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  新句(十九音) 作品集38(2010年8月分)



暑い日は体が鈍く、疲れが激しい。


ここのところ、猛暑が続いている。暑いばかりでなく、湿度も高いので、じっとしていても汗ばんでしまう。そして、疲労がかなり激しい。毎日、熱中症で何人かが倒れている。中には、救急車で病院に運ばれたときには、すでに死んでいた人もいるらしい。

熱中症は、高温度の中で労働や運動をしたために起こる熱射病。最初は、脱水症状、痙攣(けいれん)、そして虚脱(きょだつ)状態などが体に現れる。さらに悪化をすると、死に至ることも多い。

そんなために、いつもやっている強い日差しの中を歩くことをやめ、注意している。とくに、多摩川の堤防は要注意。ずいぶん長い距離にわたって、日陰がないからである。以前は、府中駅や高幡不動駅から堤防を歩いて帰った。しかし、最近になって足を痛めたので、そのようなこともなくなってしまった。


秘書さんに梅酢いただき、ソーメンうまい。


妻が働いている会社の秘書さんから、おいしい梅酢(うめず)をいただいた。とても美しい色で、紫蘇の茎まで入っている。ソーメン用のつゆとして、梅酢を使う。すると、そばつゆなどとは違った気品のある味わいになる。また、塩分が補給できるので、夏ばての解消にもよいだろう。

麺類にもよいが、そのまま薄めて飲んでもおいしい。高級なクッキーにも、よくマッチすることがわかった。

太い紫蘇の茎が入っていたので、三センチくらいの長さに切って、五つほど食べた。まったくおいしく、高級料亭の酒のつまみのような味がする。ガラス製のビンに入れて、冷蔵庫に保管、少しずつ出していただく。夏の疲労防止として、すばらしい飲み物と食べ物である。秘書さんとお母上に、いつも感謝している。


ゼレンカを聴いて、しみじみ死を考える。


ゼレンカ(JAN DISMAS ZELENKA 1679〜1745)のレクイエム(Requiem in C Minor ZWV45)を聴いて、しみじみと死を考えることが多い。それは、全18楽章もあって、30数分に及ぶ曲である。しかし、私はいずれも暗いというよりか、むしろしみじみとした印象を受ける。

レクイエム(ラテン語 requiem)は、もともとカトリック教会で死者のため祭儀。そのミサ曲で、典礼文の冒頭語が「Requiem」(安息を!)で始まる。そして、そのために作られた楽曲を単に「レクイエム」と言ったり、「鎮魂ミサ曲」などと言う。

YouTubeの表紙にあってメメント・モリを思い出させる「豊満な女性にキスを迫る骸骨」の絵は、誰の作品でしょうか。調べてもよくわからないので、ヤフー知恵袋に質問をしてみました。


1T(いちてら)のハードディスクは、大きなエリア。


新しく入れたパソコン(DELL studio XPS)の本体メモリは8GB(ギガバイト)にしたが、ハードディスクは最初から1TB(テラバイト)である。何とも、大きなエリアの空間である。

1バイト(byte)とは情報量の単位で、8ビットである。なお、そのビット(bit)とは「binary digit」から作られた語で、二進法で用いる数字。つまり、0または1であり、それが情報量の最小単位である。

そして、1024バイトを1KB(キロバイト)と呼ぶ。1024KBを1MB(メガバイト)。さらに1024MBを1TB(テラバイト)と言う。何とも大きな空間のエリアである。いろいろな情報が、ずいぶんとたくさん入る素晴らしい空間だと思う。


パソコンの大きな画面、使い道あり。


大きなディスプレイ画面にしたら、編集がしやすく、操作性が一段と増した。少し高かったが、よかったと思う。

(1) 最初に買った富士通ノート  1024x768
(2) 次に買ったDELLディメンション  1280x1024

上の二つは、もうない。そして現在手持ちの

(3) 携帯用富士通(通信機能BIC WiMAX内蔵)  1366x768
(4) DELL studioXPS  1920x1080

(3)は、外出先で地図を参照するのであるが、重さが1.5キログラム。画面はどこまでも引っ張れるんで、実用的。(4)は、作業用。編集画面が横に二つも入るので、便利この上なし。


ない機能、ないほどくらいメニューにはある。


最近の機器は、ない機能がないほどくらい充実している。しかし、その操作は複雑である。とくにメニューから、どこをどう進めば実現をできるかがわかりにくい。したがって、なかなか使いこなせない。慣れるまでが大変である。

デジカメといえども知的空間を満たすには十分であるが、いざというときには間に合わない。そこであらかじめ必要になるであろう操作だけは、マスターをしておく。

初めは、すべての機能を理解しようとしたが、そんなことはムリ。そこで、必要最小限のことだけを覚えておく。『孫子』には、「己を知りて彼を知れば、百戦危うからず」と書いてあるが、まったくそのとおりだと思う。要するに、自分が使う機器を理解することである。そんなわけで、まずマニュアルの内容を熟知する必要が生じる。


秘書さんの玉蜀黍(とうもろこし)は、ふくよかな味。


秘書さんから玉蜀黍をいただいた。すでに、茹(ゆ)でてあったので、そのまま食べた。とてもみずみずしく、ほのかな香りさえあって、ふくよかな味である。焼き玉蜀黍などと比べると上品で、こんなに淡いおいしさがあるのは初めて。とうもろこしは、「唐」「唐土(もろこし)」を想像させるが、さつまいも(薩摩芋・甘藷)と同じく、アメリカ熱帯地方の原産。

「ふくよか」は、「膨よか」「脹よか」などと書いて、やわらかくてふくらんでいる状態。しかし、よい香りがする場合も「ふくよか」で、「玉露のふくよかな香り」などと言う。

朝一番で畑からとった玉蜀黍を大きな釜で茹でて、ていねいにラップで包み、お母上が持ってきてくださったのでしょう。ご相伴(しょうばん)ができて、とてもうれしく思う。


グーグルの地図とヤフーの地図は、異なる。


私は、地図を見るのが大好き。縮尺を変えたり、さらには写真(航空写真)にしたりすると、いつまで見ていても飽きない。上下左右にドラッグをすることによって、どこまでも見ていける。何とも素晴らしいことである。

グーグルの地図とヤフーの地図は、いずれもZENRINが基本となっているようであり、似ているが使い分ける必要もある。グーグルは、ヤフーよりもヘッド(上)の部分が四行ほど多いので、行数の少ない私の携帯パソコンでは実用的でない。また、グーグルには寺院(卍)や神社(鳥居)のマークがないので、寺社巡礼にはわかりにくく不都合。

丁目などの区域の色別は、何となくヤフーのほうが見やすい。しかし、目印のような場所を示すマークを複数個付けるには、どうしたらよいか方法がわからない。そこで、知恵袋で聞いてみることにした。


厄払いして、新たなる日々が始まる。


高幡不動尊で、護摩を焚いていただいた。私は、一年に一回、自分の誕生月に厄払いをする。迷信かもしれないが、そのほうが気持ちが安らぐからである。何かと危険が多い現代社会において、気分的にも楽なほうがよい。

この一年は、何となくパッとしない日々が続いた。そんな意味もあって、気分転換のために「心願成就」の護摩を焚いていただいたのである。願文の中で自分の名前が読まれ、かなり大きな札をいただいた。いただいた札を入れた袋の中には、清酒一合と大きな丸いチョコレート、そして京王デパートの漆器皿が入っていた。

気分的なことではあるが、昔から行われていた行事なので、何らかの効能があると思う。かつては国家が行っていたほどであるから、馬鹿にしたものではないのだろう。


YouTube、ライブラリにも大いに利用。


青空ライブラリ(RIKO文庫)という名称で、古典などを少しだけ集めてみた。粗末なものではあるが、自分自身の勉強用である。そうこうしているうちに、YouTubeにも素晴らしい動画があることがわかった。そこで、青空ライブラリアネックスというのを始めた。YouTubeから簡単にコピーできるからである。

しかし、今まであったShare(共有)というところに、いつの間にか「goo」欄がなくなっている。そんなわけで、手軽にワンタッチでライブラリが作成できなくなってしまった。

何か不都合があったのであろうか。また、多くのShare(共有)がスペースの関係で作れないのであろうか。どうすればよいかをヤフーの知恵袋で聞いてみよう。


したいこと、たくさんあるが時間が足りぬ。


古希を過ぎたころから、日々のスケジュールを真剣に考えなくてはいけないということがわかった。つまり、マイペースでやっていたら、何事も完成しない。いきおい、中途半端なことばかりになってしまう。

そこで、ターゲットを明確にして、そのことに専念するようにした。何とか自分自身で納得のできることがしたいからである。

それでも、ふと考えてしまう。人生の残り時間をこんなことに費やしてよいのだろうかなどと。そして、もっとすべきことがあるんじゃないかなどと、迷うのである。そして、ターゲットを絞っても、それに対して人生の持ち時間が少なくて満足できる内容ができないということがわかってきた。まったく、困ったことである。


愚かなり、求められないことをするのは。


伝教大師(でんぎょうだいし)のお言葉に、「悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲のきわみなり。」とあった。伝教大師は天台宗の開祖で、最澄(さいちょう)の諡号(しごう)である。

つまり、「いやなことや悪いことは自分自身で迎(むか)え、好いことは他人に対して行いなさい」というような意味ではないだろうか。そのような人が社会に多くなったら、住みよい娑婆(しゃば)になるはずだ。

私は、さらに「金持ちになってほしい」とか「有名になってほしい」などとは、誰からも求められていないのに、自分だけが求めるのはまったく愚かなきわみだと思う。そして、少しでも観世音菩薩のような施無畏者になりたいと思う。


少しずつ直していこう、見苦しきこと。


ホームページやブログのことである。そのときどきの思いつきで、メモしたことだから、後になってみると何がなんだかわからない内容が多い。自分自身で読み返してもそうであるから、他人から見たら、まったく無意味に近いことがあると思う。

いわゆるインターネットという公共機関に、自分自身の私生活を持ち込もうということ自体が、身勝手なのかもしれない。しかし、このインターネット社会は何かと便利なので、そこにそのまま自分の記録を残しておく。いきおい、他人から見たらおかしな内容が増えてしまう。

昔は、日記帳などにも鍵がかけられるものがあったくらいだから、せめてパスワードくらい付けておくほうがよいのかもしれない。しかし、それも面倒なので私は何もしていない。


乗っている電車に、事故がないのが不思議。


ほとんど毎日のように、電車に乗る。まず、聖蹟桜ヶ丘駅から新宿駅までの区間。かなり高速で走っていて、おそらく時速100キロメートルを超えることもあるのではないか。そこからは、地下鉄を利用する。

今まで乗った電車は、まだ一度も事故にあっていない。急ブレーキをかけたことはあったが、衝突や脱線などは一度もない。ありがたい話である。交通事情などを考えると、不思議と言ってよいほど幸福である。また、バスに乗ることも多い。ずいぶん乗るが、やはり一度も事故はない。接触をしたりして、乗り換えさせられることがあるようだが、そんなこともなかった。まったくありがたい話である。

交通に従事している人たちの日々の運転や点検などに、私は心から感謝をしている。


『法華経』と『聖書』の一部、同じ作者か?


何となく、マテオ・マルコ・ルカの三福音書が同じ人の著作みたいだし、さらに『法華経』と『聖書』の一部が同じ作者のように思えるが、いかがでしょうか。

法華経は、鳩摩羅什が翻訳をしたサンスクリット原本『正しい教えの白蓮』のこと。また、『聖書』は最初にあるモーゼ五書であり、さらに福音書の一部に語られている内容。『共観福音書』についても、アポロニウスの言葉を記したQなどを基に、三つが同一人物の著述であるような気がしてならない。

『法華経』にある放蕩息子のエピソードや、ルカによる福音書15章後半などは、ずいぶんと似ている。しかし、ちょっと自信がないので、知識人や親切な人が多いヤフーの知恵袋に質問をしてみたが、回答は一つもなかった。


何ゆえか、アポロニウスは忘れられたり。


歴史の中では、一方が片方の偉大のために薄らいでしまうことがある。前に見たアマデウスという映画もそうであったが、フンメルもベートーベンの影に隠れてしまった。このアポロニウスは、イエスの一部になってしまったようだ。

アポロニウスには、イエス=キリストと同一人物説がある。だから、イエス伝説に組み込まれたともいう。時期的には、イエスよりも少し前に活躍をした。

アポロニウスは、堂々とした容姿で、さわやかな弁舌を行った。莫大な財産を受け継いだが、貧しい人に分け与えてしまい、ボロをまとって素足で歩いたという。動物の言葉を理解し、人の考えを読むことができた。そして、未来を予見することができたらしい。死んだ少女の頭に手を置いて、生き返らせたともいう。百歳ぐらいまで生きて、その後は姿を消してしまった。


小乗を改めて読み、深い感激。


小乗仏教などというと、何となく蔑(さげす)んだ感じがする。しかし、そうであろうか。私は、『ダンマパダ』(法句経)や『スッタニパータ』(経集=ブッダのことば)、『サンユッタニカーヤ』などを読んで、深い感激をしみじみと味わう。いずれも、サンスクリット語ではなく、パーリ語からの翻訳である。

ともすると『法華経』などの大乗経典が、何となく大げさに感じるくらいである。大風呂敷を広げたと言うと、ちょっと不謹慎かもしれないが、何となく人間性を離れているような感じもするからだ。

それはともかく、大乗は後で作られたものだから、小乗の欠点をかなりカバーしている。したがって、教学的にも複雑になってしまった。やはり初期の仏典には、人間的な素朴な教えが多く含まれている。


脇侍(きょうじ)には、こんがら童子・せいたか童子。


高幡不動尊のご本尊である不動明王の脇侍である。脇侍は、本尊の右左に控えている仏像で、脇立(わきだち)ともいう。また、脇侍を脇士とも書いて、「わきじ」と読むこともある。阿弥陀如来の場合は観音菩薩と勢至菩薩、釈迦如来は文殊菩薩と普賢菩薩のことが多い。日光菩薩と月光菩薩であったりもする。

しかし、不動明王の場合は八大童子を従えているのがふつう。目黒不動尊の境内には、そのような石像があった。しかし、実際には向かって右に八大童子のうちのこんがら(矜羯羅)童子、左にせいたか(制多迦)童子の二人を従えていることが多い。

私は、せいたか童子は背が高いので、背高童子と書くものとばかり思っていた。そして、その二人の風袋(ふうたい)から、何となく寒山・十得を思い出したりするのである。


健康と老化予防と安心立命。


このホームページやブログの三つのテーマである。そもそもホームページの最初の目的が、メンバーの健康。そのためには何をしなければならないか、また何をしたらダメなのかなどをメンバーで検討をした。その結果、糖尿病の予防方法や循環器障害の対策などを取り上げ、それなりに理解ができた。

次に老化予防の研究をした。そして、食べ物や生活習慣などの他にも、回想創造法が有効であるということがわかった。そして、実際にやってみて、それなりの効果があったので驚いた次第。

さらに、安心立命。これは、何となく宗教くさくなってしまうが、ここでは科学的アプローチをする。したがって、経験的にわかっていることの他にも、直感で信じられる事柄なども検討する。納得できることでないと、仕方がないからである。


老人は眠りが浅く、すぐに疲れる。


自分がとうとう老人の範疇に入ってしまったころから、何となくわかったこと。若かったころのような熟睡が、なかなかできない。早めに床につくと、午前三時ころに目が覚めてしまう。そこで、パソコンなどを始める。

しかし、三時間もすると疲れが出てくる。仕方がないので、また布団に入る。そして、再び九時ごろに起きることになる。何となく眠りが浅いために疲れも速く、生活のテンポが乱れてしまう。

何とかならないかと考えたのだが、身体が弱っているので、どうすることもできない。かろうじて健康の日々を保っているものの、それは病気一歩手前の状態らしい。したがって、ちょっと不都合なことがあるとすぐに疲れてしまい、その結果することが、何となく億劫になってしまうのである。


急速に衰え始め、気力失う。


どうしたことだろうか。最近になって、体力が急速に衰え始めたようだ。まぁ、古希を過ぎたので、仕方がないのかもしれない。しかし、気力まで喪失したのでは、如何(いかん)ともしがたい。

何事にも興味があって、それなりに探究心をもっていたが、ここのところ何となく飽きっぽくなっちゃった。したがって、気分的にもやる気がしなくなったのである。

細かいことをしようとすると、つい面倒くさくなってしまう。そんなことではいけないと考えても、どうにもならない。今までやっていた研究なども、先に進めないので困ってしまう。もう少し涼しくなったら、何とかなるのではないかなどと、考えてはいるのだが、………


何事もめんどうになる、疲れたるとき。


疲れているときは、何事もめんどうくさい。つまり、何をするのも、億劫なのである。気力が湧かないというよりも、最初から何かをする気が、まったく生じないというのが事実。

そもそも、そんな状態になってはいけない。したがって、まず疲れないようにすることが大切。とくに慢性の疲労、つまり疲労困憊(ひろうこんぱい)の状態になってからでは、もはや手遅れである。

気力がなくなったら、自分自身で気分の転換を計るのもよいでしょう。能率の悪いことをいつまでもダラダラと続けるよりも、別の何かをしたほうが増しだ。そして気分が改まったら、再びもとの作業に戻ればよい。そのようなことが、最近になってわかってきた。


願わくは、分かち合いたい知的空間。


知的空間については、それぞれの考えがあるだろう。しかし、互いにそれを論じ合うと、学ぶべきことが多い。自分なりに考えていたのでは、我田引水になってしまって、発展ができない。

そこで願わくば、互いに知的空間を論じ合えればよい。だが、なかなかそんな相手はない。西行の短歌に、「身をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけり」とある。二十三歳で出家・遁世(とんせい)をした西行は、「すつる」(捨てる)を三回も、そしてさらに「すてぬ」(捨てぬ)を織り込んで、「死」や「捨」や「無」を考えていたに違いない。

そんな西行ではあるが、「さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里」とも言っている。つまり、「私と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵を並べて住めるんだがなぁ」つまり、知的空間を分かち合いたいという願いだろう。


信じるか、信じないかは個人の力量。


科学的に証明できないことが、あまりにも多い。そんなことを理解するのは、なかなか難しい。また、それを誰かに理解させようとすることは、至難の技と言ってよいだろう。

現代人は、科学が万能と考えている。そのこと自体、私は疑問に思っているのだが、どうも表面的に物事を見ているのではないか。解決ができないこともあって、それがほとんどであるなどとは考えない。

そんなところに現代人の傲慢と錯覚があるようだ。おそらく、人知で解決できないことがほとんどであって、よしのずいから天井のぞくではないか。つまり、葦の茎の髄(管)を通して天井を見ても、その全体が見えないように、独自の狭い見識に基づいて物事を判断することの愚かさを言っている。そのことに、本人は一向に気づかないのである。


人生に疲れてはダメ、老いの初めは。


とくに老いの初めに、疲れが出てくることが多い。もしかしたら、身体の変調があるのかもしれない。女性は成熟期から老年期へ移行する時期に、更年期(メノポーズ)がある。ふつう、五十歳近くなって始まる閉経期前後の数年間をいうようだ。しかし男性にも、似たような症状がある。

それは閉経期前後ではないが、男性自身が衰えてくる時期で、個人差があるのでいちがいに言えないが、ふつう還暦のころ。やはり、更年期障害といってもよい現象が目立ってくる。

だから還暦のころから、疲れないようにしなくてはいけない。とくに、古希を過ぎたら自重すべきである。若いころのようなムリをしないで、スケジュールなど余裕をもたせ、つねに余力を残しておくことが大切。したがって、散歩なども強行軍してはいけない。


秘書さんにいただいた紫蘇、おつまみになる。


梅干は、やわらかく上品な味である。その梅干を漬けたときに用いた梅酢もおいしい。どのようにいただくかというと、夏のそうめんやひやむぎのつゆにそのまま使う。

さらに、梅酢に入っている紫蘇の葉と茎。お母上のお考えで、梅酢に焼酎が入っているらしい。そのためであろうか、紫蘇の茎は歯ざわりがよいことと、何とも口に馴染んだ落ち着いた味がしてよい。そんなわけで、私は大好きである。

とくに夏のビールのおつまみに最高。いつも少しずつ切り出して食べる。紫蘇の葉と茎、そして梅干を一つ。それで大いに満足である。ビールがなくても、梅酢を夏は冷やして、冬はホットで飲むと健康にとてもよいと思う。秘書さん、お母上、どうもありがとう。


「夢十夜」、「夢」と記憶が錯綜したり。


錯綜などと言ったが、交錯でもよいだろう。錯綜とは、物事が複雑に入り交じって混乱することであり、交錯は物事が複雑に入り組んでいること。つまり、どちらも入り交じって混乱することである。

一つは、学生時代に読んだ夏目漱石の「夢十夜」。細かいストーリは、もはや忘れてしまったが、その何となく不気味さをもつ記憶は、いまだに忘れられない。朗読を聞くと、若いころの感情までが鮮やかによみがえってくる。

いっぽう「夢」は、黒澤明監督の映画。むろん、すべて映像化をして綴られている。しかし、私には何となく「夢十夜」のイメージに似た内容が多いようだ。いずれの作品にも、ほんの一部ではあるが、涙が出てくるほどなつかしさを感じる箇所がある。そのなつかしさを感じるところなどが、時代・媒体の異なる二つの作品を錯綜させるのではないだろうか。


もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


最近になって、なぜかかなり過去に行った場所に何となくなつかしさを感じ、もう一度そこへ行ってみたいなどと考えることがある。帰趨本能とでもいうのだろうか、また犯罪者が現場に戻ってくる心境などと同じかもしれない。

とくに悪いことをした場所ではないが、それでも記憶に鮮やかに残っていて、それが引き寄せるみたいである。しかし、思い出そうとしてもどこだったかを忘れてしまった場合、つまりどこかわからない場所が多い。また、すでにない場所もある。開発などで、すっかり変わってしまったところ。里山などであったところなどは、もはやそこにはない。

記憶と言うのは不思議なもので、ない場所をとくになつかしく思うようである。それは、自分自身の心の中にだけある遺物とでもいえようか。


少しでも、できる間(あいだ)に努力をしよう。


元気なうちに、仕事や勉強、そして何かをしておこう。とくにパソコンを使った作業は、あまり長くは続けられないような気がする。なぜならば、目の調子がすでによくないからである。

足腰の心配もあるが、車椅子になっても何とかパソコンはできるのではないだろうか。しかし、そんなことよりも脳のことが心配だ。つまり、最近になって度忘れが多いので、もしかしたら自分も恍惚の人になっちゃうんじゃないかという恐れがある。

十年くらいの先輩を見ると、何となく記憶力が悪くなった人が多い。中には、矍鑠(かくしゃく)としている人もいることはいるが、たいがい少しボケていて、気力もあまりなくなっているようだ。喜寿(七十七歳)や傘寿(八十歳)ともなると、仕方がないことかもしれない。


捨てること意外に至難、貯めることより。


最近になってわかったことだが、身の回りのものを捨てることは、貯めるよりかなり難しい。若い時代に、せっせと貯め込んだたものを一緒くたにして捨てるには、強い意志が必要。品物によっては、何とも別れがたい気持ちになるものもある。

老いてくると、ものを多く持たないのがよいのではないか。必要な最小限のもので、日々事足りるようにするのが好ましい。まして、趣味や道楽で骨董品を集めるなど、私には性が合わない。

しかし、そんなことを言うと追求をされることがある。それは、ホームページやこのブログである。せっせと下らない内容を増やしている。そんなことをやめてしまえばよいのではあるが、仲間同士の意地もあって急にはやめれない。つまり、文章は減らずに増えているのである。


つらつらと考えたとき、私は何か?


だいぶ以前から、まったく奇妙なことを考え始めた。私と言うものの範囲が、わからないのである。

ふつう、皮膚に囲まれた一連の部分を身体と考える。しかし、胃もたれによる不消化になって、気づいたこと。最近はちょっと少し多く食べると消化するのではなく、何となく身体のほうが消化される感じ。何ともだるく、精神が溶けてしまうような感覚なのである。そこで、食後は三十分ぐらい横になる。すると、ずいぶん楽だ。

そういえば、人間はトポロジー的に考えると薄い皮の袋で閉ざされた一つの空間。つまり、浮き輪やドーナットのような概念の形状である。したがって、胃の中といえども元来は体外なのである。そのまん中の体外の部分が内側になって、消化器官として高度に発達をしただけである。さらに独立した細胞やミトコンドリアは、どうであろうか。


Kuroda Kouta (2010.08.31/2010.08.31)