総トップページにジャンプ

  新句(十九音) 作品集32(2010年2月分)



『枕草子』『方丈記』『徒然草』の「死」。


『枕草子』には、六段に「扇丸という犬」の死について記述がある。他の段は、あまり文の流れに関係ないと思う。ただ、四六段に「女はおのれを悦ぶ者のためにかほづくりす、士はおのれを知れる人のために死ぬといひたる」というようなくだりがあった。

『徒然草』第三十段には、人が死んだ後のことを書き連ね、最後は墓さえも「その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。」と結んでいる。

『方丈記』序の後段「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。」という有名な言葉がある。そして、それは朝顔の露と同じだと達観しているのには恐れ入る。私は、何となく死に対する考え方が、時代によっても異なっているように思う。


後悔と嘆きばかりが多い人生。


『東照宮遺訓』(とうしょうぐういくん)には、「人の一生は、重き荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」という言葉がある。徳川家康のような立場の人が残したにしては、切実である。

『伝道の書』(コヘレットの書)には、「夢が多いと幻滅も多い。言葉が多いと失う時間も多い。……銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きない。富を好む人は富で得をすることがない。空しいことだ。」とある。

東西の賢者がそんなことを言うのであるから、もう私のようなものは、後悔と嘆きで人生がいっぱいになってしまう。もともと、重荷を背負ったりすることもいやだし、また空しくなるほど富んだりしたことはないが、……


その意味を知りたい「おらほ」「ねんも」「ろくせぶ」。


歩いていると、地名などでわからない言葉がある。そういう名前だと思えば、それでよいのであるが、ちょっと考えても由来のわからない場合がある。その故事や言い伝えなどが、命名に関係しているのであろう。

京王線仙川駅の東に「おらほ橋」というのがある。川の橋ではなく、京王線を超える橋の名前らしい。比較的新し作ったバイパス用の跨線橋で、近くには同じ名称のミニバス停がある。

高幡不動尊駅の北東に「ねんも公園」がある。この「ねんも」も何のことだかわからない。しかし、多摩市の関戸にある「ろくせぶ公園」。最初はわからなかったが、この公園には由来を書いた立て札が立っていた。それによると「六畝歩」という広さの単位であって、その公園がその大きさなのである。


義春と日向子の鳥が、記憶に残る。


かつて読んだ本にあった光景のこと。つげ義春と杉浦日向子の作品である。いずれも鳥の話題であるが、つげ義春のほうは堤防で見た男が鳥に見えた話と調布の鳥屋にアオサギをつれて来るシーン。そして杉浦日向子は釣りをしていて杭にとまる鳥を見るが、帰ると父が死んでいたというようなストーリ。

つげ義春(つげよしはる 本名は柘植 1937〜 )は、ちょっと暗い独特なタッチで、不条理な人間社会を描き出す。代表作に『ねじ式』『紅い花』『無能の人』などがある。

杉浦日向子(すぎうらひなこ 本名は鈴木順子 1958〜2005)は、江戸風俗の研究家でもある。日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、日本大学芸術学部の美術学科を中退。作品は『百物語(一)・(二)・(三)』など。


時間とは飛去のみでなく、タイミングあり。


道元は「時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げえ)すべからず」と『正法眼蔵』に書いていたと思う。つまり、時間は去っていくだけではなく、やっても来るのである。それは、経巡(へめぐ)っていると言ったらよい状態ではなかろうか。

『伝道の書』に、「すべてのことには、タイミングがある」と書かれている。何となく空しさを感じる異質の旧約聖書ではあるが、物事に時があるということを執拗に繰り返し述べている。

私は、あまり哲学的なことは知らないが、道元の言ったことや『伝道の書』に書かれていることについて、何となくわかるような気もする。しかし、反面では「時間」そのものに対して大きな疑問を感じる。そもそも存在しない物理量や概念に関して、かまびすしく論議をしているのではないか。


バス停で待つこと多く、忍耐育つ。


シルバーパスを取得してから、バスを利用することが多くなった。今までは、電車の駅を基点として歩いたが、最近はバス停を利用する。また、足が少し不自由になってからは行動範囲も狭くなったが、バスを利用すると基点を遠くへもっていける。

そんなことで、バス停でバスを待つことが多くなった。駅ターミナルのある始発バス停では、ほとんど時間通りに来る。しかし途中駅では、たいがい遅れる。10分以上も遅れることがある。

そんな事情で、待っているときにも我慢をしなければならない。バス停では、寒かったり暑かったりする。待たされると、いらいらすることが多い。しかし、ほぼ無料で乗れるのだから、忍耐が生じて、我慢もできるようになってきた。そして最近では、あまり遅れが気にならなくなった。


トンネルを抜ける思いは追体験か?


トンネルを抜け出るときに感じる思いは、過去に母親の産道を通ったときの追体験なのであろうか。そんなことを考えたことがある。

私は幼少のときに、鎌倉の扇ガ谷に住んでいた。化粧坂(けわいざか)から長谷へ抜けるときは、よく大仏切り通しを通った。今は車道の大きな切り通しになっているが、当時は人一人がようやく通れるくらいの小さいものだった。今でも両端の口はあるものの、中は通れなくなっている。

また、父に連れられて小坪の磯に釣りに行ったことがある。その道も、やはり自転車がやっと通れるくらいのトンネルだった。そこは厨子マリーナができたときに、大きな車道になってしまった。まだ古い切り通しが抜けられたときに、行ってみたことがある。そのときの感じは、やはり自分自身が出生したときの追体験だったように思えてならない。


老いてから、うつらうつらと眠りが浅い。


還暦を過ぎたころから、熟睡ができなくなった。うつらうつらと眠りが浅いのである。その代わりと言ってはなんだが、日中でもトロトロと眠くなることがある。バスの中などで心地よくなって、ついトロトロして、ハッとして目覚める。

夏は冷房が、冬は暖房がしてあるので、コンフォタブルなバスの中。そして、適度な揺れ。眠くなっても、仕方がない。しかし、自分が眠くなると、運転手が眠ってしまわないことを祈るばかりである。

以前には、日中に眠くなることなどはなかった。糖尿病を患ってから、何となくなったみたい。眠りは脳を休めるための動作だろうか、どうやらすぐに疲れてしまう私の脳、ダメな脳である。スタミナがなく、長持ちしないのは、あたかも古くなったバッテリーみたい。


楽しみは地図で探した場所へ行くとき。


見知らぬ土地でも、そこへ行く前に地図を見る。そして、行ってみたいところを探す。公園や神社仏閣などである。ふつう、私はグーグルの地図を見る。しかし、神社のマーク(鳥居の形)や仏閣のマーク(卍)が出ていない場所が多い。ただ、「**寺」などと表記されている。慣れないとわかりにくい。

ヤフーの地図には、神社も仏閣もちゃんと出ていることが多い。そこで、グーグルの補助マップとしてヤフーを用いる。

いずれにしても、地図はドラッグすることによって東西南北いずれの方向にも広がる。また、倍率も大幅に変更できる。おまけに、どちらも航空写真が見れるので、始めたら面白くていつまでもやっている。なかなか飽きない。そして、実際にその場所へ行くときが、また大きな楽しみである。


楽しみは、シルバーパスで経巡(へめぐ)るとき。


もしかしたら、前にも似たようなのがあったかもしれない。しかし、この新句(十九音)では、まったく同じものが何回あってもよい。そのときそのときで、感じたことを書けばよいからである。

例えば、きのう朝飯を食べたからもう食べないとか、さっきトイレに行ったからもう行かないとか、いま息を吸ったからもう吸わないなどとは言わないように、それ自体が繰返しであってよいのだ。つまり、同じことの繰返しが、この新句では許される。だから、気楽に何でも言えるのである。

さらに、そのときそのときで感じ方や気分が異なるであろう。その結果、同じことに対しても違った内容になるかもしれない。一見、それは矛盾をしているように思われるが、そんなこともかまわないのである。幼稚でも支離滅裂でも「生きている証明」になれば、それでよいのだ。


楽しみはシルバーパスの知的空間。


シルバーパスを取得してから、大きな楽しみが一つ増えた。その楽しみは、私にとって一種の知的空間。すべての都営地下鉄路線と都電、日暮里・舎人ライナー、そして都内のほとんどのバスに乗れる。だから、かつて行ったことのない名所などにも、気軽に行くことが可能だ。

そのときの路線スケジュールである。「ケーニヒスベルクの橋」よりも、だいぶ複雑になってしまうが、それでも一筆書きのような楽しみ方もできる。つまり、同じ路線を極力避けるのである。

都営地下鉄大江戸線は、光が丘が起点で都庁前が終点。反対と考えてもよいが、環状に走っているのではなく、むしろ数字の「6」のような動きである。そのために、私は新宿西口から乗って、必要に応じて都庁前で乗り換える。少しぐらい遠回りになっても、なるべく同じところを乗らない。


晩年は「自己福音」と「回想創造」。


晩年と言っても、必ずしも一生の終わりに近い時期というわけではない。ここでは還暦を過ぎ、さらに古希の前後、いわゆる年老いてからの期間のこと。

「幸福な晩年を過ごす」などと言うが、それは心の持ち方だと思う。若い時代はエネルギッシュで、バイタリティーもあった。そして、とくに信仰などなくても、日々何とか過ごせたと思う。しかし、晩年になると違ってくる。

加齢によって、体力がいちじるしく失われたり、病気にもかかりやすくなったりして、身体に自信がなくなるからである。そこで、老化予防に「回想創造」や、安心立命のために「自己福音」が必要になってくる。私も、『自己福音書』や『回想創造法』を始めて、日々何とか元気に過ごしている。


いつまでも若さを保つ「回想創造」。


肉体の衰えは致し方ないとしても、気持ちや精神の老化は何としてでも避けたい。ウルマンの詩ではないが、それは気の持ちようであろう。心や気分は、自分自身の考え方によって、大きく変わるからである。

そこで考えられたのが、「回想創造」を利用する『回想創造法』。老化予防に対する効果のほかに、一種の創作活動であるから、楽しい時間を過ごせる。しかし、それは単に小説やエッセーなどを作るのとは異なる。

脳をリフレッシュするための設定をする必要があるからである。その設定は、男性ならば女性、若ければ老いた年代、などのようにである。例えば、私の場合は男性だから、芹沢光次郎や太宰治の一部の作品にあるような女性の立場、そしてすでに古希を過ぎているから、若いころの時代を設定。つまり、二十歳代の女性の立場で回想創造を試みるのである。


「自己福音」で心安らか、豊かな人生。


「自己福音」によって『自己福音書』を作る。つまり、安心立命のために自分自身のための福音書を作るのである。

「福音書」は、「幸福の音信(いんしん)」の略。新約聖書の福音書も、始めはパウロの手紙のような書簡形式だったのであろう。それが、バチカンで度重なる追加・補正を繰り返すうちに名前だけが残り、内容は編年体で書かれた現在の三つの共観福音書の形になったのではないか。

それはともかく、私たちは心が落ち着かず不安なことが多い。そこで、とくに晩年は安心立命のために、自分自身納得できる福音書を作っておく必要があろう。自分が自分に書いた手紙の形でもよいが、できることならば短編のストーリとしてまとめておきたい。そして、繰返して読んで心の準備をしておく必要があるのではないか。やがて来る死のために。


歯周病、他のトラブルを呼ぶので注意!


歯周病は、他の病気やトラブルを招くので、細心の注意が必要である。それほど歯周病が恐ろしい症状であるのに、あまり重大と考えている人が少ないのはなぜだろうか。おそらく初期の状態で、痛くないからであろう。

しかし、いったんなってしまうと根治が困難だ。そして、糖尿病を誘発したり、その他ほとんどの病気のもととなる。また、なっている糖尿病も歯周病を治さないと、なかなか治りにくい。全部の歯を抜いてしまえば、それですべて解決だと考える人もいる。しかし、歯がなくなるとボケやすいともいう。さらに恍惚の人やアルツハイマー病への近道なのだ。

そこで、歯磨きをしっかりする必要がある。私は海の精という自然塩で磨いているが、どうしても自分では磨けない箇所がある。そんな箇所の清掃研磨と、消毒剤の塗布に月二回は歯科医に行っている。


持ち物が多い場合は忘れぬように!


荷物が多くなると、置き忘れることがある。私は、小さいカバンを持ち歩くが、それ一つを忘れないようにするだけでも大変。乗り物の中では、手提げ紐のところを腕に通しておく。急いで車を降りるときに、置忘れをしないようにだ。

そんなわけで、二つ以上の荷物には自信がない。そこで、買い物をしたときには、その荷物とカバンを簡単なバンドでつないで一体としてしまう。そして、カバンを身から放さなければ、荷物も付いてくるので安心。

とくに、高齢になってからは、記憶力に自信がない。部屋にいても物をどこへ置いたかを忘れてしまう。そんなわけで、外出したときは荷物の置き忘れに注意が必要である。バンドでつないで一つだけしか持っていないと、どこかへ忘れるという心配をしなくてもよい。


ミスドでは、低トランスのオイルを使用?


ミスタードーナツへしばしば行くので、知人に注意をされた。糖分はともかく、揚げるときのオイルが問題ではないかと。なぜならば、トランス脂肪酸を多く摂ると血液中の悪玉コレステロール(LDL)が増えて、善玉コレステロール(HDL)が減ってしまう。その結果、冠動脈性心疾患が起こりやすくなる。

そこで調べてみたら、いいことにミスタードーナツは全店で低トランス脂肪酸オイルを使用しているという。そんなわけで、まず安心をしているのだが。

ミスドの説明資料によると、ふつうドーナット一個当たりに1.5グラム含まれているが、商品はすべて一個当たり0.25グラムに抑えていると書いてあった。なお、私はミスドのブレンドコーヒーには、砂糖もミルクも入れない。


一般に、ベジタリアンは肥満が有利?


穀物・野菜を主食とするベジタリアンは、太っているほうが有利だと思う。なぜならば、体内に水を蓄えられるからだ。これは単に私が直感で考えたことで、学問的な研究の結果からわかったことではない。

なぜそんなことを考えるかというと、カバ(河馬)とワニ(鰐)である。ともに同じような環境で生きているが、食べ物が大きく異なる。

カバは草食であるが、太っている。いっぽう、ワニは肉食であっても、何となく痩せている。もっとも、カバは太っていても、草木に逃げられたりしないので、追いかける必要がない。いっぽうワニは、スマートで機敏でないと獲物を取れない。水中から陸上の動物を狙うときには、とくにそうであろう。機敏な行動をするためには太っていてはだめで、体型が痩せていなければならない。


バカガイでなくてバカガワ、地図に見つけた。


バカガイは食べたこともあるし、よく聞く名前。浅い海の砂底にすむ二枚貝。貝殻は丸みのある三角形で、食用にする。そのむき身は、アオヤギと呼ぶ。

しかし、バカガワ(馬鹿川)というのは初めて。帝国書院の『新詳高等地図』にあった。最新版と書かれているが、私のは昭和40年(1965年)発行のもの。その索引(日本の部)には載っていないが、9ページ基礎事項にある4図だ。場所を調べると、青森県津軽半島の西北部にある中里町・車力村の付近である。

そこで、さっそくグーグルで調べたが、すでに馬鹿川はないようである。きっと洪水などを引き起こす暴れ川であったのだろう。田茂木のそばに、岩木川は今もあるが、馬鹿川の表示は見当たらない。


「上・中・下」「大・小」などの読み方、難(かた)し。


「上」「中」「下」や「大」「小」などの読み方は、なかなか難(むずか)しい。なぜならば、習慣で決まっている場合が多いからである。仏教経典の漢音・呉音などの区別よりも、私には複雑でわかりにくい。

例えば、「大豆」は「だいず」であるが、「小豆」は「しょうず」ではなく「あずき」である。また、尾篭で恐縮であるが「大便」と「小便」であり、鳥の鷺(さぎ)は「ダイサギ」と「コサギ」である。

「上・中・下」も「じょう・ちゅう・げ」でない場合が多い。「上段」「中段」「下段」や「上等」「下等」の「下」は、どちらでもよいだろうが、「上越」「中越」「下越」は、「げ」ではなく「か」と読ませる。つまり、「じょうえつ」「ちゅうえつ」「かえつ」なのである。「加越台地」から、きているからであろうか。


本当に必要なもの、数多くない。


考えてみれば、生きていくために本当に必要なものは意外に少ない。つまり、あまり多くないということである。それなのに、なぜ次々と所有欲や蒐集癖が出てくるのであろう。

蹲(ついくばい)に「五・隹・止・矢」と書いて、中央の「口」と組み合わせ「吾唯足知」と読む言葉がある。まったくそのとおりであり、自分自身の限界を知れば、本当に必要なものは意外に少ないことがわかる。豊かさの中で、心まで豊かになるためには、何が必要なのかが自ずとわかってくるだろう。

現代社会は欲望を煽(あお)って、「蛙の腹自慢」のようなことをさせるようだ。もっとも、それに乗らない人もいることはいるけれども、立場上どうしても追い込まれてしまう場合が多い。そんなことが最近、何となくわかってきた。


恐ろしい寄生虫には注意をしよう!


知らない間に人体に侵入をして、病気を引き起こす寄生虫たち。寄生虫は、他の生物の体の内外にいて、栄養の横取りをして生きている。すべての生物には、寄生虫がいると言ってもよいだろう。

人間には体外に寄生するノミ(蚤)・シラミ(虱)などの他に、内部寄生をする恐ろしい虫たちがいる。アニサキス・エキノコックス・日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)・トキソプラズマ・顎口虫(がっこうちゅう)・マラリア原虫・回旋糸状虫(かいせんしじょうちゅう)・クリプトコッカスなど。

それらは、ふつう人間以外の動物に寄生するのであるが、人体に入り込むと病気を引き起こしたり、重大な症状を招く。たいがいは加熱することで、死滅するが肉や魚を生焼けで食べて体内に入れてしまう。エキノコックスやトキソプラズマやクリプトコッカスなどは、キツネ・イヌ・ネコ・ハトなどから外部感染するので注意が必要。


風邪ひくと何をするのも面倒になる。


悪い風邪をひいて、いったんウイルスが体内に入ってしまうと、身体に負荷が増えるためでしょう、体調がよくなくて、何をするのも面倒くさい。億劫で、憂鬱なのである。

どんなにがんばっても、体内に入ったウイルスにはかないません。私はじっとしていて、ウイルスが弱まるのを待つのです。むろん、発熱が激しかったり、痛みが出たりしたら、病院に行くでしょう。単に気分が悪いくらいでは、静かに我慢をしています。

毎年ワクチンをする人がいます。しかし、まったく同じ種類のウイルスが来るとは限りません。さらに、ワクチンでは副作用が生じるかもしれないのです。そんなわけで、常日頃から健康には留意して、風邪のウイルスに犯されない体力を作っておきたいものです。


ハナアルキ、実在したかどうか知りたい。


鼻については、不思議なことが多い。パスカル『パンセ』にあるクレオパトラの鼻の話、芥川龍之介の禅智内供(ぜんちないぐ)の『鼻』、そして白井弁十郎(シラノ=ド=ベルジェラック)の鼻など。いずれも、興味がつきない。

自分であることを示すのに、自分の鼻を指差すことも不思議である。まるで、鼻自体が自分自身であるようなしぐさである。また、動物園で象の鼻の動きを見ていると、感心してしまう。

さらに、不思議なのは鼻行類。ハナアルキである。体をラン(蘭)に似せたり、ナメクジのように這うものがいるかと思えば、ジェットで飛ぶものもいる。中には鼻が四つあって、それらを脚として歩く。共立出版の学術書形態になっているので、私には記述がいんちきだとは思えないのだが、……


「大黒天」「吹上大仏」、参拝をした。


友と善生寺(日野市東豊田二丁目)の吹上大仏と大黒天を参拝した。豊田といっても、私たちのところからは高幡不動駅まで電車で、そしてそこからミニバスで行けば、簡単に行ける。東豊田バス停または一番橋バス停で降りる。

吹上大仏は、坂上の交差点のところから入れた。大仏さまの背中のところである。いつもそこから入れるかどうかわからない。その日が、土曜日であったからだろうか。大仏さまの下に礼拝室もあって、中もなかなか見事だ。

大黒さまは、伝教大師が日本にもたらしたという。もともと、インドの神さまでマカラ天といい恐い存在だったが、後に七福神の一人になり、福の神さまになられた。この善生寺の大黒さまは、ルーツのお姿をとどめているように、私には思える。


菊池寛、『六宮姫君』『好色成道』。


菊池寛の「新今昔物語」(しんこんじゃくものがたり)全十三話の中の第一話と第十三話。つまり冒頭の一話と最後の一話。この二作は、いつ読んでも私を大いに感動させる。

『六宮姫君』は、おそらく「ろくのみやのひめぎみ」と読むのであろう。それは芥川龍之介の作品と比べると、ラストの部分がちょっと異なるように思うのであるが、読むたびに気持ちが高ぶってしまうのはなぜか。

『好色成道』は、「こうしょくじょうどう」と読むのではないか。成道(じょうどう)は仏教の用語で、道を完成するという意味。つまり、悟りを得るということ。好色とあって、何となくユーモラスな内容である。しかし私は、読むたびに鳥肌が立つほどの逼迫を感じる。なぜここから事態が差し迫ったり、苦痛や危難が身に迫る感じに自分がなるのであろうか。


泉布(せんぷ)とは、いったい何を意味するものか?


玉川第二公園の亭(ちん)の横に蹲(つくばい)があった。そして、その蹲には「泉布」(せんぷ)と書かれている。真ん中に「口」の字の手水(ちょうず)鉢の流出部分がある。最初は、「吾唯足知」の類いかと考えたが、泉の旁(つくり)に口が付く文字はないし、布に口偏がついたりはしない。

そこで、口には関係がなく単に「泉布」であると知った。泉布は、貨幣に書かれている文字で、経済が泉の水のように流通することを意味したらしい。泉は金属製の貨幣、布は絹製の貨幣とも言う。

しかし、残念なことに「泉布」貨幣が大いに流通したことの記録はないという。したがって、もしかしたら割符(わりふ)や身分などの証明用硬貨だったのではないかとも考える人がいる。そんな難しい意味の文字を篆書(てんしょ)で、なぜ公園の水出口に書くのだろうか。と、私は思った。


「褒め合ってどうするの!」とも思うことあり。


「お互い褒め合ってどうするの!」と言われそう!(笑) 増井先生のお言葉であるが、確かにそうかもしれない。現代社会では互いに褒めあうか、反対に貶しあう。無関心の場合は、後者である。そんな中で、私は自分の可能性を知りたいと思っているので、自分自身がわかればそれでよい。正直言って、褒められたりするほどの力量はないと思う。

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に「褒められもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」とあるが、そんな感じである。

菊池寛『好色成道』には、若い僧が高貴な女性に言い寄るが、意を達せないままべた褒めされて、最後は高僧となるいきさつが書かれている。後に天台座主になった覚慶僧正であるが、「虚空蔵菩薩が女性の姿になって、自分の学問を励ましてくれた」と述懐している。


Kuroda Kouta (2010.02.27/2010.02.28)