこう)すなわち口の中は、体外と同じ環境で不潔になりがちである。トポロジー的に考えても、口から肛門までは体外が身体の中に納められたと言ってよいだろう。

大腸菌が体内に生息していることは承知しているが、口の中にも多くの雑菌がいる。むろん、唾液には殺菌力があるが、食べかすや歯周菌などが影響をして、不潔になりやすい。そして、口臭がくさくなってしまう場合がある。

したがって、ときどき水で口を漱(すす)ぐのがよい。また、食後には歯磨きをして、雑菌が繁殖しないようにしなければならない。とくに、歯間に挟まっている食べかすには注意が必要である。それらが残っていると、菌もそれに取り付くからである。また、歯周菌は歯茎に出血があると、そこから血管に入ってしまう。そして、血管の中に住み着くので、注意しなければならない。


敵・味方、争うことは愚かなきわみ。


人間同士が敵・味方になって争うほど、愚かなことはない。そうならないようにするほうがよいだろうが、なかなかそうもいかない。なぜならば、利害関係が対立するからである。

それでは、利害関係を対立させないようにすればよい。国家間の問題などはさておき、私はいま自分のことを考える。いったい誰と利害関係が対立するのだろうか。

その相手となるだろう人と付き合わないのがよい。『徒然草』第七十五段に「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。」とある。私も、そう思う。


最近は、何をするのも面倒になる。


老いたせいであろうか? 最近は、何をするのも面倒になってきた。意欲がないわけではないが、何となく億劫(おっくう)なのである。ふと、こんなことをしても意味があるのだろうかなどと考えてしまう。それが、億劫になる原因かもしれない。

若いころは、精力的に仕事を次々と進めてきた。しかし、最近になって、その意味を考えてしまう。今まで独りよがりが、多かったからである。そして、その結果までを考えてしまうと、何となく意味がないような気がしてしまうのである。

そんな心の変化が、何かをするとき面倒になった原因かもしれない。そして、その情熱を失ってしまったのではないか。つまり、心理的な意味での気力を失ってしまったのかもしれない。困ったことである。それでも、毎日はのどかで結構楽しいのではあるが、……


一連の茶番と嘘で、過ぎた半生。


古希を過ぎて、若いころのことを考えてみれば、慙愧の念にかられる。とくに二十代のころ。思慮が浅かったためであろう。いまそれを云々しても、何とも仕方がないかもしれない。しかし、後になって後悔をするといことは、現在も同じ状態であろう。

古希を過ぎると、間もなく死が待っている。そのときになって、やはり大後悔をするかもしれない。つまり、そのときまでの時点で思慮が足りなかったことを。それは、現時点である。

おそらく、若いころに元気のあまり茶番や嘘で逃れたような方法を恥ずかしく思うとともに、現時点では「死後の生」を真面目に考えていないことに対して、大いに反省をするのではないか。何となく、そんなことが感じられるが、……


どうしても思い出せない、なつかしい場所。


どこであったのか? いつ行ったのか? 印象に光景のみが鮮やかに残っているが、それがどこで、いつだったかをどうしても思い出せない。そんな場所がある。ちょっと既視感の感覚の延長のようではあるが、現実に行ったのは事実のはずである。

そのなつかしい感覚は、わからなければわからないほどに増していくみたい。そこで、何とかしてもう一度行ってみたいと思うが、どこであるかがわからないので行けない。

しかし、そこへ行ったからといって、別にどういうことになるのでもないだろう。むろん、金銭的なメリットなどは一切ない。ただ、気持ちが満足をするという欲求によって、何とかしてそこへ行きたいと思っているだけだ。


「罪」という字は、何となく骸骨に似る。


「罪」という字は、身体から肉などをすべて取り除いて、ついに骨だけの姿になった姿。あなたは、そう思いませんか? つまり、骸骨の形が罪なのです。

いっぽう「メメントモリ」や『往生要集』なども、思い出します。メメントモリでは、よく骸骨が出てきます。若い女性に骸骨が寄り添ったり、骸骨とダンスをする光景があります。往生要集では、地獄の責苦により肉が爛(ただ)れて、骸骨になってしまう光景が描かれています。

いずれにしても、生前の罪をどこかで償わなければならないようです。そんな馬鹿なことはないと考えますが、どうも昔から洋の東西を問わずに言われていることが、罪に対して罰が用意されているらしいのです。だから、私は「罪」という字が恐ろしい形に見えるのです。


今までに訪ねた場所の確認したい。


プチさん(プティ散策)と言って、今までにずいぶん多くの場所を訪ねた。たいがいは初めてのところで、デジカメで景色や建物を撮影した。しかし、勝手がわからないままに間違った記録があるかもしれない。そんなわけで、もう一度行って自分自身の記録の追体験をすることにより、再確認をしたい。

おそらく、最初のときには気付かなかった発見などもあろう。あるいは、別な見方をすると異なった記録となってしまう箇所もあるかもしれない。

何回か繰り返すことによって、知識も深まり、興味も一段と増す場合が多い。そんな意味で、今までに行ったすべての場所について、もう一度できるかぎり回ってみたいと考えている。そんなことも、プチさん(プティ散策)をする大きな楽しみの一つであろう。


少しずつホームページを整理していく。


かなりの日時が経ってしまうと、今までにした追加や修正が重複していたり、舌足らずであることに気付く。そこで全体を見直し、少しずつホームページを整理修正していかなければならない。そして全体をすっきりしたわかりやすい体系に直していきたい。

自分自身でも何がどこにあって、どうしたらそこを見られるのかがわからなくなってしまうことがある。グーグルなどの検索で、自分自身のホームページをやってみても、該当がなかったりする。

ふつう、検索の言葉に「site:http://www.riksys.com/」を加えて捜すが、新しいホームページのほうも別に捜さなければならない。そんなことでホームページ三つとプログ二つ、合計五つのサーバーに対する自分自身用の総合索引をやはり作る必要がありそうだ。しかし、日本健康会Facebookページは記事全部がGoogleやYahooに拾われているので便利である。


雨・風の強い日、雪の日は部屋にいる。


雨が激しく降っていたり、強風が吹いている日に、なるべく私は出かけない。むろん、雪の日もそうである。風邪をひいたり、物が飛んできて当たったり、また滑って転び怪我をしたりするからである。

「君子(くんし)は危(あやう)きに近寄らず」というが、まったくその通りである。私は君子ではないが、危険なことははじめから避けて、身を慎み守るほうである。臆病なのかもしれない。もっとも、若いころはそれほどでもなかったが、老いて身体の不自由が出てくると、雨・風・雪にも恐れてしまう。

よく言ったもので、あまりにも有名な言葉だから、私は『論語』かなぁと思って調べた。しかし、そうではなくて『春秋公羊伝』の「襄公二十九年」にある「君子不近刑人」ということである。


生かされている心地して日々過ぎていく。


若いころは、自分が「生きている」と思うだろう。しかし、ある程度の歳になると自分は「生かされている」と考えるようになる。誰もが一律にそうであるとは言えないだろうが、少なくとも私の場合はそうであった。

つまり、全体の中で「生かされている」ような感じなのである。そして、それは「金魚が飼われていたり」「鶏が飼育されている」のと同じような環境ではないかと、何となくうすうす感じる。

さらに言うと、自分が何者かに作られ、ある環境の中に置かれているのではないかというような疑問。しかし、そのことを忘れがちで認識できない。むろんそんなことを頭から否定する人たちもいるだろう。その何者が何かなどを考え出すと、それで馬鹿にされてしまう。私は、神によって動かされているなどとは言わないが、何者かが必ずいるように思う。


よくもまぁ、恥書き連ね平気でいれる。


私の作ったホームページのことである。また、このプログも、そうである。いま考えてみると、最初のころは何もわからないままに、我武者羅になり作った。それが読み直してみると、何とも恥ずかしい内容である。

そこで、もう一度すべてについて見直してみることが必要であろうか。しかし、それも何となく気が進まない。そんなわけで、そのままになっている箇所が、多く残っている。

とどのつまり、いくら書いても書ききれるものではない。その時点では、考えられるかぎりを述べたつもり。そんなことを言えば、人生そのものも、そう。後になってみると片手落ちの箇所が、あまりにも多いことを知る。よくもまぁ、恥を書き連ねたものと思う。でも正直に言うと、それを平気でいられるというのは、嘘ではないかとも思う。


Kuroda Kouta (2011.05.31/2011.05.31)