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  新句(十九音) 作品集37(2010年7月分)



「捨身飼虎」「捨身羅刹」は、信じられるか?


釈尊の前生譚に、「捨身飼虎」「捨身羅刹」などがある。どちらも、私にとって印象深い。にわかには信じられない内容ではあるが、いろいろ考えてみると事実であったかもしれない。

「捨身羅刹」は、雪山で羅刹が詠んだ上の句に対して、下の句が知りたいと思う。教えてくれというと、腹が減ってダメだと言われる。そこで、その続きを聞いてから、自分自身を差し出すために高い木から飛び降りる。

「捨身飼虎」は、山中で飢えた虎の親子に出会う。その虎は死の寸前だったので、釈尊は自分自身を供養することにした。裸になって、虎の前に行った。しかし、虎は衰えていて食べようとしない。そこで、釈尊は竹で自分の身体を刺して血を流し、虎の食欲をそそって食べられたというのである。かなり印象強いエピソードで、法隆寺の玉虫厨子にも描かれているそうだ。


見苦しい内容多く、恥ずかしくなる。


このプログもそうであるが、とくに『青空のホームページ』である。自分なりにがんばって作ったつもりではあるが、後になって考えると、論理的に一貫していなかったり、何となく内容が曖昧であったりする。中には、意味不明のものさえある次第。

「日々記憶の断片」などと言うが、自分自身の覚えのような記事もある。そのようなときは、後で取り出せるように、検索用のボキャブラリーを入れてある。そのキーがニーモニックになっていたりして、読んでくださる人には唐突で、何のことかわからないかもしれない。

後で考えると、自分でも辟易するようなことが多い。その時、その時の感情で書き綴った断片だからである。それでも自分が「生きている証明」にしようと考えたことは事実。書くということが老化予防になるのだから、恥ずかしくてもしかたがない。


ものすごく深いところにある駅ホーム。


一年ほど前に、シルバーパスを利用できるようになった。それからは、都営地下鉄を利用することが多い。とくに大江戸線には、お世話になる。そして、ずいぶん深いところに駅ホームがあることに気付く。

地下鉄も次々に開業して、便利になった。おそらく、後からできた路線は工事の関係で、従来の路線よりもさらに深いところを走っているのだろう。どこを走っても、安全であればよいのだが、問題はその乗り降り。

ホームまで行くのに、ちょっと大変である。中には、下りのエスカレータがないところもある。また、途中で階段を下らなければならない駅も、かなり多い。私は、足が悪いので階段は苦手。上りは何とかなるが、下りが大変。トントンと降りると、膝が痛んでしまうからだ。だから、エレベータがある駅はホームへ下りるときに、たいがい利用する。


都内には魚籃観音、数多くない。


東京都内にある魚籃観音を探してみたが、あまり数多くはない。お姿が拝見できなかったり、本堂の奥や展示博物館にあるものを除くと、数柱しかない。さらに、ましましても写真が撮れない明治寺のようなところもある。

今のところ写真が撮れて、いつでも拝見できるのは、私が探し当てた
長円寺(足立区千手四丁目)
蓮乗院(新宿区若葉二丁目)
清岸寺(渋谷区幡ヶ谷二丁目)
高幡不動尊(日野市高幡)
の四柱くらい。

詳細は、「魚籃観音の研究」に記そうと思うのであるが、他にもご存知の方がいらしたら、どうぞご教示ください。


東京都内の観音、歩いて探す。


最初は、グーグルの検索で探していた「大仏・大観音」、さらに「魚籃観音」。しかし、いつのまにか的確にはヒットをしなくなってしまった。なぜならば、自分自身の記事も増えて、混ざってしまったからでしょう。

また、「東京都内」という条件もなかなかむずかしい。検索条件に入れても、「東京都内では見られない」とか「東京都内から車で二時間」などという記事まで拾ってしまう。その結果、それぞれの検索記事をていねいに見ていくと、かなりの時間がかかってしまう。

そんなわけで、都内の各駅で下車をして、寺を一つずつ訪問することにした。つまり、実施調査である。自由にお目にかかれて、写真もOKのところだけ。そんな観音さまが対象であるが、意外に発見することが多い。前になかったところなどもあって、歩いてみるとなかなか面白く、興味がつきない。


これだけの花の名前を覚えられるか?


ヒヤシンス、チューリップ、クロッカス、アネモネ、フリージア、シクラメン、桜草、雛菊、マーガレット、シネラリア、勿忘草(わすれなぐさ)、三色菫(さんしょくすみれ)、スイートピー、金盞花(きんせんか)、罌粟(けし)、牡丹(ぼたん)、芍薬(しゃくやく)。菫(すみれ)、蒲公英(たんぽぽ)、蓮華草、蓬(よもぎ)、薺(なずな)、はこべ、仏の座、金鳳花(きんぽうげ)。ダリア、グラジオラス、アマリリス、カンナ、サルビア、カーネーション、石竹(せきちく)、ゼラニウム、薔薇、鳶尾(いちはつ)、菖蒲(あやめ)、菖蒲(しょうぶ)、杜若(かきつばた)、百合、鈴蘭、向日葵(ひまわり)、百日草、鳳仙花、金魚草、朝顔、蓮、睡蓮(すいれん)、昼顔、浜茄子(はまなす)、水芭蕉、月見草、宵待草。菊、紫苑(しおん)、コスモス、秋海棠(しゅうかいどう)、鶏頭(けいとう)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、萩、藤袴(ふじばかま)、彼岸花。水仙、福寿草、葉牡丹(はぼたん)、ポインセチア、石蕗(つわぶき)。「陜右(せんゆう)の人たち」より


白桃(はくとう)のごとく清楚な君の思い出。


若いころは、今のように腹が出っぱっておらず、スポーツをやってもスイスイ。嘘だと思ったらここをご覧(ろう)じあれ。しかし、自分自身がいつの間にか、老人になってしまった。老いてしまわないようにウルマンの詩を学んで、若々しくありたいと思う。そこで、「回想創造法」をしてみた。

小学校に上がる前だったろうか、まだ初恋なども知らない時代。私は鎌倉の扇ガ谷に住んでいて、材木座に引っ越したお隣の女の子がいた。その数年後、小坪の海岸でたまたま遭った。白百合学園に通っているという。浜辺で小一時間しゃがんで話をした。午後の陽射しに、その子の頬の産毛(うぶげ)が桃の肌のように見えた。

若いころの記憶をたどったり、自分史を作ることが老化予防の一つの方法であることがわかった。そこで、その見本を作ってみた。あなたも、いかが?


「生前の空間」などは、家畜と同じ?


私たちは、確かに生きている。しかし、なぜか私は「生きている」という実感がしない。むしろ、何かによって「生かされている」と思うのである。まさか、神や仏を信じているわけではないが、それでも超能力を有する何者かにすべてを支配されているような気が、何となくするのである。

あたかも、それは広い農場で飼われている家畜などと同じ状態なのではないだろうか? 例えば、ケンタッキーの養鶏場にいる鶏たちは、にっこり笑ったカーネル=サンダーおじさんの考えなどは知らない。日々、餌をもらって育つ。自分自身の将来などは、まったく知らずに、……。

中には、小さな部屋に入れられて、身動きもできない状態で育てられるのもあろう。目的に必要ないから、ひよこのときに両足を切断してしまって、肉をやわらかくするために、歩けなくする方法などもあるという。


鶏(にわとり)が飼われていると同じ状態?


養鶏場に行って見ていると、すでに羽根がなくて、丸焼きにしたような格好の鶏がいる。他の鶏がつつくので、羽根が抜けてしまったのである。観察をしていると元気な鶏が次々とやって来て、その丸裸の鶏をつつく。

毛が抜けてしまった鶏は、皮膚が破れて、少し血が出ている。そして、そこを元気な鶏はつつくのである。おそらく、痛いのであろう。隅のほうに、よたよたと逃げていく。しかし、それを追っかけていって、さらにつつくのである。

その鶏が死ぬと、すぐに次の丸裸が出てくる。なぜそんなことを続けるのか不思議であった。養鶏場の人に聞くと、そうすることによって、鶏にストレスがたまらなくてよい肉ができるという。つまり、羽根が抜けて死ぬまでつつかれるという鶏も、経営に必要なのである。その話を聞いて、私は何とも不愉快な思いがした。


デービット=アイクの言葉、真実なのか?


十年くらい前だったろうか。デービット=アイクの本を読んだ。そのとき、私の考えていることと似たことを言う人がいるものだと思った。具体的には、その対象がちょっと異なる。そして、最近になってYouTubeで彼の動画を見た。

私は、考えに迷ったときには、直感をたよる。あれこれと思案をしても解決ができないと、静かに考えて思いついたほうを選ぶのである。それが、非常識であっても、また現在の学説などと異なっていても、自分自身の考えや結論をいちおうは出しておきたい。そして、できれば書いたもので残しておく。

「安心立命」の問題から「死後の問題」などを考えてきたが、何となく現代科学では人類が知りえないような奥義があるらしい。あたかもケンタッキーの牧場にいる鶏が、カーネル=サンダーおじさんの計画を知らないように、……。


考えることが必要、現代社会。


専門化をした現代社会においては、余分なことを考えない人々が多くなった。むろん、私もそうである。電車に乗るときにも、モーターの調子や路線の保守状態などを調べたりはしない。その担当の人を信用するので、安心して居眠りをする。

しかし、自分自身が考えることも必要ではないか。今までは知識の量だけで、何とかなった。だから、多くの書物を読んだり、知識があると、大学にも合格できた。今後は、読んでも考えなければダメじゃないだろうか。

例えば、旧約聖書である。バールの神とヤハウェの対立などは、デービット=アイクの驚くべき発言を裏付けているようだ。私は、いつも「すべて真実は、すでにあった。しかし、それに気付かなかった」のではないかと、秘かに考えたりする。知らないだけで、ギャーギャーというのが愚かな人間である。


人間の修行をいかにしたらよいのか?


私は仏教徒でも、キリスト教徒でもない。しかし、高齢になって若かったころの信仰のない無計画な日々を反省したので、残る人生を修行に励もうと思う。そこで、『正法眼蔵』に引用されている「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」の最初の二句を考えてみた。奇行で有名な一休宗純の掛軸にも、その最初の文字があったことを覚えている。

白居易(白楽天)が、変人の鳥彙道林(ちょうかどうりん)に修行方法を聞く。「諸悪莫作・衆善奉行」と答えが返ってくる。白居易は「そんなことは、子どもでも知っている」といちゃもんをつける。すると、鳥彙和尚は言う。「子どもでもわかっているが、大人や老人でもできないことじゃ。」

わかっていてもできないのは世の常であるが、もしかしたら努力が足りないのかもしれない。残り少ない人生を何とかわかっていることを実行して、有効に過ごしたい。そう思いませんか?


少しずつ整理をしよう、使わないもの。


ぼつぼつと身の回りのものを整理する時期が、私にも来たようだ。今までは、いつか使うだろうと考えて、何でも取っておいたのだが、考えてみると今後もそのままになってしまうもののほうが多いだろう。

品物などは、思い切って捨ててしまえばよい。しかし、問題は文なのである。苦労して何とかまとめた原稿は、未完成ではあるものの削除してしまうのが、何となく惜しい。とくに、そのときそのときの考えや価値観などは、いわば私の人生の一部なので、残しておきたいような気持にとらわれる。

そこで、書物や原稿などを見直して、整理するものと残すものを分別したいのであるが、それがまたなかなか難しい。なぜならば、仕掛中のものは、見直しをして完成をしたいという感情があるからである。そんなわけで、まず文ではなく、品物の整理をし始めたところである。


私には使いきれない多くの機能。


デジカメのシャッターが押しにくい。壊れてしまったわけではないが、接触が悪くなったのであろう。押してもダメなときがある。強く押すと切れるのだが、そのときに手振れをしてしまう。三万枚以上も撮影したのだから、仕方がないのかもしれない。

そこで、小川町にあるサービスステーションに行った。すると、すでに機種は生産しておらず、修理費が九千円くらいかかるという。仕方なく、代替販売で「FE-4020」12,000円というのと交換して帰った。(ビッグカメラで販売価格を見たら、19,800円だった)

その取扱説明書を見て、驚いてしまった。性能の素晴らしさと、機能の多さである。そこで、少しでも簡単にするために「SD/SDHCメモリーカード(別売)」を買わないことにした。ケチっているわけではないが、複雑になってしまうからである。それでも、静止画が193枚、ムービーが53秒(音声あり)も大丈夫。むろん、ムービーを撮れば静止画の枚数が減ってしまう。でも、私の一日の活動には十分なのである。


ほどほどにすれば、心が伸びやかになる。


何でも完全にしようと考え、精魂を傾けてするのがよいだろう。しかし、老いてくると体力が続かない。精魂を傾けてしているが、疲れが出てしまって、逆に注意力が散漫になってしまう。

いきおい、そのようになると、よいものができない。したがって、ある程度ほどほどにすることが大切だと思う。ほどほどと言っても、いいかげんにすることではない。常に力の余裕を残して、一つずつ仕上げていくことである。

伸び伸びとした気持で当たれば、仕上がったものにもそれなりに余裕が感じられる。ある程度の余力をいつも残しておくことが、老いてくると必要になってくるようだ。つまり、疲れてしまって完成できなかったり、仕上げの部分が疎(おろそ)かになったりしてはいけない。そんな意味で、行き倒れないように、力の使い方のスケジュールが必要になってくるのではないだろうか。


少しでも元気なうちに、歩いておこう。


経典を読んでいると、身体が健康なうちに努力をして、仏教の勉強をしておきなさいというようなことが書いてある。私の場合は、自分の足で歩けるうちに、行けるところに行っておこうと思う。そして、その記憶のポイントをデジカメで撮って、アルバムにしておく。

そのようにしておくと、仮に歩くのが不自由になっても、アルバムを見れば何とか記憶が取り戻せる。もっとも、その後に風景や建物などが変わってしまうことがあるが、それはそれでもよい。

「観音の研究」を始めてみてわかったことであるが、すでに行った寺院などのアルバムを見ると、境内にあった像などはたいがい写っている。むろん新しく建てられたものもあるだろうが、単にうろ覚えな記憶をたどるよりは、ずっと確実である。その映像を写したときの気持までが甦ってくることさえあるから、まったく不思議だと思う。


観音をアトランダムに探す楽しさ。


道元ほどではないが、観音菩薩が人生の一部かもしれないなどと思うようになってから久しい。そこで、いろいろと研究をしている。まず、大きな観音像。しかし、私の場合はせいぜい東京都内が行ける範囲。だから、都内の観音を探してみた。ようやく45柱ほどを大仏・大観音アルバムに入れた。

また、魚籃観音にも興味がある。やはり都内にあり、写真が撮れるところを探す。いろいろと調べてみたが、どうも見つからない。そこで、ヤフー知恵袋などの質問箱に投書をしてみた。回答をしてくださった方もおられるが、数はあまり多くなくて残念。

愚かなことかもしれないが、大観音を都内で100柱、魚籃観音を都内で10柱ほど見つけたい。それも、秘仏などになっていないで、いつでも写真が撮れる像を探しているのだが、なかなか難しい。仕方ないので、都内の寺院を各駅ごとに一軒一軒回って、探すことにした。大変だが、楽しいことである。


衰えし身体(からだ)已(や)む無し、せめて心は。


ここのところ、身体が次第に衰えてきた。もしかしたら、急に老け込んでしまうかもしれない。しかし、心の持ち方でフレッシュでいることもできそうである。

それは、サムエル・ウルマンの『青春』という詩にあるように、気持も持ち方が必要だ。私は若々しく見えると、いつも回りから言われる。つまり、身体のみならず考え方も幼稚であるからだろう。でも、さすが古希を過ぎるとがっくり。古来(こらい)稀(まれ)なのであるから仕方がない。

いちばんいいのは、気持は若々しくして、一方では安心立命を考えておくことだろう。私の人生において、残された大きな仕事というと、「死」であるから、ぼつぼつそれに備えなければならないのではないか。


小魚の目とかち合いて、恐れを知れり。


煮干で、出汁(だし)をとる。私は捨てずに、そのまま食べる。むろん、煮干は死んでいて、もはや生命はないはず。しかし、その煮干の目が私を見ているような感じを受けて、ドキッとすることがある。そして何となく、恐ろしくなる。

私たちの食事は、すべて他の生命を奪っている。玄米を炊くが、釜で炊くまでは生きている。なぜならば、玄米を水に入れておくと発芽をするからである。その他の肉や魚も、最近までは生きていた。つまり、生命をもっていた。

埴谷雄高『死霊の世界』には、魚がイエスに抗議をするくだりがある。また、釈迦でさえ豆に苦情を述べられるのである。聖人といえども、生きていくためには他を犠牲にせざるをえない。「捨身飼虎」「捨身羅刹」のことを考えると、私たちは傲慢で、無神経すぎるのではないか。


効率の悪い機関に似ている身体(からだ)。


老いてくると、何となく身体(からだ)の調子がよくない。それは、機械などでも言えることではないだろうか。例えば、自動車。新車のうちはスイスイと走る。しかし、古くなってくると故障しがち。何となく、具合が悪いのである。

人間の身体も、似たような現象を呈す。おそらく、細胞分裂の回数が決まっていて、それに近くなると正常な発育ができなくなるのではないだろうか。

バッテリーの性能でもそうである。最初のころは、一回充電をすると、かなり長持ちした。しかし、古くなってくると、すぐに放電をしてしまう。そして、全体の機能がアウトになる。自動車でもデジカメでも同じ。すると、バッテリーを交換するか、または全体を新品に買い換えなければならない。


何故か? 蝦蟇と狸と小便小僧。


牛込柳町の宗円寺である。しかし、もしかしたら地続きで、前隣りにある田中石材店かもしれない。宗円寺の境内には、同じくらいの大きさの一柱の魚籃観音がおられた。その観音さまは、ちょっとお体を曲げたポーズで、手に鯉の入った篭をもっておられる石像である。

この通りに面して立った五体は、とてもエキセントリックな組み合わせだ。左から、まず小さな蝦蟇(がま)。さらに、キンタマの大きな狸(たぬき)。そして魚籃観音さま。小さい仏。最後の右端が、小便小僧である。

何となく、石材店の中にあった古いメンバーが、ぞろぞろと通りにまかり出てきた感じ。それにしても、魚籃観音の脇侍というには、ちょっと変なメンバーではないだろうか。実際のお姿のあらましは「文の追補」で、そしてその詳細は「牛込柳町駅周辺」でご覧ください。


「ラップリン」、安全でタダ、ガンの対策?


「ラップリン」というガンの療法というか、予防法がある。「病は気から」などと言い、精神力や気の持ちようで病気が快癒する事例は、古くからある。白隠禅師の「なんその法」なども、その一つ。国立競技場駅周辺の真成院には、「癌かけこみ寺」の幟(のぼり)があった。

しかし、私はもっと具体的にフィードバックによってホメオスタシスを強化する方法を考えた。似たようなことを森繁久弥氏やさくらももこ氏が実践していたらしい。中尾先生が書物に書いておられるし、政木博士が講演会でテーマにしていたので、私は偽りのない事実だと思う。

そして、さらに食べ物や飲み水、空気などを注意をすることによって、確実に成功すると私は思う。むろん、同時に化学薬品症候群を生じないようにする注意も必要である。


森繁と政木和三(まさきかずみ)で、決心をする。


私は、現在ガンの予防策として「ラップリン療法」を確かめている。なぜそんなことをするかというと、周りにガンで亡くなる人が急速に多くなっているから。今までの食生活や生活習慣を考えると、私と妻も危(あや)ういかぎり。

そこで、何となく「ラップリン療法」が安全で、手っ取り早い解決と思った次第。かつて、逸見アナウンサーがガンになったとき、森繁久弥がアドバイスをしていた。しかし、逸見さんはインテリだったので、それをしなかったようだ。さくらももこ『もものかんづめ』だったろうか、同じようなことが書かれているらしい。

初めは信じなかった私も、政木博士が林原研究所で言うのだから、信じないわけにはいかなくなった。林原研究所のようなアカデミックの場所で、それが真面目に話題になっていたこと自体、私は真実を垣間見たような気がする。


人生の意味知りたくて、『法華経』を読む。


ここのところ、『法華経』を読んでいる。鳩摩羅什の漢訳と、岩本裕がサンスクリットから訳した『正しい教えの白蓮』が偶数・奇数ページに対応させてある岩波書店の文庫本である。上・中・下の三分冊になっていて、なかなか読み応えがある。

最初の序品(じょほん)第一には、釈迦の言葉はいっさいなくて、イントロダクションである。それでも、漢訳は「如是我聞」から始まっている。サンスクリット訳のほうは、「いわれ」という章になっている。

何回か読んでみたが、全体的にスケールの大きな、ちょっと大風呂敷を広げたような感じの本である。それでも、たとえ話がいくつかあって、なかなか興味深い。放蕩息子の話などは『聖書』のプロディガルサンとまったく同じ。また、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の章は、とくに身近な感じで印象的。


辞書にない「きりはなこくった」、意味が知りたい。


小学生のとき、担任の先生が使っていた言葉。もしかしたら、そのときの私の聞き違いかもしれない。でも前後の関係から、何となく「木で鼻を括(くく)る」というような内容だったと思う。

播州地方で日常的に用いる「べっちょない」が、辞書には載ってないくらいだから、もしかしたらその言葉は方言かもしれない。また、「木で鼻をこくる」が「木で鼻をくくる」になっちゃったように、言葉の変貌の途中だったのかもしれない。意味についても、「犬も歩けば棒に当たる」や「情けは人のためならず」などのように、内容が反対にまで及ぶ変化をする言葉があるからである。

そこで方言などを確認するために、ヤフーの知恵袋に質問を投稿してみた。


デジカメとライフブックとスタディオを買う。


この月(2010年7月)には、次々と三つの買い物をした。
まず、デジカメ(OLYMPUS FE-4020 12,000円)だ。デジカメのシャッターが切れにくくなったので、小川町のサービスステーションに行ったら、修理代替販売をしていたので前のを返し、購入をした。私の場合、内部メモリだけで、じゅうぶん実用になるのでありがたい。

次に、ライフブック(FUJITSU LIFEBOOK SH560/3A 121.000円)。これは、前の富士通ノートをプロバイダなしで携帯できるWiMAX機種に交換した。

そして、スタディオ(DELL Studio XPS 8100 モニタセットパッケージ 139,740円)。メモリを8ギガバイトに増設したが、ハードディスクは1T(テラ)もあり、60ギガバイトをCドライブとして切り出し、他の940ギガバイトをDドライブとした。


オフィスは、面倒なのでインストしない。


「Office Home and Business 2010」には、「Word」と「Excel」と「Outlook」と「PowerPoint」と「OneNote」が含まれている。富士通LIFEBOOKには、すでにインストールされているが、初回にキー取得しなければ使えない。つまり、操作できない仕組みになっている。DELLのパソコンには、注文をしなければ最初から入っていない。

それぞれが優れたソフトであることはわかるが、使いこなすためには、かなり勉強が必要である。最初のころのことを思い出しただけで、ちょっとうんざり。また、せっかくWordで作ったホームページも、Officeのバックアップファイルを自動的に作成するので、HTMLの100倍くらいの大きさになったことを覚えている。

そんなわけで、私にはマスターできないソフトだから、残念だが使わない。


ビルダーとペイントショップ、最初に入れる。


「ホームページビルダー」と「ペイントショップフォトX3」(ペイントショッププロ)を最初に入れる。とにかく、ホームページを作るためには、長年使い慣れたホームページビルダーだ。前のはV9であったが、すでにV14になっていた。デジカメ写真を加工するペイントショップは扱い会社が変わっていたが、前の機能をほとんど残しているようだ。

他に、動画用フラッシュ(Flash Maker)や音楽ソフト(キューブミュージック)も入れたい。しかし、前のときにはインストールをしたが、ほとんど使っていないものが多くあった。今回は、目的にあったものだけを導入したいと思う。

さらに、スケールの大きい編集を計画しているので、アイディアプロッセッサ機能をもった一太郎なども、検討をしなければならないのだが、……。


「K」の文字、読めなくなってパソコンチェンジ。


ずいぶんと長いことお世話になったパソコンである。さすが六年目になると、性能の見劣りが生じる。そこで、新しいモデルにチェンジすることにした。

すると、今までの機種が何ともいとおしい。新しいのを発注して来るまでの約十日間。まだ、動作が遅くなっただけで、機能は正常である。そして、キーボードを見ると「K」の上に書かれている印字が半分以上剥げ落ちている。右の中指である。

相当の回数を打ち込んだのであろう。「の」の部分もそうである。考えてみると、ずいぶんお世話になったものだ。しかし、もうじきお別れだと思うと、何となくメランコリックになってしまう。いったい、どうしたものだろうか。


パソコンの交換作業、手数がかかる。


パソコンそのものの交換は、そんなに手数がかからない。実際に動いているホームページなどのメンテナンスが、面倒くさいのである。全体の大きさが3ギガバイトを超えてしまったので、仕方なく7つのプロバイダに分散をしてあるから、うっかりすると間違いが生じやすい。

TTVとヤフーとfc2は、自分側にファイルがある。しかし、バックアップを取っていないので、交換をしている間は何もない。新しいパソコンにプロバイダからダウンロードすることによって、リカバリーをしようという次第。しかし、FTPのやり方を忘れてしまった。

他の「日々記憶の断片 生活の知恵」や「青空ライブラリアネックス」などは、プログであるので向こう側にファイルがある。また、YouTubeやSkyDriveも、ファイルを預けてあるので問題はないだろう。


少しずつ整理をしよう、健康なうち。


私も古希を過ぎて、ぼつぼつ人生のフィナーレ。つまり、大詰めの終盤戦である。いままでに仕残した私的研究なども、何とか区切りを付けておきたい。少なくとも、自分自身で納得のいく結論を出しておきたいと思う。

不要物の整理なども早めにして、身の回りを少しでも簡素にしておく。つまり、いつ死んでもいいような心がけが必要。循環器系の病気は、いつやってくるかわからない。ある日、突然に襲ってくる。

『葉隠』に、「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名なくだりがある。武士たるものは、いつ死んでもよいという心がけが必要だということらしい。私は、同様に「老人は死ぬことを自覚」しないといけないと思う。つまり、覚悟の問題なのである。あらかじめ、万事に対して心の準備をしておけば、いつでも慌てないですむということだ。


Kuroda Kouta (2010.08.01/2010.08.01)