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  新句(十九音) 作品集44(2011年2月分)



何故か? 噎(む)せる・咳き込む、体の失調。


いつごろからだろうか? 身体が失調をすることが多くなった。何かの拍子に息苦しくなって、噎せるのである。あるいは、咳き込んでしまってなかなか止まらない。電車の中などでは、困ってしまう。

また、電車やバスに乗って車内で噎せるのではないかと心配をすると、その途端(とたん)に症状がやってくる。かなり精神的な問題でもあろう。

数年前に、手術を受けるために入院をした。それ以前は、噎せたり咳き込んだりすることは、めったになかったと思う。また、身体が失調するということも少なかった。鼻水がずるんずるん出て止まらなかったり、喉(のど)がヒリヒリ枯れてしまうような症状は、おそらく自律神経失調症なのではないか。もしかしたら、院内感染によって腸内細菌の状態が変わってしまったのが原因かもしれない。


宝塚「ブスの25箇条」、学ぶことあり。


貴城けい(たかしろけい)が宝塚の現役だったころ、貼り出されていた一枚。誰が、何のためにしたのかはわからないという。

「笑顔がない」「お礼を言わない」「おいしいと言わない」「目が輝いていない」「精気がない」「いつも口がへの字の形をしている」「自信がない」「希望や信念がない」「自分がブスであることを知らない」「声が小さくイジケている」「自分が最も正しいと信じ込んでいる」「グチをこぼす」「他人をうらむ」「責任転嫁がうまい」「いつも周囲が悪いと思っている」「他人にシットする」「他人につくさない」「他人を信じない」「謙虚さがなくゴウマンである」「人のアドバイスや忠告を受け入れない」「なんでもないことにキズつく」「悲観的に物事を考える」「問題意識を持っていない」「存在自体が周囲を暗くする」「人生においても仕事においても意欲がない」

私は、この貴城けいの思い出から学ぶことが多く、なるほどと思った。


何となく不安な気配、キリコ『輪回し』。


ジョルジュ=デ=キリコ(Giorgio de Chirico 1888〜1978)はイタリアの画家。幻想的で、神秘的な形而上絵画を残し、シュールレアリスムの先駆者と言われる。

私は『街の神秘と憂鬱』という絵を見て、何となく不安な気配を感じる。左右の建物の影のアンバランス。暗いほうの壁ぎわに、扉が開けたまま放置されている囚人車。そして、中は空っぽのようだ。左手前から髪の長い女の子が、輪回しをして走っていく。

その先には、背の高い男の影が不気味に映っている。女の子に、何もなければよいが。これは、何となく心に住み着くような画だ。私には映画にも、そんなイメージがあった。例えば、『かくも長き不在』。


YouTube(ようつべ)で、記憶に残る映画を探す。


雨の日は、出かけるのが億劫であり、部屋に閉じ込められてしまう。そこで、パソコンを始める。すると、実にいろいろな分野のことがわかって、なかなか興味がつきない。しかし、ときどき私の記憶の断片とマッチをしない。そして、それがまた次の記憶の断片になる。

かなり前の映画がもう一度見たくなっても、なかなか出てこない。
例えば、『かくも長き不在』『みじかくも美しく燃え』『デルス・ウザーラ』など。何となく印象が深く、心に住み着いている映画だ。

『かくも長き不在』は「かくも久しき不在」、『みじかくも美しく燃え』は「美しく短く燃える」と覚えていた。文字が異なると、出てこないことが多い。後者は、原名の「Elvira Madigann」とするとたくさん出てくる。原名とタイトルが異なることもある。「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima,mon amour)は、『二十四時間の情事』となっている。そんなわけで、探すのに一苦労だが、それも楽しい。


人生は、帰るところが在(あ)る旅である。


日々帰るところに帰って休む。ホームレスでも、睡眠はする。つまり、眠りが帰るところなのである。そして、次の日には再び旅に出る。私の旅は小さく、せいぜい都内をうろちょろするだけである。

そんなことを毎日やっている。小さい旅の連続である。しかし、やがて死んでしまう。すると、帰るところのない旅になる。すなわち、生きていたときのように反復して戻ることが、もはやできない。

生き生きとしている野菜も、買って三日ほど置くとしおれてしまう。水をやると回復することもあろう。しかし、いったん枯れてしまうと、もはや新鮮には戻らない。それは、あたかも人生のようなものであろう。生きているうちは回復ができるのであるが、死んでしまうとどこにも戻れない。ただじっとして、耐えているだけである。そんなことがわかってきた。


老人は眠りが浅く、目覚めが早い。


還暦を過ぎたころから、眠りが浅くなった。熟睡ができないのである。そして、朝も二時・三時ごろから目が覚めて起きてしまう。

その代わりと言ってはなんだが、日中に何かしているときに、急に眠くなる。パソコンをしていても、ついトロトロッと眠くなるのである。また、電車やバスに乗って座っていると、うつらうつらしてしまう。若い人でも、車中にそういう人がいるが、おそらく前の晩に寝不足をしているのだろう。

前に百歳以上の高齢者のインタビューで、二日間起きていて、二日間眠るというおばあさんがいた。インターバルが長くなるのはよいが、何かをしていて数時間後に眠くなってしまうのは困る。ベルグソン時間とニュートン時間とのギャップは、高齢になるとはっきりしてくる。時間の存在は、人間にとって何であろうか?


楽しみは、施無畏の中に存在をする。


楽しみや幸福は、どこにあるのだろうか。きっと、施無畏の行動の中にあるのではないか。施無畏(せむい)はもともと仏教の言葉で、仏や菩薩が衆生(しゅじょう)の恐れ心を取り去って救うことを言う。また、観世音菩薩のことを施無畏と言ったりもする。

しかし、ここでは無報酬で社会に奉仕をすることを施無畏と言う。施無畏者と言ってもよい。そのような行動は施無畏の幸福であろう。宮沢賢治の「雨にも負けず」の中に書かれているような東奔西走は、まさしく施無畏者の行動であるに違いない。いま私の身近には、渡邊師がおられる。

真の幸福や楽しみは、意外にも身近にあるものだ。「論語」には友だちが遠くから尋ねてきたりすることも楽しみであると書いてある。暗中模索をしてあれこれと求めるよりも、簡単なことでも社会に奉仕をすれば心が晴れやかで、幸福になれるのではないか。


なつかしい気持ちとともに、恥の思い出。


とてもなつかしい思い出がある。それは、まだ若かったころのこと。しかし、なぜか恥の記憶に連なっていることが多い。失敗をしたり、うまく行かなかったことである。

いろいろと考えてみると、うまく行かなくて恥をかいたことは、やはり力不足であったみたい。自分自身を過信したというか、向こう見ずであったのだろう。つまり、若気の至りとでもいうのではないか。

最近になって、考えが大いに変わった。まず根気がなくなったことと、自分の体力そのものが減少したことによって、物事の進捗がはかどらない。つい、ずるずると延びてしまうのである。そして、今後それが恥の思い出ではなく、後悔の思い出になるんじゃないかと憂慮し始めたところ。


口で言うだけで、身を粉(こ)にする人いない。


パスカルの『パンセ』(冥想録)に「「口のうまい人」は、そのことが悪いしるし。(四六)」とある。私も、まったくそうだと思う。現代社会には、真面目に「身を粉にして働く」人は少ないようだ。口では「社会のために」とか「国民皆さまのために」などと言って、蓄財に励む人が多い。何となく政治家や経営者には、表の顔と裏の顔があるみたい。

私の知っている範囲で少ないが、それでも困った人を助けている観音さまのような人がいる。「雨にも負けず」のように東奔西走して、病人や悩んでいる人を助けに行く。金剛寺の渡邊師も、その一人であられる。

中国の僻地に、平和な村があったらしい。そして、泥棒などいない。鍵などは必要ないし、むろん塀や柵なども不要であった。誰もが無口だったけれども、よく働いて旧約聖書のノアたちのように互いに平和な生活をしていたという。


何故か、激しい疲れ、なかなか取れぬ。


もしかしたら、もう人生に疲れてしまったのかもしれない。いくら休養をしても、疲れが残るのである。睡眠の時間が短くて、熟睡ができない。オシッコに行きたくなって、目が覚めるのではない。朝まで、ぐっすりとは眠れないのである。おそらく、自律神経の関係であろう。

なぜならば、いまやっている研究が心を疲れさすのである。研究というのは、「観音と観音経の研究」「無の研究」そして「死後の研究」である。それらは、研究をしても結果が出にくいテーマなのだ。

それでは、何でそんなテーマを選んだか。一番目は、自分自身が救われたいため。二番目は、大半が過ぎ去ってしまった自分の人生を納得したいため。最後は、いわゆる「死後の状態」の理解である。何れも人生の大問題だから解決をしようとすると、激しい疲れが生じるのではなかろうか。


正専寺、ようやく尋ね当てて、やれやれ。


高幡不動駅の周辺には、神社や仏閣がある。南口から200メートルも歩くと高幡不動尊。正式には、「高幡山金剛寺」。そして、北口から100メートルで真言宗大谷派正専寺。

その正専寺である。私は地図を見てから現地に行くことが多いが、今までは所在がわからなかった。その前を何回か通っても、迂闊にも気付かなかったのである。したがって、もしかしたら地図の記述が間違っているのではないかと考えた。しかし、グーグルの地図にもヤフーの地図にも、ちゃんとあるではないか。そこで、徹底的に調べてみた。すると、やはりあった。

もしも、あなたが高幡不動駅の北口にある正専寺を見出せたら、私はあなたを注意深い人だと尊敬するでしょう。


イライザちゃん、勉強をしてマイ・フェア・レディ。


イライザちゃんは、ずーずー弁の花売り娘だ。見かけたところ、汚くて発音もめちゃくちゃ。街の大通りで、「お花はいらんがねぇ」と大声でわめいていた。

通りかかったヒギンズ教授が、彼女に注目をした。そして、一緒にいた友人に言った。「あの話し方は、どうもいけない。簡単に治るんだがなぁ」 それから彼女の特訓が始まった。貴族社会の発音を正確にすることである。そして、数ヵ月後に晩餐会に行った。すると、誰もがどこの貴族の令嬢かと訪ねる。教授の母親まで、花売り娘だったことを見抜けない。

バーナード=ショーの『ピグマリオン』にある話。しかし、実際のピグマリオンはギリシア神話。自分の作った象牙の像に恋をした男をアフロディテが哀れに思い、その像をそのまま生きた女にしてくれる。それを脚色したものが『マイ・フェア・レディ』となった。


スパイダー・ソリティアやって、老化の予防。


Windows7にあるゲームに、「スパイダー・ソリティア」というのが入っていた。やってみると、なかなか面白い。私はあまりゲーム好きじゃないが、それでもときどきスパイダー・ソリティアをする。なぜならば、気分転換にもなり、老化予防にもなると考えるから。

若いころは記憶がしっかりしているが、加齢によって度忘れや勘違いをするようになる。仕方がないことではあるが、なるべくそれらを避けたい。そこで、スパイダー・ソリティアをするのである。

つまり、カードをどう移動したらよいかを考えるほかに、素早くマウスを操作しなければならない。それは、手を使うのである。カントは「手は外部に出た脳である」というような意味のことを言っている。確かに、指先を用いることは、老化予防の一つとして効果があるようだ。


争いや戦いなどは、愚かなるもの。


自我を通すために、互いに争う。愚かなことである。国家間の戦争は、考えてみれば愚の骨頂。つまり、この上なく愚かなことである。しかし、私は国家の問題などを云々する立場ではない。また、国内の政治や経済の利権や勢力などとも関係していない。だから、自分自身の問題として考えればよい。

そこで、なるべく争いや戦いなどに関係をしないような努力をする。いちばんいいのは、あまり人間関係を増やさないことらしい。そうかと言って、まったく人のいない山中などに隠遁するわけにはいかない。

私は、非暴力主義のガンジーやイスラムと話し合いで互いの要求を解決したフェデリコ二世のことを思い出さずにはいられない。


楽しみはシルバーパスのバス小旅行。


時間が許す範囲で、シルバーパスによってバス小旅行をする。何とも楽しいかぎり。バス代がかからないのも、ありがたい。とくに、基点から終点まで行くときは、いちばん後ろの座席に座って、景色をのんびりと見ていれる。

かつて私も車を使っていた時代に、多摩地区のたいがいの道は走っている。したがって、前に通った何となくなつかしい場所をバスの窓から眺められる。また、気持ちがよくてトロトロとしてしまうことがある。自分が運転していたら、考えられないことである。

そんなこともあって、小旅行というと大げさではあるが、バスを利用した散歩というか、散歩にバスを利用するというか、いずれにしても楽しくて、ありがたいことである。


プチさんは一生の趣味、続くと思う。


歩くということは、人間が生きていく上の基本的なことである。だから、生きている間は、歩き続けたいと思う。私は何とかして死ぬ前の日まで、自分の足で歩きたい。「朝は四本足、昼は二本足、そして夜になると三本足は何か?」というスフィンクスの有名ななぞがある。

プチさん(プティ散策)は、歩くことが基本である。しかし、多くを歩くことなく、一キロメートルも歩ければ十分(じゅうぶん)。たとえ歩行が困難になっても、私は杖をついてでも歩きたい。何としてでも、寝たきりにはなりたくないのだ。

プチさんを計画している範囲は広く、都内のシルバーパス利用で行けるところだけでも、とても回りきれません。したがって、プチさんは私の一生の趣味になるんじゃないかと思う。


これでもか? これでもまだか? 欲は果てなき。


エントロピーが増大するのと同じで、人類全体の欲は常に増えているようだ。現代社会において、その際限がないことは周知のとおり。

世間では物欲・名誉欲、そして性欲などのために犯罪が耐えない。一般的な人類や社会のことはともかく、自分自身のことを考えるとお恥ずかしい次第。物欲や性欲は還暦を過ぎたころから、さすがなくなってきた。しかし、知識欲だけはいまだに絶えない。これでもか、これでもまだか、などと意気込む。

そんなわけで、いろいろなことを調べる。そして、そんなことをしてもキリや果てがないことを知らされる。いったい自分自身は、何のために生きているのだろうか。などと、いつも考えてしまう。


「唯」という字を見るたびに、亡き友思う。


書物を読んでいて「唯」という字が目に付くと、はっとして大岩唯浩さんのことを思い出す。ホームページやメールの文章でもそうである。そして、十年前に亡くなった彼の冥福を祈るとともに、なつかしさが胸にこみ上げてくる。

ちょっと偏屈なところがあったかもしれないが、とても博識があって、積極的な性格であった。よく旅行などにも誘ってくださった。いま、私は都営地下鉄の大江戸線巡りをして「都営地下鉄大江戸線全駅(38駅)巡り」というレポートを作成している。

まだ、私がパソコンやデジカメをもっていなかったころだが、よく大岩さんが大江戸巡りに連れて行ってくださった。それは大江戸線が開通をしたばかりのころだった。そんなことから、「唯」という字以外にも私は大江戸線に乗ると、大岩さんをなつかしく思うのである。


世の中の役に立ちたし、生きてるうちに。


あっという間に、過ぎてしまった若かった時代。そして、考えてみれば、還暦もとっくに過ぎ、さらに古希をだいぶ以前に迎えてしまった。「古来希なり」などと言うのは自分のことでないと思っていことが、まったく嘘みたい。

考えてみなくても、「光陰矢のごとし」とはよく言ったものだ。でも、後悔をしているわけではない。あまりいいこともなかったが、それでも何となく自分には幸福な半生であった。ただ、朱子の「一寸の光陰(こういん)軽んずべからず。」という言葉には、やはり少し後悔しているかもしれないが、………

さて、これからである。年金生活者のつつましい生活であるから、世の中には金銭的な貢献ができない。したがって、世の中の役に立ちたいなどと言っても、何をすればよいだろうか。体力もないから渡邊師のような勤労奉仕などもダメ。せいぜい後輩に対してアドバイスをすることくらいになろうか。


度々(たびたび)の恥は書きすて、いたたまれなし。


「度(たび)の恥は書きすて」どころじゃない。度々(たびたび)である。そして、いつもそんなことを考える。今こうやって書いていること自体、恥の一部じゃないかと思いつつも、あつかましくも書き捨てる。

パソコンで、このブログの他にもTwitterやfacebookなどをしている。そして、それらに投稿をした記事全体が自分の恥の一部なのである。それでは何で恥さらしのようなことを敢えてするのか。それは、「生きている証明」だからである。恥をかこうが、笑われようが、自分自身が生きているということを自分自身で納得したいからである。

そして、さらに老化予防の効果を期待している。他人の文章を読んで意見を言うことも、ボケ防止の一つ。それが無視されてもよい。老人の一人遊びでもいいじゃないか。しかし、相手から意見が戻ってくると、そこから会話が始まることもある。


生きている証明などと言い、新句する。


私は「生きている証明」などと言って、日々せっせとこの新句(十九音)を作る。つまらない作品だけれど、自分なりには意義がある。また、一日に一句、わずか十九音だから大きな負担にはならない。

それは、老化予防のためにも都合のよいことであろう。つまり、考えたことや気付いたことを短い言葉で何とかまとめておくのである。

また、日々の日記として、よいかもしれない。日記は「何がどうした」というような事件性が多いようだが、新句(十九音)では「考えをまとめたメモ」のような性格が強い。したがって、後で見直すと反省することが多い。そんな意味で、手前味噌ではあるが新句(十九音)を始めてよかったと思う。


ぼつぼつと自分自身の死を考える。


最近になって、親しかった人が次々と他界した。たいがい当人だが、中には奥さんに先立たれた人もいる。本人が死んだら付合いはなくなってしまうが、奥さんに死なれた男とは交際が続き、何となく情けない様子を見せられる。

奥さんがしっかりしていた人であればあるほど、残されたご主人の振舞いは哀れである。反対に、ご主人が先立ってしまったときは、それなりに奥さんも困るだろう。つまり、お互いにどちらかが欠けたら、様相が一変してしまう。

そこで、私は妻が死んだときにもあわてない覚悟をすることにした。そして、それ以上に自分自身が死んだときに、妻が困らないようにしておきたいとも思う。今さら財産を残すなどという大げさなことはできないが、せめて何がどうなっているかを整理しておきたいものである。


めらめらと炎のごとく揺らぐ情熱。


古希を過ぎたこの歳になって、まだ情熱が揺らぐことがある。蝋燭(ろうそく)は消える前に、少しの時間だけ明るくなる。ぱっと一瞬の場合であることもあるが、かなり続くこともある。

宮柊二さんの作品に、
<蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代(よ)過ぎぬ>
というのがある。それは、青春の挽歌とも言うべき訣別と愛惜を示している。「長き炎」はすでに過ぎ去った「若き代」と重ねることによって、暗黒の未来を暗示しているのではないか。

私のは、暗黒の未来どころではなく、すでに燃え尽きようとしているような気がする。先日来、自分自身のアイコン用に「蝋燭が燃えて揺らいでいる画像」を作ろうとしたが面倒なのと、何となくムダなような気がしたのでやめた。


一日にメール一通、必ず出そう。


急速に、自分の身体が衰えていく。そんな中で、互いの安全を確認するために、日本健康会では一日に最低は一回、メールを出すようにしている。一人暮らしの場合には、とくに好ましいと言えよう。もっとも、旅行などで出せないときは、あらかじめ何日間はメールを出さないと言えばよい。

メールと言っても、俳句や短歌などでよい。あるいは、デジカメの写真を添付してもよいでしょう。また、歌や詩吟・謡曲などを自分で録音すれば、他人が聞いても面白そうだ。

手慰さみのない老人は、何をメールすればよいのだろうか。何もなければ、そのときの気分や考えていることでもよいでしょう。例えば、「おはよう!」とか「腹減った」などでもいい。つまり、そのつぶやきが「生きている証明」であるから。そして、その一日一回以上の証明が、互いの安否になるのである。


一日に一便すると、老化の予防。


このブログを一日に、一通ずつメールする。そして、同時にFacebookなどの仲間にもする。さらに、相手が不特定多数であるTwitterにも、行ってしまう。つまり、一日一便である。そのようにすると、日記と同じ効果があって老化の予防になる。

なぜならば、記憶を書き留めることと同時に、キーインプットすることによって手先を使うからである。手先を使うことは脳に対してもかなり刺激があって、老化予防に好ましい。カントは、「手は外部に出た脳である」と言ったそうだ。

便(びん)という字は、便(べん)という意味もある。尾籠な話しになってしまったが、やはり便も一日に一回するとよい。老いてくると食べ物の量が少なくなってくるので、日ごとに出なくなるかもしれない。それでも、定期的にトイレに行って出るものは出すのが健康のためによく、老化予防としても好ましい。


人生は、すべからくただ空しかるべし。


旧約聖書の『伝道の書』(コヘレットの章)ではないが、人生はすべてが空しいのではないか。つまり、「空の空」なのである。

「すべからく」は「須く」と書いて、動詞の「す」に推量の助動詞「べし」が付いた副詞である。つまり、「すべし」のク語法からできた漢文の訓読による言葉。ふつう下に「べし」を伴って、何かをしなければならないというような気持ちを表す。「当然だ」というような意味になる。例えば「老いてもすべからく健康を保つべし」などと使う。

「べし」にはいろいろあって、「当然」「適当・妥当」「可能」「勧誘・命令」「義務」「推量・予想」「決意や意志」などを表す。ここでは、「べし」で当然のことながら人生がすべて空しいと言い切っているのではないだろうか。


何となく「成住壊空」が解ったみたい。


私たちの生命は「成住壊空」(じょうじゅうえくう)を繰り返していることが、何となく解った。「成」は、元素が集まって一つの生命が始まること。「住」は、生命活動そのもの。「壊」は、生命体の終末。そして「空は」、生命がいわゆる空の状態になって宇宙に溶け込むこと。

そして、「成住壊」がいわゆる一生になり、「空」が死んだ後のことで次に生まれるまでの状態と考えたらよいのではないか。

私の学んだシステム論では、生命体は死ぬと当然のことながら生命体でなくなる。つまり死体になって、属性(アトリビュート)を失う。有形・無形のものを捨て去るのである。そして、無の状態になって空(くう)に溶け込む。この空の状態は、生前によほど意思の刷り込みをしっかりしておかないと、ふたたび成の状態になることが困難である。と、私は思う。


信仰の対象をもつことが人生。


人生において、信仰の対象をもっていないということは、生き甲斐を失うことではないだろうか。信仰と言っても、何も宗教にかぎったことではない。自分自身が信じることならば、それを信仰と言ってよいだろう。

信仰と言って具合が悪ければ、価値観とでも言おう。日々生きているのでも、何か充足がなければマンネリになってしまう。自分だけの価値観であるから、相手がなくてもよい。何か信仰というと、定期的に集まって、説教を聞くような錯覚をする人がいるが、そんな必要はない。

価値観の共通がなければ、自分一人だけの信仰になる。そのような場合は、集まる人がいない。それでもよいのである。人が集まれば、煩わしい問題が生じたり、トラブルが発生したりする。とくに共同して作業をするような必要がなければ、ただ一人でいるのが好ましいのではないか。


Kuroda Kouta (2011.03.02/2011.03.03)