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  新句(十九音) 作品集34(2010年4月分)



楽しみは身近なことで実現しよう!


身近な楽しみは、いくらでもあると思う。莫大な費用をかけた海外旅行などをしなくても、バスで行くだけでも結構楽しめる。むしろそのほうが、気楽でよいのではないかと私は思う。

また、多くの人が集まってする楽しみもある。その場合、気兼ねやトラブルの心配をしたら、人間関係も楽しいことばかりではない。いいときはいいだろう。しかし、いったん互いに気まずくなると精神的な負担も増えてしまう。

そんなわけで、私は少ない人数で、あまり大げさなことをしないほうがよいのではないかと思うようになった。その結果、プチさん(プティ散策)を始めた。楽しみのほかにも、健康や老化予防なども実現してくれるからである。


老人は、もたもたしてて危なっかしい。


老人は、なぜかもたもたしている。動作が緩慢なのである。だから、何となくいやだなぁと思っていた。しかし、気がついてみるとすでに自分がその老人になっているのだ。情けない話である。

とくに、バスの中。「停まるまでは、立たないでください」とアナウンスがある。おそらく、倒れて怪我をした人が多かったためであろう。見ていると、停まっているときの乗り降りも危なっかしい。もたもたしているどころか、すでにヨタヨタしている。急ブレーキや急発進があったら、ひとたまりもない。

私は、あまり手摺りを使うことが好きでない。ウイルスの感染が多いからだ。エレベータのボタンなども、ティッシュで押すほどである。何とか安全で、衛生的な毎日を送りたいものである。


観音に会いたくて行く高幡不動。


高幡不動尊には、しばしば行く。いつも戸外におられる定慧観音、そしてその奥の観音さま、それから魚籃観音。さらに五重塔が開いているときは外国の観音さま、そして下のホールにおられる美しい観音さま。

そんなわけで、何柱かの観音さまを拝顔できる。高幡不動尊の境内は、私にとって楽しい場所である。奥殿にも、別な魚籃観音がおられる。ぼってりしたお顔の観音さまで、鯉の入っている大きな籠をお持ちである。しかし、何となく私の観音さまのイメージと違うので、とくにお目にかかりたいとは思わない。

気分のよいときは、歩いて聖蹟桜ヶ丘駅まで帰る。そんなときは、百草園の駅の近くの個人のお宅の観音さまを仰ぎ見て帰る。白くて美しい観音さまだ。そして、赤ちゃんをだっこしているのが印象的である。


山内の八十八ヶ所、廻りてみたり。


「山内(さんだい)の八十八ヶ所」とは、「高幡不動尊」つまり「高幡山金剛寺」の境内というか裏山にある四国八十八ヵ所の霊場を模した巡拝するためのコース。数年前までは、ちょうどよい距離と坂道だったのに、つい先日やってみたら、ちょっと私にはしんどかった。身体の衰えを身をもって知った次第。

プチさん(プティ散策)の一環として、とてもよいコースである。道は整備されているし、案内も確かだ。また、植物などにも名札が付けてあって、親切で有りがたい。多摩森林公園や東京薬科大学付属植物園の山などとともに、私の大好きな場所。

弘法大師堂を新築しているので、その前に巡拝してみようと思いたち、行ってみた。とても楽しい「山内八十八ヶ所巡拝」であった。


小豆煮とグリーンピース煮、とてもおいしい。


秘書さんから、小豆(あずき)煮とグリーンピース煮をいただいた。お母上が精魂こめて畑で育て、そして長い時間をかけて煮たのでしょう。どちらも軽く熱を通して、そのままの味でいただき、とてもおいしかった。

小豆の紅(あか)とグリーンピースの緑を別の皿に盛ったのに、とても美しいコントラストだ。私は、小豆の煮たのが大好き、その味はなつかしい味。母がよく作ってくれた。そのころは、砂糖が不足していてサッカリンやズルチンなどを用いたのではないだろうか。それでも、思い出の味がする。

小豆は、昔から健康食。月に二回は、お赤飯を食べるとよい。そんなことを私が尊敬をする桜沢如一が書いていた。昔の人は、それなりに真の事実をわかっていたみたい。秘書さん、そして郷里のお母上、どうもありがとう。


鳩を追う、クリプトコッカス恐れるゆえに。


クリプトコッカス症は、真菌の感染が原因となる人畜共通の感染症。人・犬・猫などに感染する。クリプトコッカス(cryptococcosis)は、土壌や植物などに広く分布している。鳥類には感染しないが保菌状態になるので、ハトの糞は感染源として危険であるので注意を要する。

免疫が弱った状態、体力が落ちた人に感染しやすい。日和見感染であるが、脳を犯された子どもも多いので、安心できない。私のところのベランダには、鳩が来てくうくうと鳴く。そこで、棒を持ち出して追い払う。

話は違うが、鹿を追う和尚のことを読んだ覚えがある。誰かが、なぜ追うのかと聞いたら「人に慣れすぎてしまうと捕(つか)まって、食べられてしまう。そのようなことにならないようにしている」と答えたという。しかし私は、ハトの菌に犯されたくないので、追うのである。


比較的安全であるバスのプチさん。


バスを利用してプチさん(プティ散策)をするようになった。今までのように駅から数キロを歩いて目的地に行かなくてよい。さらに、ときには起点から終点までバスに乗ることもある。つまり、プチさんの開始点を遠くにもっていける。

そんなわけで、バスを利用することが多くなった。かなり乗ったが、さいわい事故はまだない。運がよいせいか、車輌接触や追突なども経験していない。ただ、交通渋滞で長くバスの中に閉じ込められるようなことは何回かあった。

運転手は、さすがプロである。私が不思議に思うのは、高齢者がモタモタしているのに、よくまぁイライラしないで運転をしていられるということ。忍耐のない人には、とてもできない仕事であろう。


上ったり下ったりせず、バスは快適。


電車の駅には、たいがいエスカレータやエレベータがある。それでも、階段の上り下りが残っていることが多い。また、エスカレータの下りだけがないこともある。私の場合、膝に負担をかけられないので、上りはよいが下りが問題である。全体重がかかると、膝を痛めてしまうからだ。

そこで、バスを利用することが多くなった。駅とは異なって、バスの乗り降りは数ステップ。さらに、乗降時に低くなってくれる車輌もある。有りがたい話。

おそらく体重を数キロ減らせば、かなり楽になるかもしれない。しかし、それで重力の法則から逃れることはできないだろう。かつて、宇宙飛行士がシャトルから降りるのに、わずか数メートルのエスカレータを使っていた。宇宙環境でなくても、加齢による現象はいかんともしがたい。


少しずつ増やしていこう、プチさんの記事。


いっぺんに、たくさんのことはできない。そこで、少しずつ増やしていかざるをえない。とくにプチさんの記事は、行った日にまとめる。しばらくすると、忘れてしまうからである。単に忘れるのならいいが、間をおくと次に行ったところの記憶と混じってしまう。すると、記事を書くときに勘違いをする。

だから、私は行ったところの説明文を簡単な形で、その日のうちにまとめる。画像はあまり大きくすると、すぐにプロバイダのサーバーエリアがいっぱいになってしまう。そうかと言って、小さいとわかりにくい。

その辺の兼ね合いが、なかなかむずかしい。本文は、寺社の場合であれば単に「本堂」などと書いておいて、あとで補足をしていけばよい。つまり、プチさんの記事は、画像に関するメモと考えればよいでしょう。


晩年は、心豊かな日々でありたい。


晩年は、心豊かな日々でありたい。誰もが、そう思って願うであろう。しかし、現実にはなかなかそういかない。経済的にはOKであっても、健康の問題があるからだ。

老いてくると、たいがいどこかが悪くなる。高血圧症や糖尿病などは、誰でも日常茶飯事になってくる。また、メタボも気になる。高齢になると医者に通っていない人のほうが、少ないのではなかろうか。循環器や内臓疾患のほかに、膝や腰に問題が生じることも多い。歩けなくなってしまったら、心豊かな日々を実現しにくいことは事実だろう。

何とかして、いつまでも健康で自分自身の知的空間を維持したい。そこで、今からそのための準備をしている。つまり、少々不自由であっても、健康を優先するわけである。果たして、うまくいくかどうか。


ひっそりと暮らしていても心は豊か。


隠遁のような生活を始めてから、すでに十年。あまり人と付き合いもせずに、ひっそりと暮らしている。以前は同窓会やゴルフなどの誘いが頻繁だったが、ていねいに断ってきた。そして、ここ数年は誰からもお声がかからなくなった。変人ということで、とおってしまったのかもしれない。

それでも、自分自身は満ち足りている。社会にまったく参加しないというわけではなく、いつも電車やバスに乗る。また、吉野家やミスドなどへも出かけていく。シェーキーズも、週に一回行く。体内のカルシウムを少しでも補充するために、ピザの大食いをするのだ。

不思議なことに、大仏や大観音などにも興味をもち始めた。以前は、そんなことなく仕事オンリーだったのに。大仏なども、所詮は人間が作ったものだとわかりながら、それでも見ていると心が和み、豊かになるので不思議だ。


ひっそりと隠れるように佇む魚籃。


高幡不動尊五重塔の下に、ひっそりと隠れるようにして佇(たたず)んでおられる小さい魚籃観音(ぎょらんかんのん)さま。とても美しいお顔をしている。そして、何となくメランコリックなご表情。私は、いつもこの魚籃観音さまに逢うのが楽しみ。

魚籃観音は奥殿にも、ご一体おられる。他に魚籃観音ではない観音さまが、定慧観音、そして大日堂横の観音、さらに五重塔下ホールに展示されている観音などがおられる。しかし、私はこのひっそりと佇んでおられる観音さまがいちばん好きだ。

小さくても美しい姿で、大きな魚の上に乗っている。ほとんどの人が知らないのではないか。金剛浮図の中におられるタイ国の観音さまを拝顔する前に、いつもしばらく魚籃観音の横顔を眺めるのが楽しみであり、慰めである。


何となく落ち着く場所は、寺の境内(けいだい)。


寺の境内に入ると、何となく落ち着く。なぜだろうか? 単に雰囲気がそうであるからというわけではないように、私は思う。

かつて、科学が発達していなかった時代には、寺がいろいろな指導や援助をしてくれた。学識があって有徳な僧が寺におり、いろいろな助言をしていた。また、天災があったり飢饉があると、避難場所は神社や寺であった。八百屋お七の話も、火事によって避難をした寺での出会いだったそうである。

さらに、鉄眼(てつげん)の話などを思い出す。寺を基地として、社会活動や経典の活版作成をする場所としていた。もしかしたら、そのような古い時代の思い出が、私たちの遺伝子の中に残っているのかもしれない。寺の境内は、過去の生活が体験をした身近な歴史の場所なのであろう。


楽しみは駅を経巡(へめぐ)り新たな発見。


この新句(十九音)は、まったく同じものがあってもよい。例えば、朝ごはんを食べて「おいしかった」と、毎日のように言ってもよいのと変わらない。新句は「生活の一部」であり、「日々記憶の断片」であるからだ。むろん、その中には「生活の知恵」が記録されることもあろう。

本題に戻って、駅周辺を歩いて「新たな発見」と言っても、それは驚天動地のような大発見ではなく、小さな喜びであってもよい。そのようなことは、ちょっと注意をすれば気付くことである。

そんなことが、今まであまり歩いたことがない道を行く楽しみなのだ。つまり、些細なことでも新たなことであれば、フレッシュな感じがするのである。また、新たでなくて改めて出あったときも、それなりの見方をすれば、それが新たな再発見になるであろう。


物知りで博学でない愚かのきわみ。


単なる物知りであって、いろいろなことを知っている。しかし、それらは科学的知識ではないし、論理的な裏付けのあることでもない。いわゆる雑学などと、馬鹿にされる類い。例えば『荘子』を読んで、恵子のことなどを思い出す。

つまり、知っていても人生にプラスにならないことをごてごて知識としている。社会に対しても、何のプラスにもならない。実際に、私自身がそうであるから恥ずかしい。

また、何に何が書いてあったかなどと引用をする。そのこと自体、悪いことでないだろう。しかし、自分自身が理解していないことを他人の理解で代用するようなことは、やはり恥ずかしいことであろう。物事を知っていても、いわゆる博学ではないということは、やはり愚かの極みではないだろうか。


もう一度行ってみたいと思う場所あり。


何となく懐かしく、記憶に残っている場所。忘れがたい印象というほどでなく、ちょっとした思い出が残った場所でよい。ふと、そんな場所にもう一度行ってみたくなる。もしかしたら犯罪者の心理に、似ているのかもしれない。

そして、もう一度行ってみる。それは、何とも懐かしい追体験だ。追体験は、ふつう他人の体験をその作品などを通してたどることにより、あたかも自分の体験としてとらえること。しかし、自分自身の体験を自分自身が捉えてもよいだろう。つまり、自分自身の過去を自分で追体験するのである。

松尾芭蕉の辞世の句に、「旅に病んで夢は荒野を駆け巡る」があったと思う。旅行中に病気で倒れ、アウトになる寸前になっても「荒野を駆け巡る」という心意気。やはりそれほど、あちこちを経廻(へめぐ)ってみたいのであろう。


カタコンブ、望ましい墓地、大涅槃像。


カタコンブ(catacombes:フランス語、カタコンベとも言う)とは、もともと初期キリスト教徒の地下墓所を言った。当時は、キリスト教が迫害されていたので礼拝所として地下が使用された。その天井や壁には、美しい壁画や碑文が残されている。

涅槃像(ねはんぞう)は、釈迦入滅の姿を描いた絵や彫像のこと。「寝釈迦」(ねじゃか)ということもある。

早晩、墓地は行き詰ってしまうようだ。家族分断化などの問題や将来の傾向を考えると、どうしても永代供養の必要性があろう。大々的な墓地の分譲をするよりも、今後は涅槃像を据えたカタコンブ方式にすればよいと私は考えていた。 そう思っていた矢先、高乗寺で墓地の新規分譲をするときに、その方式を取り入れた。やはり、土地に行き詰まったからではなかろうか。


高齢になると多くは、爪の変形。


若いころは、すくすくと爪が伸びる。しかし、高齢になると成長の一部が鈍ってきたり、停まってしまう。例えば、軟骨などの骨の一部が再生できなくて、歩くときに痛くなったりする。それは生理的に考えて、仕方のないことかもしれないが、不自由きわまりない。

爪も、そうである。まんべんなく伸びていたのが、成長が一様でなくなる。その結果、巻き爪や反り爪になってしまう。とくに、足の爪に多い。ひどいのは歩くときに傷みを感じたり、足全体に不都合を生じたりする。

ふつう、爪は骨の一部だと考えがちだが、実際には皮膚が変形をしたものである。したがって、単にカルシウムの補充だけでは、ダメではないだろうか。皮膚の手入れと同様に、爪も損傷しないように注意をする必要がある。とくに足の爪を切るときは、硬くなっていない風呂上りのときにするとよい。


ラップリン、試して皮膚と髪が変わった。


最初はかなり抵抗を感じたが、それでも一年ほどやって試した。コップで飲む人もいるようだけれど、あまりおいしいものではない。しかし、どうしても味を調べ、さらにフィードバックさせるためには、小匙半分くらいは喉の検知器を通さなければ効果がない。ウリエースでは、不完全だからである。

とにかく一年ほどやってみると、皮膚のグルミューが回復をして丈夫になったみたい。そして、髪も白くならなくなった。有りがたい話である。

生まれる前の赤ちゃんが、母胎の中で自分の尿が混ざった羊水を日々飲むことによって健康なことを考えれば、ホメオスタシスが効いていることが理解できる。森繁久弥氏が逸見氏にアドバイスをしたことや、さくらももこが書いていることなどを考えると、確かに効果があるのではないか。さらに政木和三氏までが講演をしているから、私は確実だと信じる。


寺回り、仏(ぶつ)・観音に逢いたきゆえに。


なぜ寺などを回っているかというと、私はプチさん(プティ散策)を一つの健康課題と考えているから。しかし、何となく神社仏閣には強く心のルーツがあるような感じもする。そして、いちばん大きな期待は素晴らしい仏(ぶつ)や観音(かんのん)に逢えるかもしれないという期待。

実際に、大仏や大観音は知られているところを訪ねてみた。しかし、他に多くあまり知れ渡っていない仏や観音がおられる。また、新しく開眼をされた仏や観音もある。そんな出会いも、ときどき経験した。

仏(ぶつ)や観音(かんのん)と言っても、所詮は人間の作ったものであろう。しかし、何とも心が和やかになって、気持ちが開いていくような像もあることは事実。そんな出会いが期待できるのが、プチさん中に寺院を訪問する理由。たいがいの寺院は、境内に入っても問題が生じないから有りがたい。


観音に逢いたくて行く、駅周辺の寺。


前に、「寺回り、仏(ぶつ)・観音に逢いたきゆえに。」というのをプログした。そして、プチさん(プティ散策)の課題とも考えているからだと言った。しかし、実際には観音さまにお目にかかれることを楽しみにしている。

私は、『法華経』の巻第八「観世音菩薩普門品第二十五」の内容を信奉しているからである。でも、その観音さまは寺の秘蔵で見られなかったり、年数回しか拝顔できなかったり、あるいは拝観料を取るタイプのものではない。いつ行っても見れる観音さまで、境内に立っておられることが多い像である。

つまり、いつでも逢えるタイプの観音さまだ。そんな観音も多くあるが、あまり宣伝をしていないので、行ってみて初めて気付く場合が多い。駅周辺の寺を回るときには、そんな楽しみがある。


春は花、夏蝉・トンボ、秋月、冬陽。


道元は、素晴らしい人だと思う。しかし、『正法眼蔵』を読んでいると、ちょっとがっかりすることがある。なぜならば、「歯の磨き方」から「尻の拭き方」まで書いてあるからだ。何とまあ、ヒステリックなほどに清潔・潔癖であったものだろうか、ご性格が。

その『正法眼蔵』の原本にはないようだが、後で誰かが追加したと思われる文「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」がある。これは、上杉鷹山の「なぜばなる」などと同様に、私の大好きな言葉でもある。

むろん、西行のように春の花は桜だと思うだろう。しかし、ハナミズキも交換として日本に帰化し、桜と同格に美しい。夏は蝉、私はつくつく法師が大好き、そして空色の腹をしたギンヤンマ。秋になると、やはり荒涼とした月であろう。老いてから冬は、雪や霜よりも陽だまりがよい。


「ピアノ集」作ってみたり、老化予防に!


還暦のころ、「いったい、作曲などができるのだろうか?」などと考えました。そこで、自分自身の老化予防対策の一環としてチャレンジ。それも、自分や妻が何とか弾ける範囲で。

超絶技巧などと言っても自分が弾けなくて、ただ鑑賞をするだけでは、私の考えている目的に合わないからです。美術などもそうですが、まったく理解ができないものは、私にはあまり興味がなく、意味もありません。

そこで、「楽典」なるものをひも解き、何とか形を作った次第。いちおう作品のメロディーがスカルラッティやチマローザの曲と似ていないかなど、ざっと調べました。でも仕上がった「バイエルの次に」というピアノ集は、いわゆる素人の恥をさらすようなみっともないものです。それでも、自分のための老化予防の一環として、何とかできて本当によかったと思っています。


チマローザ「ピアノ・ソナタ」を全曲聞けり。


チマローザの「ピアノ・ソナタ」全88曲を関孝弘の演奏したCDで、続けて全曲聞いた。すべて単一楽章のソナタだと思う。何となく、スカルラッティのソナタにも似ている。そういえばスカルラッティもチマローザも、いずれもその姓が「ドメニコ」だった。

実に細やかで、さらに軽快でもある。短調の遅い曲でも、軽やかなエレガントさをもっている。そんなわけで、私は何回聞いても飽きない。聞いていると、ほれぼれとしてしまうのだ。

そして、私も「そのようなメロディとリズムを作れたらいいなぁ」と、つくづく思うのである。もっとも、今から勉強をしてもあまり才能のない自分にはまずムリだろう。そんなことを考えさせられるピアノ・ソナタである。


持ち物の整理とともに、パソコンの中。


老いてくると、何となくだらしなくなる。持ち物も、何がどこにあるかわからないほど整理が悪い。そこで身の回りを何とかして、すっきりしなくてないけない。少なくとも、今後あまり使わないものであれば、思い切って始末をしてしまったほうがよいでしょう。

パソコンの中も、同じである。ハードディスクが大容量であることをよいことにして、どんどんとインプットした。百舌の速贄のような仕掛り中というか、中途半端な内容のものが多い。それでも、ときどき見直すことがある。

そこで、ハードディスクの中にあるファイルなどは、すべてプロバイダに預けてしまおうと考えた。そのようにすると、パソコン自体を買い換えるときも問題がない。必要に応じて、ダウンロードすればよいからである。


万全を整えておく、困らぬように。


何事もそうであるが、いざというときに慌(あわ)てたり、困ったりしないようにしたい。いつもそう思うのではあるが、なかなか実現ができないことである。人生には、いろいろと思いがけないことが起きるからであろう。

パソコンについても、同じ状態。バックアップをしておかないと、思わぬときにクラッシュして、二進も三進(にっちもさっち)もいかなくなる。そして、また最初からのやり直しになってしまう。

そこで考えたのが、自分自身のハードディスクの内容をすべてプロバイダにコピーしておく。むろん、更新もできるだけする。ホームページとプログ関係のファイルは、すべてサーバーにあるので、その他のデータはマイクロソフトのSkyDriveを利用することにした。大容量で、操作が簡単だからである。


歯周病などと油断をすると万病。


最近になって、歯周病が健康を大きく損なう原因になるということが、はっきりした。例えば、糖尿病と歯周病との関係だ。糖尿病の人は歯周病の場合が多く、歯周病の人は糖尿病になりやすいらしい。また、糖尿病を治さないと、歯周病が治らないとも言う。歯周病は、万病のもとである。

いちばん困るのは、血液中に歯周菌が住み着いてしまった場合だ。たかが日和見菌(ひよりみきん)と言って、すまされない症状がおこることがある。

その意味で、まず糖尿病を治すことが必要。糖尿病は、初期状態であれば問題なく治る。根治まではいかなくても、少なくとも尿糖をほとんど出なくすることは簡単。しかし、歯周病は自分で治せない。そこで月二回ほど歯科医に行って、歯周菌の治療と歯垢(歯石、プラーク)の除去をしてもらう。


歯周病、ならないだけの注意が必要!


歯周病にかかっている人が、かなり多いらしい。私も一年前までは、左の下奥歯がそうだった。しかし、ぐらぐらし始めたので思い切って抜いてもらった。そしてその後は、歯周病が一箇所もなくなった。

歯周病は、糖尿病を慢性化させることがあるので要注意。そこで、歯周病をまず完治させる必要がある。自分だけの生活習慣で予防ができればいいのだが、ちょっとムリらしい。

歯磨きをていねいにすることが第一。しかし、自分では磨けない部分もある。歯間ブラシなどを使ってもいまひとつ。そこで二週間に一度、歯医者に行く。溜まりかけた歯垢の削除と予防薬の歯間塗布。一回の自己負担が数百円であるから、ありがたい。そのお陰で、今のところ歯周病の歯は一本もない。


エンドウは、ビタミンのほか糖とタンパク。


グリーンピース(green peas)は、むき実用のエンドウ豆。エンドウには、若莢(さや)のまま用いる「サヤエンドウ」と、むき実用の「グリーンピース」がある。また、完熟したものを乾燥させ、大豆のように穀物とする場合も多い。品種が分化をした優れた食物である。

中でも、グリーンピースは未熟の種子をそのまま調理するので、栄養が豊富で美味である。大粒で種皮が柔らかく、食べやすい。生(なま)のグリンピース100グラム中には、糖質が12グラム、タンパク質が7.4グラム、ビタミンCが24ミリグラムも含まれている。

最近は、あまりグリーンピースを食べないが、理想的な食べ物である。そんなことを秘書さんの母上は、よくご存知なのであろう。グリーンピースや小豆を食べると元気を回復するし、病気にもなりにくい。有りがたい話である。


『冬の旅』聞きたく、リスト再び作る。


雨が一日中ずっと降っている。出かけられないので、久々にシューベルトの『冬の旅』を聞こうとした。しかし、前に作ったYouTubeの再生リストが、ダメになっていた。フィッシャー=デスカウのも、クワストフ(Tomas Quasthoff)のも、どちらもである。赤い字で、再生できませんと出てくる。おそらく、権利を侵害していて、利用禁止になったのであろう。

仕方がないので、もう一度がんばって作り直した。今度は、すでに亡くなった別の人にした。ヘルマン=プライ(Hermann Prey 1929〜1998)は、ドイツのバリトン歌手。ちょっと地味ではあるが、なかなか素晴らしい。そして、ピアノ伴奏をしている人も音の強弱・アクセントなど上手だ。

そんなわけで、やっと半日がかりで新しい再生リストを作った。全二十四曲である。曲名には、ウムラウトが付いていて正しく入力できなかった。


Kuroda Kouta (2010.04.29/2010.04.30)