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  新句(十九音) 作品集39(2010年9月分)



細胞やミトコンドリア、私の一部。


私が、皮膚で囲まれた一連の部分という概念は甘いだろう。外管・内管などと言える部分を中にもっているからである。例えば、口腔から肛門までは外管、毛穴は内管である。さらに、細胞やミトコンドリアのことを考えると、ヒトという種の概念が、地球全体から宇宙にまで広がっていくのではないか。

細胞は、生物を構成する形態上の基本単位。真核細胞では核があり核膜で細胞質とに分けられ、その細胞質は細胞膜でおおわれている。さらに、細胞質中にはミトコンドリアなどがいる。だから、職場・地域などを単位にする党の設けた末端組織を細胞などと言うこともある。

ミトコンドリアは(mitochondria)はギリシャ語、糸・粒の合成語。真核生物の細胞質中に存在する糸状の小器官。内外二重の膜に包まれて、呼吸およびエネルギー生成の場となる。細胞の核とは別に、DNA(デオキシリボ核酸)をもっていて、独自の分裂により増殖をする。糸粒体・糸状体・コンドリオソームなどとも言う。


ひっそりと暮らす日々には安らぎがある。


還暦を過ぎたころから、あまり交際をしなくなった。大仏・大観音を探したり、魚籃観音を訪ねたりすることはあるが、知人たちと会うことは少なくなった。親しかった人たちが、だいぶ亡くなったことも原因である。

いきおい生活は、何となくひっそりと暮らす日々になった。つまり、あまり人間関係がなくなったのである。すると、不思議なことに心に安らぎがやってきた。

わかったことは、対人関係には煩わしいことも含んでいることである。つまり、一人であれば疎(うと)ましさがなくなるのである。だから、昔から出家したり、山にこもったりするのであろう。西行も娘を縁側から蹴落とし、そのまま出家したという。何が、そのような行動をもたらす原因となったのであろうか。


スパイダー・ソリティアやって、脳を鍛える。


デスクトップとノートパソコン両方に、Windows 7 Home Premiumが入っていて、スタートをクリックするとゲームもある。その中のスパイダー・ソリティアは老化予防にもってこいのゲームなので、私はときどきやってみる。

ちょっと疲れたときの気分転換にもよい。なるべく素早くカードを移動させる。もたもたしていては、いけない。シャッ・シャッと動かしていく。

もしもカードの移動ができないと思って迷ったときは、ゲームのヒントをやってみる。気がつかなかった意外なところがあったりもする。しかし、意味のない移動まで教えてくれるので、あまり中(あ)てにはならない。したがって可能な限り、自分自身の考えで移動を続けなければならない。


なつかしい人、久々に会って減滅。


なつかしい人に、ずいぶんと久しぶりに会うことがある。そして、たいがいの場合、想像に反して減滅をするのである。クラス会などに行ったりして、そのような経験をすることが多い。

それぞれに社会的には成功をしているのだが、必ずしも人間的に成長をしたとは言えないようだ。自分自身の立場や会社の利益を優先させたため、何となく我田引水になっているみたい。

少なくとも、記憶に残っている若い時代の清々しい面影を残していて欲しいと願ったのだが、そのような人は少ない。悪く言えば、表面の穏やかさの裏に狡猾さが潜んでいる。それが、社会の中で成功するための重要な基本であるから、仕方がないのかもしれない。再会をしなかったほうがよかったなどと、思うことが多いゆえんである。


夜は寝て、昼は働く、それが当然。


今までは、当然のことをしてきた。しかし、古希を過ぎたころから自分自身の生活のリズムに異変が生じた。つまり、夜に熟睡ができないのである。午前三時ころに、目が覚めてしまう。

しかたがないので何かを始めるが、しばらくすると疲れが出てくる。いったいどうしたことだろうか。もしかしたら、いわゆる自律神経失調症かもしれない。

ホメオスタシスつまり体内のフィードバックが、機能的にできなくなったようだ。ホメオスタシス(homeostasis)とは、身体の諸システムが外的・内的環境の変化を受けながら、常に個体またはシステムとしての秩序を安定した状態に保つ働きのこと。恒常性とも言うが、その機能そのものが加齢とともに失調をしてしまったようである。非常に困った問題である。


有意義な情報だけど、知らないままに。


現代社会では、身の回りに情報が氾濫している。いきおい、気づかないまま過ぎてしまうことが多い。有意義な情報だけを選んで、見ている人は少ないというのが現実であろう。

いったい、知る必要のないことをせっせと覚えたり、反対に知らなければならないことをなおざりにしていることが多いのはなぜか。まったく、困ったことである。情報過多の時代に起こりやすい現象の一つであろうか。

また、何が有意義で何がそうでないかがわからない。それこそ、ノアの箱舟を作っていたら、馬鹿にされてしまうだろう。健康についても多くの情報が氾濫している。個人差があるので、一概には言えないことを一律に言う。有意義なことを誰もがしていたら、国中に健康な人が満ち溢れていたことでしょう。


将来は、自分自身で構築しよう。


将来といっても、そんなに遠い先のことではない。私は、すでに古希を過ぎているので、「なるようになる」などとは言っていられない。近い未来のこと、つまり死後の問題などをぼつぼつ考えておかねばならないということである。

死んでしまえば何もなくなるのであるから、そんなことは必要でないという人もいる。しかし、それは浅はかな考えだと思う。不勉強であったり、人生に不真面目な人の非常識な浅知恵ではないか。

それは、あたかも家を建てるときと似ている。あるいは、外国に旅行をするときの心積もりと同じなのではないだろうか。いわゆる知的空間へ行くのであるから、それなりの準備が必要であることは否めない。


地図を見る楽しみありて、パソコン飽きぬ。


グーグルやヤフーの地図を見ていると、いつまでも飽きない。地図上の場所をドラッグして引っ張ると、どこまでも見ていける。また、縮尺も自由に変えることができる。さらに鳥瞰図というか、航空写真も楽しい。

グーグルの地図ではストリートビューと言って、町並みの様子や景色を見ることもできる。おそらく、自動車に魚眼方式のような大型カメラを積んで走って、主要道路周辺を撮影したのであろう。

そんなふうに地図を見ていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。むろん、まだ行っていないところを調べるほかにも、すでに何回か歩いたところを見ていくことも面白い。地図は、私にとって一つの知的空間であり、興味つきないゆえんである。


つきつめて思うことなく一生終わる。


だいぶ以前に、「つきつめて思うことなく、迷いつつあり。」というのを作った。そして最近になって、ふと「このまま一生が終わってしまう」のではないかと、心細く思うようになった。

何となく古希を過ぎて、やっとわかった人生の意味である。とっぴな考えであっても、それを自分自身で納得すればよいのではないか。

もしかしたら、ムダな人生だったかもしれない。それでも、自分なりに最大限がんばってきた。結論が完結するほどには、つきつめて思わなかったけれども、ずいぶんと考えたことも事実。つまり、結論が出なかったので「つきつめて思うことなく」などと言わなければならないのである。もしかしたら、努力ではなく能力が不足していたのかもしれない。


バカばかり多い世の中、バカらしくなる。


バカばかり多い世の中である。むろん、自分自身もその一人。つくづく自分の愚かさ・バカさ加減がいやになる。客観的に見て、社会はバカの集団であるようだ。

しかし、全体的にはバカであるが、その部分部分では優秀な人がいる。そして、そのような人のお陰で社会が成り立っている。つまり、ごく一部のその専門ではバカでない人の努力によって、全体が支えられていることになる。

そんなことが、最近になってわかってきた。そんな中で、自分は専門がなく、あらゆる点でバカの部類だということが、身にしみて理解したのである。その理解の中には、なぜかそのような構造が、社会を維持するために有効な方式であるということも、やはり身にしみて感じるようになった。


何ゆえか、いたたまれない恥の思い出。


すでに人生も齢七十を過ぎると、いろいろなことを思い出す。楽しかった思い出よりも、そうでない場合が多いのはどうしたことだろうか。恥の記憶や慙愧(ざんき)に耐えないことなどが、次々と脳裡に浮かんでくる。

学生時代に読んだ本の中に、「晩年にゲーテがお付きのエックハルト(という名だったろうか、あまり有名でないお付きの人である)に言った言葉で「私の人生には楽しかったことがあまりなかった」というような記憶が残っている。

そのときに、私はゲーテほどの天才であっても、そのようなことを吐露したということに驚きを感じた。天才クラスの人はさておき、凡人であっても、後悔と恥とが残る人生には、何ともならないものかとつくづく思う。


パガニーニ、ギャラント・タンゴ、コンチェルト四。


久々に、パガニーニ(1782〜1840)のヴァイオリン協奏曲第四番を聞いた。初めて聞いたのは、五十年くらい前だったろうか、たまたま楽譜が発見され、アルツール=グルミューが弾いた初演のレコード。

そのときの興奮は今でも鮮やか。生まれて初めて聞くパターンの協奏曲で、まさしくギャラント・スタイルだ。そして、クラシック形式のタンゴとでも言えるのではないかと思った。その後、そのレコードを何回も聞いた。そして、最近はYouTubeで聞く。

一楽章。アレグロ・マエストーソ。冒頭のテユッテイから素晴らしい。後のカデンツァは驚嘆だ。二楽章。アダージオ・フィビレ・コン・センチメント。三楽章。ロンド・ギャラント:アンダンチーノ・ガイオ。最後のラッパで開始するトリオは、予想外。でも、フラジオで奏する部分やヴァイオリンが伴奏コードを受けもつフレーズがあり、ロンドに帰って終わる。


カンパネラ、ピアノの指が素早く動く。


リストの「ラ・カンパネラ」である。超絶技巧などと言われて、演奏が難しい曲らしい。それでも指を見ていると、素晴らしい動きである。若い女性ピアニストであるから、左右交互の指の動きがなまめかしくさえも見える。

あるときは、腕がクロスしていたりもする。何とも達者であると感心してしまう。これだけ弾けるようになるには、ものすごい練習が必要ではないかとも思う。

そこで、練習をしないでも何とか弾ける工夫をしてみた。やはりパガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章「Rondo a la clochette La Campanella」である。これをバイエルを卒業したばかりの小さい指でも弾けるように編曲をしたのである。改めて聞いてみると、何ともお恥ずかしい次第。


長くても、せいぜい一分、それが限界。


二コマまんが形式で、「ハニワくん」という作品を計画中である。長い眠りから覚めて、現代社会にやってきたハニワくんが、いろいろなことを体験する。そして、現代の矛盾点などを指摘する。そんなストーリではあるが、その構成。それが問題である。

一回を一分以下でYouTubeにまとめてみたい。つまり、一コマが30秒以内。そんなことを考えている。

ダラダラと説明をすると、長くなって飽きられてしまう。そこで、舌足らずにならない程度に短くしてしまう。一回分、つまり二コマで言い切れないことは、別の回に続くようにする。必ずしも次回でなくてもよい。そんな考えで、何とか始めたいと思うのだが、………


一生に使い切れない物を持つのは?


最初は、「一生に使い切れない物を持つ馬鹿」としようと考えた。しかし、必ずしもそうではないし、価値観にはかなり個人差があるから、決め付けるわけにはいかない。私は、「一生に使い切れない物を持つ」のは、愚かな極みだと、つくづく思う。新約聖書にも、豊作で倉を建てる人の例え話があった。

もっとも、あまり経済的に豊かでない私の身の回りには、物が有り余っているわけではない。私が、一生使いきれないというか、直しきれない原稿をもっていることについて、自嘲しているのだ。

手持ちの原稿には、ベストセラーになるようなテーマや少なくともフレッシュなモチーフが数多くある。しかし、時間がなくていまだに仕上がらない。つまり、使い切れない素材なのだ。まったく、考えてみると、私自身「何のために何をしているか」がわからない。新約聖書の話と同じで、お恥ずかしい限り。


衰えは、食べる楽しみ失いてより。


大食いの私が最近になって、かなり小食になった。何となく食べたくないときがある。また、あまり体調が優れなくて、多くを食べられない。

そんな状態に身体が変化していく間に、かなり衰えも進んだような気がする。つまり、衰えたために食べる楽しみがなくなったのか、食べる楽しみがなくなって衰えたのかはわからないが、その二つが同時にやってきたのではないだろうか。

そもそも食べるというのは、ふつう考えないが、かなりの重労働なのである。だから、疲れ果てたときや疲労困憊したときは、食べる元気さえもなくなってしまう。また、食べるのが億劫なばかりか、食事の支度や後の皿洗いなどが面倒になる。そこで、外食してしまったりすることも多い。それでもまだ、食堂に出かける元気は、かろうじて残っているのだ。


ダンマパダ=真理の言葉、つくづく思う。


かつて、中村元の訳で文庫本を読んだ。そのときも感激をしたのだが、このYouTube版の朗読も素晴らしい。一章から二十六章まで、二十七巻に分かれていて、章と巻が対応しているのだが、最後の二十六章だけが二巻にまたがっている。

初期仏典ではあるが、なかなか鋭い見方をしている。確かに、真理の言葉である。「怨みをもって、怨みを反せない」という言葉は、かつてスリランカ国が日本に対する戦争賠償を放棄したときにあげた言葉である。一国の態度としてはインドの判決判断とともに、素晴らしいことではないだろうか。

全体を聞くのは、ちょっと時間がかかるので第一巻から始めて、少しずつ聞いていくのがよいだろう。落ち着きのある朗読で、とても好感がもてる内容である。


われわれは、すでに観察・管理されてる。


ふつう日々の生活は、自分の意思でしていると思う。しかし、そうであろうか。もしかしたら、われわれは何者かに観察されていて、われわれの生活までを管理されているのかもしれない。そんなことが、何となく感じられるのだ。

つまり、飼われている現実ではあるが、それは放し飼いの状態であるので、自覚しにくい。そんなことは、考えられないか。

多くの人間が、地球上に存在する。そして、互いに勝手気ままに振舞う。その結果、世界のあちこちで戦争や紛争が生じる。そんな現象をマクロ的に見ると、何となく放牧場の中のトラブルとも似ているのではないか。大きな立場の観察者がいても、それに気付かぬまま日々振舞うのである。自分の置かれている場所を理解できないために、……。


大変なことが自分に起こりつつある。


私は、日々ぼんやりと過ごしている。年金生活者になってからは、とくに稼ぐ必要がない。細々となら妻の分と合わせて、何とかやっていけるからである。

しかし、何となく大変なことが間もなく自分の身の回りに起こりつつあるような感じがするのはなぜだろうか。それは、ちょっと言いつくせないような不安感を伴う。つまり、自分自身の問題というよりは、社会全体が置かれた立場である。

簡単に言ってしまうと、社会システムのバランスが保てなくなって、崩壊をしてしまうという憂いなのだ。科学や文化の行き詰まりによって、個人の存在など問題にならないほどに、混乱が生じるのではないかという心配なのである。


キリのないことをするのが、人の一生。


今までも「キリのないこと」については、何回か書いた。それでも、ふと考えるのである。いったい次々とキリのないことをしていって、どうなるのだろうか。もしかして、今していることがムダな無意味なことかもしれない。そして、単に本人だけの幻覚かもしれないなどと思ったりする。

ほどほどにする術(すべ)を知らなかったために、キリがないことをしていて、やがて疲れてしまう。


天台摩訶止觀がどのようなものか知らないが、『徒然草』第七十五段には
<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>
とある。


ほどほどにする術(すべ)知って、こころ安らか。


キリのないことをせずに、何事もほどほどにする。とくに、老いてきて体力がなくなってからは、そのように考えてすることが大切ではないか。なぜならば、若いときのようにがんばり続けるとダウンしてしまうからである。

ほどほどにするというと、ちょっとちゃらんぽらんのように聞こえるかもしれないが、ある程度の余裕をもって計画をするということ。

駅周辺シリーズなどで、どこかを回るときもそうである。途中で疲れて歩けなくなってしまうからである。最近は、基点の駅から出発をして数キロ歩き、近くにバス停があったら、そこからバスで最寄り駅まで戻ってくる。そんな方法をすると、気持ちに余裕ができて何となく楽しく、こころも安らかである。


やってみて、なるほど便利、スカイドライブ。


マイクロソフト社のWindows Liveである。いろいろと不便な点もあるけれど、25GBのエリアが費用を支払うことなく使えるので有りがたい。つまり、使わないと損なシステムだと言える。

私は、自分自身のパソコンのバックアップを取らない。面倒くさいからである。そして、今までバックアップを用いてリカバリーをしたことが一度もないから。ホームページの全内容は、1ギガバイト分がヤフー、そして1ギガバイト分がfc2にある。新しいパソコンに変えたりしたときなどで、自分側に必要なときには、タイムスタンプの不都合が生じるもののダウンロードすればよい。また、プログやYouTubeは記事がプロバイダ側にあるから、バックアップは不要。

そこで、ホームページやYouTubeに利用していない動画や未使用の画像は、すべてSkyDriveにいったん預ける。とても便利で、有りがたい。


雨の日と曇った日には写りが悪い。


デジカメの写真である。もしかしたら、安物だからかもしれない。青空でなく、雨の日や曇った日は、寺院などの屋根と空との境目が、はっきりしないのである。つまり、どこまでが屋根であるかがわからない。

そんなわけで、雨の日や曇った日には、戸外の写真を撮りに行かない。撮影した写真の修整の仕方もあると思うが、私は難しいことが苦手なので、やったことはない。単に自動調整というのを確かめる程度で、輝度などを修正することは技術的にできない。

また、望遠機能などもあるが、ソフト調整はできない。ただスイッチを押して、レンズの位置を動かすハードの調整だけを利用する。したがって、ある程度までの望遠しかできない。本当は、もっと勉強をして使いこなしたいのだが、私の技術力ではムリなのである。


信仰は激しきものか、マリア観音。


「マリア観音」は、観音さまのようでもあり、マリアさまのようなお姿でもある。かつてキリスト教が禁じられていた時代に、秘かに信仰の対象として作られたものだ。「邪宗門」として幕府が禁じていた宗教の確認をするために、踏絵(ふみえ)なども行われた。イエスの姿が書かれた絵を踏ませる。ためらって踏まないものは、その信者だと決め付けたのである。

しかし、仏なども開眼(かいげん)をするまでは魂の入っていない単なる物体だとする風習があるので、その絵を自分に対しては一種の道具に過ぎないと考えることはできなかったのか。

イグナティウス=デ=ロヨラは、「論理で考えるのではなく、研ぎすました直感」によって判断しなければならないと言う。例えば「道に麦わらが十字架の形になって落ちていたら、何かの暗示か?」などと考えず、「たまたまそんな形になっただけ」と結論付けるのである。


諦(あきら)めて一日一回、ラップリンする。


「オシッコは、おいしくないが清潔なもの」ということは、理論上、また確かめてみてわかっている。しかし、どうも気が進まない。とうとう諦めて、一日に一回だけはするようになった。

なぜならば、ガンの予防法になるのではないかということを確かめるためだ。もっとも、その他すべての肉体的コンディッションに対して有効であるらしい。つまり、万病の治癒とその予防方法である。ホメオスタシスに対して、有効な情報をフィードバックするのであるから、当然なことであろう。

一日に何回もする人がいるらしいが、私は起床時に一回だけする。それも、小匙(こさじ)半分ぐらいを啜(すす)るだけ。オーディオ・アンプリファイヤーのことを考えると、負帰還の分量が多いと逆に歪(ひず)んでしまったり、発散(発振)をしてしまうからである。


不可解なクラゲの脳とタコの心臓。


脳は「考える」器官、心臓は「血液を循環させる」臓器という。そんな常識からいうと、クラゲ(水母・海月)とタコ(蛸・章魚)は何とも不思議である。

なぜならば、クラゲには脳がないらしい。もしかしたら、海中を漂っているだけで、あまり考えるような高度な判断が必要ないのかもしれない。 古事記では「クラゲなす漂える」と書いて「クラゲが海に漂うごとく混沌とした時代」と国の黎明期を比喩している。

いっぽうタコは、同じ海中にいても高い知能をもっているらしい。色を見分けたり、形の認識するようだ。例えば、蓋(ふた)をしたガラス瓶に入っている餌を視覚で認識し、ビンの蓋を足で捻(ねじ)ってあけ、餌を取ることができる。タコの脳は九つもあるらしい。だから、想像力が豊かなのであろうか。ついでながら、タコには三つの心臓があるという。


スポンサードリンクとあるGoogleの記事。


iGoogleを見ていると、「スポンサードリンク」という言葉がときどき出てきた。画面の中や記事の欄外である。

最初、鈍い私は何のことかわからなかった。スポンサーが、ここで何か飲み物を摂るんだろうなどと考えた。しかし、やがて「スポンサー・ドリンク」でなく「スポンサード・リンク」であることがわかった。

割り箸に変わって登場をした吉野家のリターナブル箸なども、最初はわかりにくかった。語尾変化の「……able」や「……ed」というのは、英語では抵抗がないが、日本語にすると区切りがわかりにくくなって、とくに高齢者にはわかりにくいようだ。つい最近、見たら「スポンサーリンク」になっているではないか。


現代の四大病を解決したい。


私は医者でもないし、学者でもない。しかし、現代の四大病といわれる糖尿病・高血圧症・ガン・肥満を解決したい。もしかしたら、肥満は病気でないかもしれない。

糖尿病・高血圧症・ガン(癌)・肥満(ヒマン)が、身近な病気だということはわかっている。自分自身の場合もそうであり、またいつごろからか、生活習慣病などと言われて、それらが注意されるようになったから。

病気は、なってからだと治すのが大変。したがって、予防をするのが先決である。その方法として、私は食生活と生活習慣を考える。つまり、予防に薬剤などの製品をなるべく使わない。健康のためにはせいぜいサプリメントで補うことくらい。なぜならば、化学薬品を体内に摂り込むことは、長い目で見ると化学薬品症候群のように好ましくないことが考えられるからです。


糖尿と高血圧は済み、ガン・ヒマン。


糖尿病と高血圧の治療法は、何となくわかった。むろん、医学的に立証したわけではないが、重篤の症状でなければ、やってみると意外に簡単に治る。すでに透析をしているとか、失明をしてしまったような場合はダメだが、初期症状であれば大丈夫。尿糖を出なくしたり、血圧を下げることは思ったよりも難しくない。

そこで、次にチャレンジしたのはガン(癌)とヒマン(肥満)。と言っても、ガンを治療するのではなく、ガンにかかりにくくなる方法を模索中。そして、ヒマンを解消して身体をスリムにする具体的な方法を研究中である。

素人の研究かもしれないが、とくに学術的な理論や実験がなくても、尿糖が出ない状態や血圧を下げる方法を発見したように、ガンやヒマンについても、ひょうたんからこまであるかもしれない。


何事も知れば知るほど、わからなくなる。


いろいろと勉強をしてみて、ようやくわかったこと。何となくわかったと思ったことが、よく調べてみると不完全であったりする。つまり、興味ばかりが尽きないのであって、真理にはほど遠いということが思い知らされる。不思議なことである。

世の中のことには、「裏の裏」があるようだ。そして、それがなかなかわからないだけ。そんなときに、自分では「解った」と思う。それは、「無意味の意味」がわかっていないためであろう。

また、調べるとキリがない。『徒然草』第七十五段に「いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。」とあるのは、その辺の事情を言ったのではないだろうか。


Kuroda Kouta (2010.09.30/2010.09.30)