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  新句(十九音) 作品集40(2010年10月分)



雨の日はアネックス見て、考えてみる。


雨の降っている日や雪の積もった日などは、外出ができない。せいぜい傘の不要な駅デパートくらいまで。そこで、ひねもすパソコンをする。私は、「青空ライブラリ アネックス」というブログを動画による「日々記憶の断片」の一環と考えてアップしている。反省をするために自分自身の作品もあるが、他人のプログラムが多く含まれている。

その動画には、音楽やストーリなどがある。他人の論説や意見・記録などで、大いに学ぶべきものを努めてアップすることにしている。そして雨の日には、そんな動画を少しずつReplayするのである。

いろいろと考えさせられる内容や、新しい知識なども含まれている。それこそパウロの言うような「目から鱗(うろこ)」の類もある。そんな意味で、青空ライブラリ アネックスは、私にとって有効である。定期的に見て、入れ替えていくことができるから、あまり重くならないメリットもある。


有るものを有効にする工夫・習慣。


持っているもので、まったく使っていないものが多い。書物なども一度読んでしまうと、再び目を通すことが少ない。つまり、身の回りには遊んでいる品物がたくさんある。

そこで、なるべく新しく品物を買わずに、手持ちのもので役立てる工夫をすることにした。すると、考えれば考えるほど何とかなるものということがわかってきた。

そして、そのような習慣が、自分自身の知的空間を広げる一つの方法であることもわかった。他人から見たらバカにするようなことでも、そのような方法が「老化予防」の一環としても有効。なぜならば、記憶の一部分を取り出して、それを現実の生活に取り入れるのであるから、「脳の活性化」にも有効なのではないだろうか。


他人事(ひとごと)じゃないボケ始め、ちょっと心配。


今までは、そんなことを考えたことさえなかった。しかし、親しい知人の言動を見ていると、自分自身の自信がなくなって心配である。つまり、そろそろ私も始まったのではないかという不安感。

なぜならば、ここのところ記憶力が鈍ってきたみたい。なかなか思い出せなかったり、時間の前後を勘違いする。やがて、アルツハイマー病になったり、さらによいよいや寝たきりになっちゃう恐れが、ひしひしと襲ってくる。

いったい、どうしたらよいのだろうか。身体の老化は、むろん脳にも生じるのであろう。その脳の機能が失われていくことが、問題である。それも、大幅にダメージを受けると今までの記憶が失われてしまう。そんなことを考えると、自分のボケ始めが心配になってくる。何とかして、脳の機能は失いたくない。


それなりに構築したい、知的空間。


自分自身の考え方のことである。いろいろと不勉強で未熟な箇所があるが、それでも一つの知的空間として考えることができた。「健康」と「老化予防」、そして「安心立命」の世界である。

生きている限りは「健康」が望ましい。そんなことはわかっているが、実現するためには細心の注意が必要だ。そして、なるべく「老化予防」を心がけ、老(ふ)けないようにしたい。とくに、アルツハイマー病やよいよいなどの寝たきりにはなりたくない。また、おしめ(襁褓)やおむつ(御襁)の生活もしたくない。

「安心立命」に関しては、自分の肉体が死んだ後まで考えないと、いけないのではないか。それは、自分がおかれた宇宙空間の次元に関する考え方から、時間という概念の解決までを含んでいるので、一種の哲学とでもいうか、あるいは自己宗教のようなものであろう。なかなか、難しい問題である。


パソコンの中は、一つの知的空間。


私のパソコンには、1TB(テラバイト)のハードディスクが付いている。ホームページ一つが1GB(ギガバイト)であるから、かなり大きなメモリ空間である。

現在は、容量の都合でホームページを四つに分散している。多摩テレビが11MB、ヤフー1GB、fc21GB、そしてジャスト100MB。合計2GBと111MB。それらは、互いにリンクすることによって、あたかも一つのメモリ空間を実現している。

しかし、やってみると画像などは互いにアドレッシングできない。したがって、全体を一つと考えると使い勝手があまりよくない。そんなために、一つの知的空間と考えるためには、あらかじめ配置に関する設計が必要になる。それでも、全体のホームページは1TBのハードディスクに入ってしまう。そして、その中で移動をしたり、編集ができる私の一つの知的空間となるんだ。なかなか素晴らしいことではないか。


あきらめて独自の道を進んでいこう。


これまで「健康」と「老化予防」と「安心立命」について、自分なりの勉強をしてきた。そして、いろいろなことでわかったことがある。しかし、それは自分だけのことかもしれない。それぞれ個人差があって、異なっているから。

そんなわけで、多くの人の意見を聞きたかった。そのためにグループを作ったのではあるが、意見を言ってくれる人はあまり多くない。つまり、「健康」や「老化予防」に関する試みの評価ができないのである。

まして、「安心立命」などについては、それこそ千差万別な考えがあるだろう。まったく、独りよがりの結論かもしれない。仕方ないので、独自の道でも一人で進んでいこう。なぜかここで西行の「さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里(新古今和歌集 巻六冬歌)」を思い出した。


完全に失敗をした健康クラブ。


市の文化団体として、数年前に健康クラブを発足した。そして、市報の紙上でメンバーの募集をしたのである。しかし、結果的には大失敗。

今でこそ私は、「糖尿病・高血圧症の完治方法」を見出したが、当時は自分自身が糖尿病で高血圧症であった。その後、アトピーの治し方も発見した。そして現在は、ガンについての実験をしている。つまり、ガンにならない方法である。おそらく解決するであろうが、その後はヒマンの問題が待っている。

しかし、健康クラブが始まったころに集まった人たちは、すでにかなりの病人だった。そんな人が予防を中心とするクラブに入っても、ダメ。やはり、病院で本格的な治療を受けなければならない。病気はなってから治すより、ならないように注意するほうが、簡単で問題も少ないからである。


叱られること少なくて、ダメになる人。


とくに若い人に言えること。最近は、叱られることが少なくなった。相互に人間関係の煩わしさを避けるためかもしれない。しかし、麦などが踏まれて丈夫に育つのと同様に、叱られることによって立派な人間になる。

叱らない親も多い。それは、それなりの理由もあろう。むしろ、誉めて育てることを選んだようである。しかし、それではしっかりした人格が育(はぐく)まれないのではないか。善悪の基準がわからなかったり、身勝手な子供に育(そだ)ってしまう。

なぜ、そんなことになってしまったのであろう。大戦後、何もかも失った日本人は、自分たちの自信まで喪失した。子供の育て方なども然(しか)り。さらに、GHQの指導を履き違えたり、考えのしっかりした世代が巣鴨に入ったりしたために、まだ常識のないクラスが教育の現場に配置されたことなども、その原因ではないだろうか。そんなことを考えると、ぼつぼつ軌道修正が必要な時代になったようだ。


可能性、調べるために、いろいろとした。


かなり前のことではあるが、自分自身のもっている可能性を調べるために、いろいろなことにチャレンジしてみた。いずれも素人の域を出なかったものの、それでも自分なりに納得したのである。

まず文章、そして絵と音楽。文章はライトノベルとでもいうのであろうか、短編小説である。絵は、スケッチや写真の程度。そして音楽は、ピアノのやさしい小品を作曲してみた。

いずれも、できるものかどうかを調べるためにやったことで、プロになろうなどとしたわけでない。しかし、依頼があったら絵を100枚、小説を120本、そしてピアノ曲や交響曲を200曲くらいはできたと思う。残念ながら、いずれも反応はなく、むろん依頼などもなかった。でも、手元にそれらのモチーフが残っているので、これから少しずつ余生の楽しみとして、仕上げてみようと思う。


雨の日は行く場所もなく、こころ安らか。


ここのところ、寺院巡りをしている。大仏や観音を研究しているからです。とくに魚籃観音については、東京都内の寺院をすべてあたってみた。後になって思ったことだが、かなりスケジュールが大変だった。

しかし、雨の日は出かけるわけにはいかない。逆に、私にとっては休息日になる。それまでの写真や資料などをまとめたり、ホームページの更新をしたりする。また、朝もゆっくり休んでいられる。

そんな意味で、とくに行く場所もなく、こころがのびのびと安らかなのである。むろん、雨の日でも出かけることはできる。でも、デジカメの写りが悪くなってしまう。寺院の屋根と空との境界がぼやけてしまったり、境内にまします仏像のコントラストもよくない。だから、雨の日はどこにも出かけずに、それまでの整理などをこころ安らかにすることができるわけ。


現実の問題となる老いと衰え。


若いころには、そんなことを考えたことはなかった。しかし、古希を過ぎてから老いと衰えが、自分自身の問題であると考えざるをえなくなった。心細い限りである。

気持ちは若くても、身体は日に日に衰えていく。老いは、元来そのようなものらしい。老いたから衰えるのか、衰えたから老いるのか、そんなことはどちらでもよい。自分自身が何としてでも、老いと衰えを避けたいと思う。それが、実現不可能なこととわかっていても。

身体の衰えの心配は、すでに四十歳前後からあった。それでも、それなりに頑張ったものである。しかし、脳の衰え、つまり恍惚の人になったり、アルツハイマー病になる心配は、最近になってはなはだしい。なぜそんなことを言うかというと、親しかった回りの人たちが、次々とそうなっているから。つまり、現実の問題となってしまった人が、あまりにも多いからだ。


人一人(ひとひとり)死ぬと、その後は整理が多い。


親しかった人のご家族が亡くなった。すると、急にその人は忙しくなった。亡くなった人の手続きなどがあるからでしょう。また、遺産があったり、物持ちであった場合などは、なおさら大変らしい。

葬儀などの一連の手続きが終わっても、それら以外にも多くの作業が残っているようだ。人が一人死ぬということは、死後かなりすることが残る。むろん、本人にはできない。遺族が分担をしてするわけであるが、そこにはいろいろと問題を生じる。

そんな意味で、私は自分が死んだときに、何も残さないようにしたい。とくに、借金があると大変である。葬式のときに来て、妻に「お宅のご主人に貸したお金は、いつ返していただけるのでしょうか」などということがないようにしたい。人一人ではなく、子ども一人を残してすべて死んだ家族の家で、一晩で鍋釜までなくなった話が『遠野物語』にあった。


たのしみは、観音さまを尋ねゆくとき。


書物やインターネットで、観音さまのおられる場所を知ると、さっそくに拝顔をしにゆく。まったく新しく完成をした観音さまの場合もある。例えば、青梅市の塩船平和観音(塩船観音寺)の場合がそうだ。かつてから観音さまはおられたが、四月には屋外に大観音が開眼した。そして、それを五月に行って見たのである。そんなわけで、感激は大きい。

また、今までに知らなかった観音さまを新たに知った場合。今までに都内の寺院は、かなり経巡(へめぐ)った。しかし、まだ私が行っていないところに、素敵な観音さまがおられることもあるに違いない。

観音さまは、もともとは男性というか、いわゆる性別を超えた存在であるが、それでも私は何となく女性をイメージする。そして、その出会いをまだ自分が若かったころのなつかしい記憶などと、不遜ながら重ね合わせてみるのだ。


考えてみれば、愚かな日々の連続。


ここのところ、観音の研究をしている。「研究」というほどのことでないかもしれないが、まずどこにどんな観世音菩薩がおられるかの調査である。実際に、寺院を訪問してデジカメ写真を撮ってくる。

私の場合、寺院の本尊が何であるか、また宗旨がどうであるか、そのようなことは問題にしない。そして、観音が秘仏であったり、ご開帳日が決められていたり、また行っても見れなかったりするものは研究の対象としてはいない。ふつう境内に立っておられて、いつ行っても見れて、また写真を撮ってこれるもの。

よく、「そんなことをして何になるか?」という人がいる。それは、何に対しても言える言葉だから、私は適当にお茶を濁してしまう。考えてみれば、愚かな日々の連続かもしれないが、自分がよいと思えばそれでよいのだ。


世の中に、多重支配の現実がある。


いつごろからだったろうか。世の中には、歴然とした多重支配の現実があることに、何となく気付いた。支配者と非支配者である。それは、単に資本家と労働者との関係のような単純な社会的問題ではない。

それは、あたかもニワトリが飼われているのと同じである。つまり、支配するものと支配されるものが、まったく別の次元の社会に住んでいる。被支配者が人間であっても、支配者は人間ではなく、別次元の存在である。

とっぴな考えであるかもしれない。それは神のような存在で、仮にフィアフィル魔亜尊と呼んでおこう。そして、そのFMがある目的のために人間を生かしているのではないだろうか。したがって、飼育している対象が無統制になっても困るし、また増えすぎたりしても不都合である。そんなことが事実であっても、人間には考えが及ばないということはなかろうか。


思いつき、次々まとめ生活指針。


単に思いついたことでも、私にとっては「健康」「老化予防」さらに「安心立命」に関しては重大事。そこで、自分自身が忘れないようにする工夫が必要だ。メモにしておいたり、ホームページやプログでもよい。しかし、私はYouTubeを利用することにした。

なぜならば、画像や音声を簡潔にまとめられるからである。むろん、文字の表示も可能であるが、ホームページのように長々とは書けない。そんなわけで、ふつうYouTubeの動画には単に記録だけではなく、美術的なものや音楽などが含まれる。

しかし、いくら名画や名曲を集めてみても、自分自身が健康でなければ仕方がない。そこで、ターゲットを健康・老化予防・安心立命として生活指針をまとめたら、変なYouTubeになってしまった。


ニコニコがわからないので、YouTubeだけ。


動画を見れる大手サイトには、現在のところYouTubeとニコニコ動画がある。ニコニコ動画は、やってみたものの仕組みや方法がわからない。それでも、登録だけはしてある。なぜならば、登録をしていないと他人の動画も見れないからである。

YouTubeも、やってみるとなかなか難しい。それでも、世界的に流行しているらしいから、何とか続けてみた。しかし、これもなかなか私の手におえるものではないらしい。

そんなわけで、自分自身が動画作品を作って発表をするというような気力が出てこない。それでも、デジカメで撮ったムービーなどの保存場所として使うのに、もってこいの場所かもしれない。あまり作品を見てもらおうなどと意気込まないほうがよいであろう。少なくとも、私の場合は。


フンメルの協奏曲を何度も聴いた。


ピアノ協奏曲第二番(作品85)イ短調である。実に堂々としていて、なおかつ伸びやかなのである。あまり知られていないようであるが、私はCDをもっているので、雨の日などにはよく聴く。終楽章ロンドなどは、簡単な旋律だが、心が洗われたような気持になる。

また、フンメルのピアノソナタも聴くのである。これも、フレッシュで何となく初々(ういうい)しい。よく聴くのは、作品13と作品20と作品81とである。もしかしたら、埋もれていたりしてシリーズ番号がないのかもしれない。

私はピアノ協奏曲とピアノソナタのCDをもっていることを幸福に思う。他にもフンメルの手持ちのCDは、トランペット協奏曲と宗教音楽とがある。しかし、最近はYouTubeで探したりする楽しみが増えた。それも、雨が降って部屋に閉じ込められたようなときに。


糖尿や高血圧は、自分が悪い。


糖尿病や高血圧症になるのは、自分が愚かであることの結果、そして自分の責任である。また、長い期間をかけて少しずつ病状を悪化させたので、容易にはなおらない。最近は優れた薬があるようだが、それもで決して副作用がないとは言えない。

したがって、自分の責任で食生活と生活習慣とを見直して、末期状態になる前に、少しずつ治していかざるをえない。『孫子』ではないが、病気の性格をよく知っていないと、対応がわからず手の打ちようがない。

確かに、自分の長い不注意でなったのであるが、知らなかったことがかなり多かったので、当然の結果かもしれない。私は、ふとなぜか「無知なる故に、過ちを犯しました」と弁解する亡者に対して、閻魔大王が「この前のときも、お前は同じことを言った」と叱っている地獄絵を思い出した。


楽しみは、道を歩いて小さな発見。


晴れた日は、プチさん(プティ散策)をする。あまり遠くへは行かないが、それでも起点までは、電車やバスで行くことが多い。そして、一キロメートルくらい歩いてみる。すると、小さな発見があって楽しい。

街角でも、田舎道でも、よく見ると面白い。むろん、見慣れたところでも、別な観点から見ると、新しい発見があって驚くことがある。そして、その驚き自体とともに、いままでそれに気付かなかったことに、改めて驚く次第。

公園の中や寺院の境内でも、ゆっくりとくつろげる。公園で噴水のあるところでは、水の動きを見ていると飽きない。また、神社仏閣では古くからの名残を発見することがある。そんなときは、メイン道に戻るまでしばらくサブルーチンのような感じで、一連の楽しい須臾(しゅゆ)が実現する。


還暦を過ぎて、古希には衰え激し。


還暦は、とっくに過ぎた。そして、古希を迎えた。さらに、それから。気付いてみると身体の衰えが激しい。ちょっと何かすると、すぐに疲れてしまう。気力がない。そして、身体の節々が痛む。「古来稀」であるから、仕方のないことかもしれない。

なるべく気持だけは、若く保つ工夫をしてみた。そのために、自己福音書や回想創造法などを試みた。しかし、気持だけが若くても、身体の衰えは現実である。だから、いきおい活動の範囲が狭まってしまう。かつて、旅行などは何でもなかった。しかし、最近になって遠くへ行くこと自体に自信がない。

体調が崩れやすいということと、疲労の激しさが、遠出をする自信をなくしてしまう。間もなく、死出の旅に出かけなくてはならないのに、困ったことである。


学ぶこと、師の無学から多くありけり。


渡邊師のお話を聞いていると、学ぶことが多い。そのカテゴリーは、主に仏教関係と健康について。仏教については、私も学生時代から自分なりに学んでいるので、かなり詳しい知識をもっている。しかし、未だに師のように無学とは言えないだろう。

魚籃観音について詳しい説明をいただいたのは、渡邊師が最初。今までに私の知人は、それを誰も知らなかったからです。三十三観音の一つで、手に魚篭をもっていること。そして、その中には鯉が入っていることなど。しかし、「陝右の故事」については、もしかしたらご存知なかったかもしれない。

健康については、渡邊師はご自分自身が当事者になられたので、お詳しいのではないだろうか。食べ物などに関しては、私も大いにご教示いただいた。しかしやはり、私はまだまだ仏教について無学ではない。もしかしたら、漆桶(しっつう)そのものか?


「リーダース大事エスト」は、いったい何か?


「リーダース」とは、「指導者の」という意味。「指導者」というと、ちょっと大げさですが、私たちのグループのチューター(講師)が、皆さんに『回想創造法』や『自己福音書』のアドバイスをするのです。もしかしたら、「リーダーズ」としたほうがよいのかもしれません。

「大事」とは、その内容が私たちにとって、『回想創造法』や『自己福音書』を進めていく上で、非常に大切だと言う意味です。なぜならば、それらの技法は簡単なことを積み上げて、次第に次元を高めていこうとするからです。

そして、「エスト」とは「絵・映像」、「ストーリ・公演」、「トーン・音楽」などの分野から与えられる「心身の総合トレーニング」のことです。つまり、全体としては「私たちにとって大事な心身に関係があるサマリー」という意味になります。


地下鉄は利用方法、ソフトの研究。


シルバーパスになってから、まずバスを利用することが多くなった。続いて、都電や都営地下鉄。しかし、いろいろと調べなければ有効利用ができない。

また、知らなかったことを体験するので面白い。例えば、都電は専用信号がない交差点では、自動車の信号が赤でも止まること。また、東池袋四丁目と向原の間で踏切が閉まってから発車することを知った。

それはそうと、都営大江戸線である。深い場所にホームがあることが多い。そこで、エスカレータやエレベータの使い方を覚えておく必要がある。階段を上がるのはともかく、下るときには膝を痛めやすいので注意が必要だから。下りエスカレータがない駅の利用方法は、とくに研究をする必要がある。


次々と思いつくこと、メモしておこう。


思いついた「よしなしごと」を面倒でも次々とメモしておこう。そうしないと、それを永久に忘れてしまうから。

よしなしは「由無し」であって、「よしなし言」と「よしなし事」があるが、どちらでもよい。由無し言は、『徒然草』第三十段の中段に「年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。骸(から)は、けうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。」とある。意味のないおしゃべりやつまらない話のこと。

同様に、「よしなし事」は、つまらないことやとりとめもないこと。『堤中納言物語』(つつみちゅうなごんものがたり)に「花桜折る少将」「虫めづる姫君」「よしなしごと」など十編があった。「よしなしごと」は「つれづれに侍るままに、よしなしごとども書きつくるなり」とある。


よく見ると、意外に脚の悪い人いる。


ミスドで一時間くらい、コーヒーを飲みながら外を見ている。なかなか面白い。道行く人の有様や格好である。駅近くだからかもしれないが、意外にびっこを引いている人が多い。脚に故障があって、不自由をきたしているのだろう。

中には車で来て、駅入り口のガード下で降りる。おそらく、家族のものが車で送ってきたのであろう。タクシーの場合も、ときどきある。

杖をついている人も多い。さらに、車椅子の人もいる。高齢化が進むにしたがって、脚に不自由を生じる人が多いみたい。実は、私も最近になって脚を痛めた。ともすると、歩くと膝が痛いのだ。したがって、あんなに多くの人々が足を引きずったり、杖に頼ったりしているので、加齢とともに生じる現象ではないかとも思い、ますます心配になってしまう。


膝痛(しっつう)は、サプリによって何とか治る?


膝痛(しっつう)という言葉があるかどうか知らないが、膝の痛みである。最近になって、膝を痛めて歩くのにも不自由な人が多い。そのせいか、整形外科は満員である。

実は、私と妻もそうだった。加齢によってカルシウムの吸収が悪くなったせいか、かなり前から膝が痛い。とくに、階段を降りるときなどに加重がかかって、激しい痛みを生じる。年齢の割りに体重が大きいことも、膝に圧迫を加える理由の一つかもしれない。

そこで、二種類のサプリを併用して確かめてみた。一つは「グルコサミン・コンドロイチン・コラーゲンなど」、そしてもう一つは「メチル スルフォニル メタン」(MSM)である。いずれも不足しがちな成分らしい。個人差があって一概には言えないだろうが、軽度の膝痛(しっつう)の場合は、サプリの利用によって、私たちのように何とか治るのではないだろうか?


晩年は健康であり、こころ安らか!


古希を過ぎてみると、残りが少ないことに気付く。そこで、晩年は何とか健康で、こころが安らかでありたいと思う。

知人で寝たきりになったり、アルツハイマー病になっちゃった人がいる。見ていると、何ともやりきれない気持ちになる。そこで、何とかして死ぬ日まで意識がしっかりとして、かつこころが安らかでありたいと思う。

つまり、俗に言うコロリ往生がしたい。寝込んだり、植物人間にはなりたくないのだ。それではさて、そのためには何をすればよいのだろうか。健康については、大いに勉強をした。空気・水・食べ物に関する注意をして、生活習慣にも気をつける。それらについても、今までの常識とは大きく異なることがある。それらは自分自身の責任で決断をして、行わなければならない。幸い、今のところ順調にいっているからよいが、……


やり切れぬ気持ちで見たり、満州のこと。


満州植民地計画から敗戦・引き上げまで」という一連の動画を見た。各巻10分ほど七巻シリーズ。なぜか国や軍が棄民をした後の部分がないので、やれやれ。私は、満州の新京特別市(現在の長春だが、当時「ちゃんちゅん」と言ったと思う)で生まれた。「康太」という名前は、「康徳元年」にちなんで、付けられたのであろう。生まれてすぐに鎌倉へ戻ったので、動画にあるようなことは経験がないし、記憶にもない。

いっぽうでは特急列車あじあ号が、エアコン付きで130キロもの速さで走っていたものの、関東軍のしたことは一連の大きな茶番だったようだ。今思えば、気違いじみている。リットン調査団の意見も、宜(うべ)なるかなであろう。

大きな歴史の中で「おごり」や「ムリ」はダメなことがわかる。失敗は思想的な問題に多いようだ。だから、自分自身の中でも注意をして、そのようなことが決してないようにしたい。つまり、求められたこと意外には、とくに何もしないのがいちばんよいのではなかろうか。


生きていることの自体が不思議でもある。


考えてみると、私たちが日々生きていることの自体が、何とも不思議である。食べ物と水と空気などから、運動のエネルギーを得ているらしい。おそらく、人体は一大化学工場に匹敵するのではないだろうか。また、巧妙に作られた精密機械と言ってもよいのではないか。

身体が健康であるのも不思議であるが、さらに「考えること自体」が不思議である。いったい考えて、何になるのだろうか。簡単な判断や選択などは、生きるための手段として必要である。危険を避けたり、日常の無駄を減らすためにも、不可欠な処置に違いない。

しかし、哲学や宗教などは、いったい何であろうか。生きていることの自体が不思議である身体で、さらに不思議なことをしているように、何となく私には、思えてしかたがない。


内側でOK、外側で忌むのはなぜか?


内側で接しても問題なく、外側で接すると汚いことと忌むのはなぜだろうか。具体的に言うと「ウンコ」のことである。誰もが体内に宿便として大量にもっているのに、それを平気でいる。しかし、いったん出してしまうと、不潔なものとして忌み嫌う。なぜだろうか。

一つは「見えないうちは問題としない」のではないか。具体的に見てしまうと、やりきれない気持ちになる。むろん便は尿とは異なって、体内にあるときから多くの細菌が住み着いている。したがって、清潔なものではない。美しい人で清楚であっても、体内のその部分は不潔なのである。だから、『今昔物語』や芥川龍之介の平中(へいちゅう)と侍従の話ではないが、それを見たらすぐ嫌(いや)になるというもくろみは事実であろう。

そんなことを意識しないのは、私たちがルーズなためかもしれない。


Kuroda Kouta (2010.10.15/2010.10.31)