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  新句(十九音) 作品集31(2010年1月分)



新しき年を迎えて、希望と不安。


「今年こそは……」と考えるのは、毎年のこと。そして、やがて次の年になる。年・月・日などは、単に区切りにすぎない。一瞬一瞬が、過ぎ去っていく。

「須臾」(しゅゆ)という言葉がある。「須臾も忘れず」とか、「須臾の命」などと言う。ごく短い時間のことである。この、ほんの少しの時間が積み重なって、人生になる。だから、特別に新年に限ったことではない。

希望は、常にある。しかし、ここのところ社会情勢や政治・経済の成り行きを考えると不安も大きい。また、自分の健康についても、ほとんど自信がない。そんなことも、不安の一つ。いずれにしても、この新しい年を迎えて、何となく黒雲が漂っている嵐の前のような気配を感じるのは、私だけであろうか。


除夜の鐘、初詣でして、年を区切りぬ。


毎年のことである。近くの観蔵院で、除夜の鐘を撞く。それから、小野神社に初詣で。観蔵院は、歩いて三分。小野神社は、十五分。つまり、近くで済ますわけである。

観蔵院には、行列ができる。振る舞い酒があって、お土産まで出る。そんなために、ここ数年だいぶ長い行列ができるようになった。しかし、小野神社には私と妻の他に、せいぜい十人くらい。神主さんや破魔矢などの売店に出ている巫女さんのほうが多い。

観蔵院には、山号と寺号がないみたい。小野神社は、延喜式内の由緒ある神社。鳥居や山門にも菊のご紋が付いている。歴史が古く、由緒ある神社であるのに、参拝者が少ないのはなぜだろうか。


甘いもの多く食べると、身体(からだ)そこなう。


栄養学や医学について、あまり知識はない。そこで、自分なりに感じた範囲で記述をしてみよう。どうやら、糖質を多く摂ると、体内のカルシウムを失って、骨が弱くなるらしい。

そこで、台所には砂糖を置かないことにした。したがって、我が家では外食のとき以外は、とくに砂糖を摂らない。たいがいのものは、砂糖なしでも食べられるようになった。甘さがなくても、何とか自然の味が楽しめる。しかし、小豆を煮たものに甘味がないと、おいしくないと妻が言う。

甘いものをまったく食べないというわけではない。ドーナットも食べるし、飴もしゃぶる。自分で作る料理に、砂糖を使わないだけ。「ヴィーグル号」だったろうか、現地人が角砂糖一個をもらって、喜んで一日働いたという話を思い出したりしながら、……。


ひらひらと散ることなしに、まだ付いている。


高幡不動尊の山門左側うん(吽)形仁王の柱に、散華札(千社札)を貼り付けたのが三ヶ月前。きょう(一月三日、日曜日)、妻と参拝に行って見たら、まだ貼り付いていた。

境内は、あふれるばかりの人々。行列は、なかなか進まない。何となく押されたり、転びそうになったりする。危ないので、途中でやめた。「陝右の人たち」の散華札に会えたので、それで私たちは満足をした。

私の散華札は、蓮の花びらの形をしている。したがって、散ってもよい。糊が強力でないために、左右の部分がはがれてしまった。おそらく、やがて落ちてしまうだろう。せめてストンと落ちずに、金色の小さい鳥のように、ひらひらと散って欲しいものだ。そんなことを考えながら山門を入ったところで、簡単に参拝を済ませて帰った。


プチさんの追加・修正、お願いします。


プチさん(プティ散策)の記事に、今までに行けなかったところ、気付かなかったところなどを補足していきたいと考えています。青空のホームページにある「プチさん駅周辺シリーズ」です。

お気づきの場所があったら、どうぞ教えてください。どうしても、初めての場所だと、見落としや勘違いがあります。そのような箇所は追加をしたり、記述を修正したいと思います。

高齢者が、いつまでも健康を保つために、「バスを利用したプチさん」を昨年から始めました。足を痛めないようにして、少しでも遠くへ行くために、バスはとても有効です。そんなわけで、今後はバス路線も多く回ってみたいと考えています。よろしく。


もう一度、会ってみたいと思う人あり。


かつて親しかった人で、お互いに消息がわからない人がいる。そんな人が、なつかしくなることがある。もう一度、会ってみたいと思ったり、話をしたいとも思うのである。

しかし、思うだけのほうがよいかもしれない。過去に、たまたま何かの機会にそんな人と出会うことがあった。なつかしさは大きかったものの、すぐに幻滅を感じた経験があるのだ。

つまり、相手は変わってしまっていた。昔のフレッシュさはもはやなく、狡猾なエリートサラリーマンになっていたりする。そして、会社で重役クラスの待遇を受けているせいか、何となく態度も尊大である。会わなかったほうがよかったなどと反省をしつつ、ただ私は卑屈な笑いで自分自身をごまかしていた。


もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


何となくなつかしく、もう一度行ってみたいと思う場所がある。同じような心境について、
「もう一度、会ってみたいと思う人あり。」
というのを作ったが、人より場所のほうが、そのイメージは正直である。

人が大きく変わるのと同様に、場所も変化する。例えば、多摩ニュータウンの以前にあった道や農家は、どこを探してもすでにない。開発をされてしまったからである。

しかし、そうは言っても、そこと似たような場所は残っている。町田市の北部で、現在も未開発のまま残っている地域。そこを歩いてみると、かつて歩いた場所にデジャビュしたような感覚がよみがえる。そして、何となくなつかしさが戻ってくるから不思議でもある。


本当か? 生老病死、成住壊空。


四苦八苦の四苦である「生老病死」(しょうろうびょうし)は、何となくわかる。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみ。いずれも、つらいことだと思う。もっとも、私はまだ死んだことがないから、死の苦しみに関してはわからない。

「成住壊空」(じょうじゅうえくう)は、やはり四行程ある。しかし、これはちょっとわかりにくい。なぜならば、最後に「空」の状態があるからである。いったい、「空」とは何であろうか。

人間は死ぬと、空の状態になると言う。その空の状態とは、どんな感じであろうか。脳を離れた感覚と思考の世界だと言う人もいる。しかし、脳がなくなると思考そのものが、実際に可能なのであろうか。そんな心配がある。


人生は成住壊空、空しかるべし。


成住壊空(じょうじゅうえくう)という言葉があります。私たちは、ふつうの状態では、成・住・壊・空を永遠に繰り返すといいます。つまり、
(1) 成(じょう)……元素が集まって一つの生命が始まる(誕生)
(2) 住(じゅう)……生命活動(子どもから大人への成長)
(3) 壊(え)……生命体の終末(老化 → 死)
(4) 空(くう)……生命が空の状態になる(空として宇宙に存在する)

生老病死(しょうろうびょうし)と同じような考え方ですが、最後には空(くう)の状態があるのに注意してください。

生命が一時的に空(くう)の状態になるとは、何とも致し方なく、空(むな)しいことではありませんか。


施無畏印、結びし釈迦に似た招き猫。


普明寺大日堂の釈迦如来坐像は、大日如来の脇侍(きょうじ)ではあるが、右手の肱(ひじ)を曲げ、施無畏印(せむいいん)を結んでいる。おだやかな形であるが、施無畏の功徳を示す印相であり、右手五指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺りに上げるスタイル。

いっぽう、招き猫にもいろいろあろうが、豪徳寺の招き猫はオーソドックスな形だと思う。その招き猫は大小にかかわらず、右手を上げて掌(てのひら)を前、つまり見ている人のほうに向けている。ちょっと握っているような格好ではあるが、猫が施無畏印を結ぶとは考えにくい。たまたま釈迦と同じ格好にしているのであろうか。

いずれにしても、釈迦も招き猫も私にとっては、ありがたい存在である。そんなわけで、大日堂と豪徳寺は、年に一回以上参拝に行くのである。


源信と日蓮の言う「地獄と極楽」。


源信(卜部姓、恵心僧都、横川僧都 942〜1017)は、平安中期の天台宗の僧。比叡山で学び、横川(よかわ)の恵心院で著述に専念した。『往生要集』を著して浄土教の基礎を築いた。九百冊以上の文献から引用をして、最初に地獄の描写が生々しく書かれている。

日蓮(立正大師 1222〜1282)は、鎌倉時代の僧で日蓮宗の開祖。出家してから比叡山などで修学。建長五年(1253)「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経信仰を説く。他宗を攻撃したため圧迫を受け、「立正安国論」の筆禍で伊豆に流された。許されてからも他宗への攻撃は激しく、今度は佐渡に。赦免後は、身延山に隠栖した。「地獄も極楽も、実は私たちの身体の中にある」と書き残している。

いずれの記述も、何となく私には納得できる。


源信の地獄の記述、恐ろしきかな。


源信の『往生要集』には、実に詳しく地獄の光景が描かれている。極楽ではなく地獄から書かれているので、読み始めると同時にビビッてしまう。これでもか、これでもかというように、地獄の様子が続いているのだ。

つくづくと死後の世界が恐ろしくなってしまう。しかし、その記述は源信によるまったくの創作ではない。源信は九百冊以上の文献から抽出しているので、中には真実も多く含まれているのであろう。

しかし、芥川龍之介は『邪宗門』の中で、あまり源信を高く評価していないように思う。もっとも、未完の形でふっ切れているから、もしかしたら違うかもしれない。また、源信が『往生要集』を中国に送ったというが、中国内での反応はまったく残っていない。国内に止まらず外国にも理解者を求めた源信の意気込みも、空しく終わってしまったようだ。


本棚の奥に忘れた、なつかしい本。


本との出合いも、人との出会いに何となく似ている。しばらく親しく付き合った人が、病気や引越しのために、会わなくなったりする。そして、そのまま久しくご無沙汰になってしまう。

私の本棚は、ミリオンラックというのが五つある。しかし、すべての本が並べきれないので、小型の本は二段にしてある。二段というのは、並べた前にもう一列を並べる。つまり、二倍の本を格納するため。

そうすると、奥のほうにある本は、背に書いてあるタイトルが見えない。前の列の本をどかさないと、よくわからないのである。だいたいは覚えているが、中には忘れてしまったものもある。そんな忘れていたなつかしい本が出てくることがある。そして、かつて親しかった人と久々に会うような気持ちになる。


老人は、あつかましくて、くさいからいや。


老人は、のろのろしていてあつかましい人が多い。そして、何となく臭(くさ)い臭(にお)いのする人がいる。だから、「いやだなぁ〜」などと考えていたのが、つい数年前。それが、どうしたことか気付いたときには、自分自身が老人になっていた。そこで、何とかしなければならないと切実に思った次第。

まず、もたもたしないように心がける。バスの乗り降りなども前の人に続き、途切れないように努力する。シルバーパスなので、現金の支払いがないからありがたい。食堂などでは小銭を用意して、もたつかないようにする。

また、口が臭くなってはいけないので、口腔内の清潔を心がける。歯周病になるので、二週間に一度は歯科医に通う。そんなことをしているのだが。


久々に、おいしい焼き芋、きんとんの味。


妻が働いている会社の秘書さんから、大きな焼き芋をいただいた。おそらく、サツマイモを直火(じかび)の灰の中で、ゆっくり焼いたのではないだろうか。もしかしたら、お母上が時間をかけて焼かれたのではないかと思う。焦(こ)げてしまわないようにする手数が、大変だったでしょう。

食べてみたら中まで均一によく焼けていて、クリームというか、きんとん状になっている。とてもおいしい。ちょっと、栗きんとんの味がする。このような味のおいしいサツマイモを食べたことは、最近になってあまりない。

きんとんは「金団」とも書いて、 サツマイモなどで作った餡(あん)に栗などを混ぜてつくるが、いただいた焼き芋はそのままで栗きんとんの味がしたから、驚いてしまった。


キレやすい性格になる食べ物は何?


脳に抗ストレス物質を作るためには、少量ではあるがどうしても亜鉛が必要です。しかし、インスタント食品に多く含まれているフィチン酸は、亜鉛と結合する分子構造をもつために、長く食べ続けると、亜鉛が体内に吸収されにくくなってしまいます。

フィチン酸は、亜鉛のみならずミネラルが著しく少ない食事において、大量に摂取するとミネラルの吸収を阻害するので、必須ミネラルの摂取量が著しく低い発展途上国の子供のには、好ましくないと言われています。

牡蠣(かき)などの亜鉛を多く含む食べ物を摂っても、体内にストレスに対抗する物質が生産されずに、少しずつ精神的な疲れがでて、やがて突発的に怒りを発するようになったり、さらには暴力行為に及ぶのです。


ゴミ箱か? 知的空間などと言っても。


ここで知的空間などと偉そうに言っても、単にガラクタがいっぱい入っているゴミ箱に過ぎないのではないか。ゴミ箱がちょっと言い過ぎとしても、せいぜいおもちゃ箱の類い。

自分で大切と思ったことを次々とストックする。しかし、後で考えるとそれほど大事なことはあまりなく、ほとんどが価値のないものである。その時点では、何となく大事そうに感じて、保存をしようと考えた。なぜそんなふうに考えたのかは、後になると忘れてしまう。

とにかく、自分自身が納得できる知識の空間を作る。あまり他人のことを考えなくてもよい。みっともないとか、恥ずかしいなどと言ってみても、始まらない。なぜならば、自分が主体となってそこに居ればよいのであるから、小さくても一向にかまわないのだ。


楽しみは冬の青空、風の弱い日。


十五年くらい前までは冬の青空があって、風が吹いている日には、多摩川の河川敷に凧揚げに行ったものだ。しかし、古希を過ぎたころから、凧揚げをやめた。その代わり、プチさん(プティ散策)をするようになった。

公園や神社仏閣などでは、デジカメ写真を撮る。青空の日には、くっきりした写りになる。曇っていると、建物の屋根と空の境界がぼやけてしまう。また、晴れていないと、何となく全体的に映像がシャープにならず引き締まらない。

そこで、冬でも青空の日が楽しみ。しかし、風が強いと身体が冷えて、体温が奪われる。風邪をひいてしまうと、肺炎を併発するので要注意。だから、風の弱い日が好ましい。そんなわけで最近は、冬でも青空、そして風のない日が大きな楽しみである。


考える最適の場所、バス後部席。


昔から「三上」などと言う。欧陽脩の『帰田録』による「文章を練るのに最適の三つの場所」のこと。つまり、馬上・枕上(ちんじよう)・厠上(しじよう)である。

欧陽脩は貧しい家庭に生まれ、四歳で父を失う。したがって、正規の教育を受けず、独学で進士の試験に合格。高官への途が開けたが、改革派である范仲淹を弁護したため、夷陵県令に左遷された。数年後に、再び中央に返り咲き、翰林学士などの要職を歴任。その後、蘇軾を見いだしたり、蘇洵や王安石を登用した。

馬上など、現在の私にはありえない。また枕上では、すぐ眠ってしまうことが多い。そして、トイレで「考える人」のスタイルをしてみてもダメ。結局、文章を練るのではなく草稿を得るのは、バスの後部座席がよいみたい。


目的もなくバスに乗る高齢の人。


私も似たような者ではあるが、聞いてみるとどこへ行くという目的もなく、ただバスに乗る高齢者がいるみたい。シルバーパスを利用すると、バス代が無料だから気楽である。

かつて、病院の待合室が老人のたまり場になって問題になったことがある。その後、医療費がかかるようになってからは、それがなくなったようだ。

しかし、考えてみるとバスに乗るのは健康上も好ましいのではないだろうか。歩きすぎて膝の関節がすり減ってしまうようなことがないし、乗降には段差があるので、運動不足にならない。また、窓から外を見ていると、変化があって楽しい。適度に揺れるので考えが浮かんだり、思索に好ましい場所である。そんなわけで、日中のバスにはシルバーパスを利用する人たちが多く乗っているのだろう。


楽しみはバスで出かけて、吉野家・ミスド。


吉野家とミスドに、バスで出かけるのが楽しみなのではない。バスを利用してプチさん(プティ散策)をする。それが、まず楽しみ。右足の膝を痛めてから、あまり多くを歩けない。せいぜい、二キロメートル。以前のように十キロ以上は、もはやムリ。そこで、バスを大いに利用する。すると、足に負担をかけずプチさんを楽しめる。

あちこちを回って、いろいろなものを見る。また、知らなかったことを知ったりする。そんな楽しみがある。

そして、聖蹟桜ヶ丘駅まで無事帰ってくる。午後二時過ぎなので、腹も減っている。そこで、吉野家に行き牛丼とビール。私にとっては、ゴージャスな昼食。さらに、ミスタードーナツでエンゼルクリームとオールドファッション。それに、ブレンドコーヒー。大きな楽しみである。


『ピアニスト』という映画に、揺らぎと不安。


たまたまケーブルテレビで『ピアニスト』という映画をやっていた。私は見て、心に揺らぎを感じ、ストーリの展開に対する不安を持ち続けた。揺らぎというのは、心がかなり動揺することである。

そして、ピアニストの世界に対して、今までもっていた「自信の揺らぎ」さえを抱いてしまった。映画は、中年のピアノ教師エリカがピアニストになるために幼少から母親に厳しく教育され、恋人を作ったり、流行の服を着ることさえもできない日々であった。それでも、ピアニストとして成功しなかった。しかし、国立音楽院のピアノ教授になったのである。

そんな独身の彼女の前に、才能ある若者ワルターが現われたのだ。そして、「ぼくは、あなたがどんな哀しい秘密を持っていても愛します」と告白をされたのだが、……。


バカにする悪い習慣、現代科学。


現代科学が、すでに何もかもすべてを解明したというわけではない。それなのに、すべてを科学的に割り切ろうとする。どだい、それはムリではないか。時代の進むことによって、いろいろなことが解ってきたのは事実である。

例えば、天動説なども地動説が言われるまでは、それが長く信じられてきた。説明をするのに広範な論理のほうが、事実に近いと考えるからである。その反面では、仮説が多くまかり通ってしまったことである。

オッカムの剃刀ではないが、あまり仮説が多すぎると、その焦点がぼやけてしまう。直感やひらめきでも物事が解決することもあるということを私たちは迂闊にも忘れてしまったのではないか。


現代の科学、哲学・宗教の域。


現代の科学は、物質に対して有効。反面、哲学・宗教は精神に対して有効である。ここで言う域とは、物事の程度の一定の段階を意味する。つまり、簡単に言うと範囲や限界のこと。

「プロの域に達する」などと言うが、それは専門の狭い範囲についてのことが多い。科学、哲学・宗教をともに満足させているようなことは少ない。むしろ、科学と哲学・宗教が互いに反対方向に向かって、その有効性を失ってしまう。残念なことである。

それは、二極化することが原因。例えば、人間の男と女が片方になるようなもの。男がすべて女になっても、また反対に女がすべて男になっても、人類は子孫を残せないので、やがて滅びてしまうでしょう。


阿頼耶識、五感を離れ肉体離脱。


阿頼耶識(あらやしき)は仏教の言葉で、唯識説で説く八識のうち第八番目。宇宙に関するすべての展開の根源とされる心の主体を言う。無没識・蔵識・種子識などとも言われる。

五感(ごかん)は、「視」「聴」「嗅(きゅう)」「味」「触(しょく)」など五つの感覚。外界の状態の認識をする。しかし、それ以外にも第六感・第七感・第八感がある。つまり、インスピレーション、睡眠状態、そして阿頼耶識である。

「五感を研ぎすませる」などと言うが、阿頼耶識を達成すると肉体から離れて精神がどこへでも行けるらしい。つまり、思いを馳せることによって肉体離脱が可能で、過去・現在・未来を知ることができる。『正法眼蔵』ではないが、「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」である。


読み慣れた『徒然草』と『方丈記』の「死」。


『徒然草』第三十段「人の亡き跡ばかり悲しきはなし。……年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。……さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるき墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。」

『方丈記』序の後段「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。……いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。」

私は、何となくエジプト『死者の書』やチベット『バルド・トエ・ドル』を思い出すのですが、……


人生の考え方は、それぞれ違う。


個人の考え方は、千差万別。また、価値観なども異なる。したがって、「人生の目的」つまり「何のために生きているか?」などについては、てんでんばらばら。さらに、「そして、死んだらどうなるのか?」に関しては、まったく考えさえ持ち合わさない人が、現実にはかなりいるようだ。

そのように意見が異なるのは、もしかしたら「人生の目的」などは、最初からないのかもしれない。それは、脳のもたらした幻影であって、ただ「生きる」という本能が働いているだけなのではないのか。

野生のライオンなどは、生きている意味を考えているのだろうか。おそらく、ただ単に生きるためだけに、日々過ごしているのではないか。身体の具合が悪くなったら、彼らには病院がないので自然治癒をしないかぎり、日々衰えて死んでしまうだろう。意外に人間も、そんな単純なことかもしれない。


久々に「バイエル」全曲、続けて聞いた。


何となくなつかしくなって、「バイエルピアノ教則本」全曲を続けて聞いた。そのソースは、私がYouTubeから一つずつ拾って「再生リスト」にしたものである。全部で小品が、百数曲ある。最初のほうは野田恵さんの演奏、そして残りはこずえちゃんの電子ピアノである。

こずえちゃんはミスタッチやエラーもあって、なかなか田村宏のようにはいかない。それでも、おけいこの雰囲気がよく出ている演奏で、私は気に入った。

それに、かなりの期間をかけて録画したらしく、髪型が変わったり、着ているものを季節に合わせている。髪を左右二つに束ねたり、そんな演奏には関係ないことにも、注意が向くので不思議である。CDやかつてのレコードのように音だけでないのが、YouTubeのありがたいところではないだろうか。


少しずつ引き出しの中、整理してみる。


引き出しの中には、何となく不要な物がたまってしまう。つい、差し当たり使わないものを軽い気持ちでしまう。そしてときには、そのまま忘れてしまうことがある。そんなために、ちょっとガラクタ入れのような場所になってしまいがち。

そこで、ときどき整理・点検をする必要が生じる。「百舌の速贄」ではないが、忘れてしまって必要なときに出てこないことが多いからだ。しかし、いっぺんに全部を整理することはできないので、少しずつ片付けていく。

かつて、眼鏡を額にかけておいて、それを探している同僚を見たことがある。意外にも、探していたものが身近に見つかったりする。そんなときには、自分自身の記憶がいかに頼りないものかを改めて知るのである。


有るものを有効にする整理・整頓。


ささいなものであっても使わなかったり、忘れられていたら意味がないだろう。自分が所有しているものをフル活用できる生活がしたいものだ。何かをしようとして、「あれはどこにしまったのかな」などと考え、わからないままに仕方なく別のものを使ったりする。

そんなために、ふだん使わないものでも、どこに何があるかを知っておく必要がある。その確認を定期的にすることが、大切だと思う。目を通すだけのやり方でもよいが、実際には棚卸しのように品物をいったん別の場所に置いて、ふたたびもとの場所に戻す方法がよい。

棚卸しをすると、不要なものが確認できる。数年も使用をしていないものは、おそらく今後も使わないかもしれない。また、簡単に購入できる品物であったならば、処分をしてしまったほうがよいのではないか。


世の中に、あっと驚くことが毎日。


テレビや新聞を見ていると、あっと驚くことが多い。それは、皆さんもご存知でしょう。私は、アイ・グーグルで編集をした「Excite世界びっくりニュース」というのを毎日見ている。

そこには、いちいちあげ切れないようなバカバカしい話題があって、意外にも楽しめる。全般的に言えることは、常識が大きく変わってきたのではないかということ。とくに、若い人の短絡的な行動には、恐れ入ってしまう。

おそらく親の躾(しつけ)などが、世界的にも廃(すた)れてきているのだろう。いわゆる歯止めのきかない事件や事故が多いことでも、何となくわかる。もしかしたら、食生活の変化による当然の成り行きかもしれないのだが、……。


Kuroda Kouta (2010.01.18/2010.01.31)