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  新句(十九音) 作品集42(2010年12月分)



一瞬の輝きありて、蝋燭つきぬ。


蝋燭が燃え尽きるとき、最後にぱっと明るくなる。一瞬の輝(かがや)きとでも言うのであろうか。そして、その輝きの後で消えてしまう。

何となく、人間の一生を暗示しているようである。蝋燭が燃えるように、日々を過ごしてきたものが、最後になってもう一度だけ大きく輝く。それは、最後の力を振り絞っているようにも見える。

もっとも、死ぬ前に輝かない人も多くいる。寝たきりになってしまって、輝くにも輝けない。そんな状態は、困ったことである。


蝋燭が燃えるのと似て、人生終わる?


蝋燭(ろうそく)が燃え尽きるように、私たちの人生は、終わってしまうのではないだろうか。何となく、そんな感じがする。

蝋燭は自(みずか)らが燃え、回りを明るくする。そして、それを一生涯ずっと続ける。そして、最後は燃え尽きてしまうのである。何とも、人生を象徴しているような気もする。

ある人が地獄か極楽で、数多くの蝋燭の燃えているのを見せられ、それらは地上の人たちの生きている状態なのだと説明される。勢いのよいもの、弱いもの、そして消えかかっているもの。そんな話も、あながち嘘ではないような気もする。


フンメルとカークブレンナ、改めて聞く。


いままであまり聞けなかった作曲家ではあるが、「YouTube」で探すとかなり出てくる。いずれも、素晴らしいピアノ曲を残しているので有難い。

ヨハン=ネポムク=フンメル(Johan Nepomuk Hummel 1778〜1837)は、ハンガリー(現在はスロヴァキア)のオーストリア系作曲家である。また、ピアニストでもあった。当時は、ベートーベンと並び称せられて、むしろ技術的には上だったという意見もある。

フレドリッヒ=カークブレンナ(カークブレナー・カークブレンナー・カルクブレンナー Friedrich Wilhelm Kalkbrenner 1785〜1849)は、ショパンとほぼ同時代の作曲家、そしてピアニスト。ショパンを弟子にしたいと申し入れたことで、有名である。


季語などは不要、下の句、五でなくて七。


この新句(十九音)のことである。短歌や俳句が難しくて、私には力及ばなかった。そこで、考え出した短詩形。

俳句のような季語はいらない。また、韻なども一切不要。だから、思ったことを思ったままに綴ればよい。また、他人の真似をしてもよい。例えば、明恵上人(みょうえしょうにん)が<あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかやつき>と短歌に歌ったのを知って、自分なりに

あかあかと、あかあかあかと、あかあか夕日!

などと、下の句を七字で収めてもよいだろう。さらに、まったく同じ句が何回もあってよいのだ。そんなわけで、誰でも気楽に作れる。


わからないこと多くあり、それでも作る。


いろいろと考えるのだが、わからないことばかり。それでも、やっているうちに何とかわかってくるから不思議だ。決して諦めずに、あれこれと工夫をする。しかし、深入りをすることが無意味であると考えたら、いさぎよくやめる。

今まで、「ホームページ」「ブログ」「YouTube」「twitter」、そしてその「ボット」と進めてきた。いずれも最初のころは、まったく自信がなかった。なぜならば、私のような年配者にはきわめてわかりにくい仕組みになっているからである。ボットなどは、まったくナウい感覚の表現で、逆に取っ付きにくい。

それでも、そんなことに挑戦をすることが、老化予防の一環としては、非常に好ましいことかもしれない。また、それなりに自分自身の知的空間を広げるわけだから、わからなくても大きな効果があることは事実。何でもやってみる価値があると思う。


「こんなことして何になる?」、思うことあり。


若いころはすべてが体験になるので、それなりの意味があっと思う。失敗や無駄なことも、後日になって役立つことがあるからであろう。それはいわゆる体験学習の一環と思えばよい。

しかし高齢者になって、さらに古希を過ぎると、それこそ「年寄りの冷や水」の場合がある。「年寄りの冷や水」は「老人が身体に冷水を浴びるような危険な行為」ばかりではない。高齢者にふさわしくない行為や危険な行為、さらには差し出がましい振る舞いをすることなどを戒めている。単に戒めるばかりではなく、そんなことを冷やかしてさえいる言葉のようだ。

「こんなことして何になる?」と、つくづく思うことがある。あまり無理をして、社会に迷惑をかけることのないようにしたい、とも考えているのだが、……。


何となく、生簀(いけす)の中に置かれた感じ。


私は「生きている」というよりも、「生かされている」という感じがしてならない。つまり、何か大きなものに観察をされている感じなのである。それはもしかしたら、実験の一部なのかもしれない。生簀の中にいるとは、生殺与奪の力も相手方にあるということ。

つまり、神とでも言ったような存在が、空間と時間の中に、私を閉じ込めたのではないだろうか。鏡で自分の顔を見ても、何となく自分自身ではないように感じるときもある。おそらく、そこに写っているのは観察をされている自分のほうであろう。

また、時間についても奇妙な体験をする。一時間が長く感じたり、短く感じることである。それも、もしかしたら時間を縮小して、実験をされているためかもしれない。ニュートン時間やベルグソン時間を考えてみたら、いずれにしても何かの目的のために生かされているのではないかと、私は思う。


いろいろと学ぶことあり、「地獄変相」。


最近になって、中国で描かれた『地獄変相図』というのがある。かなり大掛かりなもので、素晴らしい。源信の「往生要集」をそのまま絵にしたようなもの。見ごたえがあった。YouTubeの第四巻には、<三字経に「養いて教えざるは父の過ちなり」>とあって、幼いころから躾(しつけ)をしないと、将来にダメな人間になって地獄に堕ちると警告。

また、第六巻には<仏さまは、「財施をすれば富を得る。法施をすれば智慧を得る。無施畏をすれば健康長寿を得る」と仰(おっしゃ)った>とある。

そして、最後のほうで<玉皇天帝は孟婆神を幽冥(ゆうめい)の神に任命し、孟婆亭を建立(こんりゅう)させた。そして、生まれ変わろうとするものは、そこで茶を飲まされて、前世のことを忘れてしまう>とあった。私にとっては、なかなか含蓄のある言葉である。


勘違いすること多い昔の映画。


かなり昔に見た映画。もう一度見たくなって、YouTubeで探す。たいがいは、アップされていて、見ることができる。しかし、探すのが大変である。

モーツアルトのピアノ協奏曲21番の第二楽章やヴィヴァルディの曲がバックに流れていたスエーデン映画『みじかくも美しく燃え』は、「美しく短く燃える」と覚えていた。文字が異なると、出てこないことが多い。そこで、原名の「Elvira Madigann」とするとたくさん出てくる。ストーリは単純で、おそらく音楽が効果的に印象に残ったのかもしれない。

『かくも長き不在』は「かくも久しき不在」と覚えていて、なかなか出なかった。同じ原作者のフランス映画で、岡田英次が出ていた「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima,mon amour)は、『二十四時間の情事』とすると出た。探すのに一苦労するが、一部ではなく全巻見れるものもある。


「ようつべ」や「ついたあ」などは、知的空間。


最初のころ、読み方がわからなかった。そして、わからないままに「YouTube」を「ようつべ」、「Twitter」を「ついたあ」として、固有名詞で辞書ツールに単語登録をした。そんなわけで、私はそのまま使っている。

そして、この「ようつべ」も「ついたあ」も、最近では私の「知的空間の一部」になった。いずれもタダ(無料)で、それなりに充足している。筆禍や著作権など注意をすれば、まずは安全。何となく「YouTube」を見たり、「Twitter」を読んでいると勉強になるし、面白い。

情報過多の時代に、情報の氾濫の中で、たれ流しで発信されたデータから、少なくとも共通の話題が選べるので、知的空間の周囲や内容を広げてくれ、老化予防の効果もある。しかし、いずれもブログ形でプロバイダにすべてを預けているから、失われてもよいような配慮が必要である。


生きる意味、生かされる意味、わからないまま。


若いころは、自分が「生きる」ということなどは考えなかった。そして「生きている」という意識もあまりなかった。ただ、日々を何とかがんばって切り抜けてきたように思う。

しかし、還暦を過ぎたころから「生きている」という実感よりも、むしろ「生かされている」のではないかと考えるようになった。しかし、その「生かされている」本当の意味などは、いまだにわからないままである。

つまり、自分自身が「生きている」ことは事実であるが、その意味がわかっていない。また、「生かされている」意味などもわからない。いったい、誰が自分を生かしているのかがわからない。でも、何者かによって生かされていることは、うすうす本能的にわかってきたところである。


寺々に魚籃観音、拝顔に行く。


魚籃観音がおられることを知ったら、私は遠い寺にでもお目にかかりに行く。しかし、遠いと言ってもせいぜい東京都内。地方にも行きたいが、若いころのようには体力が続かないからである。

魚籃観音は、三十三観音の中にもましますご一体。やはり、その中の馬郎婦(ばろうふ)観音と同じだと言う人もいる。いずれにしても、女性のお姿をしている観音さまである。

その魚籃観音について、「陝右(せんゆう)の人たち」というモディファイをしてみた。時代を現代に移し、主人公を魚売りではなく、花売りにした。さらに、経でなく花の名前の暗誦にした。その作品はあまり秀作ではないが、それでも自分自身の安心立命にいくらか役立っている。そんなことから、魚籃観音に関心をもつようになったのである。


「なるほど」と「そのとおりだ」と「的外れ」あり。


メールで社会事情の意見が来たり、Twitterなどで記事を読んでいると、「なるほど」と思うことがある。また、「そのとおりだ」とか「まったくだ」などと、賛同をする。「まったく違う」ことや「的外れ」の意見は、めったにない。そして、それぞれの人が、真剣に社会の成り行きを見ているということがわかる。

私は政治や宗教に疎(うと)いので、何となく「おかしい」と感じることがあっても、鋭いメスを入れて意見をまとめることができない。そこで、他人の意見を参考にしたり、そこから学んだりするのだ。

とくに、たまさんがリポートをした社会情勢、つまり国際的に日本の置かれた状態などは、大いに学ぶべきものがある。そんなわけで、いつも勉強をさせてもらう。そしていつまでも、たまさんがお元気であられることを祈っている。


エビ・カニやウニ・イクラなど、食べ過ぎてはダメ。


いずれも珍味でおいしいが、プリン体が多く含まれている。そして、食べ過ぎると身体に故障を起こす。ひどい場合は、死に至るようである。

エビ(海老)やカニ(蟹)は、高価であるから多くは食べられない。また、ウニ(雲丹)やイクラなども、どちらかといえば高級料理。したがって、料亭などで接待に出すのではないか。

同席したことがないから、はっきりはわからないが、田中さんや小渕さんは、それでやられたのではないかと思う。総理大臣ともなると、そのようなものを接待のときに出されるに違いない。日々少しずつであっても、次第に体内に影響をもたらすのであろう。おいしいと言って食べているうちに、どんどん死に近づいてしまう。


尿療法、さくらももこと森繁久弥。


「尿療法」は「尿飲療法」とも言って、簡単に説明するとオシッコを飲む療法である。そして、それがすべての病気の予防になると言う。そんなことを説いている人がいる。私は、飲むのではなく舐(な)めるので「ラップリン」と言うが、中尾良一先生や高田麻りもさん以外にも多くのファンがいる。例えば、さくらももこと森繁久弥。

さくらももこは、本名三浦美紀、1965年生まれの漫画家。自分の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』で有名。エッセイストとしても活躍し、確か『もものかんづめ』に書いてあったと思う。

森繁久弥(1913―2009)は、早稲田大学在学中から演劇活動。中退後は、東宝劇団、古川緑波(ろっぱ)一座などを経て、新京放送局。映画は、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』など。舞台は、『屋根の上のヴァイオリン弾き』など。アナウンサの逸見さんがガンで亡くなる前に、その療法を薦めたそうだが、彼はインテリのために従わなかったという。


ときどきは、、ピカッと光る「つぶやき」もある。


Twitterを見ていると、流行や話題がわかる。しかし、多くは私に関係のない記事。おそらく、その投稿者と興味や日々の考え方などが違うからであろう。しかし、ときにはピカッと光るようなつぶやきもある。

そんなときは、うれしくなって投稿者のあらましなどまで見てしまう。そして、「なるほど」と思うことが多い。その記事は、さっそく「お気に入り」に入れる。忘れてしまわないためである。そして考えた結果、時には返信や問い合わせなどをする。

そして、後になっても何回か見る。いろいろなことを考えさせられたり、新たな発見などがあって面白い。そんな楽しみが、Twitterの中にもある。パソコンは私の知的空間を広げてくれるのでありがたい。


どんよりと曇った日には、部屋で本読む。


冬の空がどんよりと曇っている日などは、大好きな散歩ができない。青空が出ていないとデジカメの写真がうまく写らないし、また雨が降ってきたりすると風邪をひいてしまう。

そんなわけで曇った日には、仕方なくどこにも行かず部屋にいる。じっとしているのではなく、本を読んだり、地図を見たりするのだ。また、パソコンをすることも多い。

書物は前に読んだものを書棚から取り出して、読み直すことが多い。また、地図も前に行ったところのものを眺めている。パソコンが動いているときは、グーグルの地図やヤフーのものを眺める。倍率を変えてみたり、航空写真にしてみたり、またどこまでもドラッグをして見て行ったり、いつまでも飽きない。曇った日にも、それなりの楽しみがある。


「唯」という字を見るたびに、亡き友思う。


書物を読んでいて「唯」という字が目に付くと、はっとして大岩唯浩さんのことを思い出す。ホームページやメールの文章でもそうである。そして、十年前に亡くなった彼の冥福を祈るとともに、なつかしさが胸にこみ上げてくる。

ちょっと偏屈なところがあったかもしれないが、とても博識があって、積極的な性格であった。よく旅行などにも誘ってくださった。いま、私は都営地下鉄の大江戸線巡りをして「都営地下鉄大江戸線全駅(38駅)巡り」というレポートを作成している。

まだ、私がパソコンやデジカメをもっていなかったころだが、よく大岩さんが大江戸巡りに連れて行ってくださった。それは大江戸線が開通をしたばかりのころだった。そんなことから、「唯」という字以外にも私は大江戸線に乗ると、大岩さんをなつかしく思うのである。


新句する、短歌・俳句の限界知って。


私は、あまり文学的才能がない。したがって、短歌や俳句をやってはみたが、とても太刀打ちができないことがわかった。つまり、その才能がないのである。

しかし、短詩形を自分自身の記録やメモに残すことが必要なこともわかっている。そこで、新句(十九音)なるものを考えた。文字数から言えば短歌より少ないし、俳句より多い。私には、ちょうどよい長さの文字数である。

かつて、石塚左玄が食べ物や健康に関する和歌(短歌)を残した。そして、そこには「私の歌は文学的価値はないが、……」と謙遜をされていた。しかし、その内容は現代にとっても素晴らしいものである。つまり、ニーモニックほど短くないが、一連のテーマを記憶するには手ごろな長さであったからだろう。


よろよろと足がもつれて、転ばぬように!


駅などの階段を昇り降りするときには、転ばないように注意をする必要があります。ポケットに両手を入れたままで階段を下りるなど、絶対にしてはいけません。押されたりして転ぶと、思わぬ大怪我をするからです。

私は、階段を登るときはともかく、降りるときは細心の注意を払っています。手摺りには触れませんが、もしも倒れ掛かったときに、すぐに掴(つか)めるようにしておきます。本当は、手摺りを利用したいのですが、ウイルスに感染する心配が大きいから触れないのです。

もしも何かのはずみで転ぶと、体重があるので骨折をするでしょう。とくに下り階段では注意が必要です。エスカレータやエレベータのある駅では、なるべく利用をしたほうがよいでしょう。ちょっと格好が悪いですが危険を避けるためには、そんなことを言ってはいられません。


新句には季語なく、韻も必要でない。


新句(十九音)には季語を入れる必要がないし、韻も踏まなくてもよい。したがって、誰でも気安く、簡単に作ることができるでしょう。ただ、全体を十九音くらいにまとめればよいだけである。

季語(きご)は季題とも言って、俳句で「季節と結びつけて、その季節を表すために定められている言葉である。したがって、そんな約束を知らないと俳句ができない。

韻(いん)は、さらに面倒な約束。漢字の表す一音節のうち、頭子音を除いた部分の声調の違いにより、「平」「上」「去」「入」(ひょう・じょう・きょ・にゅう)という四声に分類をした区別。それをさらに細かく206韻としたが、後に整理をされ106または107韻となる。詩歌での韻は、同一または類似の音を一定の位置に繰り返すこと。そんなことを言っては、この新句(十九音)のように軽い気持ちでは、作品を残すことさえもできない。


「五七五」と「五七七」との違い大きい。


たった二文字の違いである。たいして違わないと考えるのではあるが、しかしやってみるとずいぶん余裕が出てくる。さらに、よいことは短歌や俳句と違う切り口で作ることができる。ふつう短詩形には、それなりの芸術性を求められるが、新句(十九音)五七七であるとそのようなことは考えなくてもよい。

それでは何を考えるかというと、私の場合は自分自身の「生きている証明」である。だから、単にメモや覚書きのような内容、つまり自分だけにしかわかりにくいような文章でも許される。むろん英語で書いても、エスペラント語でも、さらに暗号で書いてもよい。

しかし、後で自分が見て何が書いてあるのかわからないようでは困る。少なくとも自分がわかる程度の基準を作っておく必要はあろうと思う。


天地(あめつち)の大きな意思に気付かぬ愚か。


私は、天に神がいるとは思っていない。また、地下に秘密組織があることも信じない。しかし、大きな意思をもって人間を管理しているFMのようなものがあるのではないかと考える。例えば、旧約聖書に出てくるバールの神と対立するお方(かた)である。

そんなことを垣間見た感じがするようになってから、久しい。考えれば考えるほど、私たちの社会が矛盾が満ち溢れているからだ。文化が発達し、科学が進歩した今日、あちこちで愚かしいことが発生する。

戦争や紛争の勃発もそれだ。イデオロギーは正しくても、手段が軽率でないだろうか。何となくこどくの方法と似ていて、他方を食い尽くして一方が残る。残ったほうも、やがて自分自身を維持できなくなる。一部の商社や武器商人なども、その類いであろう。


作られた人は、それぞれ欠陥をもつ。


私たちは進歩をしてきたものの、未(いま)だに不完全のようである。最初に神が作ったとしても、おそらく欠陥品だったに違いない。神が完全であっても、その製品が完全と考えるわけにはいかないからだ。

完全なものを作ろうと考えても、いわゆる欠陥品ができてしまうことがある。神といえども、ご自身が思うようなものを作るのは至難の業(わざ)であったに違いない。旧約聖書の中にも、そのようなことで神が嘆かれるくだりがあるのでわかる。

人間の心は複雑で、途方のないことを考える。そして、そんなことを考えるということまでを考えてもいなかったと思われるふしがある。つまり、考えること事態が、創造者が考えていなかったことかもしれないのではないだろうか。


二不残は、常日ごろから私の願い。


二不残(にふざん)とは、金銭を残さないことと名誉を残さないことである。つまり、一生が終わるときには金も名を残さずに、生まれた状態で死んでいく。そのような配慮が必要である。莫大な財産を残そうとしたり、何か名誉を残したいなどというのは、子供じみた愚かな幻影である。

それが死後の世界での安心立命であると考える。もしも財産が多いと、後の者たちがトラブルを起こす。また、銅像などが建っても誤解をされるであろう。名を残そうという人が多いと、銅像だらけになってしまう。

人間のすることは、なかなか完璧にはならない。他人がうらやむ状態でも、本人にとっては不満足なことが多い。そのようなギャップがあると、羞恥心や恥が残ってしまう。金と名声については、「黒い皮袋」に考え方を書いた。


大好きなダリ風の絵は、知的空間。


ダリの絵やマグリッドの絵、さらにエッシャーの絵などは何ともファンタジックである。むろん、「ダリ風の絵」であれば誰のものであってもよい。

そのような絵は、私の知的空間を広げてくれる。だから、大好きなのである。見ているとあれこれと想像をしたり、次々と考えが広がっていくのだ。そして、そんな空間に遊べる自分自身の時間が楽しい。

できたら、私もそのような作品を作りたいと思う。しかし、芸術的センスがないのでムリであろう。そこで仕方がなく、あれこれと頭の中で想像をするにとどまる。それでも、知的空間はどんどん広がっていく。とくに、他人に問うような内容でないので、それで十分だと考えている。


よろこびを多くの人と分かち合いたい。


今まで「健康」「老化予防」「安心立命」などについて、自分なりに考えてきた。そして、それなりの結論を得ている。自分なりというのは、私と妻と姉である。そして、その三人ともに何とか元気である。寝込んだこともないし、外出できなくなったこともない。今のところは。

しかし、多くの知人はアウトになってしまった。糖尿病や高血圧、そしてガンが主な原因である。すでに鬼籍の人であったり、入院中の人、そして寝たきりやよいよいの人がいる。むろん、認知症やアルツハイマー病の人も多い。

そこで、小さいことながら日々の注意を教えてあげたい。簡単にできることであるが、ちょっと思いつきにくいことである。例えば、調理には化学調味料と塩と砂糖を使わないとか、食器を洗剤で洗わないなど。


才能のある人ばかり、多い世の中。


テレビや新聞を見ていると、ものすごい人が次々と出てくる。話題になるほどの人は、いずれも何らかの意味で才能に満ち溢れている。そして現代社会では、才能は金儲けにつながることが多い。

しかし、必ずしも才能があればよいというもんじゃないとも思う。なぜならば、才能があると社会の中で目立ってしまうからである。そして、その自己の才能のために自分自身を失ってしまう場合が多い。スポーツ選手や演奏家たちは、いったい誰のために激しい練習をしているのか。これでもか、これでもかとチャレンジするのはいいのだが、やがて限界がやってくる。

「かえるの腹自慢」という話があるが、いったい何のために何をしているかがわからなくなってしまう。せいぜい自分の限界を確かめる程度でよいと、私は常に思っている。


「年生」は、飼われていると同じ状態?


年生と言っても、何のことだかわからないでしょう。私は、「年金生活者」のことを「年生」と言い、また単語登録にも「ねんせい」としています。したがって、個人的な略語でもあるんです。

ついでながら、「携帯電話」を「携帯」などと言うのは、言語の形態を考えない人が、思いついて言い始めたのでしょう。まだ、「携電」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。

それはともかく、年金生活者になってから、ひしひしと感じることがあります。それは、自分自身があたかも家畜が飼育されているような状態に置かれているのではないかという感覚なのです。つまり、狭い放牧場で飼われている牛などの環境に何となく似ているような立場に、自分が置かれているのではないかという疑念なのです。


願わくばピンピンコロリ、オシメはいやだ。


いつの間にか老いて、体力に自信がなくなってきた。そこで、何となく不安になってくる。身体の健康を損なう不安、それは寝たきりになってしまう不安である。そこには、言い知れない恐ろしさが潜んでいる。

また、オシメやオムツのお世話になるのもいやだ。むろん、アルツハイマー病や恍惚の人にはなりたくない。当然のことであろう。

しかし、そんなことは、つい先年まで考えたことがなかった。自分自身のことと思わなかったからである。しかし、とうとう当人が、当事者になってしまった。せめて、できたらピンピンコロリ、つまりコロリ往生がしたいものである。


すぐ飽きてしまう性格、直したくあり。


最近になって何かをしていると、すぐ飽きてしまう自分に驚く。かつて、そんなことはなかった。何でも、飽きずに根気よく続けたものだ。同じことを繰り返したり、何回も言うと「くどい」と思う人もいる。しかし、百万陀羅尼などのことを考えると、必ずしもそうでない。そもそも日々の生活自体が、ほとんど同じことの繰り返しなのである。

心臓の鼓動や肺の呼吸なども、ほとんど同じ調子で反復をしている。もしも、止まったりすると、大変なことになる。

同じことを同じようにできることが、生きていくうえに必要である。また、それをできるように努力すること自体が、老化予防のための一つの方法と言える。もしも、人生に飽きてしまったら生きていても、おそらくそこでアウトでしょう。


Kuroda Kouta (2010.12.15/2010.12.31)