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  新句(十九音) 作品集45(2011年3月分)



こんなこと、していてよいか? 迷うことあり。


パソコンをやっていて飽きたら、気分転換にゲームをする。私は、ソリティアと将棋と麻雀。どれも、なかなかよくできている。かつてのようなバグはまったくない。そこで、つい熱中をしてしまうことがある。

ソリティアはめくりカードのない簡単なもの。それでも、十回に一度くらいしか上がれない。将棋は、バリュー将棋4というかなり本格的なもの。初級平手でやって、まずまずである。麻雀はベーシックのもので、点数の計算などもしてくれるのでありがたい。

少なくとも老化予防には効果があると思うものの、何となく非生産的。しかし、六十四枚のハノイの塔を一生の修行に行ったという僧の話があるので、考え方によってはよいことかもしれない。また、アレキサンダー大王やナポレオンのことを考えたりもする。そうは言っても、パソコンをチェンジしたときに上の三つはなくなってしまった。現在は、プレインストールされていたスパイダー・ソリティアというので、老化予防を期待する。


それなりに一つの宇宙、ホームページは。


苦労をして作ったホームページは、まったく次元が低くて、つまらない小さな空間である。内容の薄い各テーマの他に、夾雑物などが多く含まれていて、それを取り除きたいほどである。

しかし、そうは言ってもその時点で、自分が考えたことを正直に書いたので、私にとっては非常に重要な「記憶の断片」、さらには「一つの宇宙」もしくは「知的空間」とさえなっているのである。

また、互いに矛盾する箇所があったりもする。それは、人生の時期や時間によって、考え方が変わっていくので当然であろう。文章は、かなり長い期間をかけて、それぞれに作成したのである。そんなために後で考えると、そこには大きな矛盾を含んでしまった。まったく恥ずかしいことではあるが、それでも事実だから仕方がないと思っている。


老人は、あつかましくて、モタモタしてる。


前に「老人は、あつかましくて、くさいからいや。」というのがあったが、今回はバスの中。満七十歳になると、シルバーパスが使える。最初にわずかな費用(千円のことが多い)を出すと、都内のバスや都営地下鉄に無料で乗れる。地下鉄のときは、パスを改札に通せるので問題がない。

しかし、バスは乗降のときに、パスを運転手に提示する必要がある。モタモタしているのは、そのときである。パスを出して、降りるまでに時間がかかる。最初から用意をしておけばよいのに、そのときに探したりする。

また、尊大な老人も多い。確かに社会人だったときは、それなりの仕事をしていたろう。しかし、シルバーパスを使ってバスを利用するときは、せめて他の乗客や運転手に迷惑をかけないようにしたいものである。私もシルバーパスなので、いつもそんなことを思う。


何故に、アカデミズムは黙殺するか?


子どもの常識でもわかるようなことについて、なぜアカデミズムは黙っているのであろうか。また、本能や直感で知りえたり、考えたりしたことを認めないのはなぜだろうか。

科学技術が発達したからといって、すべてが解決できるわけではないことをわからないからではあるまい。やはり、現代社会の常識が偏っているとしかいえないような現象である。

かつては、神や仏を信じたという。現時点でも、神社仏閣がなぜ多くあるのであろうか。真剣に神や仏を信じた時代が、長かったからであろう。気がついていても言わないのは、気がつかないよりもまだ悪い。あたかも「裸の王様」の指摘をした子どものように、はっきりと真実が見られない時代が現代なのであろうか。


キリのないことを続ける性(さが)は愚かか?


キリのないことを次々する性格は愚かなことだろうか? 趣味や道楽の類いから、蒐集や研究用コレクションの場合のように本格的になると大変である。私は、『蛙の腹自慢』や『どんぐりと山猫』などを思い出す。

『徒然草』第七十五段に、「いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。」とある。

つまり、卜部兼好が天台摩訶止觀から学んだ心安らかに生きる方法である。『荘子』のように「有限の身であって、無限の対象を追うのは危ない」などとも考えたのであろうか。


衰えは、気持ち次第で減少できる。


いつまでも若くありたいと思う。しかし日に日に、衰えが進む。それは現実である。還暦を過ぎ、古希を迎えたころから、もうダメだなどと思う。

しかし、気持ち次第で衰えを遅く進ませることができるのではないかなどとも考える。むろん、衰えないなどということは不可能であろう。その進みを遅らせることは、工夫次第でかなり実現できるはずだ。

いつまでも青春であるためには、ウルマンの詩にあるように「年を重ねただけでは、人は老いない。人が老いるのは、理想を失うときだ。……60歳であろうと、はたまた16歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。」と、私も思う。


ちょっとしたことで、体のバランス崩す。


若いころは丈夫だったが、加齢とともに体調が変化をするらしい。すなわち、老化による衰えが、目立ち始めるのである。風邪のビールスに犯されたり、消化不良で胃がもたれたりする。そして、体全体の調子が乱れてしまう。

また、目の疲労からもかなり思考能力を落としてしまう。眼精疲労というのであろうか、気力までが減退する。目を使いすぎると、なりやすい症状である。パソコンを長い時間にわたって使っているとなることが多い。

いったい、体がバランスよく動いているときは、自分の体などを意識しない。ある特定の箇所を意識するのは、その箇所が病んでいるからかもしれない。とにかく、体のバランスを崩さないように、また気力を失わないように、常日頃から注意をしなくてはいけない。


フェイスブック、何がなんだか分からぬままに。


今までやった言語プロセッサの中で、このフェイスブック(Facebook)がいちばん解りにくかった。個人間のコミュニケーションから、営業的な戦略までを含んだ大きなシステムだからである。

それでも、こねくり回しているうちに、何とか必要最小限のことだけは覚えた。そして、深入りをすることを常に避けてきた。たかが、通信の手段に過ぎない一つのツールに時間を割くことが愚かしいからである。本来ならば、すっきりした使勝手であるべきものであろうが、度重なる機能拡張により複雑怪奇な構造になってしまったようだ。

そんなことを考えると、無料でシステムを使わせてもらうのであるから、少々のことは仕方ない。我慢すべきであると考え、いちおうこの言語プロセッサの大まかな仕様を理解した。そして、何とかこれから利用をしていくことに自信を得た次第である。


健康に関する弘法(ぐほう)、続けてゆきたい!


だいぶ以前から、私は健康や老化予防に関しての研究をしてきた。そして、今後は弘法(ぐほう)というと大げさであるが、それらを世に弘めていきたい。大げさというのは、弘法とは仏教の教えを弘めることだからである。

立正大師や一遍上人のように、精力的にあちこち回ればよいだろう。しかし、私は、もはや身体が衰えていて、精力的に歩き回ることができない。そこで、考えたのがインターネットの利用である。

弘法というか広報は、Facebookページやホームページ、ブログを利用する。そして、質問などがあった場合、メールなどで応える。私は、広報手段として、ホームページやブログの他に、Facebookの中に
  「健康・老化予防フォーラム」「老化予防フォーラム」のグループ二つ
  「日本健康会」というFacebookページ一つ
計三つを用意している。


なつかしい神社仏閣、こころのルーツ。


神社や仏閣に行くと、何となくなつかしい気持ちがする。こころのルーツなどと言った感じは、なぜだろうか。おそらく、かつては神社や仏閣が災害の避難場所であったり、病院などの機能をはたした時代があったのであろう。また、教育の場であったかもしれない。

だから、私たちは当時のことを遺伝子の中に覚えていて、何となくなつかしく感じるのではないか。言ってみれば、現代の公会堂のような役目を古くから神社仏閣が果たしていたようだ。

また、かなりの数があることも肯(うなず)ける。それだけ、その土地には必要だったからであろう。神社と仏閣は、神と仏が信仰の対象。明治時代の神仏分離令以前は神社と仏閣を区別する必要がなく、両方を含めて考えることが多かったという。


何故に多くの寺社が存在するか?


プチさん(プティ散策)をしていて、いつも思うこと。何故に、このように多くの仏閣と神社が存在するのであろうか。もともと、寺や社(やしろ)などは、その地域の集会所のようなものだったのかもしれない。しかし、隣接をして多くの寺社があったりもする。もしかしたら、宗派の違いなのであろうか。


現在でも「10万寺院、30万僧侶」というほどの繁盛です。むろん、新興仏教も含めての話。これは花岡先生の「空海の講義」で聴いた話ですから、20年も前のことです。しかし、今も同じくらいの寺院数、僧侶数ではないでしょうか。大ざっぱに考えると、千人に対して1つの寺院と3人の僧侶がいることになります。

飢饉や災害があった場合にも、そこに集まったのかもしれない。単に信仰のためだけではないように思う。いずれにしても寺には僧侶、神社には神主のような知識人がいて、何かと民衆の指導にあたったのであろう。寺小屋などという言葉も、寺で教育をしたことを物語っている。


塩・砂糖、使わぬ調理、丸い味わい。


塩・砂糖を台所に置かなくなってから久しい。つまり、調理の味付けには塩・砂糖を用いない。すると、最初は物足りなかった味が、やがて自然の持味がわかるようになる。つまり、その植物がもっている本来の丸みのある味わいである。

野菜ばかりではない。サツマイモやジャガイモなども、圧力釜でふかすだけで味付けをことさらしない。むろん、マヨネーズやトマトケチャップなど一切用いない。そもそもマヨネーズやトマトケチャップなどは、私の家に置いてない。

そんなわけで、私も妻も一年ほどで糖尿病・高血圧症が治ってしまった。完治したかどうかわからないが、少なくとも尿糖も出なくなったし、血圧も境界値か、それ以下になった。まったく費用をかけずに、糖尿病・高血圧症が治ったのである。我ながら、驚いてしまった。


いろいろな生き方があり、施無畏がベスト。


施無畏(せむい)とは、仏や菩薩が人々の恐怖心を取り去り救うことである。観世音菩薩の異称でもあり、施無畏者とも言う。しかし、施無畏者と言えば、奉仕精神があって、他人を救っている人のことを言う場合もあるようだ。

いろいろな生き方がある。ふつう、幼いころからエリート競争をする。他人より優れていると、有利であるからだ。金を貯める、人気を集めて有名人になる、世界を征服する、そんなことが何になろうか。欲望にはキリがないので、心が安らかではない。

そもそも誰がいちばん偉いかなどとは、まったく愚かな論議であろう。私は、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思い出す。一郎の判決も素晴らしかったが、何となく多くのどんぐりに施無畏者的。


いざというときに慌てぬ準備が必要。


何かあったときにでも、慌てないような普段からの準備が必要です。例えば火事になったときは、第一に火から逃げることです。もたもたしていると、焼け死んでしまうからです。しかし、銀行の通帳やカードだけは何とかして持って逃げたいものです。最悪の場合でも、口座番号などは身近にメモしておいたほうがよいでしょう。

さらに自分自身が死んだときの用心も必要です。妻のところに誰かがやってきて「お宅のご主人に貸した一千万円は、いつ返していただけるのですか?」などと言うと困ります。私は、誰からも金を借りていないからです。

とにかく、どさくさのときには間違いや事故が起こりがち。ふだんから、どこに何があるかを明確に把握しておきたいものですね。私は運転免許証などは、パスケースに入れて紐で首にかけるようにしておきます。


どこの誰、何のためにか、はっきりしない。


メールが、毎日たくさん来るようになった。しかし、どこの誰だか、また目的は何なのか、どうもよくわからないものが多い。つまり、何のために何をしようとしているのかが、私には詳(つまび)らかではない。したがって、そのまま削除してしまう。

知らない人から無記名でメールをいただいても、何とも仕方がないのである。問い合わせや忠告であったら、少なくとも実名を書くべきだろう。私は、そのようにしている。

メールは便利ではあるが、何となくニュアンスが伝わりにくい。単なる連絡のようなことならよいが、お願いや質問などの場合には、なかなか思ったことが書けない。中には勘違いされるようなこともあるので、注意をしなければいけない。私は、あまり面倒なことをなるべくしたくない。


あれこれとしたいことあり、手が回らない。


あれもしたい、これもしたいと思う。しかし、すべてには手が回らない。自分の能力は、自分が思っているほどないからである。どうしても、中途半端にならざるをえない。致し方ないことである。

そんなわけで、このプログやホームページの内容は、何とも見苦しい限りだ。一つずつの見直しをして、自分で納得する形に仕上げればよいのであるが、それがなかなかできないのである。

いきおい、百舌の速贄(もずのはやにえ)のようなページや記事が、どんどん増えてしまう。考えてみれば、プログやホームページだけでなく、自分自身の人生そのものも、中途半端であまり意味のないものかもしれない。何とも、お恥ずかしい次第。


安心のために、自分の宇宙価値観。


自分自身が安心立命できないのであれば、いくら勉強をしても仕方がない。おそらく宇宙には始まりがあって、終わりがあるだろう。そして、その中には自分の誕生から死までが含まれる。だから、マクロコスモスの中にいて宇宙における自分の価値観がないと、どうしても安心立命ができない。

いっぽう、ミクロコスモスのことも、それなりにわからないとダメ。自分自身のための安心立命が確立しにくいのは、範囲が膨大であるからだ。

プラズマコスモスという概念もある。ふつう四次元まで感知できるが、宇宙は五次元以上らしい。それが、ビッグバンで始まってクランチ(噛潰し)で終わるという。そこには、ブラックホールの概念などもある。それらを納得できないのは、自分の無能だろうか。しかし、何とかして直感的にわかっておきたい。


食うことと寝ることの間(ま)に、わずかに学ぶ。


寝食(しんしょく)を忘れて、学問をするなどと言う。しかし、それが本来の姿であろうか。実際には、日々食うために働いたり、動いたりしてきた。そして、食ってからある時間が経つと寝る。寝ると、そのまま眠るのである。

「くっちゃね」と言って、ののしることがある。しかし、それは近代になって植え付けられた躾(しつけ)などの概念だろう。野生の動物などを観察していると、人間の場合はかなり異なっていることがわかる。食事と睡眠の間に少しだけ学ぶことが、人生のすべてかもしれない。

古くは、食事そのものも必要に応じてしたらしい。当然のことだが、朝食はなかった。源氏物語の時代では、帝(みかど=天皇)でも昼になってから、一日の最初の食事をとった。朝飯をしっかり食べるようになったのは、ごく近代のことである。なぜならば、道元がそれまでのしきたりに反し、軽い朝食を始めたという記録があるからである。


ストレスを貯めない方法、日々に大切。


ストレス(stress)とは、身体に歪み(ひずみ)の生じた状態を言います。外気温度の寒冷などから、身体に生じた外傷、さらには精神的なショックによって起こる精神の緊張や反応。それらの原因となる状態も含みます。

そのストレスが貯まってしまうと、身体のホメオスタシスが効かなくなります。ホメオスタシス(homeostasis)は、身体のバランスです。つまり、体内にある諸器官が気温や湿度などの外的環境の変化に対して、ある一定範囲の均衡状態を保持したり、姿勢や運動などの肉体的変化に対する均衡状態です。

そんなわけで、ストレスを貯めないことに留意しなくてはいけません。つまり、日々の健康状態を保ちたいからです。


ガム噛むと、肥満解消、ストレス除く。


近代になって、あまり固い食べ物が少なくなった。そんなために、噛む必要もなくなってしまったようだ。しかし、噛まないということは健康にとって好ましいことではない。

よく噛まないために、どうしても肥満気味になる。つまり、満腹中枢が働かないのだ。したがって、食前にガムを噛むといいかもしれない。肥満防止つまり痩せるためにも効果があろう。さらに、食後にガムを噛むと口腔内を清潔にしてくれる。そんなことに、ガムを利用するのは好ましい。

また、ストレスの削減にも効果があるという。野球選手がガムを噛んでいるのを見たことがあるでしょう。それは、試合中のストレスを減らすためにしていることであり、単に習慣などではない。さらに、監督までくちゃくちゃやっている。試合に勝つのは、大変であろう。いずれにしても、ガムは頭脳の働きをよくしてくれる。そのように考えると、健康に好ましいものと言えるのではないか。


気力なく体力もなく、ただ生きるだけ。


何となく疲れてしまい、気力まで失ってしまうことがある。そんなときは、ただ生きているだけという感じがする。しかし、それはそれで人生にとって大切な時間なのかもしれない。緊張を続けていると、ストレスがたまるからである。

もともと、人生の意味とか生きる定義などは、存在をしないのかもしれない。「人生はあるからある」「生きているから生きる」というのが現実ではないか。人間の脳が進化をしたために、何事も論理付けをするようになった。そして、結論を求めようとする。

ないものでもあると考え、論理を展開するのが学問かもしれない。私たちは、空間と時間の四次元世界に生きていると考える。しかし、もっと多い多次元の宇宙にいて、ない時間を概念として考え、自分自身を含む宇宙を構築しているのかもしれない。そんなことを、ときどき本能的に考える瞬間に、気力も体力も失うみたい。


オーパーツ、不思議と言うか、不可解である。


オーパーツは、私たちの常識では考えられない物品。誰が何のために作ったのか、またどのような技術で製作したかなどが不可解な品物である。近年になって、そんなものが続々と登場している。

もしかしたら、私たちの知らない次元があって、そのようなところで作られたものかもしれない。そのようなことを考えるか、あるいは贋作や何らかの陰謀説までを持ち出して何とか科学的に説明をするか、いずれにしても意見が食い違って互いに納得できない。

私は、もしかしたら人間の脳自体が根本的な間違いを犯しているのではないかと考えているので、不思議や不可解に関しては何となく納得ができるのである。そもそも脳が理解をするということが、どうも理解できないのである。


脳のNO、その存在を不思議に思う。


私は、かねがね脳の存在を不思議に思っている。しかし、それは脳が脳自身を考えるのであるから、あまり正しい意味がないのかもしれない。「脳」という字と「悩」つまり「悩み」という字の違いについても、何となくわかる気がする。

「人生を楽しみたいのう!」
「人間には、右脳と左脳があるっていう話だのう」
「脳のことについては、現在の医学でもわからないことがあるそうだのう」

何となく『千一夜物語』に出てくる「海坊主」のような存在でもある脳。私には不気味に思えてならない。何かをするときに、「脳がNO」という判断を即座に下せることについても、意味がよくわからない。もしかしたら、マクロファージやミトコンドリアなどよりも、もっと高度に発達した大型寄生体かもしれない。


いじらないことが安全、少々のこと。


いったい何のことかと思うでしょう。実際に、ここではパソコンの中のことだ。単体でなく、いわゆるインターネット接続しているので、うっかりすると問題を生じる。新しいツールをインストールしただけで、正常に動かなくなってしまうこともある。

ハードディスクの取扱いも、注意をしなければならない。例えば、CドライブとDドライブである。Cドライブが窮屈になったので、Dドライブ内の余った領域をCドライブに移そうとする。しかし、それが大問題になることが多い。それをするなら、いっそすべての領域をインストールしなおすほうが確実で早いかもしれない。

つまり、少々のことは我慢をして、そのままにしておいたほうが安全。簡単な理屈では考えられないようなことが、しばしば生じるからである。何となく人生の諸事情と似ている。


健康という概念は、個人差がある。


「健康」の定義は、ちょっとむずかしい。個人差が、大きいからである。WHO(世界保健機関)は、「健康とは、肉体的、精神的、そして社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病や虚弱さがないというだけではない。」というような定義をしている。

そもそも一人の人間を「肉体的」とか「精神的」とか「社会的」などという要素に、その状態を切り離して考えることができるのであろうか。何となくわかったような気がするものの、どうも私には納得ができない。

同じような状態であっても、自分自身を健康と考える人もいるし、すでに病気だと思う人もいる。つまり、健康という概念には、かなり個人差があって、一概には言えないのではないか。日々を楽しく暮らせれば、まずは健康と言ってもよいのではないだろうか。


人間の脳と身体(からだ)が有する不思議。


人間の脳と身体(からだ)とには、いろいろと不思議なことがある。結論から言うと、私にはよく理解できない。

「脳」は、脳幹と小脳と大脳との三要素から構成される。「脳幹」は、呼吸・睡眠・血液・体温など生きるために必要な基本機能を担っている。「小脳」は、運動や姿勢に関する指令を出し、そして「大脳」は考えたり、感情や思考、さらに言葉などを分担するという。

しかし、私は「自分の脳」で考えたつもりだが、何となく次のようなことを危惧する。つまり、もしかしたら「脳は遠い過去に、人間の身体に寄生した異質の生命体ではないか?」と直感的に考える。もっとも、脳で脳を考えるのであるから、支離滅裂の論理になっているかもしれないが、……


さて今日は、何をするかと迷うことあり。


年金生活者になって、サンデー毎日である。日々に必要な手続きや仕事は、ほとんどない。いきおい、自分の意思で一日を過ごせるのであるから、何ともありがたい話である。残されたわずかであろう人生を何としたらよいか、迷うことがしばしば。

体調が優れているとき、晴れて風も強くなく天気がよいとき、そんなときには外出をする。そうは言っても、とくに行かなければならないところがあるわけではない。そこで、あまり遠くない名所や神社仏閣などを回ってみる。日帰りで行けるところを原則として。

「そんなことをして何になるのか」という疑問が生じる。しかし、そんな単純な行動でも、その中に楽しみがあり、また運動不足も解消できる。そんな次第であるから、何をするか、どこへ行くかを迷うのである。


何一つ不自由はなし、健康ならば。


今のところ、私も妻も何とか健康である。そのうちに、何れかが一人になるであろうが、まだどちらも寝たきりになったり、アルツハイマー病などにはなっていない。

むろん、互いに度忘れがあったり、かなりメタボがかっているもののまだ外出できるので、幸福なのであろう。何れかが車椅子になったりしたら、お互いに外出も不自由になってしまうと思う。

すでに年金生活者なので、あまり日々の費用をかけられない。いきおい食費や交通費なども、みみっちくならざるをえない。散歩の領域を増やしてくれるシルバーパスは、大いに助かる。外食は吉野家など、さらにミスドでエンゼルクリームをほうばる。現在は不自由もなく、楽しい限りである。二人とも、まだ健康だからだろうか。


愚痴を言う、「昔は、そんなことがなかった」。


最近になって、大幅に身体の機能が失われてしまった。そして、「昔はそんなことがなかった」などと愚痴(ぐち・グチ)ったりする。みっともないことではあるが、現実なのだから仕方ない。

誰でも加齢とともに、体力は減少する。それは、至極当然なことではあるが、素直には納得できない。つい、こころのおごりが生じてしまうからだ。

そもそも昔のことなどは、どうでもよいことかもしれない。「昔は健康だった」とか「昔は金持ちだった」とか「昔は有名だった」などと言っても、仕方がない。そんなことよりも、現実の今に徹するのがよい。いま何とかして健康の状態を維持できれば、それでよいのではないか。「金持ち」や「有名」などは、取るに足らないことだと思う。


複雑になればなるほど、トラブル多し。


ふつう、物事は複雑であればあるほど、問題も多くなるようだ。追加や改良をしたシステムでは、誤動作やエラーなどの障害が多いようである。社会のシステム以外に、私たちの身体もそうだろう。

皮下脂肪を手術で除いたり、歯にインプラントを付けたりすると、後で問題が生じることもある。身体は、それ自体でホメオスタシスをもっている。ちょっと状態を変えると、全体の調子も変わってしまう。複雑にする理由はそれなりにあるだろうが、できれば全体を単純にしておく必要がある。

社会全体のシステムなどは、個人では何ともしがたい。しかし、自分自身の身の回りや身体などは、あまり複雑にしてはいけない。つまり、自分を可能なかぎりすっきりとさせておく必要があるのかもしれない。


もう何も、するのがいやになるときもある。


雨の日などに、つい何となく面倒くさくなり、何もかもするのが、いやになってしまうときがある。とくに身体が不調なとき、風邪をひいたとき、そして疲れているときなどである。

また、自分自身の人生において「何のために、何をしているか」などと改めて考えると、つい物事が億劫(おっくう)になりがちだ。あれこれと考えていると、どうも滅入ってしまう。そして、そんなときには仕方なく「無意味の意味」などという概念が出てくる。

健康で晴れた日には、そのようなことが少ない。何かとしたいことやあちこち行きたいところがあるからだ。何となく、人間は身体を動かさないで、考えてばかりいると消極的になってしまうのかもしれない。とくにそんなことは、私の場合だけかもしれないが、……。


Kuroda Kouta (2011.03.31/2011.03.31)