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  新句(十九音) 作品集46(2011年4月分)



「ほうばる」とつづる言葉は、なぜ辞書にない?


「ミスドでブレンドコーヒーを二杯飲んで、エンゼルクリームをほうばると私は至福の至りである。」と書いて、「ほうばる」を漢字にしようと思った。そこで、ヤフーの辞書で調べた。すると「ほうばる」がない。さらに四キログラムもある昔の広辞苑を引っ張り出して引いてみた。しかし、そこにもない。

「ほうばり」もないし「ほおばる」もない。せいぜい「ほほ」(頬)があるだけ。そして、頬は「ほお」を引けとなっている。引いて見ると「顔の両面、耳と鼻・口との間の柔らかい部分」。そして「―がこける」という使用例があった。

そこで、私は考えた。「―がこける」のと反対に、頬がいっぱいになった状態ではないかと。いかがなものであろうか。

後日になって考えたら、「頬張る(ほほばる)」が正しいとわかった。しかし、それでも国語辞書にないようだ。


研ぎすましたるたる刃(やいば)にも似た言葉あり。


言葉に、棘(とげ)のある人がいる。話題に、皮肉や当てつけなどが多い人もいる。話をしていると、不愉快になってしまうことがある。

文章にしても、同じ。もしかしたら、このプログ自体にも、その傾向があるかもしれない。もともと「健康」と「老化予防」、そして「安心立命」などがテーマだったが、見てくれる人は少ない。

そこで、自分自身が作って、自分自身が読むことになる。つまり、自分自身が読者なので、ついグチって(愚痴って)みたり、心情の吐露(とろ)をしたりしてしまう。また、身勝手な表現があったりもする。なぜならば、自分でわかればよいから。さらに、自分に刃を向けたりする。後で、読み直して恥ずかしく思い、みっともないものと考える。しかし、それが事実であるから仕方ない。


考えが変わる成長、こはだ・このしろ。


かなり前に自分が書いた文章を見ると、考えていたことが現在とは異なる。つまり、その後に成長をしたことになろう。よく、知人に「前に言ったことと違うじゃないか?」などと言われる。

ころころと意見が変わるわけではなく、思索が成長した結果、より大きな範囲で対象を捉えることができるようになった場合が多い。

成長魚というのがある。こはだ・このしろなどもそうだ。こはだ(小鰭)はニシン目ニシン科の海水魚。このしろの中くらいの大きさのもので、鮨(すし)などにする。このしろ(魚へんに祭、または鮗)は全長25センチくらいのもの。体は紡錘形で、背側が青色で数列の黒点が並び、肩部に黒斑が一つ。思想も、成長魚のように、変化をしていくものだと思えばよい。


老いたらば、踊躍歓喜や抃舞少なし。


還暦を過ぎたころから、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)や抃舞(べんぶ)するようなことが少なくなった。せいぜい「しめしめとほくそ笑むくらい」が多い。もしかしたら、感情が鈍くなってしまったためであろうか。

『歎異抄』第九条に、「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」とある。

抃舞の「抃」は、「卞」(ぼくのと)から来たらしい。卜部(うらべ)は字の形から「ぼくぶ」である。いずれにしても難しい字であるが、喜びのあまり手を打って踊ったりすることは少なくなった。親鸞(1173~1262)や、絵伝で見た一遍上人(1239~1289)のころには、多くあったことかもしれない。


日々続く運動不足、習慣病に。


運動不足が日々続くと、つもりつもって生活習慣病を招いてしまう。したがって、常に運動不足にならないようにしなければならない。運動不足の解消は、必ずしも歩かなくてもよい。例えば、バスに乗っているだけでもよい。乗り降りのときに、足腰を鍛える。さらに、揺られることによって、身体が運動をする。

また、サウナなどもよいでしょう。とくに、温冷浴がよい。皮膚を丈夫にして、グルミューを正常化してくれる。したがって、バスに乗って、スーパー銭湯などに行くのも一つの方法。ゆったりとしていて、気分転換にもなる。

いちばんいけないのは、部屋に閉じこもって、何もしないこと。日中に身体を動かすことが少ないと、睡眠も浅くなってしまう。いきおい、体調を崩して生活習慣病を招いてしまうからです。そんなことが、わかってきました。


これでもか、これでもまだか? それが現代。


「これでもか?」「これでもまだか?」というように、欲求を追及させるのが現代社会。むろん、その波に乗る自分自身がいけないのだが、社会の仕組みがそのようになってしまっているので、いかんともしがたい。中には卑近な例で、ブログ・Twitter・Facebookなどに、精力的に自己の意見を出し続ける。

したがって、金持ちがますます金持ちになろうとしたり、有名人がさらに有名になろうとする。そんなことをすれば、やがて破局があるのはわかっている。まったく、愚かしいことである。

現代社会において、「吾ただ足るを知る」などと考える人は、非常に少ない。生きている限り、精力的に金銭を求めたり、あくなきほど名誉を求め続ける。何とも、際限のない意味のないことだ。それは、ちょうど「カエルの腹自慢」と同じことではないか。やがて、自分自身がアウトになってしまうことをすっかり忘れているからである。


思えらく、意味なくムダな日々の生業(なりわい)。


思えらくは「以為らく」「謂えらく」とも書き、「思っていることには」とか「考えるには」という意味。しかし、ここで私は「よくよく考えてみれば……」という意味に使う。

つまり、あるとき静かにして、よくよく考えてみれば、何となく日々の生活そのものがムダで、無意味なような感じがすることに気付いたということ。そして、人生に意義があるなどということは、単に脳の錯覚や幻想にすぎないのではないかとさえ疑念を抱く。

単に、生きていることはそれ自体が目的なので、金を貯めるとか、有名になるなどということは、妄念に過ぎないのではないか。そして、そんなことに努力をして人生が過ぎてしまう。それはそれでよいと思うが、もともと「ないものをあると脳が考える」のは、やがて破綻(はたん・はじょうではない)を来すのである。


グーグルの地図見ていれば、時間忘れる。


グーグル(Google)の地図を見ていて、時間を忘れてしまうことがある。「あれは、どこだったかなぁ?」などと思案をして場所を探しているときである。前に行っているので、なつかしい気持ちがする。なおさら、探し求めたい気持ちがつのって深い。

こんなことがあった。狛犬ではなくて蛇が蜷局(とぐろ)を巻いているところがあったが、それがどこだか思い出せない。京王高尾線の駅だったと思うが、いずれにも見当たらない。そこで、Windowボタンの検索で「蛇観音」とやってみた。すると、鐘ヶ淵駅周辺と出た。そして、そこの記事から西国立駅周辺の矢川弁財天だということがわかった次第。

ここには簡単に記述したが、実際には半日がかりの作業。そんな努力をするのであるが、それがそれなりに楽しい時間である。したがって、時間が経っていくのを忘れてしまう。


この箱の中に、無限の可能性あり。


この箱というのは、無限の空間をもっているとも言ってよい私のパソコン。
2010年7月に購入した「DELL studio XPS モニタセットパッケージ」である。CPUは「2.80GHz、8MB L3キャッシュ」で、メモリは「8GB(2GB✕4)。それに、ハードディスクが1TBが付いている。生まれて初めての、1テラバイトだ。しかし、まだ一年にもならないのに、ずいぶんと使ってキーボード上の「K」は、すでに刻印がはがれてしまった。

私には大きな夢が二つあった。一つは、昭和二十年(六歳)ごろ。広い道路で自動車を運転したいと思った。それが、間もなく大型免許と自動二輪の免許を取って、夏のアルバイトでチリ輸出用のバスをテスト走行した。国内の路線バスよりも一回り大きく、現在の空港バスの大きさで左ハンドルだった。

もう一つは、昭和三十五年(二十歳前後)。一生の間に、自分用コンピュータを持ちたいと思った。LGP-30という米軍が払い下げたコンピュータが学校にあったからだ。いずれも、科学技術の急速な進歩で、夢が早く実現した。


トイレにもメモ用紙置き、すぐ書き留める。


私は、トイレにもメモ用紙を置いて、思い付いたことがあれば、すぐ書き留められるようにしている。忘れないようにするためである。もしも、そのときメモをしておかないと、おそらく永久に忘れてしまうだろう。その結果、ふたたびそのことを思い付くことは、おそらく一生ないかもしれない。

中国の欧陽修という人は「三上」と言って、優れた考えが浮かんでくる三つの場所は、「馬上」「枕上」「厠上」であると書き残している。現在は、すでに馬上などはありえないが、私は電車やバスの中で同様な体験をする。

したがって、いつもメモ用紙と筆記具をポケットに入れてあるし、むろん家で寝るときは枕元にメモ用紙を置いておくことは習慣になっている。したがって、トイレにもそうしてある次第。


良識を失い、悪事はびこる現世(げんぜ)。


最近のテレビニュースを見ていると、驚くほど悪事が多い。健康や食生活についての問題も数多く、有名病院や大手商社などでも事件を発生している。利益を追求するあまり、人道的な基本ルールさえ無視した結果であろう。

高い次元から見たら、意味のない社会かもしれない。厳密に取り締まれば、刑務所や矯正所なども、いっぱいになってしまう。何とも、困ったことである。

神を信じるどころか、拝金主義の時代になってしまった。その構造は、ソドムとモゴラの時代よりも、もっと複雑で悪質だ。そんなことを冷静に管理しているものがいたら、かつて行われたというノアの箱舟や核兵器による人類の整理統合を考えるかもしれない。


まず地図で見て、そこに行く楽しみを増す。


駅周辺のプチさん(プティ散策)をするときは、あらかじめグーグルかヤフーの地図を見ておく。たいがい初めてのところであるから、あまり勝手がわからない。とくに地下鉄の場合、目的の駅で降りて地上に出たときには、ちょっと戸惑うことが多い。

方向感覚に慣れるまでには、かなり時間がかかる。また、目印になるものがそれまでになかったので、新たに自分でそれを作る。そんなために、地図を見ておくことが、とても役に立つ。

慣れてしまえば何でもないことが、最初はなかなか大変である。実際に何回か歩けば、わかってしまうことだが、そんなことをする時間が惜しい。そこで、地図を見てだいたいのことを知ってしまう。航空写真も見れるので、鳥瞰図のような楽しみも可能である。


コカコーラ、マクドナルドも日本の文化?


コカコーラが日本に入ってきたとき、業界の専門家たちは「このような味は、日本人には馴染まないでしょう」などと言った。しかし、それどころか短期間に若者を中心に定着してしまった。

藤田田(ふじたでん)という人は、「ハンバーガーを食べさせ、日本人を金髪にしたい」などと書いた。私は、「まさかマックぐらいで、そんなことは絶対にありえない」と思っていた。

しかし、最近になって私は、それが栄養学や遺伝学のことではないと、わかるようになった。そして藤田田が、よくぞ近未来のことを言い当てたと感心した。彼は、日本人の若者が食べ物によって、思慮もなくなり、姿かたちも変わるであろうことを予言したのである。茶髪(ちゃはつ)なども、万葉時代やイタリア女性の黒髪などと異なる価値観であって、愚かにも「赤毛のアン」に近づいたことになる。


恥ばかり多い人生、うんざりとする。


今までのことを考えると、何と恥をかくことが多かったことか。その一つ一つを思い出すだけでも、いたたまれない感じがする。そして、そんな自分に今さらうんざりとするのだ。

なぜ恥をかいたのか。とどのつまり、自分自身の能力が不足をしていたり、努力が足りなかったことが多い。中には運が悪かったこともあって、いずれにしても負の印象だけが強く残っている。

よほど力量のある人であれば、何をしても大丈夫であろうが、私のような実力不足で小心な人間は、あまり人前で何かをしないほうがよいのではないかということがわかった。しかし、もはや古希を過ぎてしまったので、今さらそれをリカバリーできるわけでもないだろう。したがって、恥をかいてしまった過去を少しでも思い出さないようにするしかない。


オオイヌノフグリも咲きて、春は来にけり。


今年(平成23年=2011年)は、春先(3月11日 金曜日)に大地震があって、生活のテンポが乱れた。計画停電があると、私のところは超高層なので外出しにくい。エレベータが停まって、12階分を上(のぼ)り下(お)りしなくてはならないからだ。つい面倒になって、部屋に閉じこもってしまう。

しかし、停電のない晴れた日には多摩川の堤防を散歩。すると、大地震など気にしないように、オオイヌノフグリが密生して咲いている。瑠璃色というか、その空色の小さいが美しい花を見るのが楽しみである。

オオイヌノフグリは、イヌノフグリの外来種か亜種らしい。イヌノフグリは、犬のふぐりのことである。ふぐりは「陰嚢」と書き、「金玉」(きんたま)つまり「睾丸」(こうがん)のこと。なんで、そんな名前が空色の可憐な花に付いているかというと、蒴果(さくか)が亜鈴形になっていて犬の陰嚢(いんのう)の形に似ているからということだ。


かわいそう! エンゼルテディ頬張る(ほおばる)ときに。


ミスド(ミスタードーナツ)で、ブレンドコーヒーを飲むときに、ドーナットを二つ注文する。ふつう、私はエンゼルクリームとチョコファッションである。しかし、チョコファッションでなくヴァイナブロートシナモンのときもある。さらに、有るときはエンゼルテディパンにする。

エンゼルテディパンは、めったにないが有るときは茶色とピンクとクリーム色の三色が並ぶ。私はチョコレートの茶色が好きだ。

さて、トレイに入れて席にもってくる。それからである。いざ、口にほおばろうとするときに、何となくかわいそう。耳の部分から食べるのであるが、その中にはクリームが入っていて、とてもおいしい。しかし、形が崩れるにしたがって、ちょっと気の毒な気がするのはなぜだろうか。


生きるため、まず健康であらねばならぬ。


健康が大切であることは、言うまでもないでしょう。なぜならば、健康を損なっていると、それ自体が大きなハンディになって、何をしてもうまくいかないからです。

イギリスの作家サミュエル=バトラーの『エレホン』という小説。風刺的なユートピア物語だが、エレホン国では「病気が犯罪」であり、泥棒などというふつうの犯罪よりも重罪。つまり、その国では「犯罪よりも病気のほうが重罪」なので、病人は刑務所に送られ、犯罪をおかしたものは病院に入れられる。

トーマス=モアは、『ユートピア』で当時のイギリス社会を痛烈に批判して、後に国王の問題で処刑された。そのモアの作った言葉「Nowhere」を回文にして、バトラーは「Erehwon」の中で「病人が処罰されるような」倒錯した国家を描くことができたという。


無駄と無為、無意味の多い私の一生。


私の一生といっても、まだ終わったわけではない。しかし、今までのことを考えると、何ともやりきれない気持ちになってしまう。ムダとムイがあまりにも多く、ほとんどがムイミなことであったからだ。つまり、満足なことは何一つできなかった。つくづく後悔をするというか、まことに慙愧に耐えない。

おそらく、そんな状態で終わってしまうのだろう。しかし、健康については大いに勉強をした。それも泥縄式で、自分自身の必要にせまられてやったこと。高血圧症になったり、糖尿病にかかったからである。そして、何とかして逃れたいために、かなりの勉強をした。

その結果、それらの症状は何とか治った次第。努力と言っても、そんな程度である。考えてみれば、そもそも人生がムダであったのかもしれない。


できること、できないことをはっきり知ろう!


若いころは、自分の可能性が無限に近くあるんじゃないかなどと考えていた。しかし、古希(七十歳)を過ぎたころから、考えが少し変わった。つまり、ほとんどのことができないのであって、できることなど少ないということがわかってきたのである。

むろん、その気になってすれば、可能なことは多いだろう。しかし、なかなかその気になれないのである。若いころのように、必要に迫られないからかもしれない。例えば、おっかない編集者がいて、原稿の締め切り日を何回も確認してきたりしない。いきおい、自分自身の気分によって作業を進める。そして仮に仕上がったとしても、とくに見る人もいない。

そんなために、ほとんどのことが「できない」ことになってしまう。イラスト一枚を描(か)くにしても、ピアノソナタを作曲するにしても、あるいは短編小説や長編小説にしても、その作業に入らなければ、できるはずがない。


FBも、何がなんだかわからないまま。


FB(フェイスブック=Facebook)を始めたのは、昨年(2010年)12月18日、そしてFacebookページを始めたのは今年になった2月4日。わからないことばかりで、なかなか進まなかった。そして、今も多くのことがわからないまま。

なぜ、「FBも」などと言うのか? それは、何がなんだかわからないのは、煎じ詰めれば「自分自身の人生自体も」、そうであるからだ。

わからないままに進めてきたわけであるが、それでも何とか形をなしている。しかし、Facebookページのトップページ用に「カスタムページ」を作ろうとすると、もうダメ。そこまでで知識の限界となる。さらに、調べていけばよいのではあるが、それに深入りするほどの根気と時間がもはやない。若いころならば話は別だが、古希を過ぎた老人が細部までを調べていくのは労が多いわりには、効果が少ない。そんなために、ほどほどにせざるをえないのである。


ガクガクッと、いっぺんに来る老いの症状!


少しずつ老いていくのだとばかり思っていた。しかし、私の場合はそうでなく、いっぺんに老いがやってきた。自分自身でも驚くほどである。

これまでは何となくホメオスタシスを保っていた身体(からだ)が、失調をしてしまったのである。その結果、次のような症状が表面化してきた。

(1) 体温の保持……室温20度でも、電気ストーブが必要
(2) 消化の異常……便秘になりがち
(3) 尿糖が出始めた……常時500(++)程度
(4) 血圧が高くなる……上が200前後、下が100前後
(5) 外出や歩行が困難になる……せいぜい20分以下
今までは、すべてをクリアしていたのだが、何とも困ったことである。さらに、「皮膚におできができたり、低温火傷の傷口がなおらない」「歩行時にヨロヨロする」「眠りが浅い」など。無病息災やせいぜい一病息災というのはあるが、多病息災などというのは、いったいあるだろうか。


「人生に疲れた」とでも、言うのだろうか?


「人生に疲れた」感覚などと言うと、大げさかもしれない。しかし、ここのところ何となく、何をするのも面倒なのだ。食事をするのさえ、億劫なことがある。

いったい、どうしたことだろうか。とくに、健康を大きく損なったわけではない。しかし、致命的でないがかなり調子がわるい。もしかしたら、自律神経が失調しているのかもしれない。つまり、気力の問題なのだろう。何をするのも鬱陶しく、やる気がしないことが多い。とくに雨が降り、部屋に閉じ込められている日などに、その傾向がある。

疲労困憊(ひろうこんぱい)という言葉。しかし、それは体力が消耗した場合に言われることで、何もしないのに疲れてしまうのは、何とも不思議である。そんなわけで気分転換をして、疲憊(ひはい)しないようにしたい。


楽しみは、行きたいところ地図で確認。


行きたいところをあらかじめ地図上で確認する。それが、また楽しみの一つ。グーグルの地図でも、ヤフーの地図でもよい。それぞれにメリット・デメリットはあるが、ふつう私はグーグルを利用する。

航空写真モードにすると、いわゆる鳥瞰図になる。地形などがはっきりして、いつまでやっても飽きない。また、グーグルでは点を次々プロットしていくと、距離が求められる。倍率も簡単に変更できるし、ストリートビューまで見ることができる。

そんなわけで、行こうとしているところの地図を見ておく。それだけで、かなり予備知識が得られる。そんなために、現地に行ったときのことが大いに楽しみである。あらかじめ地形を知っておくと、迷ったりしないので、とても楽しいプチさん(プティ散策)が実現できる。


退院後、体の失調、しやすくなった。


数年前に入院をして、手術を受けた。その箇所は、何とか治ったものの体が失調をしやすい状態になってしまった。院内感染とでもいうのだろうか、菌に対する抵抗力が弱くなくなってしまったようだ。

外科手術が素晴らしい技術であることはわかる。そのことについては、何ともありがたいことだ。しかし、退院後しばらくしてから、すっかり体の調子が悪くなってしまった。つまり、ホメオスタシスが以前のようには働かないのである。そして、少しずつガタガタになって、とうとう二年ほどで何となく廃人のようになってしまったみたい。

以前はそんなことはなかったが、すぐに風邪を引くようになった。そして、なかなか治らない。何となくイルヘルスの状態が続くようになってしまった。体内に緑膿菌などが入って、腸内細菌の状態が大きく変わってしまったのかもしれない。大腸ガンにもなりやすい。早めに、何とかしなければいけない。


いっぺんに全部できない、少しずつする。


最近になって体力が低下をしたためか、根気までがなくなってしまって、情熱だけが残っていても、若かったときのように頑張りがきかない。そこで、仕方なくいっぺんにするのではなく分断化して、それを少しずつするようになった。

そうすると、期間はかかるが何とか仕上げるコツがわかってくる。ムリしないことである。ホームページの記事なども、完成前にアップロードしてしまう。

そのようにすると、自分自身でも客観的に見直すことができる。むろん、当然ながら仕掛かり中であるから脈絡がなかったり、矛盾する箇所も残っている。結論が出ていないために何を言っているのかが、わからないところもあろう。他人が見たら「何だ、こりゃあ?」と、思うことは必然だ。しかし、私はそれでもよいと思う。


体調がよく、晴れた日はバスの楽しみ。


シルバーパスになって、バスに乗ることが楽しみになった。しかし、いつでもというわけではない。体調がよくないときは不安である。とくに、お腹(なか)の具合が悪いときは、バスに乗らないほうがよい。そして、風邪を引いているとき、寝不足のとき、そんなときは車内でも気分がよくない。

雨の日も、何となくバスに乗るのが億劫になる。外の景色がはっきりしないことと、傘などの携帯が面倒なこと。

したがって、晴れた日で体調がよいときにしか、バスを利用すべきではない。車内で、気分が悪くなったりする危険性もあるからだ。さらに、座れないほど混んでいるバスには乗りたくない。そんな意味で、都会に行ったときの帰りの便(びん)として、ターミナル駅までバスを利用することが増えた。


何となく、食べなくなった魚の油。


最近になって、何となく食べなくなってしまったマグロ・イワシ・サバ・ブリなどは、良質の魚油を含んでいる。魚油「DHA」はドコサヘキソエン酸、「EPA」はエイコサペンタエン酸の頭文字。いずれも、多価不飽和脂肪酸です。

「日本人の子供が、欧米の子供より知能が高いのは、魚を多く食べてきたことが 理由ではないか」と言われ、魚油が注目されるようになった。例えば、「EPA」はリンパ管を経て血液中に入り、体内に運ばれていく。そのとき血液を凝固させる物質は作らずに、抑制する物質だけが作られる。つまり、血栓ができるのを防いでくれる。

「DHA」も「EPA」と同じように体内に運ばれて、脳の中まで入っていくことが特徴。血液と脳の間には関門があり、脳に必要な物質しか通さないシステムになっているからです。DHAは脳に入って、脳の情報伝達をスムーズにしたり、記憶学習能力を向上させて、脳の老化を防ぐ効果があるらしい。さらに、DHAやEPAは悪玉コレステロールを減らして、心筋梗塞・脳梗塞・動脈硬化などの予防をしてくれる。


何となく、薬(くすり)はリスク、使いたくなし。


新潟大学の安保徹(あぼとおる)先生は、『薬を止めれば病気は治る』という本を書いておられる。つまり、薬は慢性疾患の症状を抑えることについては可能であるが、その慢性疾患自体を治すことはムリだとおっしゃる。

なるほど、長い期間をかけて症状が出た糖尿病や高血圧症を薬で短期間に治すことはムリかもしれない。やはり、ある程度の期間をかけて、食べ物や生活習慣を改めて治すのが、最善であろう。また、一つの症状に対して薬を用いるのはOKだが、複数の病気に対して複数の薬を併用するのは、どうであろうか。

むろん、化膿止めや熱冷まし(アスピリン)などは効果的。また、交通事故や骨折などの怪我、盲腸炎などの手術にも短期的な治療効果がある。しかし、長期間に患った病(やまい)に対しては、古くからある白隠禅師の「なんその法」や一遍上人の「よろず病(やまい)の薬」などが記録に残っている。後者を私は「ラップリン」と呼んでいる。


何故に健康な人、満ちあふれぬか?


戦前はともかく、昭和20年(1945年)くらいから国やNHKなどで、健康に関するPRなどを強力に続けてきた。おそらく、その結果が正しければ、今ごろは日本国中、健康な人で満ちあふれているのではないか。しかし、その反対。私には、理解できない不思議なことである。

逆に、三億人以上の病人がいるという。国民数よりも多いのは、一人で複数の病気にかかっているので、統計上そうなるらしい。とくに、数えてみなくても大学病院などに行ってみるとわかるだろう。街の病院も含め、どこも満員で大繁盛。また、ひっきりなしに救急車が走っている。

いったいどうしたことだろうか。近代医学に対する考え方に、どこか間違いがあったのかもしれない。個人差を無視した一律の治療などにも疑問がある。小学校や保健所などの教育・指導がなっていないのかもしれない。例えば、玄米がよいなどと言うと、売り切れてしまうほど買いあさる。その結果、多くの人がアトピーになって苦しむ。なぜならば、業者が白米用の米を精米過程で胚芽を残して玄米と偽るからである。ふぐのはらわたごと、おいしいと言って無知な主婦に売るのと同じような犯罪かもしれない。


最近は、少なく食べて、よく考える。


ここのところ老いてきたせいか、食事や生活習慣が変わってきた。何となく、ソクラテスにあやかったような考え方だが、私の場合は切実。

外出や歩行が困難になってからは、多くを食べられなくなった。つまり、あまり腹が空かないのである。かつてのような大食いをすると、たちまち胃がもたれてしまう。

そんなために、作業はパソコンの前で文章を考えることが多くなった。以前のように神社仏閣巡りなどをすることが少なくなって、今までに考えたストーリの原案などを発表できる形にする作業が多くなったからである。「よく考える」というほどのことではなく、「考えなければ、なかなかまとまらない」のである。







Kuroda Kouta (2011.05.01/2011.05.01)